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『「お父様、有原罪(堕落圏から)」は原理講論と矛盾しない(その1)』文末に戻ろう。
これまでも自称ルポライターtomy4509が調べ書き記してきたように、「独生女」は文鮮明総裁・真のお父様が聖婚式を前にして語り始められた「造語」ともいうべきものだった。聖婚式が「小羊の婚宴」であったとすればお父様「独生子」、お母様「独生女」は疑う余地もないことである。また、お父様が聖和されたあともお母様自身が「独生女」と語られたとしても何ら問題を感じないはずだ。 お父様のみ言「独生女」は1959年10月に語られたものであり、『原理講論』初版出版(韓国)は1966年5月であった。原理講論に「独生女」そのものの記載がないからといっても、1960年の「小羊の婚宴」からは「真の父母様」としての路程を出発されたなか、「原理講論」にも「善の父母」「真の父母」といった記述を少なからず発見することが出来た。この「父母」を厳密にいえば、「独生子」「独生女」が出会っての「父母」が前提であることを、統一食口であれば誰も否定はされないだろう。もしも、それの理解すら出来ていない方がいれば、反対牧師か共産主義運動を推進しておられる方だ。 しかし、お母様のクリスマス発言とかは支流人らが流した批判拡散ばかりで、その真偽は誰も知らないというのが実際のところである。今日もママさんが突然に、どこからか訓読した一文「原理講論の行間を読まなければ」と話してかけてきたが、まさに、そのとおりである。原理講論の「イエス路程」からだが、 神の創造目的を、心情の因縁を中心として見るならば、神は、霊的な父母として、人間を実体の子女として創造されたのである。そして、最初に神の二性性相の形象的な実体対象として創造されたアダムとエバは、神の第一の実体対象として、人類の父母となるのである。それゆえに、彼らが夫婦となって子女を生み殖やし、父母の愛と夫婦の愛、そして子女の愛を表し、父母の心情と夫婦の心情、そして子女の心情によって結ばれる家庭をつくるようになっていたのであるが、これがすなわち三対象目的をなした四位基台であったのである(前編第一章第二節(三)参照)。ここでも神様を霊的な父母(天の父母様)といった記述を見ることが出来、「創造されたアダムとエバは、神の第一の実体対象として、人類の父母となる」ことを願われた神様は、再創造摂理においても原罪と全く関係しないアダムとエバでなければその実体対象として立てることは出来ない(以下)。 聖書の「生命の木」と「善悪知るの木」がペアであったように、記載がないかといっても原理講論の行間にある「独生子」「独生女」が出会っての「小羊の婚宴」を見逃すわけにはいくまい。 このように 、「お父様、有原罪(堕落圏から)」は原理講論と矛盾しない も行間を読めば十分に理解できる話である。 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。 奇知=人とは異なる知恵 世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.01.24 01:25:47
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