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2021.03.19
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​​​​​​​​​​​​​​怨讐に対するお父様の恨み

マタイの福音書二三章一節-一二節、二九節-三九節
一九六〇年七月一七日(日)前本部教会


 *このみ言は第一次七年路程初めての全国四〇日伝道実施に先立ってなされたみ言

 しばらくお話するみ言の題目は’怨讐に対するお父様の恨み’です。’怨讐に対するお父様の恨み’という題目でお話します。


 1. 私を中心とした善と悪の闘い

 私たちはすべて、私たちが生きているこの地が善なる地になったおらず、地の上に生きる人類も、善なる人類になっていないことを知っています。この世の中が悪なる世の中であるにもかかわらず人間は善を所望とし、今日の不足なることを案じながら、明日の完全なる姿を慕っていることは、皆さんが生活を通してよく知る事実です。

 今日、地の上に生きている数多くの人々の中には少しはましな人がいる反面、そうではない人間がおり、少しは忠誠であろうとする人がいる反面、その忠誠の道を妨げようとする人間がいるのです。世の中のこのようなことと同じく私たち自身も、より良くなるという道を行こうとするとき、善なる何かを立てて行こうとするとき、これを妨害する要素が前を遮ることを、皆さんは何度も感じるのです。

 自分が善なる人間であると満宇宙の前に、自認することができないことを感じれば感じるほど、自身の環境が悪なる環境であると恨むようになるのです。さらには自分がこんな悪の世の中で生きているので、このような環境に染まって悪なる立場に立つようになったと、一時的な弁明をして生きているのが現実なのです。

 それではどうしてこのようになったのか? 自身が善なる人間になっておらず、善と反対の悪なる人間になったのは、環境のためであると恨嘆する原因はどこにあるのか? この原因を追究してみれば、堕落の報応からきた事実であることを否定できないのです。善とか悪という名詞が残っていることも、堕落のゆえであるのです。

 世の中の人をおいて見るとき、善なる側の人と悪なる側の人、また善なる人と悪なる人に区分することができます。私個人をおいて見るときにも、ある一方向に自分を引っ張って行くかと思えば、また他の側に自分を引っ張って行くという事実を、私立ちはよく知っているのです。

 人間に善なる人間と悪なる人間がいるように、神があるならその神も、善なる神と悪なる神があるのです。これは私たち自身を推し量って見ても、否定することができません。 自分の心は善に向かって行こうとするのに、環境に引かれて悪なる道へ行ってしまう原因は、どこにあるのか? 自分が動機的な主体ではないという事実を認定するなら、ここにはきっと自分以上の原因と動機である力が、作用しているという事実を否定できないのです。春が来れば春の気運が、すべての山河を覆うのと同じです。自分自身が環境による感情に縛られたり、環境による罪のなかに縛られるこれらすべてのことは、自分が直接的な動機になって動いているのではなく、ある動機的な力の下での間接的な動機によって動いているこのなのです。

 善を求めてみれば結局、絶対者を立てざるを得ず、悪を糾明してみれば絶対者と反対の神と、出会わざるを得ないのです。それゆえ私たち個体には、重要な責任があるのです。自分が良くなれば善になり、でなければ悪になってしまうのです。自分が良くなれば絶対者を喜ばせるのであり、でなければ悪の怨讐を喜ばせるのです。このような岐路に立つ人間ですから、どんなに微々たる生命だと考える人間であっても、彼は天的な闘いと歴史的な闘いをして生きているのです。

 世の中や理念を通して新しい世界に向かって動いてゆくことが、今までの人類歴史なのです。歴史の方向を理想世界に転向させるために展開されてきたことが、文化史の変遷過程なのです。これを見るとき、人間が主体ではなく、人間は第二原因の立場で、第一原因の対象として行動してきたに過ぎなかったという事実を、認定せざるを得ないのです。

 キリスト教では人間が、堕落によって罪悪となった世の中に生きているので、このようにならざるを得ないと言うのです。


 2. 悪に占領された人間と摂理歴史

 善の理念を立ててゆく絶対者、即ち神が存在するなら、その神の前に反対となるものがあるのですが、これが罪であり、鬼神であり、サタンなのです。これは人間の怨讐であると同時に、神の怨讐であると規定せざるを得ないのです。

 私たちは神があるということを主張する前に、私たちの周辺に誰がいるかを、まず知らなければなりません。私たちの周辺には神ではなく、神の怨讐である悪神が私たちを取り囲んでいるという事実を知ってこそなのです。

 人間が堕落することによって、創造主神は人間を怨讐の懐に渡したのです。であれば人間のために創られたすべての万物も、悪なる怨讐サタンに渡されたのです。本来神は私たちの心の主人であり、私たちの体の主人であり、私たちの生活の主人ですが、我々人間がしかじかの曲折によって神に背反して、神のみ旨とは反対の立場で喘いでいるのです。誰によってこのようになったのか? 神の怨讐である悪神によってこのようになったという事実を、私たちは知らねばなりません。

 人間には体があり心があります。さらには心情があります。心情と心と体をもって世界に出てゆくとき、事情が絡みつく生活舞台を離れてなすことはできません。今日私たちが感じ、見て触り、食べて暮らしているこの世の中は誰が占領しているか? 神が主管しているのではなく、神の怨讐サタンが占領しているのです。

 ですから神は怨讐サタンが主管している世を取り戻し、本然の状態に回復しようとされるのです。これが復帰摂理です。回復するにはどうしなければならないか? 怨讐を降伏させなければ、回復することができません。これから天上と地上に大きな闘いが起きるのですが、この闘いは神が怨讐、即ち鬼神サタンを屈伏させるために起こる闘いなのです。これが最も大きな闘のです。

 歴史路程において人間は部分々々、即ち地域なら地域、宗族なら宗族同士が闘ってきたのです。神はこのような闘いを解決するために、人間を善なる側に率いてきたのです。悪なる側に引かれたならまた引っ張って、個人から世界にまで率いて来たのです。ある時は悪の側が勝ったようですが、結局は善の側へと歴史を率いておられるのです。

