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奇   知   外   記

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2021.08.30
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​​​​​​​​​​​「神と神の国」

1975年8月11日
テリータウン


 世界が求める中心人物

 世界中で、全ての世界は、中心人物を捜し求めております。私達は、その中心人物は不変で、永遠であれかしと願っています。そればかりではなく、中心人物は正しく、善であるべきだと思っています。

 しかし、人間社会において、そのような中心人物を見い出すことはできませんし、私達が、そのような一人の中心人物をつくりだすということは不可能です。また私達は、中心人物は、私達が見習い、従っていくことができるような人間でなければならないことを知っています。しかし、私達は、そのような人物をつくりだすことができないのです。それでは、私達はどこからそのような人がくるのを待ったら良いのでしょうか。私達は、どんな人間でもそのような立場に(正しく、善で、不変で永遠なる)立つことができないことを知っています。私達はそのような人物を待たなくてはなりません。そのような人物は、私達の理想とすべき人物であり、目標とすべき人物です。私達の前に、そのようなゴールを待たなければ、私達は、神がたてられたゴールに向って、私達の道を進み行くことはできないのです。

 神への自覚から

 私達、人間は、心と体をもっております。人間の中に、そのように完全なものになることができる性質があるかどうか、自分自身を研究することによってみてみましょう。

 心をみてみましょう。人々の心に対する見方でさえ、互いに異っているのです。心を表面的にみると、常に移り変わって、人間の心を支配する、何らかの中心的力も存在していないようにみえます。私達は心がどのようなものであるかを、真に知っているでしょうか。心は、何かより良いこと、より高い価値あることがあると、それに向っていこうとします。私達の心が、このように、より高い価値あるものを捜し求めている時、一方私達の肉的部分は、常に、心がそのような価値あるものに向かっていこうとするのを止めさせようとするとのです。

 人間社会において、私達はどこに真の正義や幸福を見い出すことができるでしょうか。私達の心と体が、違った方向に行く限り、私達の心が、より価値あるものをめざしていこうとする、そのゴールに到達することはできません。私達が、その心と体を全くひとつにさせた時、私達は、その絶対的な「存在者」に近づき、神に私達自身が似た者となるのです。

 家庭という立場で考えてみましょう。あなた方が、全家族を一致させ、調和させることができた時、その家庭は、幸福な家庭と呼ぶことができるでしょう。そして、家庭、氏族、民族、国家、世界と拡大して、私達が中心的役割を演じて、全てを一致させることができた時にのみ、完全な幸福を達成できるという結論をみいだすことができるでしょう。

 移ろいいったり、変化することのない人間観、人生観がなければなりません。それは、心と体が一つにならない限り、そのような基準を見い出すことは、夢にもおよびません。そして私達は、心がより主体的な立場をとることにより、心と体の統一がなされるということを知っています。しかし、私達は、大抵、心が信じられません。そればかりでなく、私達は、心がどのようなものであるかについても知りません。無知がある限り、私達は真に何ものも信頼することができません。そして、信仰や信頼がないところでは、私達は、はっきりとした目標を見いだすことができません。

 人間の心が何であるかは、究極的な疑問です。それはどこから出発しているのでしょうか。私達自身からでしょうか、あるいは他のどこからかでしょうか。もし、それはあなた自身の内から出発しているとしたら、あなたは、それを操作できなければなりません。しかし、あなたが自分の心を操作できないということを見い出した時、あなたはそれが他のところから出発していることを悟らなければなりません。そして、それは人間を越えた次元のものであります。より高い次元のそのものが、私達の心を操作し、そうして、心を通して体を操作していることがわかってくるにつれて、私達は、遂にゴールを見つけ、私達の方向を見い出すことができます。

 自己の高揚

 それでは、どのようにして私達は、そのゴールに達することができるでしょうか。人間社会においては、人類の堕落の故に、宗教を通してのみ私達は、そのようなゴールを見い出し、最終的あるいは究極的な実存体と親しくなれるのです。もし、あなたが確かちそのような何ものかを見い出したとすれば、あなたのうちに働いている肉的五感とは別な五感があることを感じるに違いありませんん。そうして、それは、個人的な経験となってゆくのです。このような感覚はあなたが肉的五感をつかって感びじ、見、行動するようより以上に強いものであり、それは自分自身で感じなければならないものなのです。

