テーマ:■雑学王■(728)
カテゴリ:トリビア
■奈良県はなくて堺県■があった時代があった。
堺と奈良は一本の道で古代から繋がっていたのだ。 堺と奈良を結んでいた日本最古の管制道路、「竹ノ内街道」。 その竹ノ内街道には、地名を読みこんだ歌があるというのを聞いたのは、もう30年ほど前。 しかし、一部しか知らなかった。 1世紀前から大正まで歌い継がれてきたが昭和に入り忘れ去られていた、竹之内街道わらべ歌が1世紀ぶりに復活した!! ■竹ノ内街道わらべ歌 ■ 雨が降る降る古市で 傘を借る借る軽里で 馬に乗る乗る野々上で 馬が死ぬ死ぬ新田(埴生野)で ゴロっと落ちたら*五軒家*の 坂で金は樫山 持って郡戸(こうず) 煙草一服飲む野村 丹南松原麦どころ 1石まいて八斗取り *せんど*(船堂町)歩いてまだ蔵の前(蔵前町) 足にまめづか(大豆塚町)できました。 大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る約26 kmの街道である。 羽曳野市の白鳥交差点から葛城市の竹内集落付近までの区間は、そのほとんどの区域が国道166号に指定されている。 二上山の南麓を通って、大和国と河内国を結んだ古代の幹線道路の一つ。 日本最古の官道といわれる。 大阪府堺市大小路から竹内峠を通り、奈良県葛城市に所在する長尾神社までの約26 kmの道が現存しているが、両端の難波、飛鳥とも市街地になっていることから、かつて幅30 mあったとされる飛鳥時代の大道の面影は残されていない。 竹内街道の名は、奈良県葛城市にある竹内集落を通って竹内峠を越えていくことに由来する。 一説には、聖徳太子が小野妹子らが中国大陸への使者として派遣された遣隋使が帰国の際に同行してくる大陸からの使者が通るために、立派な道路が必要だと考えて整備したものだといわれる。 現在の竹内街道は、大部分は推古天皇時代の官道と重なっている。 東側は奈良盆地南部を東西に横切る官道横大路に繋がっている。 かつては丹比道(たじひみち)と言われた。 丹比野を横断するのでその名が付いたと推定されている。 飛鳥時代には、遣隋使の使節や留学僧が往来し、難波から上陸した大陸の中国や朝鮮の先進文化は、竹内街道を通って大和へ伝えられ飛鳥文化の発展をもたらしたほか、シルクロードから海路を通って伝来した仏教もまた、竹内街道を通って大和へ伝わり、日本文化のいしづえとなったといわれる。 ●地名に合わせて歌詞を作っている。 ●この歌に歌われた地名で*五軒家*という地名だけがどこか分からない。 ●*せんど*の意味 「何度も何度も」という大阪弁の古語。 ■竹ノ内街道■ ●江戸時代には、お伊勢参り、大峰詣、當麻詣などが盛んになり「宗教の道」として、街道沿いには道標が建てられ、旅籠や茶店などが軒を連ねました。 ●明治には、大阪南部が堺県となりやがて堺県が奈良県を併合すると物資を運ぶ「経済の道」として街道の重要性がましていきます。そのため竹内峠では大改修が行われました。 ●官道として整備されたのは上記の通り7世紀初め頃であるが、二上山の西麓(現在の大阪府太子町)には4世紀から5世紀にかけての陵墓・古墳などの遺跡が数多く残っているため、既にかなりの人々の往来があったと思われる。 ・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.01.10 11:17:23
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