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奇   知   外   記

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2020.04.26
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カテゴリ:宗教/天地創造
​​​​​​​​​​​​『ファミリー』1989.1月号より「神のみ旨を中心とする宗教圏の統一」と題して語られた文総裁のみ言からです。過去にはすでにその一部を紹介していました。

【前回記事】


文鮮明先生御言選集 19881014 -

神のみ旨を中心とする宗教圏の統一 ②
1988年10月14日

 真の愛による同位権、同参権、相続権、所有権

 さて、先ほどの話ですが、世界の統一は、絶対的な神のみ旨を中心として行うのです。問題はそのみ旨が何に根拠をおいているかということです。み旨の根拠は何かというと、それは手段でもなく、お金でもなく、知識でもなく、真の愛の根でなければなりません。

 真の愛の色は赤でしょうか、黄色でしょうか。どうですか? (分かりません)。「知らない」と言ってはいけません。「調和という内容をもっているので分かりません」と答えなければなりません。

 皆さんは愛を知っていますか。世の中で普通に結婚して、夫を千年万年信じて生活していたのに、もし夫が隣の家にめかけを住まわせるならば、妻の心はどうなるでしょうか。夫は、自分の妻は女性の中でも最高なので、自分がどんなことをしていても「よくやりましたね」と褒めてくれるだろうと言うのですか。女性たち、どうですか。それは命を懸けても許すことができないことです。そうですか? (はい)。なぜですか。男性のゆえですか、愛のゆえですか? (愛のゆえです)。そうです、愛のゆえです。愛がいかに強いかといえば、一度に十人の首を、愛によって切っても、誰も痛いとは言わないのです。愛は命に屈伏しないのです。真の愛の道の前には、反対する者のその数百人の首を切ったとしても降伏しないのです。ですから夫の不始末を聞くや否や、心を治めることができず、大根を切るように夫の首を切りきざみたくなるのです。「この心がいったいどこから出てきたのか。なぜ、自分はこれほどまでに暴悪で、これほどまでに悪なる人になってしまったのか。数十年間祈祷を続けて、聖人の母になろうとしてきたにもかかわらず、小さなバッタみたいな者が飛び跳ねながら、少しばかりいたずらしたことに対して、なぜこうなるのか。このようになりたくないのに、どうしてこうなるのか」と思うほどです。どんなに小さな女性であってもこうなのに、もし偉大な神様が愛を踏みにじられ奪われたとすれば、神様は果たして黙っていられるでしょうか。どうですか。神様はどうされるでしょうか。神様だから黙っているのでしょうか。どうされるでしょうか。より大きな雷を落とすでしょうか。それとも「フッフッフッフッ」と笑うでしょうか? (大きな雷を落とします)。神様とても同じです。では、千年後の私たちの後孫はどうでしょうか。最近では、中、高校生にもなれば、その両親が、「私の子女たちのデートの相対がいないかなあー」と言っているのです。それは滅びの兆候です。それは真の愛と関係ありません。

「あのような女性とは結婚させたくない」と、どんなに父母が言っても、一族が騒いでも、「あなたの娘は、私の一族を売ったとしても嫁に迎えたい」と言う、そのような男を婿にしたいですか、それともこじきのような男を婿にしたいですか。どちらですか? (前者です)。神様もそのような愛には気が狂うでしょうか、狂わないでしょうか? (狂います)。それを見たことありますか? では、「神様すらも愛においては気が狂う」と言った時の感じと、「神様は愛においては気が狂わない」と言った時の感じと、どちらのほうがより皆さんに近いですか? (前者です)。前者ですね。それは正しい答えです。

 神様が愛に酔って、その目も真っ赤になり、五感とすべての表示体が麻痺したとしても、次に何を中心として動き出すかというと、愛を中心として動いて、愛の焦点を合わせるのです。愛の力がどんなに強いかというと、いったん愛の関係を結んだ人は、もしそれが王家の王女と僕であれば、王に対して「あなたが王様であるかどうか、私には関係ありません」と主張するほどです。愛の因縁を結べば、すべて自分のものになってしまうのです。その相対のいる所にいつでも行くことができるのです。それを妨げることはできません。愛にはそのような同位権があるのです。愛の性禀の中において常に同じレベルに立つのです。ですからお母様もここに来られて座っているのです。もし、近所のおばさんがここに来て座っているとすれば、それはいかに見づらいでしょうか。(笑い)お母様がここに来ているのはなぜでしょうか。先生を愛しているからです。美しく着飾っていても、そうでなくても、また手足の不自由な人であっても、愛で一つになれば同位権が生まれるのです。それから同参権です。