 今私たちは、大怨讐を知らねばなりません。どんな怨讐が大怨讐か? 歯をむいて報復するぞという、個人の怨讐は何ほどもありません。怨讐の中の大怨讐が誰でしょう? 神の創造の偉業を成そうとするこの世界を破綻させるサタン、鬼神、悪神が正に私たちの大怨讐なのです。彼は全被造世界の怨讐であると同時に、我々人類の怨讐なのです。この怨讐を打つための路程において、人間はこの闘いの材料に使われてきているのです。

 闘いはすでに起こっているのです。皆さんが平安に眠っている夜にも、善の神様は怨讐を撃退するために闘っておられるのです。昼も夜も闘っておられるのです。

 皆さんは怨讐を打たなければなりません。こんな怨讐が我々の前に命を狙い、理念を破綻させ、歴史的な行路を汚し、我々を悪の罠へと追い込む動きが地上に起こっているのです。ですからある事件が起これば、この事件を中心に右側が生じ、左側が生じるのです。左翼があれば右翼があるのです。前後があり上下があるのです。

 サタンが占領している所は、天地の全体です。この地はサタンが占領している場、怨讐が占領している場なのです。本来人間は怨讐に占領されて生きるようにはなっていないのですが、主人の教えを違えたことによって、主人の命令を違えたら死ぬというその道を行って、怨讐の捕虜になったのです。捕虜ですよ。このような宗族として繁殖していったのが、今日の人類なのです。天地に大怨讐があるのであり、これは歴史的な怨讐であり、この時代的な怨讐なのです。また未来の怨讐でもあるのです。これは人類の怨讐であると同時に、万物の怨讐であり、神の怨讐なのです。


 3. 善と悪の作戦本部になる人間の心と体

 歴史的な戦争、あるいは天宙的な闘争時期が来るとして、その時に先頭に立ってサタンを撲滅させる、屈伏させることのできる義の精兵がいるなら、彼はきっと天の息子・娘に間違いないのです。

 宗教や善というものの目的が何でしょうか? 平安に楽に暮らすことではありません。他人が羨むほどに、地で良い暮らしをすることではなく、自分を越えて後孫にまで侵犯して蹂躪する怨讐サタンを撃滅して、地球上から追い出すことです。これが我々人間の目的であり、神の目的であり、全被造世界の目的なのです。また、これが今まで闘ってきた目的なのです。

 皆さんの体は、皆さんのものではありません。皆さんが食べるごはんも、皆さんのものではありません。ごはんを食べて動じている皆さんの肉体も、皆さんのものではないというのです。皆さんのものではありません。では誰のものか? 悪魔のものです。

 それで神が人間を支配しているこの悪魔を撲滅させるための、基地として立ておかれたものが何かというと良心なのです。良心は時間性を越え、皆さんと闘争しているのです。この社会と闘争しているのです。過去の歴史路程においても闘争してきており、今日この時代にも闘争しているのであり、明日の歴史路程においても闘争しなければならない一線の将兵が、正に皆さんの良心なのです。

 私一個体には天の作戦本部もあり、サタンの作戦本部もあるのです。私たちの良心を根拠としているものが天であり、体を根拠としているものがサタンなのです。この良心と体が闘っているのです。それで人間は大声をあげて闘い、倒れては起き上がり、誓ってはまた崩れ、決心してはまた無力な生活を反復しているのです。ここにおいて体を打って、立ち上がれないでいる良心の権限を回復することが、神様が願う最高の目的なのです。

 宗教的な言い方をすれば、私たちの心は天国に連なっていて、私たちの体は地獄に連なっているというのです。心を治める神が善神であり、体を治める神が悪神なのです。

 なぜ、このようになったのか? 皆さん、一匹の昆虫を見ても相対的な関係で対するときは衝突がないのです。ところが、なぜこのようになったのか? 神が誤って創って、こうなったのではありません。元来は人間の心と体が相対的に無限に授け受け、授け受け、また授け受けするように創られたのです。であるにもかかわらず、与えようとしても受けずに互いに争ってばかりいるのは、堕落の報応なのです。

 この争いを誰が整備しなければならないか? 誰が責任を負わなければならないか?

 天と人間が合同作戦をして整備しない限り、信仰の目的を達成することはできません。理念や理想といっても、この目的を達成できないのです。それゆえ今日人間は’良心的に生きよ’’善を指向せよ’と主張しているのです。そうではありませんか?

 この地がサタンの占領圏内にあるので、数多くの民族に分かれたのです。民族と民族間の風習が違い、伝統が異なるのです。この社会はサタンが主管しており、サタンを中心とする伝統と風習が植えつけられているのです。ですからこのサタンどもを、撲滅しなければなりません。


 4. 人間の良心と神の摂理

 そのために天は時代々々ごとに、人間が新しい良心の衝撃を受けるように役事され、彼らの心と理念を開拓され、革命を通してサタンの勢力を打ち崩してきたのです。ですから今まで、どれほど苦労されたことでしょうか? 私たちが見ることも知ることもない歴史路程において、神は闘ってこられたのです。

 人間が地上でどんなに善のために叫んだとしても、百年以上も続けることはできませんが、神は善の世界を成すときまで、怨讐に対して闘いを継続しなければならないのです。しかし神は今まで、怨讐のまえに天の側の精兵を立て、行進命令、出動命令をしてみたことがないのです。今までの歴史路程において、神は新しい理念を立て、人間の心を動かして悪の世の中を征服する精兵を集めてこられたのです。これが今までの歴史です。

 それでは、神の怨讐に仇を打つ軍隊があるかというとき、未だにそんな軍隊がないのです。善なる精兵が集め、この善の精兵との合同作戦によって怨讐である悪魔、サタンを捕らえて底無し穴に追い落とすことが神の目的なのです。

