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テーマ:詩&物語の或る風景(1047)
Osho最後のZENシリーズ目次 ましてや90年にOshoが肉体を離れると、視点はマーケットプレイスへと向き始め、ますます本は読まなくなった。インターネット社会が加速し、書籍離れがさらに進んだ。そんな中で、私は、書籍といえばインターネット以外のものはほとんど読まなくなってしまった。ほとんどがネットで間に合う感じがして、そちらに熱中していた、ということか。 そんな隙間のなかで、この「空っぽの鏡」はほとんど気にもとめないですごしてきてしまった。Oshoの最期のZENシリーズには、独特の香りがあり、鳴り物やジベリッシュ、など、他にはないスタイルが取られている。それが、むしろ本の中にとどめられるものではなく、もっと広がりがあるものであることを知っていたので、あえて、書物の中に求めることをしなかった、ともいえるだろうか。 しかし、ネット社会への対応にも落ち着きが見え、この「失われた」10年、あるいは15年を振り返る時、やたらとまた文字を見たくなった。一巡して、あらためてこの「空っぽの鏡」を読むと、なんとも言えぬ感慨が湧いてくる。むしろ、この最期のZENシリーズをめくると、他のOsho本は読めなくなるのではないか(とはちょと言いすぎだが)とさえ思えるほど、癖になる。 Oshoの存在感が、文字や翻訳からはみ出してくる。行間、あるいは空間からOshoが笑いかけてくる。決して知に落ちず、決して文字に落ちていない。OshoがOshoとしてくつろいでいる。もちろん、このシリーズの最期として、Oshoは沈黙の中にはいり、肉体を離れていくのだが、その存在がひしひしと伝わってくる。今にして初めて感じられる感触でもある。 彼は山から市場まで降りてきた。彼は言った。「市場は私を変えることができないのだから、なぜそれを避けることがあるだろう? 私のほうが市場を変えてやろう。高みに坐っていたのでは、何千もの人びとを変えることはできない。しかも人びとのところまでおもむいて、彼らと同じように普通になることで、意思の疎通(コミュニケーション)はもっと容易になるはずだ」p258 かつてある時期から、彼がキリスト教について多くの批判をし始めたとき、「いずれは仏教も批判されるのではないか」と私は思ったものだった。が、和尚は仏教について、ほとんど批判めいたことを言っていない。理由はあれこれ考えられるが、彼は東西の民族性の違い、その精神性の違いを考慮しているのでないか、と私は考えている。p366
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Last updated
2021.02.09 21:52:52
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