山谷は言わずと知れた日本の三大ドヤ街のひとつであります。まあこう言っちゃよろしくないのかもしれないけれどこの界隈は、日雇い労働者たちが夜な夜な酒に溺れて乱痴気騒ぎを巻き起こすなんてイメージがつい思い浮かべてしまうのです。しかし時代も移ろい近年は外国人バックパッカーたちの姿も多く見掛けるようになったから状況はかつてとはずいぶん変化を遂げたのだろうと思います。そりゃまあ時には突如として喚き出す爺さんがいたり、店先で胸倉を掴みあうなんてのもそうは珍しくもない光景です。それでも交番勤務のポリスマンたちは慌てるそぶりも見せず、じきに収まるだろうと遠巻きに眺めていたりするのだからのんびりしたものです。それはともかくとして、はっきり言ってしまっては語弊があるかもしれぬけれど、この界隈の酒場は必ずしも安いとは言えない気がするのです。角打ちもあるにはあるけれどむしろ界隈を徘徊する老人たちは見た目には居酒屋の実態はスナックといったカラオケのお店が実に多いのであります。需要があるからそうなのだろうけれど、単に呑むための店と決め込んで入ってしまうと無駄なお金を払うことになるのです。どうやら日雇い仕事を終えてそのまま安宿に引き上げるのは孤独に強そうに思える彼らにも耐え難い淋しさなのかもしれません。でも孤独など噛み締めて、もしかするとちっとも気にならぬ人も少なくないはずだから安価に呑める例えば立呑み店がもっと存在しても不思議ではないと思うのだがどうなのでしょう。
「立ち飲み みづの家」は、そんな要望に応えるかのように突然出没した酒場であります。やはりコミュニケートなしでも安く呑みたいという需要はあったようで安堵するのでありました。けして広くはない店内ではありますが、客の入りも程良くてなかなか居心地は悪くはありません。混雑しているのは鬱陶しいけど、空き過ぎているのも物悲しい、客というのは身勝手なものです。さて、品書きを眺めますが、けしてすごい安くはないけれど気の利いた肴も揃っていて、店の方もとても感じがいいし、そのおかげもあってか客たちも皆終始笑顔を浮かべて和気あいあいとしたムードであります。殺伐とした雰囲気を想定していたからこれは思いがけずという感じで実に気分がいいのであります。といったことを書いてしまうともうこれ以上書きたいことなどなくなってしまいました。言葉を費やさずここはいいといえる店はきっと本当にいい店なのだということで、お察しいただきたいのでした。