 私たちはちょっと次元を高めて、考えてみなければなりません。今日普通の人々は日常生活的な感情を通して自分と対立する者、あるいは何代かの先祖から何らの衝突があり、怨恨を結んでいる者を怨讐と思っているのです。しかしそれよりさらに大きな怨讐があるのです。だからこの怨讐を打つまでは、どんな怨讐にも仇を返すなというのです。こんな個人的な怨讐は問題ではありません。個人的な怨讐に仇を返す善なる人が、犠牲にされたのです。ですから耐えることです。

 キリスト教では神のみ旨に従い愛を強調して、怨讐のために祈りなさいと言いながら、なぜ終わりの日に審判するという命題を立てるのか? これは怨讐サタンのために祈祷するということではないのです。人間のために祈祷しなさいということです。人間を堕落させた張本人であるサタンのために祈祷しなさいということではなく、この怨讐に籠絡されて悔しい人間のために、祈祷せよということです。でなければ何のために審判という名詞を立てたのか?

 神は公義の審判主です。全世界の天の側の善なる精兵たちは一つになり、神の出動命令に従ってこの悪なる世を打ち、サタンを生け捕らなければなりません。その時まで、各自が準備をしなければなりません。神様はその日を迎えるために、六千年という歴史を率いてこられ、未だにその一日を迎えていないことを、皆さんは知らねばなりません。


 5. 本来の良心基準をもったなら

 人間とは、心と体が離れては存在することができません。私たちの体と心を分析して見るとき、私たちの心が絶対的に天の側に立っているか? 違います。私たちの心はある思想的な、あるいは理念的な環境に左右されるのです。

 それでは人間が堕落することによって、まず侵犯を受けたところがどこか? まず侵犯を受けたところは体ではなく、心なのです。自分の心において今まで作用している良心の基準は、アダムとエバが堕落する前の基準なのです。本来の善なる人間、完成した人間が持つべき良心基準ではありません。これが正しいのか、あれが正しいのか判決をつけることができない良心基準なのです。堕落する前の未完成のアダムとエバの良心基準が、今日世界人類の良心と連結されているのです。そうなっているのです。

 もしも堕落しなかったなら、この良心基準がどこまで上がったでしょうか? 神について解明する必要がない基準まで上がったのです。神が私たちの主人であることを、自動的に感じる基準まで上がったのです。このような良心基準が完結したら、この良心という種から生まれべきものが何でしょう? それは心情です。愛という言葉です。人間がこのような基準を持ったなら、神の愛を中心に満宇宙を支配するのです。

 愛は時間性を超越するのです。空間性を超越するのです。ですから良心作用も、心情に従って動くのです。

 ところが人間が堕落することによって、どんな事が起こったのか? 本来、神の立てられた良心の基準、即ち堕落することなく完成したアダムとエバの良心基準を持てなくなったのです。堕落することなく完成したアダムとエバの心情を、人間が持てなくなったのです。もしも神の創造計画どおりアダムとエバが完成して、完成した心情を持つなら、神を忘れるでしょうか? 忘れはしないのです。天使が誰であり、万物が何であるかを知ったのです。

 人間は万物の霊長として、心情においても心においても体においても、いかなる不足もなく絶対的な愛の心情と連結されて、絶対者を代身するのに不足がないように創られていたのです。ところが堕落することによって、人間の心の基準は堕落したアダム、堕落したエバの心の基準から出発したのです。ですから皆さんの心では、神があるのかないのか分からないのです。アダムとエバも神が現れて取って食べてはならないと命令されたので、そのとおりに信じてきたのですが、神が現れないので自分たちが勝手に行動して堕落したのです。

 私たちの心が体を屈伏させられない原因は、どこにあるのか? 心の基準がサタンに組み敷かれているからです。ですから今日地上に生きている人間たちの心が、体の支配を受けているのです。しかしアダムから本性的に残っている良心基準が、天に向かい、天倫に向かって動いている方向性を失っていないので、これを貫いてきたのです。過去を悔いる瞬間に爆発するのです。’アイゴ-、これでは駄目だ’というとき、爆発するのです。このように隙間があれば爆発してくる心の作用を、皆さんは今まで人生路程において、あるいは時間々々の生活過程において、無数に蹂躪したのです。ですからサタンの僕、サタンの息子・娘だというのです。

 もしもこの地上に神のみ旨が完全に成り、私たちの良心が神の創造理念によってさっと充たされる日には、この体のようなものは問題ではないのです。肉体が問題ではないというのです。ところが良心基準が神が立てられた基準ほどになっていないときに堕落して、サタンに組み敷かれてしまったので、今日人間はこの原則の基準まで上がっていないのです。


 6. 本然の良心基準を立てる日には

 サタンは死亡の障壁を立てているのです。その下に組み敷かれているのが、我々の体です。神のまえに怨讐となったサタンは、本来は天使長です。神が主体であれば、天使長は霊的な対象です。心は天を象徴し、体はその対象を象徴しているので、サタンは人間の体を足場にして活動しているのです。それでどの宗教も、体を打つのです。ある国家やある主義を征服することが宗教の目的ではなく、体を征服することが宗教の目的なのです。こうして本然の良心基準に帰ろうとするのです。体が要求するすべての条件を無視して、心の門を開いてアダムとエバが堕落しないで上がるべき良心基準に帰ってくるとき、初めてここに平和が始まるのです。

 キリスト教の使命が何でしょうか? イエスは語ったのです、天国はわが心にあると。サタンを屈伏させて、安息所を造らなければ地獄です。天国に行くでしょうか? そんな妄想は捨てることです。分かってみれば、信じたという条件だけでは天国に行けないのです。信仰の力をもって天と敵対しているサタン、即ちこの体に克つ勝利者になっているかどうかが問題です。これのみを通過すれば、地獄に行きません。絶対に行かないのです。今日人間が修養だ道徳だといっていますが、それではこの基準に及ばないのです。だからといって人間が、手を挙げて降伏するのですか? 降伏することはできません。なぜ?