 以前、あなた達は美味しい食物を食べたり、すばらしい絵をみたり、音楽などを聞いたりしたならば、それより以下のものを食べたり、見たり、聞いたりはしたくないものです。人間の良心においても同じことが言えます。あなた達は、いつものレベルよりも高い次元へと向かって、求めていこうとするでしょう。あなたが、今喜んでいるより少しでも高い目標を、獲得あるいは達成したら、求次の瞬間には、さらに高いレベルの目標を、たてたいと思うようになるでしょう。人間の良心においても同じことが言えます。あなた達は、いつも自分のレベルよりも高い次元へと向かって、求めていこうとするでしょう。あなたが、今喜んでいるより少しでも高い目標を、獲得あるいは達成したら、次の瞬間には、さらに高いレベルの目標を、たてたいと思うようになるでしょう。

 すべての人間は、例外なくそのゴールに到着しようと努力します。それで、そのゴールに向い、もがき続けているうちに、霊的な面に注目をするようになります。その名前は、何であっても構わないのですが、その存在を神と呼ぶ時、私達の心は、いつもその存在と何らかの関係を持とうとします。しかし、私達の心のレベルと、究極的実体のレベルとは、はっきりとした隔たりがあることがわかります。私達の心と神との間には、どれだけ深く、広く、長い距離があることでしょうか。

 私達は、そのギャップを埋める努力を、あるいは心を神に近づける努力をしなければなりません。つまり自分自身を教育し、訓練し、修練しなければなりません。全てのことは、心から出発しなければなりません。しかし私達は、自分達の心がどのようなものであるかを知っえいません。そして私達は、自分自身の心が信じられません。常に、それは移り変わるのです。自分自身の心が、絶対でないことがわかるのです。時には、移り変わり、変化するということは、より高い次元のゴールに向って進むことでありますが、しかし、私達は他の道にそれることなく、自分自身をそのゴールに向けていくよう調整しなければなりません。もし私達は、自分が、自己の良心基準より下がろうとするのを発見した時、自分自身を人間と呼ぶことさえできません。私達は、自分自身をそのゴールに向う道に立たせ、自分を高めるように努力しなければなりません。

 私達が、良心以下の生活をするようになると、人間の社会的称序がなくなってきます。それで、人類が過去築いてきた全ての基準を滅ぼしてしまうことになります。そこには、何の価値も基準もなくなり、私達は動物の基準以下になります。そのような場合、全ての人類は、危険と絶望と暗闇の中におちこんでいくでしょう。

 神の国建設は神に似た一人から

 神の国の基準がなければなりません。実際に、神の国はどこで見い出せるでしょうか。私達の内で、心と体の二つのうち、どちらがその基準を定めたり、基準を見い出したりするのでしょうか。私達は既に、それが肉体からではなく、心から出発できるという結論に到達しました。神は決して変わらず、永遠なる究極的な実体であり、神の国もそのような性質のものであります。私達の体は、それに適合できるでしょうか。それは不変で永遠なるものではありません。

 私達の心は、そのゴールを得ようという傾向を持っていますが、今のところその基準よりはるかに下です。しかし、神おひとりで、神の国を建てることができるでしょうか。できません。神は神と似た、あるいは神と一つになった人と一緒に、その仕事を成し遂げようとされます。神の国の建設は、そのような一人の人間から出発しなければなりませんが、このような人間を、どこで捜し出せるでしょうか。その人は、ただ道徳的な価値を持った人間であるだけでしょうか。道徳的価値を言う時、それは、心に根ざしていることを意味します。私達は、そのような人を道徳的な人々の間だけでなく、宗教的な人々の間だけでなく、宗教的な人々の間に捜さねばなりません。

 もっとわかりやすく言うならば、宗教的な人々はそのゴールを個人的な事柄にでなく、より広く、家庭や国家や世界的なレベルに置くので、私達はそのような人を、宗教的な人々の中に見い出すことができるのです。そして、その人が個人的基準でなすことが、人類全体に対する、神の目標と隔合していなければなりません。

 自分のために幸福になりたいと思う人々と、他の人のために犠牲になりたいと思う人々と、どちらがより良いですか。中心人物としての役割を果すことができるためには、私達は、他の人々とために働き、その目標のために、自己を犠牲にさえすることができる自分自身にならなければなりません。より良き中心人物は、全人類の幸福のために、自己を犠牲にできる人々の間に見い出せるでしょう。

