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カテゴリ:独生女考
これまでどなたか「文鮮明総裁は無原罪で生まれられた」と聞いたことがあるか?
お母様発言の「独生女」を信じられない、といってはH3やH4へ行かれた大先輩や元牧会者もいるが、これらの方々は文総裁の「主の路程」を何度となく講義して来られた方々だ。 私自身も何度かその講義を聞いてきたが、いずれの「主の路程」でも文総裁は「16歳の復活節の朝に」以外には何の説明もされなかった。 私自身、「文鮮明総裁は無原罪で生まれられた」などと聞いたことがない。 それらの方々がされた「主の路程」も「16歳の復活節の朝」ということだったろう。 ところが、支流に逝かれた方々は2000年前のイエス様が「無原罪」であったように、お父様もまた同じであろうといった既成概念や固定観念、先入観によってではなかろうか。 この方々は、2000年前の洗礼ヨハネの教訓というものを忘れておられるようだ。 当時、イスラエル民族は救世主を待ち望んでいたが、それに先立って900年前に昇天したエリヤの再臨約束(マラキ書)があり、彼が昇天したように、また、天から降りてくると信じていた。しかし、イエス様は洗礼ヨハネが再臨のエリヤであると言われた。天からではなく肉身を持って来られた、ということだ。原理講論は『聖書に対する我々の態度』(P.205~)でもってそのような信仰姿勢を正すようにと勧めていた。 さて、お母様のクリスマス発言だとかで支流人の方々は騒いでいたそれは、侍さんのブログ記事「クリスマス発言?はあ?頓珍漢な輩たち」からはお母様直接のみ言が見当たらないこと、また、支流人らによっては「お父様が原罪を脱がれた位置が全く違う」といった曖昧さまで指摘していたが、支流人らはお母様批判のためならば手段を選ばずということか。 以下は、聖職者でもないサンデー食口である私個人が過去記事を整理して書くものである。 「真の父母様の生涯路程」(光言社)からも「文鮮明総裁は無原罪で生まれられた」などといった記述はなく、やはり、「16歳の復活節の朝」と書かれていた。また、イエス様からの「召命を前後した蕩減役事」があり家族の災難についても書かれていた。これは、文総裁の「主の路程」で聞いたことの繰り返し以外の何物でもなかった。 H3,H4へ逝かれた(「逝かれた」は生命のみ言につながっていないことを意味する)大先輩や元牧会者の方々は再確認されては考えを正されるようお願いしたい。 原理講論の記述からは、次に回すこととする。 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。 奇知=人とは異なる知恵 世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.12.27 00:25:01
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