「正しいこと」を「正しい」というのは「〇」。
「間違っていいること」を「間違っていいる」というのも「〇」。
これに異論を唱える人は(余程のへそ曲がりを除けば)、まずいないだろう。
では、
「正しいこと」を「間違っている」、あるいは、「間違っていること」を「正しい」ということはどうか?
また、「正しいこと」を「間違っている」というのと、「間違っていること」を「正しい」、というのでは「どちらが悪か?」
これが昨日の日曜礼拝の中で出てきた。
皆様は、これについてどう思われるか。以下に私なりの意見を連ねてみようと思う。
「正しいこと」を「間違っている」という時には、言う本人にはそれに対する認識不足も考えられる。
「間違っていること」を「正しい」とする場合でもそれが考えうる話だ。
ところが、明らかにそうだというにもかかわらずの場合は、他人だけでなく自分をも騙すこととなるのではないか!!
その自分を許すことが出来るか。それが「良心作用」というものだ。
原理講論 P.52 から:
第一章 創造原理 第二節 万有原力と授受作用および四位基台
古今東西を問わず、いくら悪い人間であっても、正しいことのために生きようとするその良心の力だけは、はっきりとその内部で作用している。このような力は、だれも遮ることができないものであって、自分でも知らない間に強力な作用をなすものであるから、悪を行うときには、直ちに良心の呵責を受けるようになるのである。もしも、堕落人間にこのような良心の作用がないとすれば、神の復帰摂理は不可能である。では、このような良心作用の力はいかにして生じるのであろうか。あらゆる力が授受作用によってのみ生じることができるのだとすれば、良心もやはり独自的にその作用の力を起こすことはできない。すなわち、良心もまた、ある主体に対する対象として立ち、その主体と相対基準を造成して授受作用をするからこそ、その力が発揮されるのである。我々は、この良心の主体を神と呼ぶのである。
世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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