ことさらに酒場に限った話でもないですし、語るのが億劫な位に自明なことでもあるのですが、店というのが人によって成り立っている以上は意気揚々と開店する店もあれば閉店に追い込まれる店もある訳です。前者にはさほど感情が高まることもないけれど、後者の場合には絶望的な悲嘆に暮れてしまったりするのです。ぼくは、人間の誕生がもたらす喜びに対するエモーションの高まりが希薄なのに対して死者への追悼の気持ちが圧倒的に根深く巣食うのです。それは自分が死へと着実に歩を進めているからかと想像してみたけれど、どうやらこの感情の有り様は子供の頃からそう変わっていないように思えます。死だったり失われゆくことへの恐怖に慄いていたわけです。今ではそれを恐怖とは感じなくなりましたが、もっと切実な近い将来の出来事として漠然とした不気味さが頭から離れなくなったりするのです。まあ、かなり俗な考えではありますし、死を語る人の誰一人として死んだことなどないのだから考えたところで無駄なのかもしれませんが、答えなど出しようもない死について思いを馳せざるを得ないのが人間なのかもしれません。なんて不安にも似たような感情をいだくのであればならばいっそのこと失われつつあるものに近寄るのをやめてしまえばいいじゃないか。すっぱりと酒場巡りなどやめてしまえば多少は健康面も財政面も改善するだろうと思わぬでもないけれど、この思い切るというのが案外難しいものなのです。筋トレなどのように始めるのは億劫でもやめるとなると簡単な行為もあります。年末年始位は休もうと自分を甘やかあしてしまいそのままになるなんてことは散々経験しました。逆に酒場巡りと同様に入口の敷居は低くとも出口の扉を開け放つのに難儀することもあります。映画を捨てると決心するのには涙なくしては語れぬ程の未練と葛藤で満たされた逸話がありますが思い出すのも辛いのでそれを詳らかにはせぬことにします。とにかく失われつつあるものに魅せられる感情が変わらないのだから仮に酒場巡りを放棄したところでまた別の何事かに捉われて生きていくことになるのだろうなあ。
などととても読み返す気になれない厭世的な文章を書きましたが、酒を呑めばそんなことは消し飛んでしまうから酒に溺れる人がいるのも分かるというものです。ってまあぼくがそこまで深刻な状況に陥っていると思われちゃうと事実とかけ離れ過ぎてしまうので、ここまでの文章はひとまずご放念いただきたい。駒込駅東口を出てすぐ、アザレア通りを進んですぐの場所に入口が2か所ある焼鳥店があります。いや、つい先達てまであったはずですが、どうしたものかそこは「BAR SPICE17」なるお店に変貌を遂げているのでした。特に気になるお店ってこともなかったのですが、折からの悪天候で散策する気力もなかったので特に同伴者と互いの意思を確認するまでもなく自然とお邪魔することになってしまいました。こうしたカジュアルなタイプのバーというのはぼくが寄り付かないタイプの酒場の典型です。その理由をちょっと考えてみるのですが、恐らくはこうしたお店の客層は若者が主体であるからだと思うのです。どうも偏屈なオヤジであるぼくはより偏屈なジジイたちの方がウマが合うのです。何度でも言いますが、今のぼくは若さなど微塵も羨ましいなどとは思えないのです。店内の造りそのものはかつてと同様で入口もやはり2か所のままですが、所狭しと並ぶ酒瓶などかつての風景とは全く違って見えます。何より違うのが客層がやはり若かったことです。それでも店主はぼくよりもちょっと世代は上なのかなあ、この方の存在が店の雰囲気に多少なりともアダルト要素を添加してくれているようです。おやおや20時まではサワー類はお手頃なのねと早速オーダー。カウンターに腰を下ろすとかつての焼鳥店の印象は薄まってカジュアルなショットバーの光景と変化して感じられます。ドリンクはいつものウーロンハイ(いつもと書きましたがコロナ拡大以降はウーロンハイを呑む機会も格段に減ってしまいました)ではありますが、ミックスナッツなんかをちまちま摘まんで呑む感じはぼくのイメージするところのものです。店主ってかこういう店ではマスターと呼ぶべきか、彼の話によるとここを初めてもう2年(?)になるって話だから、その間何度もここを通過しているのにどれだけ自分の目が節穴だったかを思い知らされるのでした。