日暮里駅の巨大タワーマンションの1階にとあるお店があります。そこの店名が「京の華」。この店のことを知らぬ方がこの店がどういう店であるか言い当てるのは困難だと思われます。「京の華」という文字面からするに京都にある華やかな何かしらであると想像されます。実際ネットを検索すると日本酒、和菓子、漬物、味噌などに加えて多肉植物や住宅型有料老人ホームなんかも引っ掛かってきます。老人ホームは何だかよく分からんけれど、先の食材は確かに「京」という言葉が想起させる日本的なものだったりするし、出来映え次第では「華」やかさも感じさせることもあるだろうと思うのです。多肉植物の実物写真を見たけれど、ぼくはそこに日本的な何某かを見出すことはできなかったし、「華」やかというよりは猛々しさを感じてしまいました。人によっては、日本的で「華」やかな植物に感じられるのかもしれません。にしても「京の華」という言葉はどうしてこうも頻出するのだろうか。もしや例えば「京の華」と呼ばれた芸妓さんが存在していたんじゃないか、などといった妄想も膨らもうというものですが、ざっくりと調べた限りそのような事実はなさそうです。一体いつ頃から「京の華」なう不可解な言葉が日本人にとってさほど違和感なく膾炙されていったのか気になるところです。
さて、東京都台東区の日暮里にあっては、「京の華」は中華屋さんになるのです。黄色い派手な看板に赤字で店名、青地で手打拉麺と焼小籠包を記しているから売りの商品は明白です。店内はファミレスよりはカジュアルでフードコートよりは開放度が低いといった感じで、つまりはファーストフード店そのものといったお店なのです。なのにメニューを眺めると少々強気な感じの価格帯であるからよく分からない。話を戻すが、中華屋さんほど「京の華」に似付かわしからざる店名はそう存在しないんじゃないだろうか。もしかするとインバウンド客を見込んでいるのだろうか。「京」の字は「京都」でインバウンド客にも馴染みがありそうだし、「華」は読めずともシンメトリーなイメージが漢字を知らぬ人の目にもどこか華憐に映っても不思議ではない気もする。でもそれにしたって「手打拉麺」や「焼小籠包」にせめて英語を併記しても良さそうなものだが、そうした工夫は見られないのです。店の方に伺えば良さそうなものですが、生憎我々の司会に届く従業員の方たちは余り日本語が達者ではなさそうです。ならば店名など気にせず大いに呑み、食を堪能すべきです。ということで同行者が一挙に大量の点心系を注文。メニューを眺めた際に一品料理を見逃して点心とラーメンが大部分を占めていると思い込んでしまったようです。慌てて頼んだのがエビチリだったのですが、色味が茶色がかってしまったなあ。こちらのお店、店の雰囲気などぼくには難も多い気がしますが、恐らく味が良いということでネットでも評価が高いようなんですが、確かにいずれも美味しい。けれど例えば小籠包は焼きじゃない方がきっともっと美味しいだろうと思ったり、気になる点もあります。といかにも初めて訪れたかのような書きようですが、実は10年近く前にも来たことがあったようです。その時も店名に難癖など付けたんだろうか。ちなみに京都には「京の華」を掲げるたこ焼き店も存在するようです。