 神がおられるからです。神がおられるならどのようにしてでも道を貫かねばなりません。これを知らねばなりません。

 堕落人間は、世の中に対する欲心の他にはありません。地のみを主管しようとするのです。しかし本来人間は、地だけを主管するように創られてはいないのです。霊界まで主管するように創られました。ところが人間はこれを覚えていないのです。人間を主管する天があるのですが、天の命令を通して直接的に主管することができる橋がないのです。人類の始祖がこれを断ち切ってしまったからです。ところが後孫の中にも、これを連結させる人間が一人もいないのです。本部には作戦参謀部があって、すべての計画をしているのですが、その計画を連絡する電話線が切れているのと同じです。これを知らねばなりせん。 これを引き継ぐ日には、良心のあいている場を充たす力が出てくるのです。神の生命力が流れ込んでくるのです。即ち、堕落しないで完成した本然の良心基準を立てる日には、体は問題ないというのです。肉体の征服は問題ないのです。のみならず、そんな心の基準を立てて、神が知らないとはされない心情の因縁を持たねばなりません。

 これが神と人間を父子として因縁づけることなのです。神は父であり、人間は息子という因縁を結ぶことが、最も重要なのです。今日の人間の中で、こんな因縁を結ぶ人がいますか? 一人もいません。

 皆さんが今、見て聞いて感じるすべての感情は、神から出ているものではないのです。今日我々が生きて感じるすべての感情は、良心の完成基準で神の心情と連絡して出てくるものではありません。ではないということです。違うのです。ではどこから出てくるものか? 悪神から出てくるものです。悪神が私たちの心を占領しているのです。悪神の血筋が我々の心と、体の細胞にまで連結されているのです。これを知らねばなりません。

 怨讐が天にいるのであれば、皆さんの血と肉が怨讐サタンの要素なのです。血と肉が怨讐です。怨讐の血が体に入ってきているのです。これを考えるとき、体に鳥肌が立つのを感じなければなりません。このしわのかたまり、この細胞に大怨讐の血が流れているのです。皆さんの血と肉に、怨讐の根がのびているのです。今まではこのような事実を知らなかったのです。それで人間たちはこんな、しわのかたまりを大事に養っているのです。

 そんな内容がありますから、宗教はこの怨讐を捕らえようとするのです。イエスは怨讐は自分の家の中にあると言いました。人間の体を聖殿としているでしょう? この体は聖殿ですから、つまり家です。家の中に怨讐がいるというのですから、体がつまり怨讐になるのです。だからこの体を征服しなければ、神の創造理念を完遂することができません。 それではどんな方法によって、怨讐を征服するのでしょうか? これを知らねばなりません。ある怨讐がいるなら、彼がどのようにして怨讐になったのか、この事情を知らなかったら、彼を征服することはできません。だから知らなければなりません。アダムとエバからどのようにして体が怨讐になり、怨讐サタンが我々の先祖たちを、どのようにして籠絡し、またイエスをどのようにし、自分をどのようにしているかを知らねばなりません。歴史的な怨讐を知らなければなりません。歴史的な怨讐として行動したことを、知らねばなりません。

 またこの時代の怨讐が自分を侵犯し、自分を籠絡していることを知らねばなりません。わが命を未来にまで永遠のように、僕にしようとする怨讐であることを知らねばなりません。このような怨讐どもの世界が、地獄なのです。怨讐の奴を知らねばなりません。怨讐を知らずに、怨讐を屈伏させることはできません。まず天上と地上に根づけられた怨讐に対する神の怨恨があるということを知らねばなりません。怨讐に対する神の怨恨が、誰のゆえに生じたのか? 地の上の人間たちのためです。地上に生きているこの群れのためなのです。


 7. 人間が最後の安息所とする所

 人間は本来、どのような群れであったのでしょう? 神の懐で秘蔵っ子として愛を受ける群れなのです。神の血を受け、神の骨の骨であり、肉の中の肉であり、細胞の中の細胞として、神の愛を受ける人間であったのです。

 神が原則を立てておいて満宇宙を創造されたので、この基準を無視する日には、全被造物がみな壊れるのです。これを無視することはできません。人間はこのような基準を中心に、互いに愛し合って暮らすべきなのに、堕落することによってこの基準を放りだし、右手に神を握り、左手に地をつかんでいるのです。こんな人間を率いて、接ぎ木という事をされるのです。これが救援摂理なのです。

 堕落が何でしょうか? 神との心情的な因縁に背反したことです。神が願われる良心の基準を完成しないで、背反したことが堕落です。神の理念を立てることなく、背反したことが堕落ということです。焦点は、神の心情基準を失ったことです。

 それゆえ神は、人間に訪れて来られるのです。訪れて来られるときは’あなたたちの体を愛しなさい。ある学問や知識を愛しなさい’とはされないのです。’神の愛を求めよ’とされるのです。’神の愛を求めよ’とされるでしょう。これが今まで、神様が修道の道を立ててこられた基準なのです。

 このような曲折を知らず、サタンがどのように神のまえに怨讐になったのか、我々の先祖がどんな罪を犯し、神から追い立てられたかを知らないで、どうして怨讐を征服することができるでしょうか? どうして怨讐に対する恨を解くことができるでしょうか? 結ばれたなら、解かなければなりません。結んだものを解くには、反対の方向に通して行くのです。怨讐たちが出て行かなくとも、貫いて行くのです。怨讐の障壁を貫いて行くためのことが、今までの人類歴史なのです。

 人間はこれから世界が、一つの世界になるべきことを知り、その道を捜し求めて行っているのですが、良心と心情が統一されなければならないことは、知らないのです。これをどのように連結させなければならないか? 歴史的な思潮を見るとき、人間は一つの世界に向かっているのですが、神が願われる本然の良心と、その良心に吹き込まれようとする本然の心情を知らないのです。