 先生が急に登山に行くと言った時、お母様が「あなた一人で登山に出掛けてはいけません。私も共に行きます」と言えば、先生は、いけないとは言えないのです。また下山して、急に「韓国にいないで、私は東京に行かなければならない」と言った時でも、お母様は「あなたは行ってはいけない」とは言えないのです。「どうぞ、そうなさってください」と言わなければなりません。愛にはそのような同位権、同参権があります。そして次に相続権があるのです。

 ですから、統一教会の人たちは賢くなければなりません。天国へ行くのも賢くして正しいチケットを持って行かなければなりません。もし誤ったチケットをもらえば死んでしまいます。色の黒い小さい男性が、世界一美人の立派な女性に向かって、「あなたは私の妻である」と言った時、美人のその女性は気持ちがいいでしょうか。その男性に対して、「あなたはそういうことを言ってはなりません」とは言えないのです。愛にはそのような所有権があるのです。

 神様と人間が相関関係を結んで、神様が離れることができない愛で一つになった時には、すべてが終わるのです。同じ原理に照らして、神様は誰のものになりますか。答えてください? (自分のものになります)。そこで神様は前後、左右、上下においても自分のものになるのです。愛にはそのような相続権、所有権があるのです。それを否定することはできません。そこではすべてが自由なのです。

  愛と自由

 この社会では、男性と女性に自由はありません。通りがかりの男性が、「自由だ!」と言って、横にいる女性の手をつかんでみなさい。平手打ちされます。しかし、愛の関係を結べればそれが自由になるのです。きょうはお母さん方がたくさん来ていますね。あなた方が夫の部屋に入る時、「私は今から入ります」とノックして入りますか、それとも、サーッとノックもしないで入りますか。世の中の道理に合わせてノックして入るほうがいいですか、それともそっと入ったほうがいいですか? (そっと入ったほうです)。愛に同和すると自由が生まれます。もはや制裁はありません。何でも与えることができるし、何でも受けることができるのです。

 それでは、神様と私たちが愛で一つになれば、神の宝座に共に座わることができるでしょうか、できないでしょうか。神様のひざの上に座ることができますか、できませんか? (できます)。もし神様にひげがあるとすれば、そのひげをつかんで自分の首に巻きつけたとしても、神様は「このような者は殺してしまえ」と言うでしょうか。「あ! あ! すべて自由にしなさい。天下の平和とはこのような所でも渦を巻くのだ……」と独り言の詩を歌うようになります。愛の魔術の世界には、そのような詩が生まれるし、文学の切々さがそこで交差する、のぞき眼鏡の境地が連結されるのです。愛する者同士が出会えば喜ぶように、神様との愛の関係を結んだとすれば、神様はどんなに喜ばれることでしょうか。

 上品でおとなしく、ひげを長く伸ばした、聖者になるような人は、神聖さをもたなければなりませんが、その聖者には妻が必要でしょうか? (必要です)。「あ! あ! 私は聖者様の妻になったので、聖者様の妻らしく行動しなければなりません」と。部屋に入る時もリズムに合わせて入り、あいさつも儀典に従って、すべて厳守した生活をしなければならないでしょうか? 妻が、「これは何ですか?」と言って、その儀典を守らないで、聖者様の祈祷される生活にただ合わせて生きるだけではどうにもなりません。それで、毎日のようにけんかするのではなく、互いに愛でもって溶かさなければなりません。愛でもって妻を感化させて、それ以上の幅の広い聖人にならなければなりません。そのような聖人の所へ、妻が「あなた、私はこれからそちらへ行きます。自由奔放にすべてを解放して渡っていきます」と言って、服を脱いで戸を開けて入ってきたら、聖人といわれる夫は、天地の道理を悟ろうとして瞑想して座っているのに、そのような姿で妻が入ってきた時、叫び声を上げて後ろ向きになるべきでしょうか。そのまま迎え入れるべきでしょうか? (後者です)。そうです、後者です。

