テーマ:北海道ドライブ(609)
カテゴリ:国内旅行
■9月22日(木)-2
映画「網走番外地」を見たことはないけれど、網走といえば、「網走番外地」で有名だ。 「番外地」が撮影されたのは昭和40年。 そのころ網走監獄博物館はまだなかった。 博物館が開館したのは昭和58年のことだ。 ■博物館 網走監獄■ 網走刑務所の建築物群を天都山中腹に移築・復原し、保存公開している歴史博物館。 平成28年2月には舎房及び中央見張り所、庁舎、 教誨堂、網走刑務所二見ヶ岡刑務支所の2件8棟が国の重要文化財に指定されました。 広い敷地内には、重要文化財が8棟、登録有形文化財が6棟と歴史的価値が高い建築物が点在しています。 囚人が暮らした部屋が並ぶ「舎房及び中央見張所」は、重要文化財のひとつ。 すべての廊下が見渡せるよう中央見張所を中心に、5棟の舎房が放射状に広がります。 この形状の木造舎房としては世界最古の建築物で、国内で現存しているのはここだけ。 その規模も最大級で、独居房と雑居房を合わせると226房にも。 実際に中に入ることができる房もあり、囚人が過ごした部屋をリアルに体験することができます。 その他にも、水色とグレーの外観が印象的な管理棟「庁舎」、自給自足の先導的な建物として建築された「旧網走刑務所 二見ヶ岡刑務支所」、和洋折衷の建築が特徴の講堂「教誨堂」など、明治から大正時代に建設された美しい木造建築物群を見ることができます。 2010年には「監獄歴史館」をリニューアル。 左右前方3面のスクリーンに道路開削の様子が映し出されるシアターがあり、囚人たちの過酷な労働の様子を伺い知ることができます。 ▲独房(懲罰のための独房) 反則行為を起こした者には懲罰のひとつとして独居房での拘禁があった。 ▼独房の囚人 ▲囚人のための小屋。 工事現場での寝泊まりのための小屋。 ▼工事が終わるまで、ここで食事を作り、この様に寝泊まりしていた。 ▲一番最初の塀。 囚人が逃げないようにということと、囚人を好奇の目から守るためのもの。 ▲監視員家族のための家。 当時の網走刑務所には1200人もの囚人が収監されていたそうなのですが、監視員がそれぞれの家族を続々と連れて村にやってきたことで村の人口は一気に増え、人口増加と共に物売り商人も店を構えだし賑わう村になっていったとのことでした。 ■哨舎(しょうしゃ)■ 明治13年に内務省が制定した図式に基づいて、全国各地の刑務所では、出入り口や作業場などに哨舎という見張所を設けて、外部からの進入や受刑者達の行動を監視していました。 各刑務所で形は様々でしたが、この哨舎は所内に8か所設置されていました。 ここに移築した哨舎は昭和60年頃まで実際に使用されていたものです。 ▲囚人の仕事の中には、農作業もあった。▼ 畑で作った作物を使って漬物を作り、それを自分たちの食料とした。 そのための漬物小屋もあった。 ▲■典獄室■ 1908年,刑法の施行に伴い,監獄法,同施行規則の現行体制が発足した。24年には,行刑刷新の下,監獄を刑務所,典獄を刑務所長など用語の改正が行われた。 監獄を出てから、いや、監獄博物館を出てから行ったのは、モヨロ貝塚。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ モヨロ貝塚は、網走川河口の左岸(北岸)にあり、標高5メートルの砂丘台地に立地する。 編年的に日本の縄文時代晩期に並行する時期から住居が作られ、続縄文時代が続いた。 さらにオホーツク文化に変わっても集落が営まれた。 住居は竪穴式で、 死者は貝塚に埋葬された。 死者の頭の部分には、甕(かめ)が被せてある。 1913年(大正2年)に網走を訪れた青森県のアマチュア考古学研究者米村喜男衛が発見し、学界に報告した。 発見した土器から縄文文化ともアイヌ文化とも異なる文化の存在を知った米村は、網走に住むことを決めて米村理髪店を開業し、傍らで遺跡の調査と研究に携わった。 網走川の河口の丘の上に集落があった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 能取(のとろ)岬に行った。 「能取岬」(のとろみさき)は、オホーツク海に突き出た岬。 能取は、アイヌ語のノッ・オロ(not-oro=岬の・ところ)に由来。 網走市街の北、約10kmのところにあります。 突端には灯台と管理事務所があるのみ。 断崖の岬の突端には、8角形の形をした洋風の白と黒のストライプの「能取岬灯台」(大正6年建造)があります。 塔の高さは約21m。 ●12038歩●網走市泊 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.10.14 12:51:30
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