 ですからこれを外的に、環境的に、事情的に収拾してゆくものが思想であり、主義なのです。思想や主義は、良心的な感興を起こさせるものです。ところがこの目的が地にあったならば、これはサタンです。

 天を通して人間の良心を爆発させ、環境に革命を起こす運動が、この時代に出てこなければならないのです。この一面をもって出たものが、今日の左翼です。唯物史観です。これはこの地上で、ある程度まで勢いを得るのです。しかし天上の因縁を中心とする主義のまえには、手を挙げなければなりません。

 人間が最後の安息所とする所は、どのような所か? 心が平安だから幸福だとはしないのです。心の中で、心情の安息所を開拓しなければなりません。ちょっと難しい話です。心が平安な環境を持ち、自分の思い通りに世の中を主管することができる基準を持ったとしても、その心に核心がなければ駄目です。その核心は、心情です。この心情を充たしてこそ、これが万事の動機となり、調和を成すものなのです。

 父母が良いわけは何でしょうか? 父母の心と自分の心が同じだからです。心情が一つだからです。離れようにも離れず、環境を越え、時代を越える内容があるから良いというのです。


 8. 天国に行ける条件

 このような時におかれている私たち、心情を失い、良心の中心をつかむことができず、生活の目標を失った体をもつ私たちは、どうすべきか? いっぺんには駄目です。悪なるものを取り除かなければなりません。取り除くのです。善なる世界に最も近づいている時には良心が問題になるのであって、肉体は問題ではないのです。

 ですから宗教においては体を打つのです。ごはんを食べることが何か! 怨讐の腹に勝たねばなりません。肉体を平安にすることは、サタンを安息させることです。この肉体に対して、敵愾心を持たねばなりません。怨讐であるこの体に対して報復する自信のある者であってこそ、そんな自信を持って勝利する者であってこそ、天の精兵になることができるのです。出発基準が成っていなければなりません。大きな善の理念を中心に、体の情欲や食欲など、欲望の一切を自由自在に主管することができる男や女にならない限り、天が立てることができないのです。

 宗教でいう終わりの日になると、どのような現象が起こるのか? 誰の命令を受けなくとも、世の万象をみな捨てる場に入るのです。今まで息子だ妻子だ、何だかんだといっていたすべてのもの、全部が夢のようです。こんな心情的な革命が起こらない限り、天国の民にはなれないのです。アイゴ-、わたしの愛する息子・娘、アイゴ-、わたしの愛する夫や妻、アイゴ-、わたしの愛するお母さんお父さん、等々のものがどこから出発しているのか? サタンを根拠として、因縁をもってきたものなのです。

 大審判が何でしょうか? サタン世界の舞台を汲み取ってゆくことです。サタン世界との心情の因縁を、断ち切ってしまうことです。それで歴史は、父母と子が背反する思潮へと流れてゆくのです。どんなに抱いて座っていても、分かれて立つのです。兄弟と兄弟が争い、夫婦が争うようになるのです。そのようになるのです。それで終わるのではなく、新しい場を立てなければなりません。天の心情を再び接ぎ木してあげる、そんな事をするのです。

 イエスはこの地の上に来て’誰よりもわたしを愛しなさい’とされたのです。果たしてメシアです。こんな原則的な観によって見るとき、果たしてイエスはメシアなのです。愛の救い主です、愛の救い主。有難いことです。歴史路程において、このような叫びがなかったなら、今日私たちは生きる意味を求めることができません。有難いことです。神を父と呼び、この世の父母を捨てるなら、天の父母を与えるというのです。天の父母を与えることです。皆さんを産んでくれた父母が、本当の父母でしょうか? 私を創り、生命までも吹き込んでくれた父母が、本当の父母です。愛する肉身の父母の代わりに、天の父母を与えるというのです。であれば世の中のものと合同作戦をしては駄目です。この世のことは怨讐です。怨讐! 怨讐だというのです。

 ですからイエスが福音を叫んでゆくとき’誰よりもわたしを愛しなさい’とされたのです。’父、母、あるいは妻や子や姑、その誰よりもわたしを愛しなさい’としたのです。果たしてメシアです。聖書六六巻のすべてが必要ではありません。自分の子よりもさらに神を愛してこそ成るのです。

 どのようにすれば天国に行けるのか? 天国に行くことができる条件とは何か? 自分の息子・娘よりも神をより愛すること。夫や妻よりも主をより愛すること。自分の体よりも聖霊をより愛すること。これが三位一体です。

 心は体の新郎であり、心情は心の新郎であり、神は私たちの心情の主人であるのです。またイエスは新郎です。聖霊は新婦です。それで心的な型がイエスであり、体的な型が聖霊です。天地を代身して、心情の神を代身して、心的な型であるイエスと、体的な型である聖霊が役事するのです。ですからイエスは心の世界を求める中心なのです。新郎です。私たちが心から慕うものが何でしょう? 新郎です。新郎! 私たちが生じてより、初めであり終わりである革命を提示するために来られたお方が、イエス様です。これを知らねばなりません。


 9. 怨讐に仇を返すには

 このような見地から見るときキリスト教徒、終わりの日に神の前に立つべきキリスト教徒が’神様、私の息子某を連れて来ました。また、誰を連れて来ました’ということは通じないのです。それらはすべてサタンを根拠として出発したので、彼らが愛する一切に神は対することができないのです。サタンが好む舞台から出発したので、怨讐なのです。怨讐! これを考えるときにこれが分かれるのです。今日、歴史の終末まできたのですが、未だに心情の革命を主唱していません。部分的にしてきました。キリスト教から部分的にしてきたのです。イエスを信じる人々は家庭の世話もしないで歩き回っているでしょう?イエスに狂っているというのです。そうでなければです。そうでなければ。

 修道の道は、独身生活をするのです。女は女で独身生活をし、男は男で独身生活をするのです。このようにして、まずもって充たすべきものが何か? 心です。心を充たし、天情と因縁を結んだ後に、世の中を見渡さなければなりません。この曲折の動機を解くまでは、神の怨讐に仇を打つことはできません。怨讐は永遠に残ってしまうのです。よくよく知らなければなりません。これは嘘話ではありません。事実です、事実。それでイエスは母親であるマリアに’婦人よ、あなたとわたしは何の関係がありますか?’と言ったのです。この世的な血肉の因縁をもって、対することができないのです。当然です。当然の話ですよ。天を愛さなければならないイスラエル民族、天のみ旨を受けるべきユダヤ教徒は自分の息子・娘よりも、神をより愛したという認定を受けなければなりせん。

 サタンの世で持っていた残り物を、神が受け取られるでしょうか? 受け取られないのです。怨讐の手の触れた物を受け取られるでしょうか?

