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カテゴリ:agarta-david
「トランスパーソナル宣言」自我を超えて この本を、当ブログのどのカテゴリで読むかによって意味は違ってくるが、今回は、3つのカテゴリの進行状況に合わせて、[ Agarta-David ]のなかで、もっと我が身に引き寄せて読んでみた。 日本の社会もまだ高度成長期のなごりがあり、最後のバブル経済へ突入の段階にあり、どこかうわついていた。実態がないまま、イメージが先行した。ソビエトも崩壊せず、東ドイツもまだ存在した。中国天安門事件もまだ起きない。欧米ではセラピーという言葉は大流行りしていたが、日本では、まだ「癒し」という言葉さえ登場していなかった。 個人的には、30代前半であり、家族ともども社会の中に存在し、職業人としてもっとも忙殺されていた時代でもあり、経済的にも充実していた。しかし、であるからこそ、人生本来の目的とはなにかをテーマに、カウンセリングや心理学をもっとも学んでいた時代でもあった。 最近思うことは、トランスパーソナル、までは分かるとして、なぜに「セラピー」なのか、ということだ。個人を超える、ということと、他者の内面に関わる、ことはどういう位置関係にあるのだろうか。チベット密教においては、発菩提心が問われる。いや、仏教全体が、この菩提心こそが究極の人間の在り方だ、とする。仏教のコンテキストの中では、当然のことと言える。 しかし、心理学やトランスパーソナルの中で、自らの内面を見つめる作業と、他者が内面の旅を続けることの手助けをすることは、どのように関係処理されているのだろうか。フロイトやユングが医師であってみれば、患者やクライエント、というものが最初から存在しており、患者・クライエントありきの中で、彼らの思索体系が成長したことは当然と言える。 しかしトランスパーソナルな人々の流れのなかには、必ずしも他者とのかかわりを根底に据えて、自らの探究をはじめた人たちばかりでもなさそうだ。カウンセラー、トランスパーソナルを語り、他者との接点を多くし、時にはその過程が職業化していった。そのことが、より社会的に、内面への旅の一般化が進んだことも確かだが、時には、歪んだ姿を生み出してしまったことも、事実であった。 今回、この本をパラパラめくりながら、まだまだ日本においては初々しい誕生の声を挙げたばかりのトランスパーソナルな流れを思い出す。それは、底辺として流れていた大きな潮流に、明確な名前を与えるものだった。あれから20数年、再度、客観的に検討されるべき時代が来ているようでもある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.11.23 09:48:20
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