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奇   知   外   記

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2021.01.02
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​​​​​​​​​​​​​​​​文鮮明先生御言選集 19560527 - イエスのように復活の栄光を神様に帰そう

1956年5月27日(日) 本部教会




祈祷
 愛するお父様、イエス様を信じないイスラエル民族に対して、パリサイ人やユダヤ人たちに対して、悔い改めることを幾たび願われたことでしょうか?

 追われ追い込まれて安息の眠りに就けなかったイエス様の路程が、私たちの心身に宿り、イエス様の心情を感じないようにしようとしても感じずにはおれない、その心情に似るまいと思っても似ずにはおられないこの時となるように許諾して下さい。またそういう心が私たちの中に現れなければならないことが、お父様が要求される御旨であり、または私たちが望む所の願いではないでしょうか?

 今イエス・キリストが歩まれたその路程を、イエス・キリストが残して行かれたその福音の御言を代わりに背負って、億兆万サタンと戦い、勝利の栄光をお父様の御前にお返ししなければならない責任が私たちにあることを、この時間心の中に感じとれるよう許諾して下さい。そうしてイエス様が天に対して懇切な心を持たれたように、今日私たちも天に向かう懇切な心を持てるように許諾して下さい。

 天を信じて集まった全体の群れに対して、堂々と出ていったイエス様の凛々しい態度と同じように、私たちもお父様の生命の御言、真理の御言を信じて堂々と出ることのできる態度を持った子女となれるように許諾して下さい。

 今日私自身をイエス様の御前に誇れるように許諾して下さり、今日の私の事情をお父様の前に誇らないように許諾して下さい。この時間お父様の御前にひれ伏した者が多いのですが、恥かしい者とならないように許諾して下さい。イエス様と同じ位置を獲得することができ、お父様の心に代わることのできるように導いて下さり、イエス・キリストの願いを代身して万民の前にいつ如何なる時にも躊躇することなく現れることを願っておられるのがお父様の希望であろうと思いますから、お父様、ここにひれ伏した子女たちを記憶して下さい。一つ一つ尋ねて下さり、一つ一つ命令して下さい。

 お父様の御旨を成すためにイエス・キリストの代わりとして戦うことができ、お父様の御旨の前に共に動ずる聖徒となるよう導いて下さい。私のお父様、懇切にお願い致します。

 お父様、イエス様は反対を受ける時にも天のために弁明されて、お父様の御旨一つを携え、念慮しながらその御旨を立たせるために戦って来ましたが、今日私たち一自体はイエス様の御旨、お父様の御旨のために出て行くにあっていつ如何なる時にもお父様のために賛成したことばかりだったでしょうか? お父様の御旨に対して恨むことの多い私たちでした。

 お父様、このような私たちを許して下さい。今私たちはお父様の御旨を万民の前に堂々と訴えますから、お父様、この夕方集まった群れを天の勇士として立たせ、お父様の子女として立たせて下さい。仰せつけて下さり、御指導して下さり、尋ねてきて自慢できる立場に立たせて下さい。愛して下さり、導いて下さることを、お父様、懇切にお願い致します。

 この時間初めから終りまでお父様の能力の導きが共にあって下さい。私たちが柔和謙遜で幼な子のような心を持てるように許諾して下さい。尊厳なるお父様の御前に、生きた祭物として捧げることのできる子女になって、本然の自己に再創造できるこの時間となるよう許諾して下さいますよう、お父様、懇切にお願い申し上げます。

 この時間多くの御言が必要ではありませんが、生命の感動の役事(導き)が、心と体全体に染み通るように許諾して下さい。お父様の喜びを歌うことができ、お父様の栄光を証することができるように、御言で私たちの心と体を覚醒して下さいますよう懇切にお願いしながら、主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。  <御言> この時間皆さんと共に考えようとする御言の題は、「イエスのように復活の栄光を神様に帰そう」です。「イエス様のように復活の栄光を神様に帰そう」という題で暫くの間お話してみます。


