「鈴木大拙の世界」
鈴木大拙 1989/11 燈影舎 文庫 192p
Vol.2 No.0015★★★★☆
大拙、最晩年の著作とされる。1961~66年、90歳~95歳当時に雑誌に掲載された文章である。世の中は、いわゆる60年安保から東京オリンピックを経て、ビートルズ来日あたりまで。全共闘世代台頭の前夜あたりである。
その文章がまとめられて1989年に、一燈園燈影舎からでている。一燈園、とう名前にひかれるところがある。もちろんミスプリだが、印刷年月日が、元成元年10月とある。平成元年とは、なんとも大拙にふさわしい。
もう一編云い直せば、元通り、本具の人間性に還ることである。「還ること」こそが大事なのである。仏にならないで、仏になりきらないで、もとの凡夫になることである。禅者の云う「平常心是道」である。それは何かと云えば、餓えては食らい、渇しては飲むことである。疲れたら寝て、起きたら働くことである。それは、犬猫の生活とどう違うのかと尋ねられよう。別に違わぬ。が、また別に大いに違うところ、霄壤の差あるところがある。それは人間にのみ許されて居る自覚である。何もかも喪失してしまえと云うが、そう云うところに、人間生活の価値があるのである。これを忘れてはならぬ。p126
Oshoは例によって、ちょっと大げさなコントラストの効いた物言いをするが、ビヨンド・エンライトメントは、別にOshoが最初では決してない。いや、むしろ、ここを見逃したら、本当は、すべてを見逃したことにさえなってしまうのだ。
東洋の人はこの悟りの経験なるもののあることを、実際自分で経験しなくとも、聞き伝えなどで、知って居る。これが強味である。西洋には、この悟りに相応する良い言葉が見当らぬ。似たようなものがあっても、東洋人の耳には響かない。p69
大拙がこの文章を書いてからすでに40年が経過した。東西の文化の根源は変わらないし、その伝統が一朝一夕に理解合えるなどということはありえないが、しかし、すくなくとも「さとり」をめぐる東西の意識には、だいぶ変化がでてきていることは間違いない。これも大拙の大きな業績のひとつに数えられるだろう。
真宗は他力、禅宗は自力というのが、一般の考え方であるが、それは表面上のことで、実際は、自力も他力もないのである。いわば、何れも自力で他力である。禅には修行とか公案とうものがあり、それを自力のように考えるが、その実、最後の処は、自我を超越したところから来るのである。真宗では阿弥陀さんであるが、他力の阿弥陀さんでも、何の因縁もなしに、慈悲を施されるわけではない。無縁の慈悲だといっても、そこには、無縁ということを自覚する主客があるのである。つまり自力他力は閑議論である。p139
たしかにabhiがいうように「大拙=禅とするのは、物事の半分であり、浄土真宗と大拙の出会いを考えないと、大拙の全体像はつかめない」。それはまた、往相と還相の円環としてあるのだから、禅やら真宗やらを持ち出さないまでも、当然といえば当然なことなのだが。
この本は、コンパクトで、しかも含蓄が深いので、人気はありそうなのであるが、ネット上で本の画像をさがすことはできない。当ブログでの画像が最初になるかも知れない。