テーマ:☆東京☆(247)
カテゴリ:国内旅行
■2月10日(月)2 ■月島■から歩いて佃島(つくだじま)へ。 江戸の佃島の漁民の故郷は大阪の佃村(現在の大阪府大阪市西淀川区佃)である。 本能寺の変が起きた時、徳川家康はわずかな手勢と共に大坂、堺にいた。 家康は決死の覚悟で本拠地の岡崎城へと戻ろうとしたが、神崎川まで来たところで川を渡る舟が無く進めなくなった。 そこに救世主のごとく現れたのが近くの佃村の庄屋・森孫右衛門と彼が率いる漁民たちで、彼らが家康らに漁船を提供した。 その結果、家康らは生きて岡崎に戻ることができた。 後に家康が江戸に入った時、命を救ってくれた摂津・佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、特別の漁業権を与えたのである。 中世において隅田中川の河口部に位置していた島(文亀[1501-04]古図にも見られ、森島、鎧島などと呼称されていた)を、1626年、旗本石川八左衛門重次が徳川家光から拝領し、その屋敷を構えたことから、その島が「石川島」と呼称されるようになった。 現在の佃1丁目・佃2丁目北部は、上記の佃島と石川島の場所に該当する。 ■石川島の灯台■は慶応2年(1866)、石川島人足寄場奉行清水純畸が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので六角二層の堂々たる灯台であった。 この完成を最も喜んだのは近在漁師であった。 所在地 中央区佃1-11 ■歴史:明治期以降■ 幕末に水戸藩により創設された石川島造船所が1876年(明治9年)に民間に払い下げられ、後のIHIの造船所になった。 1979年(昭和54年)に操業停止し建物は解体された。 旧来の石川島の部分に該当する。 1986年(昭和61年)から、都心回帰の促進を図る目的で、8棟の超高層住宅を中心とする大規模再開発「大川端リバーシティ21」の整備が行われた。 (▲佃大橋は隅田川最後の渡船場として320余年続いていた「佃の渡し」の位置に架けられた橋であり、上流に平行している永代橋、下流の勝鬨橋の交通量の増加、および1964年東京オリンピック開催に備えた関連道路の一部として、戦後初めて隅田川に架橋された橋である。 ) (雪降れば 佃は古き江戸の島)所在地 中央区佃1-2-10 劇作家、北条秀司は佃島が好きであった。 新派俳優、花柳章太郎も佃島が好きであった。 二人はたえず連れ立って、佃島を歩き、大川の渡船を楽しんだ。 佃煮で有名だが、全国各地に類似の煮物が存在し、佃が元祖なのかどうかは不明である。 流れが無く行き止まりになるので「佃堀」とも。 この川の左側が、まさに最初に造られた佃島。 右側が明治に埋め立てられた月島である。 よって、住吉神社はこの川の左側。 地区に残る住吉神社の存在が大阪との繋がりを物語っている。 ■住吉神社■ 家康公が関東下降の際、摂津国佃の漁夫33人と住吉の社の神職平岡権大夫好次が分神霊を奉載し江戸へ下り、寛永年間に幕府より鐵砲洲向かいの干潟を賜り築島しました。 そして故郷の名をとり佃島とし、この地に社地を定め、正保3年(1646)6月29日 住吉三神、神功皇后、徳川家康の御神霊を奉遷祭祀しました。 これが佃住吉神社の起源です。 佃島は江戸湊の入口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めました。 その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行なわれ、その地域の産土神(氏神)として信仰されています。 ■水盤舎(おみずや)■ 水盤舎(おみずや)は欅(けやき)材の切妻造り、瓦葺きの建物。 明治二年(1869)に再建され、同四十四年に改築された。 水盤舎(おみずや)の欄間は、明治二年再建時のものを使ったと推定されている。 ▲欄間の正面には石川島の灯台と側の渡し、側面には廻船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、▼ また内側にも潮干狩りなど佃島の風景が彫られている。 石造りの水盤には「天保十二年(1841)白子組」と見え木綿問屋が寄進したものである。 正面鳥居の上にある扁額(へんがく)は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字を染め付けている。 明治十五年(1882)6月に製作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁(たかひと)親王。(有栖川宮家は、歌道・書道が家学。) バスで東京駅へ帰る。 白梅の今さかりなり佃島 ■3泊4日東京■ 2010日(月)■月島でもんじゃ■ にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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