 創造理想とイエス様の降臨の目的

 エデンの園は、永遠に神様が栄光を享受して、全被造万物が神様に歓喜の敬拝を捧げ喜びながら住む園でした。このような園を造ることが神様の創造目的でした。また人間は神様が願う希望の栄光を地上に現さなければなりませんでした。このように神様の栄光を実体として現さなければならないのが私たちの先祖アダム・エバの責任でしたが、彼らが堕落することによってその御旨が成し遂げられませんでした。

 神様が創造理想を成し遂げることをもって喜ぼうされた本然のその園は、人間が堕落することによって成し遂げられませんでした。それで今まで全人類は、復活の栄光を願いながら暗闇の勢力と対決して戦いの道を経て来ているのです。これが6千年歴史の路程でありました。

 神様は今まで歴史を経過しながら、全体的な復活の栄光と全体的な復活の遺業を成して、この地上の億兆蒼生(万民)と霊界の千々万・天軍天使、そして被造万物までも神様の栄光を歌い、感謝の敬拝を捧げられる一日を迎えようとしました。その一日を迎えるために神様は多くの預言者たちをこの地上に送られ、4千年歴史が経過した後に神様御自身の内的心情を外的実体をもって栄光の実体として送って下さったその御方が、間違いなく独り子イエス・キリストでした。

 このように神様の栄光の存在が現れたので、多くの民は喜びと感謝を捧げるべきでありましたが、即ち、選び立てたイスラエル民族と摂理を成就するために立てたユダヤ教団がイエス様の栄光に代わって現すべきでしたが、そうなりませんでした。そうしてイエス様は悲しみの嘆息と、成し遂げられない思いの嘆息を残さなければならなかったのを皆さんは良く知っています。

 イエス様が残した御言を今日私たちが見てみる時、彼の御言は信じない民だけに訴える御言ではありませんでした。万民に対して語られ たのです。イエス様は神様のために死を覚悟しました。残された道がなく、行かないでおこうとしても行かざるを得ない運命の道であることを知っておられたし、堕落した人間がどの一時、どの一歴史過程でも神様に対して心を尽くして性品を尽くして思い尽くせなかったので、これを知られたイエス様は堂々と人前に出て叫ばれたのでした。「汝の心を尽くし、性品(精神)を尽くし、思いを尽くし、主なる汝の神様を愛せよ」と堂々と語られたのでした。皆さんはこの一節の御言が皆さん一人にだけ該当する御言として理解してはいけないのです。


 イエス様が下さった御言

 それならばこの一節の御言は何を現わす御言なのか? イエス様は4千年歴史過程に隠れた神様の切ない内的心情を切々と感じました。そうして自分が神様に仕えなければならない責任を感じて、いつ・どの時間でも自分が今まで4千年歴史過程に未だなかった心をすべて尽くす代表者とならなければならないし、生命を掛ける代表者とならなければならないし、思いを尽くす代表者とならなければいけないことを、ここで再度明らかにされたのです。

 天の栄光がイエス様の栄光として現われて、イエス様の栄光が万民の栄光として現れて、万民の栄光が被造万物のいずれにも及ばなければならなかったのです。しかるにイエス様と万民が断絶されることによってイエス様お一人で成し遂げた復活の栄光、感謝の栄光は今日人類の願いとして残ったことを皆さんは知らなければなりません。

 イエス様は神様の栄光の化身として現れました。神様のために自分の心を尽くし、性品を尽くして思いを尽された一存在、歴史過程になかった勝利の化身が即ちイエス様だったのです。そのためにイエス様お一人に神様の心情が積み重ねられたことを知らなければなりません。

 更に皆さんは、イエス様が心を尽くす前に、まず神様が心を尽くされたことを知らなければなりません。イエス様が思いを尽くす前に、まず神様が思いを尽くされたのを知らなければなりません。そしてイエス様が性品を尽くす前に、まず神様が性品を尽くされたことを知らなければなりません。このように福音の化身として仲保的存在として現れた方がイエス様だったのです。  そのためにイエス様のこの真理の御言は、単に絹(安楽)のもとで感じられる御言ではなく、創造理念に通ずる御言であり、全体の価値を高めることができる栄光の理念として立てられた御言であり、お父様の隠された心を現した御言でした。これを皆さんは知らなければいけないのです。