 神と人間は親子

 どの宗教の中に、そのような人々を捜し出すことができるでしょうか。その宗教は世界的な基準のものでなければなりません。この世界には、四大宗教があることを知っています。キリスト教、仏教、そして儒教です。これら四つの宗教のどれが、神と人間との関係が最も近いでしょうか。あなたは、神と人間との関係であるというキリスト教だと答えるでしょう。

 親と子の関係というその中には、愛と生命を中心とした永遠の関係があるのです。つまり私達の生命と関連しており、神の生命に基づいているため、その関係から引き離して自分自身を考えることができません。私達の生命の背後に、神の意志と愛があるためです。

 東洋哲学では「夫婦は、互いに別れることができても、親から離れることができない」と考えます。親ととの関係には、私達の先祖からその子孫としての私達に至るまで、血統を通して流れる生命の流れがあります。もし、それを否定するならば、それは自分自身の生命を否定することになります。しかし、夫と妻との間の愛は、生命関係から生まれてきません。もちろん夫と妻が別れないで、永遠に一緒にいくことは好ましいことです。もし、この二つの関係のうち一方を、どうしても切り離さざるを得ないとすると、あなたはどうしますか。あなたは、どんなに努力しても、親との関係を切り離すことはできないでしょう。それは、絶対に切り離せないものです。子供が親を認めないことがあったとしても、親の愛は決して変わることがありません。

 そうであればこそ、放蕩息子や娘でも、親の懐に帰ってくることができるのです。あなたが帰る時、親が決してあなたを拒絶しないことを確信しています。親は両腕を広げて、あなたを待っていたことを知るでしょう。

 しかし、夫と妻との間に不一致と分裂があり、彼等の関係がたち切られたならば、彼らは互いに友好的ではなく、敵対関係になるでしょう。今まで愛していた人を見るのも嫌になるでしょう。そうしてそれは、お互いにそう感じていることでしょう。しかし子供と親おの間では、そうではありません。子供達はそう感じるかも知れませんが、しかし親の場合は決してそうではありません。

 しかし、欧米では、あなた達は子供と両親との縦的な関係よりも、夫と妻との横的関係を、重要視しているように感じられます。これが、この社会で不一致や、分裂、不調和が一般化している理由です。

 あなたが親を愛することができない限り、兄弟姉妹を愛することができませんし、また、もしあなたが兄弟姉妹を愛することができなければ、真の意味で、あなたの配偶者を愛することができないでしょう。また、親を愛すると同じように、兄弟姉妹を愛さねばなりませんし、同じように配偶者を愛さねばなりません。
 そうしてのみ、社会の基本的単位である理想の家庭を創造し、築き上げることができます。もし家庭に理想を見い出せなければ、理想の社会や国家を見い出すことは、決してできません。あなたの家庭が全人類社会の根本単位なのですから、そのような家庭をつくりだすことができずして、どうして理想的な社会をつくり出すことができるでしょうか。

 神の国建設のリーダーはキリスト教から

 話を本筋に戻りましょう。キリスト教では、人間と神との関係が、翁と子という愛と生命の関係にあると語っています。キリスト教において、より強調される核心的事項は、生命と愛と犠牲であります。まさに、それがキリスト教たるものの核心です。

 神様とイエス様は、私達に何をするようにと願っているのでしょうか。イエス様が、神様に対して息子の立場にあったとしたならば、イエス様は、神により教育を受けたことを私達は容易に想像することができます。イエス様は、神様が愛と生命の根源、または主体であることを知るようになりました。イエス様は、神様がイエス様のために存在し、イエス様のために、御自身を、犠牲にしておられることを知りました。

 どのようなイデオロギーで、神様は他の人々を教育することでしょうか。イエス様はどのように他の人を教育することでしょうか。イエス様は、地上の全人類は、神様のもとに兄弟姉妹であることを知っていました。彼は人々を生み出し、人々を教育して、彼らが神を見い出し、神を愛し、神を彼らの生命、彼らの根源、人類のために、御自身を犠牲にしておられるお方として認められるようにと願っておられます。イエス様は、努力をして人々を教育しようと努め、人々は、彼の教育を受け入れず、彼を拒否した時、彼は御自身の生命のつきはてるまで、努力し続け、御自身の生命を犠牲にまでしたのです。