 皆さん夫婦同士では、どんな姿で踊っても、何をしても罪ではありません。神様も愛する時は喜ぶでしょうか。笑うでしょうか。踊るでしょうか。神様はどうされるでしょうか。神様も同じなのです。神の目には、服よりもその人のすべてが見えているのです。全身の細胞が作動する運動もすべてを見ておられるのです。神の世界においては、すべてが解放圏なのです。ですから文総裁はどんな型にもはまりたくありません。先生が市場に行けば、露天商の古着屋さんとも友達になってよく服を売ってあげたりします。先生が売り子になってあげるのです。「あなたの夫の代わりになって売ってあげましょう」と。ある時は、その人が姉のような年であれば、先生が弟になってあげて売ってあげたのです。先生はそのような訓練をしたのです。ですからどこへ行っても多くの友達がいるのです。

 このように、愛には世界的解放があり、自由があります。皆さんは自由と解放のどちらを願いますか? (解放です)。解放のあとに自由が来るのです。人間は堕落したため、いまだ解放されていないのです。自由がないのです。サタン圏内からの解放が必要なのです。人間は天理の大主であられる神の愛を中心としていまだに解放されていないのです。

 その神様も、いったい誰に絶対的服従をするのかというと、まず神様は、「先に絶対服従してから、服従されなさい」と言うのです。それが偉大なことです。ある時、先生は皆さんに対しても無慈悲に命令したりするのですが、それは先生が皆さんに無慈悲に命令している以上に、先生は実際そのことを神様を通して知り、また行ってきたので、命令することができるのです。

  真の愛を中心とする者

 さて、きょうの話の統一世界を神の永遠に不変なる一つのみ旨を中心として収拾するという、その内容は何かということですが、聖書の旧約、新約を見本として、神様はプログラムをつくって、世界を収拾されるのでしょうか。人類始祖の堕落以前には、聖書の新約も旧約もなかったのです。既成のキリスト教会にいた人にとっては、このような話は本当に異端の話のように聞こえるかもしれませんが、それを疑うことが異端の魁首です。神様は聖書に従って動かれるのではありません。聖書は病人を治療するための処方箋のようなものです。自由人には必要ないものです。神様に出会って、「あなたは、旧約聖書でこのように語ったでしょう。ですから私に対してこのようにしてください」と言うことが可能でしょうか。愛はすべてを越えるものです。愛には規制がありません。ですから父母や親戚同士がどんなに反対していても、この愛の道を知れば、誰もがこの道へ直行するのです。たとえ正面衝突して、頭が飛んでしまっても直行するのです。では何を中心としてみ旨を成就するのでしょうか? (真の愛を中心としてです)。

 真の父母とはどういう人かというと、自分が生まれたのも子女のためであり、生涯苦悩して生きるのも子女のためであり、死ぬのも子女のために死ぬというのです。それが真なる父母なのです。自分の生命の起源から、すべての生涯路程を経て、生死を越えてまでも、子女のために生きようとするそのような父母が、真なる父母です。では、真の子女とはどういう人かというと、全く同じ道理なのです。自分が生まれたのも父母のためであり、生活のすべても父母のためであり、死ぬのも父母のために死ぬ人が真なる子女なのです。分かりましたか? (はい)。真の兄弟も同様です。真の兄とは、弟のために生まれ、弟のために生き、弟のために死のうとする人であり、すべてにおいて生命を懸けている人です。

 ここにいる年老いた女性たち、真なる妻としてそのように年老いたのですか。どうですか。女性たちが愛されるためにお嫁に行くというのは、堕落した先祖のエバと同じです。エバは愛されようとして堕落してしまったのです。本来は愛を受けようとするのではなく、愛そうとしなければなりません。そうすることによって愛が返ってくるのです。分かりますか。