 今日皆さんは、神様が語った願いが私だけを愛して語ったと考えてはいけません。そしてイエス様がそういう御言を語られたのは、神様が自分を立てるために苦労されたその御旨を、自分が今実体的に成し遂げなければならないことと考えたのでした。神様がイエス様に対して尽くしたことと同じように、人間が神様に対して尽くすべき責任があると証しした、その御言を成就でき得ないまま今に至っているのです。

 心と意思と性品を尽くし尋ねてこられる神様

 したがって今私たちは、心を尽くして思いを尽くして性品を尽くして神様を敬わなければならないし、神様御自身まず心を尽くし、思いを尽くし、性品を尽くして私たちを求めて来られたことを知らなければなりません。

 神様は4千年間に対してどんな心を持ってこられたのか? 自分のために尽くそうという心を持って来たのではありません。今すぐに死んで当然な人間であり、苦痛を味わっても当然の人間でありますが、神様は人間に対して心を尽くす立場で忍耐の4千年歴史路程を歩んで来られ、また思いを尽くして4千年の間サタンを分別する戦いの路程を歩んで来られたことを皆さんは知らなければなりません。

 このように不変の愛の心を持って4千年の間忍耐し戦って来られ、愛して来られた神様の性品を知らなければなりません。

 こういう神様の御前に現れたイエス様は、イスラエル民族を中心にした神の国を建てるために、自分お一人の心を尽くしました。そのためにイエス様の30余生涯の路程は、心を尽くす犠牲の期間だったのです。30余生涯の路程にあって民族の前に自分を現さず、黙々と4千年の間忍耐して来られた天の心情を体恤しようとされたのでした。

 そうしてイエス様は4千年歴史過程にあってサタンと関係した曲折の事実を感じて、それを霊界で内的に証し受けて明らかにされたのです。更に4千年歴史の中で隠された天倫の秘密を明らかにして、神様の内的な忍耐の実体基台を成し遂げられ、外的な実体基台を30余生涯に立てなければならない責任を背負ったイエス様だったことを皆さんは知らなければなりません。

 そのためにイエス様は難しい立場にぶつかればぶつかるほど、自我を求める立場にあったのでありますが、求めるという考えを試みてみることができませんでした。イエス様は神様が4千年歴史を経過しながらイエス様自身を尋ねるために忍耐して来られた神様の心、人間一人一人を尋ねるために忍耐されたその神様の心を感じて、その心を解怨するための実体として現れるための30余年準備の生活をされたことを、皆さんは知らなければなりません。

 神様はこの時間まで誰に対しても御自分の立場を弁明されませんでした。万民に対して弁明されることもできなかったし、怨讐サタンにも弁明しませんでした。神様のこういう全体の心情を体恤しようとするイエス様だったために、寂しい立場になったとしても、どの誰にも弁明されず忍耐されたのでした。こういうイエス様の忍耐の生活を皆さんは模範としなければいけないのです。

 神様はイエス様のために耐え忍ばれ、イエス様は自分のために忍耐されたのではなくて、神様のために忍耐されたのであります。即ち、イエス様は神様が自分を捜し求めるために苦労の路程を歩まれたことを感じ、自分のために耐えられたのではなく、神様のために耐えられたのです。

 このようにイエス様が30余生涯自分を捨て、神様のため忍耐されたのでサタンの忍耐を凌駕しました。サタンは今まで神様が4千年の間忍耐して来られた道、その道を破壊するために奮闘して来たのです。しかしサタンが堪えた以上のお父様の忍耐であったということを知っておられたイエス様は、そのお父様を信じて、お父様と共に忍耐するために忍耐の化身となったのです。

 このようにイエス様自ら、神様が4千年間求めて来られた心情の基台の上に立って、それを勝利の足台としてその上に立ってサタンと戦うことにあって忍耐心を持って戦い勝たれたのですが、実体的勝利の基盤を持つことができなければ、神様が4千年の間忍耐して来られた心情は破壊されるようになることを皆さんは知らなければなりません。


