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「一休道歌 上」 <2> この講話が行われたのは、78年の4月。実はこの時、私はインドにいた。そしてプーナでこの講話を聴いていた。う~~ん、聴いていた、というよりそこに座っていた、というほうがあっている。もちろんOsho英語のヒアリングが上手にできないせいもあったが、講話を聴くことと、そこに座ることとは、また別次元なことであったように思う。 本を読むこと、瞑想すること、プネにいくこと、サニヤシンになること、そして、その輪の中に座っていること。それぞれが、全く別の次元のことどものように思える。当時のOshoは、一ヶ月おきに英語とヒンディーで講話を繰り返していた。もちろん英語の講話のほうが圧倒的に参加者が多かったが、ヒンディー講話も、どうしてどうして欧米人にも人気があった。 みんな、ヒンディーを理解できていたわけではないのはもちろんだが、英語だって、必ずしも、その言葉を一句一句追っかけていたわけではない。むしろ、言葉や講話は、口実でしかない。誰かと誰かが「お茶しようよ」という場合は、もちろん、おいしいお茶を飲むことは楽しいことだろうが、お茶を飲むこと自体が目的ではない。一緒にいること、お茶を媒介にして、同じ時間を共有することが「お茶する」ということの意味だろう。 和尚の講話を聴くということは、その講話がすばらしければ、もちろんそれはすばらしいことだけど、講話そのものが目的ではない。Oshoといること、つまりは、自分自身と向き合っていること、そこに自然と目的が変容されていく。 Oshoの講話にあって、その場で聞くということは、たとえそれが一休であったとしても、はたまた達磨や仏陀であったとしても、その場でのご馳走はあまたのブッタたちではない。 ここで、ひとこと素直にいっておけば、日本語の翻訳本のスタイルは、すこし一休のスタイルに力を借りすぎてはいないだろうか。原題は「TAKE IT EASY」だ。話題は一休道歌に借りている。しかし、そこで語られているのは、一休という人間の人生やパーソナリティを大きく逸脱している。いや、それを大きく超越している。 本来の面目坊が立ち姿 The figure of Real Man お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.04.25 09:21:03
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