 イエス様は、御自分が生命と愛と道の象徴であると言われました。人々がイエス様を退けた時、それは十字架の道となりました。ですから、この堕落した世界においては、真の愛と生命があるところには、常に他人の犠牲が伴いがちであります。

 イエス様の人類に対する教えの中核は、人々を自分の親同様に愛し、他人を兄弟姉妹同様に愛すということです。そうした時にのみ、神の愛に基づいた真の家庭を建設することができます。私は、再び三種類の愛を学ばねばならないことを強調します。つまり親に対する愛、兄弟姉妹の愛、それから夫婦の愛です。これらの愛を一緒にして、私達は真の愛を味わうことができます。そうして良き家庭や、より良い社会を造ることができます。

 キリスト教のみが、そのような愛の関係を教えている宗教であるため、神様が全人類を導くことができる人を捜す時、神様は、その人をキリスト教において見い出さねばならないのです。それが、キリスト教が宗教の中の宗教であり、全ての中で最も重要な宗教であるという理由です。

 私達は、宗教界においてリーダーシップ、それも真のリーダーシップを求めなければなりません。宗教界では、キリスト教は全ての宗教の核心です。キリスト教が全宗教の中核であるというのは、キリスト教では、神との愛と生命の関係と、自己を他人のために犠牲にする道を教えているからです。だから、私は、キリスト教を選んだのです。それは、私の両親が私の生まれる以前からクリスチャンだったからではありません。それは、キリスト教の中に、そのような中心的な教えが存在していることを発見したからです。それ故、キリスト教を通してのみ、全世界を救済することができるという結論をだしたのです。

 神の国は統一と調和と愛から

 では、神の国とはどのようなものでなければならないでしょうか。もし、神は神のような、あるいは神と似た個人を見い出せなかったら、神の家庭、次に神の氏族、民族、社会、世界を建てることはできません。だから問題の中心は神と神に似た個人であり、その人を中心とした家庭です。

 神が、そのような基準の国家を願っている時に、例え、その国家が神を崇拝したとしても、それだけで、他の国々を愛する努力をしなければ、それを神は喜びとしません。神はその国家を喜びません。その国が他の国々を愛し、世界の全人類を教育することにより、その国を通して、またその国の中心的指導者を通して、神の国を建設できるようになることを願っておられるのです。この国家は、従って、国境を越えねばなりません。 このような観点からみてみると、アメリカはそのために用意されてきた土地であります。何故なら、アメリカという国は、あやゆる国の人々によりつくられたからです。それで、もし神のみ旨の中にあって、神の国を建設しようとする時、ここが最良の場所をなるでしょう。ここにおいてのみ、神の理想が実現されるでしょう。

 神はアメリカを祝福されました。何故なら、ここには全世界を最終的な一致と調和と愛に導く可能性があるからです。キリスト教思想なくしては、分裂があったでしょうし、ここにも、また第二のヨーロッパを造り出していたかも知れません。旧世界と同じように不調和であったかも知れません。あなた達の先祖が、この大陸に来る前に、ヨーロッパには、不調和、分裂とクリスチャンに対する迫害がありました。それが、皆さんの先祖達がこの大陸に定着するために、自分達の国々から逃げててきた理由です。そして、彼らの生活様式は、神を自由に礼拝することでした。

 世界救済は自己犠牲から

 もし、この新世界、アメリカにおいても、旧世界においてと同様、新キリスト教世界の腐敗があるとしたならば、それは第二の破滅または危機を意味することになるでしょう。もし、キリスト教世界さえをが、破滅と腐敗の最中にあるとするならば、ここに人間と神との間の生命関係と、愛の関係を貴重に考え、人類の救済のために、いつでも自己を犠牲にする用意のある人々の群が芽ばえてきます。それこそが、神がその器として用いることができる唯一の宗教であります。