 忍耐の心情でサタンを打ち負かしたイエス様

 イエス様が30余生涯を通じて、御自身が耐えられない環境に置かれたとしても神様の御旨をして堪えたため、またサタンが耐えられない立場で耐えて神様の御旨を行ったため、また忍耐する者のシンボルとして立てられために、イエス様はサタンに対して戦うことのできる主人公となったのでした。

 神様はイエス様お一人を求めるために4千年歴史の血の滲む路程を歩まれました。また人間は自分の欲望を成し遂げるために喘いでいるような中にあっても、神様は人間のために戦いの歴史路程を歩んで来られました。このように神様は4千年の間サタンと戦って来ましたが、神様は自分を中心として戦かわれることはしませんでした。

 ところがサタンが今日まで戦ってきながら願って来たことは、自分の栄光だったのです。また今まで自分を中心として神様と戦って来たのであります。しかし神様は自分のために戦うことはされませんでした。神様が戦われる目的は、サタンの懐にいる哀れな人類のためであったのであり、選ばれた民族を通じてイエス様お一人を立てられるための戦いだったのであります。

 それではイエス様はどういう存在として現れたのか? 神様が4千年間サタンと戦い打ち負かす勝利の代身実体、化身として現れたのでありました。イエス様はこのように神様に代わる戦いの主人公としてこの地に来られたのです。それでイエス様が内的に勝利の基準を立られた神様の御旨を相続して、外的に勝利の基準を地上に立てなければならない責任を背負って実践された路程が、即ち3年公生涯でした。

 この3年の公生涯期間にあってサタンは自分一人の勝利のためにイエス様と戦いましたが、敗北するので再び民族を動員してイエス様と戦うようになったのでした。

 しかし、イエス様は3年公生涯期間にどのような難しい戦いの立場でも、決して自分を中心として戦うことはありませんでした。イエス様は 父が行ったことを見て行なうとおっしゃいました。神様に代わって戦いの化身として、神様の内的な心情を現す神様の代身実体として3年公生涯を歩まれたのでした。イエス様は自分を弁明する戦いをされませんでした。

 神様が自分のため弁明できないのと同様に、イエス様御自身も万民の前でサタンと戦う立場で自分を弁明することはありませんでした。神様が4千年間自分のために摂理して来られたその苦労に対して、変わることのない心を持って神様を敬われたイエス様でありました。

 神様の御旨が摂理の闘争の路程に現れたこの一つの事実を悟ったイエス様は、神様が内的に立てられたこの全体の御旨を外的に成就するための戦いを展開されたのでした。それでイエス様とサタンの戦いにあって、サタンは自分のために戦ったのですが、イエス様は天のために戦ったのであります。ここに勝利の基準が立ったのです。

 ではサタンが敗北した原因は何だったのか? 自分のために戦ったためです。サタンの戦いの目的は自分にありました。しかし、イエス様は戦いの目的は天に置きました。そしてイエス様は神様が変わらない以上、最後まで変わらないという心を持って思いを尽くして戦われために、勝利の基準を立てたのであります。また神様が心を尽くし、意思を尽くし、性品を尽くしたのと同様に、イエス様も人類の前にそういう姿勢を見せて下さったのです。


 イエス様は神様の代身実体

 そうしてイエス様は神様の内的な性品を代身してすべての苦難と悲しみを堪えながら、愛された神様の心情を継承できたのでした。それでイエス様は自分がどの立場、どの所にいたとしても、ただ神様の御旨、神様の愛を代身する実体としてサタンと戦ったのでした。