 では真なる教育者、真なる指導者とはどういう人でしょうか。その人に従っている千人、万人の人々がいるとすれば、その中で自分だけが楽な道を行き、千万人の人々に苦労させようとするのではなく、千人、万人すべてが休めるようにしてあげて、自ら最も苦労する道に責任をもとうとする人が真の指導者なのです。この先生を見なさい。アメリカにおけるダンベリー事件を知っているでしょう。アメリカの法務省がレバレンド・ムーンを起訴した時、先生は韓国にいたのです。法務関係の協定がないので、アメリカには行かなくてもよかったのです。アメリカの国民ですら、自分が法に触れた場合には、アメリカから逃げ出すのです。先生はそのまま韓国にいれば、アメリカへ行って刑務所生活をする必要はなかったのです。しかし先生は起訴された翌日、ドイツを回って飛行機でアメリカに入ったのです。アメリカの法務省では、判事や検事たちが集まって、「レバレンド・ムーンは絶対に出頭しないだろう。なぜなら、アメリカ人でさえも、アメリカを離れて法の網から逃げ出すのに、何の関係もない異国の人が、なぜアメリカに来る必要があるのか……」と言っていたのです。

 神様に主管されて生きる先生は、アメリカの法の上で生きる人間です。法の下に生きるのではありません。それ以上のことをしなければならないのです。そこで、アメリカに入った文総裁は滅びましたか、勝利しましたか? (勝利しました)。勝利したのです。最近ではアメリカの大統領までも先生の世話になるようになりました。先生はそのような基盤をつくったのです。今や、アメリカの国民もレバレンド・ムーンを尊く思っているのです。統一教会の信者はどうですか? (尊く思っています)。では昼になったのに、なぜ昼食もさせてくれないのですか。(笑い)

 待遇されようとして待遇されるのはサタン世界のことです。先生は、「あいさつをせよ」とか、「再臨主」とか教えたことはありません。先生はそういう話をしましたか? 金元弼(先生)は、「再臨主」とか「メシヤ」とか言っていますが、メシヤとは、日本語で食堂の主人のことです。(笑い) 先生にはそのように聞こえるのです。また再臨主とは、死んだ夫が天国に行って再び訪ねてくることです。先生は再臨主が偉いとは思いません。そのように思っていたら、愛の話をすることもできません。悪口も言えないのです。再臨主が悪口を言ったらどうなりますか。(笑い) 先生は、再臨主という名が嫌いです。名は嫌いですが、再臨主が今まで神聖なるこの道をつくってきたのです。何の話か分かりますか。一番苦しいことを再臨主ができなくても、先生にはできるのです。ですから、その位置においては、もし再臨主が現れれば、神様の代わりとして侍らなければなりません。これはいかに恐ろしい話でしょうか。

 先生は監獄に入って、最も困難なことを成し遂げました。そこで三つの与件を出発させました。まず、共産主義の脅威からアメリカを救うことです。次にアメリカの青少年を救わなければなりません。これは最も難しいことです。それから腐敗したキリスト教を再復活させることです。このような三大与件です。これは、アメリカにおいて誰もできなかったことです。学者にも、宗教者にも、政治家にも、いかなる方法手段をもってしてもできなかったことです。お金をもってでも、世界中の科学文明をもってでもできなかったことです。先生は、アメリカを共産党の魔の手から解放する門を開きました。七〇年代には、言論機関も、共産主義によって左傾化されていました。それを先生がひっくり返したのです。このように先生は多くのことを成したのです。学者世界においても、多くの迫害を受けながら、東西四方へと散らばって戦ってばかりいる学者の群れを一つにして、その方向を提示しました。世間で学者といわれる人々は、なかなか話を聞きません。そのような群れを集めて、文総裁が「このような世界に向かわなければなりません」と、方向を示したのです。それで絶対的価値を中心として約十五、六年間教育した結果、今は議長が先生のみ言を研究するようになりました。

 アメリカの神学校にも、「AR」という組織があり、年に一回牧師、神学者約六〇〇〇名ほどが集って大会を開いています。しかし私たちは、その門前にも行けなかったのです。今はその理事会の半分が先生の側です。その展示会の重要なコーナーに統一教会を紹介したとしても、「どうぞおいでください」と言うのです。反対できないのです。アメリカへ留学した群れが、韓国に帰って、「自分は神学者だ。文総裁に反対する」とか言っているのですが、あなた方の学んだ神学校の校長が、既にレバレンド・ムーンの教えを受けているのです。どうです。気持ちがいいですか、悪いですか? (気持ちがいいです)。では、反対する者が偉いですか。反対する人々の声を聞きながらも、それらを相手にしない人が偉いですか? (相手にしない人です)。それは偉くありません。悪口を言われながら、気持ち悪くも思えない人は、愚かな人ではないでしょうか。女性としてそのような息子を生みたいですか。もしある村で、殴られて帰ってくる息子がいれば、「どうして泣いて帰ってくるのか」と言うのが母親でしょう。先生の母親もそうです。先生に「どうして悪口を言われながら黙っているのか。復讐すればいいのに」と言ったのですが、先生が知った真の道がそのような教えではなかったのです。