 皆さんは知らねばなりません。この体には毒素があるのです。悪の目的を果たそうとするサタンの血肉が、染み込んでいることを知らねばなりません。この目、この体、この耳このすべてがサタンの行楽と、サタンの理念を立ててゆく通路なのです。それで仏教ではこの世の中を遠ざけ、山中に入るのです。しかしそのようにしては駄目なのです。悪と闘って勝利しなければならないのに、闘いもしないのです。キリスト教は世の中にあって、悪と闘って勝とうとします。それゆえこの世的なものと闘い、勝ったとする群れが出てこなければなりません。

 怨讐の中の最大の怨讐が、どんな怨讐でしょう? 事業上の怨讐ではありません。最も大きな怨讐は、愛する夫や妻を奪う人間です。これ以上に大きな怨讐はありません。皆さんも知っているでしょうが、本来こんな曲折が起こったのです。こんな先祖からの血肉を受け継いだ我々は、体に対する愛着心を全部捨てなければなりません。飢えてみなければなりません。修道の道は飢える道です。この体が疲労して倒れるまで、労働の場で一途にやってみるのです。むやみと打つのです。

 こんな場に出る人間は、父母が来て’やあ、某よ’といっても堂々と越えてゆかなければなりません。愛する妻が過去の因縁を押し立ててきても、断然つらぬいて行くのです。世の中のどんな欲望や、周囲の因縁が襲いかかってきても、貫いて行かなければなりません。であれば神が’おお 、おまえはわが愛する息子だ’とされて再び送られるのです。おまえたちの息子・娘を救い、父母を救い、妻を捜してゆくように再び送られるのです。このようにならなければなりません。

 イエス様はこのような使命を果たすために地上に来られ、弟子を立てようとされたのですが、そんな弟子を持てなかったのです。今日まで数千年の間、信じるという信仰者たちは世界的に数え切れないほど多いのですが、このような信者はいなかったのです。

 今日統一理念をもってゆく私たちは、何をしなければならないか? 心情的な因縁を回復しなければなりません。目的はこれです。よく食べ楽に生きることは問題ではありません。乞食のじいさんの服を着ても、顔がくしゃくしゃになっても、どのようになったとしても神が’おお わが息子よ、わが息子よ’とされるとき’アボジ!’と駆け寄って慟哭することができなければなりません。こんな心情が皆さんにあるでしょうか?


 10. サタン世界で勝利する秘訣

 今日人間は父が父なのか、誰が誰なのか分からないのです。何も知らない天地で生きているのです。父を失って見ていないので、その父がこうだと説明してくれる人が出てこなければなりません。父がこれこれだと説明できる内容を持って来る人が、真の牧者です。その姿を望み見るとき、自分もどうすることもできず、自分の心が慕い引かれる血筋の因縁を感じる指導者に出会わなければなりません。皆さん、イエスがこの地上の人間のまえに真の父として来たのですが、そんな因縁を感じる人間がいなかったのです。

 それではサタン世界で勝利する秘訣は何でしょうか? 神が私の父であるという事実を解明して、神も涙を流される場まで行くことです。そんな者が、神の息子・娘なのです。神のまえに出て’あなたは歴史路程において数多くの怨讐のまえに籠絡され、苦喪を綴ってこられても、私たちを息子とし娘とするために、血の涙の歴史路程を意に介さず、この時まで耐えてこられた私たちの真のアボジです。あなたの心情はこうであり、あなたの心はこうであり、あなたの体はこのようであることを知りました’とすることができなければなりません。

 であれば神様は、大声で慟哭されるのです。神の威信を捨て、神の宝座を考えず、大声で慟哭されるのです。その姿がみすぼらしく、堕落世界ではよれよれの形無しの姿であったとしても、神が威信を捨てて慟哭されるようにできる者であってこそ、神の息子・娘となるのです。

 人間は多くの欲心を持っています。私が望むことはそれではありません。皆さんを悪口を言われる場に追い込んでも、死ぬ恨があったとしても、天の息子・娘となることができる因縁を結ぶ場に立てたいのです。ここに入ってみ言を聞けば、即ち神がこうだということを見せてあげたく解明してあげるみ言を聞けば、神を抱えざるを得ない染みる心がわき起こるのです。そんな感じがわき起こってこなければ、この運動は世界的な運動ではありません。行っても壊れてしまうのです。

 統一教会を信じてここに来た皆さん! 願わくば皆さんは、このような人間にならなければなりません。そんな人間になっていますか? こんな運動が自分一個を中心に、起こらなければなりません。真の良心を中心に真の道を捜してさまよう人間に、神を解明してあげればわれ知らずに包みこまれて元に帰るのです。帰ることができるのは天的な内容、本然の良心の力です。今皆さんがもっている良心ではなく、本然の良心の力です。この本然の良心の力と、本然の心情が爆発してくる感じを、信仰路程において求められないならば、天国には行けません。神の息子・娘として、立てないのです。