 イエス様はサタンと戦う過程に、サタンが自分のための目的を中心に攻撃する時に、その影響はイエス様御自身のみならず、神様にまで及んだことを知りました。そのためにイエス様はどのような受 難に会われたとしても、神様が自分(イエス)のために忍ばれたように、また万民のために耐え忍ばれたように、そして当時までの摂理路程でサタンに対して神様が戦われたのと同様に、30余年生涯をただ一人耐え忍びながらサタンに対して戦われたのでした。このように十字架上で亡くなるその絶頂の瞬間までのイエス様の生涯は、神様の実体としてずっと神様の愛を自ら実践して現す生涯でした。ところが彼の生涯路程、即ち神様の愛を実践した路程は、サタンと戦いながら歩んだ試練過程だったのです。

 それではどうして神様はイエス様をサタンの前に渡して十字架で殺したのか? それは神様がイエス様を愛していなかったからではありません。神様はイエス様を愛したけれども、どの程度まで愛されたのか皆さんは知っていますか? 神様の最高の愛は、事実上死を越える立場で受けるということを皆さんは知らなければなりません。それ故に皆さんは神様に代わりに来られたイエス様の愛を受けるためには、死の峠をも越えることができるという切々たる心情を持たなければなりません。そういう時にサタンが屈伏するようになるからです。 4千年間、神様お一人全体の世界を眺めながら悲しまれ、心配され、苦労されましたが、イエス様お一人が地上に立てられることによって、彼を中心にするサタンとの新しい戦いが展開したのです。そうしてイエス様は自分のすべてのことを忘れて神様のために戦ったのみならず、死の場にあっても自分のための欲望を持たなかったために、復活の能力を現すことができたのでした。今日私たちもイエス様のようなそういう勝利の過程を歩まなければならないのです。 イエス様は神様の永遠の生命を所有して、神様の栄光を現すために自分のすべてのものを捧げ尽くしました。そして罪悪に満ちた人間たちのために自分一人を祭物に捧げました。私たちは、サタンが反対しているということまでも忘れる程に、人類のために手を上げて祈祷されたイエス様の愛を知らなければなりません。

 サタン世界では現すことのできない愛をイエス様は現したために、サタンは彼の愛の前に屈伏するまいと思っても屈伏せずにはおられませんでした。サタンは自分個人として求めることが(別に)ありましたが、イエス様を通して恥ずかしさを感じる ようになったのでした。そうして十字架によって4千年間摂理して来られた神様が悲しみ始めたのみならず、人間も悲しみ始めて、またサタンも悲しみ始めたのであります。これを皆さんは知らなくてはなりません。

 イエス様が亡くなったことに対して、神様と人間だけが悲しんだのではありませんでした。イエス様の愛と死についてサタンも悲しむようになったのです。それでサタンの悲しみが大きくなればなる程、イエス様の愛の結実はより多く結ばれたのでした。

 イエス様は自分の愛を実証する十字架の勝利によって、4千年の間摂理して来られた神様と不変の因縁を結んだし、不変の勝利、不変の愛の実体となりました。イエス様は天と地、人間を代身して神様と一つとなったために、神様が変わらない以上イエス・キリストもまた変わることができなかったのであります。

 神様は4千年の間栄光を現そうとされましたが、その願いを成し遂げられなかったので、イエス様お一人を立てて初めてその願いを成し遂げようとしたのでした。それでイエス様は人間を通じてその願いをこの地上に現そうとしたのでした。そういう神様の4千年摂理の証拠的な実体として現さなければならないのに、十字架によってその願いがサタンに蹂躙されることになったのです。しかし、イエス様は神様の栄光の実体として4千年間摂理してこられた神様の栄光を見せてくれましたが、それが何かと言うならば、復活の栄光だったということです。これを皆さんは知らなければなりません。

 復活の栄光を現されたイエス様

 その復活は4千年歴史において初めて天の栄光を代身したものであり、4千年間サタンとの戦いを勝利した栄光を代身したのでありました。イエス様がこのように勝利的な基準を霊的にとか実体的に見せて下さったために、神様は死んだイエス様を再び起こし、新しい摂理を展開されるようになったのでした。イエス様が十字架に掛かることによって4千年摂理歴史の責任を引き受けて、祖先たちの責任を引き受け持って、天の栄光を代身して あの世に行かれたことが復活・昇天だったのです。