 今は神の指導力のものに、新しい群がアメリカや世界を変えるために、何とかしなければ、世界が良い方向に変わり、救われる希望がありません。アメリカでは、今強い思想をもったより強いクリスチャンの群が必要です。何故なら他のあらゆる道は失敗してしまったからです。もし、ひょっとして、黒人の人々が他の人々よりも、強い指導力をもって現われたとしたら、あなた達はその指導者に従っていくことができなければなりません。人種によらず、指導力には従っていかねばなりません。また共産主義世界やサタン的な世界では一般に、彼らの目的は、宗教を滅亡させることにあるという現実を悟らねばなりません。サタン的勢力が滅ぼそうとしている目標は、キリスト教であり、キリスト教内における彼らの最終的な目標は、神の愛の核心である家庭を滅ぼすことです。

 キリスト教世界では、心や良心の面をより強調してまいりました。しかし、私達の心や良心を通して神が働き、私達に生命と愛の関係を与え、感動させ、私達に人類のために犠牲になるように鼓舞することがなければ集団でも神のみ旨を行うことができません。

 従って、私達の教会で神の心情について語ることは、きわめて大切なことなのです。神の心情を理解し、感じ、体験する時、神との間に、生命と愛の関係を感じるということは自然であり、これは最もすばらしいことなのです。私達は、ここでそれを学んでおります。そして私達が、全人類の最後の一人にまで、手を差し伸べることを実現させる時、必ずや世界を救済できるのです。

 神はこのようつ宗教を捜し求てまいりました。というのは、この教会において神を親として、人類の父なる神のもとに兄弟姉妹として愛さねばならないことを教えているからです。夫と妻の間の愛は、その次に強調されています。これらすべての愛を総合して、全人類を愛することになるでしょう。そして、それこそが、私達のグループを最もすばらしいものにしているものなのです。私達のグループ以外には、このような宗教はどこにも見い出されません。神様が、地上に神の国を築くために信頼できる群は、私達のグループ以外にありません。

 神の国は私の手で

 それでは神の国は、どこから生まれるのでしょうか。それは神の思想から生まれるのです。私達は、良心と心を通してその理想を学び、実行に移そうと努力している群です。世界には、数多くの良心的な人々がおります。しかしながら、せいぜい家庭的な次元か、そうでなければ自分の国家の幸福を、望んでいるのです。しかし、私達の教会では、人類全体が幸福になった後に、自分達は幸福になりたいと思っているのです。

 人類とは、あらゆる民族、あらゆる人種を意味しております。全ての人々は神の子女、私達の兄弟姉妹そして神を幸福にした後に、はじめて私達は幸福になることができるのです。これこそ最良の思想です。

 神はここから、その理想的な世界が建てられるようにと、この国を準備されたのです。神は、この国の腐敗ぶりを建てられるようにと、この国の準備されたのです。神はこの国の腐敗ぶりをご覧になって、悲しんでおられます。しかしまたこの国を見捨ててはおりません。だからこそ私もアメリカにやってきて、ここで仕事を始めたのです。あなた達が今まで以上に強くなり、この国を滅亡から守り、最善を尽くしてより良き方向に導びき、アメリカ国民の心霊を復興させ、彼らが永遠の目標に向かっていくように導いて下さるように、私は切に願っています。

 私達はこの国においてキリスト教の崩壊を止めなければなりません。家庭が崩壊するのを防止しなければなりません。個人個人がヒッピー族のように頽廃し、チリヂリになっていくのを防止しなければなりません。もし私達がそれをなすことができなければ、この国は地獄に行くことでしょう。

 私達が今していることは、人格形成です。人格形成とは、個性の完成および家庭、氏族、国家、世界、の完成を意味します。私達は、それを成す唯一の団体です。そして、神様は、私達を通してのみ、愛と統一と生命と調和の世界を建設でき、そして、それこそが地上に神の国なのです。

 何よりもまず、皆さんは心の働きを神の要求通りに、一致して働くようにできなければなりません。そして、神に対する愛の感覚は、兄弟姉妹間や夫婦間のものより以上に強いものでなければなりません。それをすることによって、私達は完全な個性をつくりあげ、それを基点として、範囲を拡大していって、地上の天国を建設できるのです。

 全ては、私達から出発するのです。皆さんは自信を持たねばなりません。神の国は、私達自信の手で築かれるのです。神の国は、皆さんの心、皆さん自身、そして家庭、氏族、民族、国家、世界にあるのです。それは必ずやって来るのですでしょう。



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.08.30 22:00:04
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