 11. 怨讐に仇を返す方法

 神の怨讐を打つときは、槍で突いて打つことではありません。どのようにして仇を返すのでしょうか? 絶対者たる神のまえに、サタンを解明しなければなりません。’神様、こうこうでこうではありませんか?’とするとき神が’おう、おう’とされなければなりません。丸ごと讒訴して、サタンを放り捨てるのです。サタンは心情の盗賊です。

 それではサタンが、どうして神の大怨讐になったのでしょうか? 人類を奪っていったその日から大怨讐になったのですが、怨讐になった内容が何でしょうか? 神様が創造理念によって永遠に因縁を結ぼうとされた、天的な愛の因縁を奪ったことです。だから大怨讐です。大怨讐ですよ。今この事実を、私たちは知りました。

 サタンの役事は自分の体から起こるのです。だから自分の体を征服しなければなりません。これを考えますとき、飢えてぼろをまとい、悪口を言われることが問題ではありません。鉄窓に閉じこめられることが問題ではありません。

 死ぬ前に怨讐を打たねばなりません。皆さん、死ぬ前に仇を返さねばなりません。怨讐に仇を返して死ぬのです。真の父母の怨讐、真の新郎・新婦の怨讐、真の子女の怨讐が天と地に残っているのであって、この怨讐を撲滅させる責任がキリスト教にはあるのです。 怨讐を撲滅させるには、神の心情を誘発させなければなりません。神の心情を誘発しようとすれば、神の事情の内を知らなければなりません。分からなかったので、知らなければなりません。

 アダムとエバを創られてあれほど喜ばれた神様なのに、アダムとエバが堕落したときには、あれほど悲しまれた神様であったことを知らねばなりません。アベルとカインを中心に闘った神様、ノアを中心に闘った神様、アブラハム、モ-セ、イエスを中心に数千年間闘って来られた神様であった事実を、知らねばなりません。

 そんなお父様であることを知るとき、心情が溢れでるのです。衝撃を受けなければなりません。心に深く衝撃を受けなければなりません。世の中のどんな説教者、どんな師の言葉にも受けたことのない感動を覚えなければなりません。歴史的に、時代的に、未来的に心情の因縁を証してこそ、生きることができるのです。神の大怨讐の仇を打たねばなりません。この地は善なる人々が血を流した地です。怨讐のゆえに血を流した地なのです。

 神を代身して皆さんを押し立てた、神の心は凄まじいのです。人間がどうしてこんな道を経て、天に背反した報いを蕩減しなければならないのか? 曲折がこのようになったので、これを解くには反対の道を行かなければならないのです。

 皆さん、アボジが恋しくて何度か慟哭したことがありますか? 失ったアボジが泣き叫んでおられるのを捜して、足が折れても意に介さず、山にでも入って喘いでみましたか?アボジが私を慕って慟哭される場があるなら、そこはどこでしょうか? そこを捜し求めて、さまよってみましたか?

 今日私たちは全世界のまえに、全天宙のまえに、絶対的な内容を主張して出るとするなら、知ることが何でしょうか? 神は私の父であるということ、父の心情がどうかということを知ったのです。ですから今’お父様は孝子孝女の姿を望み見て、笑い喜ばれるために人間を創られたのに、悲しみが何としたことでしょうか? サタンが何としたことでしょうか? 曲折が何としたことでしょうか? これらのすべてが、息子・娘になれなかった私たちの罪です’と慟哭する群れにならなければなりません。であれば帰ってくるのです。であれば帰るのです。であれば新しくなるのです。

 私たちはすべて失ったのです。持っているものは何にもありません。私自身も持っているものはありません。私は名誉も願いません。皆さんの師となることも願わないのです。ただ、倒れるその瞬間に’自分が生きている間、アボジを代身してあれをもう少しやっていれば・・・という後悔を残さない場で、死なせてください’と祈祷するのみです。

 寂しい群れを前に立てるとき、天は苦しいのです。心において、心情において、抑えることができない何かが、わき起こってくるのです。私たちは世の中の因縁をはね退け、天情によって背を向けたのです。背を向けた歩みですから、落胆の姿で行くのではなく、力づよく行かなければなりません。

 天は何千年も待っておられるのです。今も待っておられるのです。私たちが死亡の谷間を通り過ぎても、待っておられるのです。皆さんが喘いでゆく時ごとに、天は待っておられるのです。この場で叫んでいる人間が、よく知っているのです。終わりであり最後であることを知るものですが、お終いではないのです。絶望したら倒れるのですが、天があることを知っております。

 今皆さんは真の父母を抱いて慟哭する群れ、真の父母を求めて喘ぐアボジの手を握り、慟哭する群れにならねばなりません。そうして真の父母の前に立てられた真の子女となると同時に、真なる兄弟を慕う皆さんにならねばなりません。これが皆さんが持つべき内容です。

 人間は縦的に父母である神を慕い、その神のまえに必ず孝誠の道を立てなければなりません。しかし、堕落の恨を解くことができない私たちです。孝子が何でしょうか? 蕩児のたとえを、皆さんは知っていますか? 涙をのんで蕩児を待っている父と同じ心で、帰ってくる蕩児の前に駆けよる兄弟がいるなら、父は彼に全体の遺業を残すのです。


 12. 神の大怨讐を撲滅させる一つの道

 今日私たちは知りました。この世の蕩児たちも、一つの血肉の親族であることを知りました。歴史は流れても、その心情においては死亡の息子・娘を忘れることなく、六千年の曲折を経ても彼らを捨ておかれないお父様です。アボジの心情と恨が彼らに残っているのです。

 天に対しようとするとき、溢れる心情に涙が先立つ父母の心情を、皆さんは持たねばなりません。このような心情に燃えてください。真夏の暑さに荷を背負って行く人がいたなら、彼を抱いて慟哭して父の心情、母の心情を感じてみなさい。彼が苦労するのは自分のためだから、自分が荷を背負うとしてごらんなさい。行く道を遮り、兄弟よ! 行く道が残っているならどこへ行くのかと、切ない心情をもって慟哭してごらんなさい。そんな皆さんになったなら、皆さんが行く道には天が共にいてくださるのです。