 このようにイエス様は内的な神様の栄光をこの地上に実体的に成し遂げるために、即ち神様の完全な栄光を現すために来られた御方です。なぜかと言えば、完全な栄光は内的な栄光と外的な栄光が合わされてこそ成し遂げられるからです。イエス様は間違いなくこの使命を成すために来られたのです。

 神様の栄光が完全に成し遂げられるには、神様の内的な栄光の実体として来られた独り子・イエス様とユダヤ民族が、離れずに一つになることによって、イエス様の手にある神様の内的な栄光が地上の栄光とならなければならなかったのです。しかし神様の4千年摂理歴史を受け持って神様の栄光を実現しなければならないイエス様が、ユダヤ人の不信によって十字架で亡くなることによって、天の内的な栄光は霊的な栄光になったのです。そのためにイエス様は未完の栄光を成して昇天されたのでした。

 イエス様が昇天した後に霊界で、神様が4千年間サタンに対して行った天の戦いと、人間を復帰するために行った真の戦いと、御旨を成し遂げるための摂理の戦いと、聖霊を代身とする愛の戦いをしておられるのです。即ち、イエス様は霊界に行かれて、神様がして来られた戦いを継承して神様の代わりとして戦っておられるのです。

 それでは4千年の間摂理して来られた神様の前に、人間を代身して、万物を代身して、天の愛を代身したイエス・キリストが真実に勝利しなければならない場所はどこにあるのか? 他でもないこの地だと言うことです。


 地上の戦いを責任持つ聖霊

 それでは地上に残っているこの戦いの路程を誰が責任持たなければならないのか、これが問題です。イエス様が霊界で神様の内的な戦いを継承して戦っておられるのですが、聖霊と私たちは地上で力を合わせ、内的な戦いと内的な摂理を実体的に完結するための愛の戦いに勝利するために、全部が協助しなければなりません。この戦いは霊的にのみ戦う戦いではありません。霊肉共に戦わなければならないのです。そしてその戦いで勝たなければならない運命が、私たち人間に残されているのを皆さんは知るべきです。即ちイエス様が霊界で神様の内的な戦いを引き継いで今まで戦って来られたことと、この地で30余生涯を犠牲にして人類救援のために戦って来られたことを、私たちが引き継いで勝たなければならないのが私たちの運命だと言うのです。

 そのために今皆さんたちは、「お父様! イエス様! 聖霊よ、私に力を下さい」と祈祷して叫びながら、地上で天の歴史的な希望を成し遂げるために全力を尽くさなければならないのです。

 イエス様はこの地上に神様の4千年苦労の結実体として来られたし、最初の完成体として来られた御方です。しかしイエス・キリストは30余生涯に成し遂げられない路程が残ってました。そして3年公生涯期間の戦いの路程にも神様の栄光を完全にすべて成し遂げられないという恨みが残っており、また十字架の血にじむ愛の心情が地上に残っているのです。

 それ故に、今日私たちはイエス様が地上で成せない使命を引き継ぎ、霊肉同時に成し遂げなければならないのであります。そして私たちは私たちの生涯路程をみな捧げて、イエス・キリストの行かれた道を継承して行かなければならないのです。

 それならば今日私一個人をお父様の御前に立てて批判しようとする時、どのようにしなければならないのか? イエス様は神様の御旨を成し遂げるためにサタンと戦い、イエス様が行かれて以後2千年の間も聖霊と共に苦労して来られました。そういうイエス様に皆さんは似なければならないのです。そしてイエス様はお父様の御前に自分一人を立てて勝利の戦いを展開したことが、どの一日だけではなくて、30余生涯の期間であったことを知らなければならないのです。6千年間摂理されたお父様の心、御旨を成し遂げるために心配し、苦労されたイエス様の心、聖霊の心を知らなければなりません。

 そうして今日皆さんが耐えなければならない路程にあって心を尽くして耐えることができないならば、皆さん一人によって6千年の間心配され苦労された神様の御旨、イエス様が生涯苦労された御旨、イエス様が亡くなられた後聖霊が2千年の間苦労した御旨がすべて挫折してしまうというのです。これを皆さんは確実に知らなければならないの です。