 それで今回、四十年ぶりに広告を出したのです。先生は悪いことはすべて忘れようとしますが、良いことは覚えています。刑務所の話もすべて忘れようとしているのです。思い出せば、今でもすべての話ができますが、もしすべてを話せば、皆さんは涙を流すことでしょう。昔、先生は有名な日曜学校の先生をしていたので、文学的専門用語を使って、どんな話も、童話も、長編小説もできるのです。馬に乗って荒野を疾走する内容などを話す時、当時の教会の若者たちは、先生がますます好きになったのです。先生はどこへ行くにも、説教を準備していくことはありません。何の準備もしなくても、先生は感銘を与える説教ができるのです。一日中語り続けても、数カ月は語れるし、説教だけでも生活できる先生です。

 さて、統一の話ですが、宗教圏の統一は何をもって成すことができるでしょうか。それは武力ではできません。不良息子が悔い改めることができるのは、父母の愛からです。愛は死亡の世界から創造力を発揮できるのです。死の場から復活圏をつくり出せるのです。今回のソウルオリンピックの時、「一二〇カ国から宣教師と代表二人ずつ韓国に来なさい」と言ったのです。旅費は各自が準備したのです。先生に助けてくださいと言うような人は一人もいないのです。皆さん、もし先生が天国へ行って、皆さんに「天国に来なさい」と言った時、先生が準備してあげるべきでしょうか、それとも皆さんが準備して来るべきでしょうか? (準備して行きます)。それと同じなのです。先生の真の道を知ったならば、先生が行うとおりに皆さんも行わなければなりません。その道がいかに険しくとも、その道を開拓していくのです。たとえヒマラヤの山頂へ登っていく道であっても、これが公式の道なのです。その山頂を越えて天国へ入るのだとすれば、すべての人々は越えなければなりません。

 ですから、先生はこのような道を知ったので、一生涯この道を行くのです。この道はただ楽に行くことはできません。サタン世界の最も深い谷底にも、神の愛を中心として、真の愛の根を下ろさなければなりません。そこに根を下ろさなければなりません。そこに根を差して、そこから出発して、サタン世界の個人的時代、氏族的時代、民族的時代と、すべてにおいてサタンが打ってくる中で、神様の本来の愛の伝統を築くのです。先生はこのようなサタン世界のすべてに迫害されながら、世界の位置にまで上がってきたのです。今や中天に名声を翻す時なのです。これからは大韓民国においても、文先生に反対する者は打たれるでしょう。

  ​迫害は神様が恵みを与えるための架け橋​

 先日もこんな話を聞きました。ある喫茶店に入っていた時、ある軍人が文総裁の悪口を言った既成教会の人の胸ぐらをつかんで、殴ったのです。「この野郎! お前は文総裁に対してどのくらい知っているというのか!」と。これから先生に反対する者はこのように殴られることでしょう。そして、死ぬ者も現れるでしょう。なぜこのような話をするかといえば、一九五五年、李承晩博士の時代に、文教部、広報部、内務部、法務部、外務部の五人の長官が一つになって、文総裁を打ってきたのです。その時、李承晩大統領の妻のフランチェスカと、金活蘭と、李起鵬の妻の朴マリヤたちが一つになって打ってきたのです。そして一瞬にして、梨花女子大学、延世大学において迫害が始まったのです。このまま統一教会を認れば、賢い青年男女が、神学校の学生が数週間のうちに完全に伝道されていって、そのまま放置しておいたら、数年以内に既成教会が滅びてしまうと思い、「どんなことをしても統一教会を打ち砕かなければならない」と言って、騒ぎ立てたのです。しかし、何の罪状もないので先生を殺すことができなかったのです。