 ここで語る人間にも同伴者がいません。寂しこを歩んできました。恨み多く憤り、痛憤する事実が胸に一杯つまっているのです。しかし天の苦労に比すべくもなく、六千年の間恨を抱いて来られた神のまえに立つべくもない自分であることを感じるのです。しかし責任を担うに不足であることを感じて痛嘆するごとに、天が私を抱いてくださり、励ましてくださることを、また私は知るのです。他人が逃げだす場において、訪ねてくださる神を迎え、その神様がわが息子・娘であると誇ることができる息子・娘になってください。皆さん、神様はそんな場で皆さんを待ち焦がれておられることを、知らねばなりません。 イエス様が十字架で逝かれるとき、弟子たちは十字架が怖くて逃げたのです。しかし、強盗であったとしても、死んだイエスの身の上を哀れに思い、イエスの体に手でふれてみたく、触ってみたい心で一杯になるとき、その強盗は救いを受けるのです。天の血族はここから始まるのです。言葉だけではいけません。言葉の多い人間は沢山います。手段と方法は数千数万とあるのです。しかし真実の中の最高の真実は、愛の心情です。愛の心情には、手段と方法があるべくもないのです。これのみが、神の大怨讐を撲滅させる唯一の道であることを、私たちは知らねばなりません。

 神を抱き、その神の心と心情を受けてサタンと対決してゆく者がいるなら、それより優れた人も彼の前には口をつぐむのです。人間が神を知らないときには、サタンが人間を思い通りに蹂躪し、思い通りに支配することができたのですが、天上の心情を通してわき起こる内容をもって現れるとき、億万サタンが降伏するのです。ですから死んでもアボジ、生きてもアボジです。この血がサタンから受けた血であっても、この血が変わり、アボジの血で一杯になるその場を慕って駆けてゆかねばなりません。であればサタンが抜け落ちるのです。


 13. 私たちの責任

 今私たちは祈祷しなければなりません。皆さんの血肉が今、サタンに属していますか?皆さんの血が流れて肉が落ちるとき、サタンが来てアイゴ-自分の血だ、自分の肉だと叫んで抱きつく者にならないよう、祈祷しなければなりません。血を吐いて倒れるとき、お父様が抱えて泣く者にならなければなりません。

 今まで数多くの人々が、地上に来ては行ったのです。また数多くの人々がこの地上で生きています。数多くの人々が修道の道を求めているのですが、今日までこのような息子・娘を迎えなかったのです。ペテロが十字架に逆さに吊るされようと、イエスに背反した罪が引かかっているので、神も取ることができないのです。数多くの人々が刑場の露と消えたのですが、神が送った独り子に背反した罪があるので、その死を蕩減条件として認めるとしても、神のために善の血肉をふりまいて死んだとは認定することができないのです。 皆さん、三千万民族が行く道が分からずに喘いでいるのです。ですから飢えているこの民族のまえに、指導者にならなければなりません。死亡の世界において血と汗を流し、哀願する民族のまえに、鉄の杖をもって死亡の鉄条網を断ち切ってゆき’同志よ、兄弟よ、私がここにいるぞ’と叫ばなければなりません。

 そうして父子の因縁を立てておき、兄弟の因縁を立て、宗族と民族を形成して天の民として登場する日、天上の主権は回復されるのであり、天上に染みる心情の怨恨は解怨されるのです。これをよくよく知らねばなりません。

 皆さん、着ている物が惜しいですか? 脱いでしまいなさい。宝物を持っていますか?虚空に放り投げてしまいなさい。

 これが天のまえに出てゆくときには、サタンの餌になるということを知らねばなりません。善のために血の涙も意に介さない彼らのまえに、一寸の土地、一枚の着物でも提供するために眠らない民族になるなら、この民族は世界を支配するのです。

 天はこのような人間を求めているのです。アボジが恋しくて目がどろどろになるほど泣き狂ったとしても、その人間は地獄に行かないのです。飢えて大勢の人に後ろ指をさされ嘲弄されて倒れたとしても、アボジを慕って倒れたなら、その場は空き地にはならないのです。

 今日私たちは、時代を創造するために行くのです。天倫の革命の路程に新しい開拓者として行くのです。ですから私たちの体には開拓の血が躍動し、開拓の肉が躍動しなければなりません。眠っているこの民族を抱いて天に向かって祈祷し、飢えるこの民族を慰安する者となるために喘がなければなりません。そのような皆さんになるなら、今日この時代に踏みつけられて追われても、この民族のまえに、人類のまえに必要なその日が、間違いなく来るのです。

 私たちはこのような群れが、慕わしいのです。私たちはこのような食口が、慕わしいのです。私たちはこのような人々を糾合するために、すべてのものを犠牲にしなければなりません。こうして父母を知らない者たちに父母を解明してあげ、兄弟の因縁を知らない者たちに今までの通説を破って、霊界と肉界の限界を越えて、真の兄弟の因縁を知らせてあげなければなりません。そうして君が飢えているなら僕は食べず、僕が食べるときは君も食べるという心情が、民族感情以上に、世界のどんな思想や主義の感情以上に強くなるなら、神の解怨歴史は自動的に起こることを、皆さんはよくよく知らねばなりません。

 私は皆さんが伝道しようとして罵倒されたと聞けば、一面では憤りもするのですが、心では喜んで祈祷するのです。なぜ? その人はその心に人間の心情ではなく、天の切ない心情と、篤い因縁を結んで帰ってきたからです。これを天のまえに誇る日があるのです。 今日私たちが新しい覚悟の下に、ある情熱をすべて注ぎ、世界人類を代身して天的な恨を一身に背負って一つの爆弾となって地獄に行ってはじけ、血を流したとしても、ここに勝利の塔を立てることができると、私は信じるのです。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.03.19 22:00:05
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