 それ故、今皆さんはこの御旨のための戦いを展開しなければならないのです。


 私たちの使命

 イエス様は怨讐の反対を沢山受けました。この城から追われればあの城へ行かれ、こちらで迫害されればあちらへと逃れて行かれたのです。そのような中でもイエス様は自分の一身を弁明することを知りませんでした。天の全体生命を持って来られたのに、そういう価値を現すことができませんでした。そうして無言の戦いの路程を経て来たイエス様、更に十字架の山上でも自分を忘れて神様の御旨と愛を中心として証しするためにサタンと戦われたイエス様でした。 それ故、今皆さんがイエス様自体を尋ね立てようとするある愛の心がある訳ですが、それがイエス様を悲しくさせるのではなく、喜びを差し上げることなのです。皆さんはこういう事実を考えて、今日皆さんがイエス様の苦労多い30余生涯を代身しなければならず、今日まで耐えて来られた神様の心情を代身しなければならないのです。

 4千年の間、神様の御旨を成し遂げるために祭壇を立て、民族を通して摂理された預言者たちの心を代身しなければならず、イエス様が人間を愛されたその心を模範にしなければならないのです。そうして今日皆さんは、イエス様が自分を立てないで、自分を愛さない心で勝利の基準を立ててサタンを嘆かせたのと同じ、そのような事をしなければならないのです。6千年間のすべての戦いを終結させなければならないのです。

 皆さんは忍耐のすべての闘争路程に勝利しなければなりません。また天の御旨を証しする戦いで勝利しなければなりません。皆さん一人一人がイエス・キリストを代身しなければなりません。4千年の間神様が忍んでこられた御旨、忍んでこられた栄光、忍んでこられた愛の勝利の心情を抱かなければなりません。イエス様が自分自身を忘れて、ただ天の御旨を成し遂げるためだけに苦労されたように、皆さんも自分自身を忘れて、神様が願われる全体の栄光を結実して差し上げなければならないのです。心で、体で勝利の実を結ばなければならないのです。

 そのために心ではイエス様の栄光を歌うことができ、体では聖霊の栄光を歌うことができるのです。そして私たちが、心ではイエス様の復活の栄光を代身して、体では聖霊を通じて復活の栄光を代身できないならば、聖霊は復活の栄光の立場に出られないという事です。イエス様は復活昇天できる栄光を整えましたが、聖霊は未だ復活昇天できる栄光を持っておりません。

 今日まで6千年間摂理して来られた神様の栄光に代わって霊肉を持った一つの実体が出て来なかったのです。今日はイエス様の愛によって勝利の栄光を代身する人が出なければならないし、聖霊によって復活の栄光の立場に立つことのできる人が出なければならないのです。皆さんが、イエス様が神様の4千年摂理の御旨を成し遂げるため心と体で戦うことができたように、そういう一つの実体として現れないならば、6千年の間摂理して来られた神様の御旨は栄光として現れないということを知らなければならないのです。

 それならばこれ以後に私たちはどのようにしなければならないのか? すべてを尽くす意思とすべてを尽くす心とすべてを尽くす性品を備えた聖霊がこの地に来られたという事を知らなければならないのです。そのために天の御旨を代身したイエス・キリストの代身実体、聖霊の代身実体がこの地に現れないならば、神様の御旨が成し遂げられないのです。皆さんはこれを知らなければならないのです。今日皆さんは生命を下さったお父様の御前に感謝しなければなりません。そして皆さんはこの地上で聖霊まで解放して差し上げなければならない責任を担っていることを知らなければならないのです。

 それで終末である今日このことが成し遂げられないなら、神様の6千年摂理の目的が成し遂げられないのです。そのために今日皆さんは、神様とイエス様、聖霊が願う御旨を成し遂げるためにすべての戦いの路程に勝利しなければならないのです。三位神の復活の栄光を現すために、その戦いの路程、忍耐の路程を越えなければならないのです。



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.01.02 09:40:44
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