 散々調べ尽くして、「兵役忌避」ということで打ってきたのです。先生は北で監獄生活をしてきたので、既に兵役の年齢も過ぎていたのです。どんなに法に照してみても問題にならないので、無罪釈放になったのです。しかし悪いことには、その時大騒ぎして連れ出したのに、無罪釈放になったことは誰にも知らされず、今になってもそのことで先生を打とうとする人がいるのです。

 先生は個人的に打たれ、家庭的に打たれ、氏族的に、民族的に、国家的に、世界的に、天と地においても打たれてきました。共産主義者から、またアメリカ人から、アメリカの政党全体から、さらに仏教、儒教、すべてから打たれてきましたが、誰一人として宗教者で、この先生に同情した人はいませんでした。誰一人として男性も、女性も先生に同情した人はいませんでした。しかし先生は、そのような中でもすべての人々に、この道を教えてあげました。監獄の中でも話してあげました。そして、世の中がこれほど悪なる世界になっていることを、先生はよくよく知りました。しかし先生は、これらすべてを自然屈伏させてきたのです。

 本当は監獄のことはすべて忘れなければならないのですが、殴られて痛かったことを記憶しているのです。先生の体には多くの傷が残っているのです。既成教会が与えた傷です。先生がもし人間的に生きるならば、彼らの腹を切り裂いて、禿鷹の餌にしても足りない気持ちです。先生の性格は、そのように強烈なのです。少年時代にも、もし先生の村で誰かに殴られたかわいそうな人がいれば、先生はその人を訪ねていって、責任をもってその人を殴った者を処分する魁首の役をしたのです。先生は火のような男なのです。このような先生を監獄に入れたのですから、たとえ無罪釈放したとしても、その日その時のことを、長い公文書にして発表し、謝罪しなければならなかったのです。

 しかし、なぜこのように迫害されたのかといえば、恵みを受けるためのものだったのです。罪なくして打たれる人は恵みを受けることができます。打った人が長官の友人であれば、長官の友人の恵みを受けるのです。もし長官の位置で打ってくれば、長官の位置の恵みを受けるというのです。先生は濡れ衣を着せられました。「文なにがしは、大韓民国の大統領になろうとしているのだ。李博士をポケットに入れようとしているのだ」と言われてきたのです。「文なにがしはこの国を手中に入れようとするのだ」と悪口を言われながらも、先生は黙々と歩んできたのです。最近になって、ようやく「南北を統一できる代表者は文総裁しかいません。金日成にも誰にもできません。文総裁だけです」と言うのです。さらに「文総裁を南北統一の大統領にすべし!」と言う人も多いのです。たとえ大統領に打たれることになっても、それを耐えて、その迫害が世界へ広がっても滅びないで成長していれば、その国の大統領以上の大きな位置を与えられても交換できない人になるということです。迫害は、神様が恵みを与えるための橋を架けているのだということを知ったので、先生は黙してきたのです。先生はすべての橋を渡ったのです。

 もはや統一教会に対して、既成教会が全力をかけて打ってきても先生には勝てません。どんなに強い青年の闘士の群れをもって挑んできても、統一教会の人たちには勝てません。最近では円和道という武術を習っているのです。霊界から教えられたこの武術を全世界に広めるのです。円和道は素晴らしい武術です。神様いわく、「武術はこのようであらねばならない」。円和道は原理を中心とする、世界の総合的な武術とすべく今回指示を出したのです。そして、世界中の円和道の人々を再調整して、かつて三国時代に花郎道の力を発揮して、三国を統一したように、今や万国統一時代なので万国を統一できる武術を習わなければなりません。それで、共産党も先生を恐れているのです。日本でも同じです。もはや私たちの若者を思うままにすることはできません。すべての人々が円和道を習うのです。

 この中で八〇パーセントの人々は、今でも先生と相撲を取ったら負ける人たちです。「七十代の老人が何を言うのだろう」と思ってはいけません。(笑い) 実際にもそうなのです。昔、漢江の岸でも先生と相撲を取って勝った者がいましたか、教会長どうですか? (いません)。(笑いと拍手)


<③に続く>

一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2020.04.26 06:54:24
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