シムソン(恣意存)氏の記事から。
「統一食口がうやむやにして来た聖霊の真相を知れば文鮮明師の正体が分かる!」
聖霊は神様が抱いた構想理想を、実現するために活動する力です。聖書は聖霊のことを神の「手」や「指」と描写しています。聖書より引用します。
8:3わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。(詩編 8:3)
66:2主は言われる、「わが手はすべてこれらの物を造った。これらの物はことごとくわたしのものである。しかし、わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である。(イザヤ書66:2)
聖霊は神様の見えない手足であり、聖霊は人格的存在ではありません。聖霊の全ての活動は、神様の心情と意志によって発動されるものです。その聖霊の活動により被造世界の創造は為され、創造の目的となる真の父母が誕生することによって、初めて神様から独立した愛の対象としての人格的存在が出現するのです。その人格的存在である人類始祖が愛において完成する時に、昼の神様は実体として現れることになるのです。
ここからは過去の記事を再び掲載します。
聖霊は被造世界を創造し存在させるために、神様本体(夜の神様)から発動されている心情エネルギーです。心情の衝動力と一体となって、神様本体を存在させていた原力が分立され、創造原理のプログラムに則って正分合作用によって、あらゆる個性真理体を創造し存在させる心情エネルギーです。一つ一つの個性真理体を造り上げ、存在させるための働きを中心として呼べば、それが聖霊なのです。
旧約聖書からの引用を挙げては、「聖霊は神様の手足だ」?
先ずもってこのようなことを書けばクリスチャンたちから笑われる。
聖霊はイエス様が十字架後の五旬節の時に、神様がこの地上に初めて送られたものと私も思っていたが、旧約時代からだったとは? 「
論題23)◎「世界平和統一聖殿」信徒は『聖書』を「聖典」として扱う。」といっておきながらも、これがサンクの聖書解釈の程度だということだ。
聖書をこれまでのそれとは異にする解釈でもって、新たなキリスト教の別分派として形成されたのが
「世界平和統一聖殿(サンク)」ということか。
また、原理講論のキリスト論でも「聖霊」についての記述があるが、シムソン(恣意存)氏の語る「聖霊」はこれとはまったく違ったものである。
ところで、父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ三・5)と言われたのである。
このように、聖霊は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊は女性神であられるので、聖霊を受けなくては、イエスの前に新婦として立つことができない。また、聖霊は慰労と感動の働きをなさるのであり(コリントⅠ一二・3)、エバが犯した罪を蕩減復帰されるので、罪の悔い改めの業をしなければならないのである。さらに、イエスは男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、業(役事)をなさるのである。
② ロゴスの二性性相から見たイエスと聖霊
ロゴスという言葉はギリシャ語で、み言、あるいは理法という意味をもっている。ヨハネ福音書一章1節以下を見ると、ロゴスは神の対象で、神と授受をなすような関係の位置をとっているという意味のことが書かれている。ところで、ロゴスの主体である神が、二性性相としておられるので、その対象であるロゴスも、やはり二性性相とならざるを得ない。もし、ロゴスが二性性相になっていないならば、ロゴスで創造された被造物(ヨハネ一・3)も、二性性相になっているはずがない。このようなロゴスの二性性相が、神の形象的な実体対象として分立されたのが、アダムとエバであった(前編第一章第一節(一))。
アダムが創造理想を完成した男性、すなわち生命の木となり、エバが創造理想を完成した女性、すなわち善悪を知る木となって、人類の真の父母となったならば、そのときに、神の三大祝福が完成され、地上天国は成就されたはずであった。しかし、彼らが堕落したので、反対に、地上地獄になってしまった。それゆえ、堕落人間を再び生み直してくださるために、イエスは、後のアダム(コリントⅠ一五・45)として、生命の木の使命をもって(黙二二・14)人類の真の父として来られたのである。このように考えてくると、ここに後のエバとして、善悪を知る木の使命をもった人類の真の母が(黙二二・17)、当然いなければならないということになる。これがすなわち、堕落した人間を、再び生んでくださる真の母として来られる聖霊なのである。
③ イエスと聖霊による霊的重生
父母の愛がなくては、新たな命が生まれることはできない。それゆえ、我々がコリントⅠ一二章3節に記録されているみ言のように、聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな命が注入され、新しい霊的自我に重生されるのである。これを霊的重生という。ところが、人間は霊肉共に堕落したので、なお、肉的重生を受けることによって、原罪を清算しなければならないのである。イエスは、人間の肉的重生による肉的救いのため、必然的に、再臨されるようになるのである
もしも、彼の見解がサンクのそれというのであれば
『文亨進様が真の後継者である事を立証する60の論題』からの「
論題22)◎「世界平和統一聖殿」信徒は『八大教材教本』を永遠に守護する。」、これとも大きな矛盾点が浮上してきた。
八大教材教本の一つに原理講論がある。それとも違った見解を「夜の神様」ベースで書かれているのがシムソン(恣意存)氏である。
『文亨進様が真の後継者である事を立証する60の論題』を正とすれば、彼はこれ以上の記事更新をストップしなければならいだろう。
「夜の神様」ベースの彼が正であれば、とうごま氏の『文亨進様が真の後継者である事を立証する60の論題』の更新ストップである。
とにもかくにも、「聖霊」一つの見解から見てもシムソン(恣意存)氏は聖書とも、また、原理講論とも違った「新しい真理」(?)でもってサンクの灯台となるべく頑張っているようだ。
サンク、並べ替えれば「サクン(左君)」、一画を加えては「サタン」。
郭錠煥氏の自叙伝「事必帰正」が悪魔の教義書に対して、
サンクの『文亨進様が真の後継者である事を立証する60の論題』は
『サタンの告白』自伝。
一休さんのような機知(トンチ)ではありません。
奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵
世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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