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2021.09.18
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「救援の公式と伝統」

1976年10月10日
ベルベディアで


 堕落によって失ったもの

 皆さんがよく知っているように救いの摂理は、復帰の摂理であります。また復帰されるためには、堕落のない堕落以前の本来の姿に戻らなければならないということも、よく知っております。人間の堕落によって人間の本来の姿からはずれてしまう結果となったために、すべての堕落した人間は、創造本然の状態に戻らなければならなくなったのであります。

 では、堕落によって何を失ったのでありましょうか。第一に人間は、信仰を失ったのであります。われわれは、神のみことばから離れてしまったために、みことばと一体化できなくなってしまったのであります。すなわち神のみことばを失ってしまったのであります。それ故われわれは、みことばの主体から離れてしまい、主体と対象との間に一体化がなくなってしまったのであります。

 アダムとエバは、天宙の主人公となるべきはずなのに、その位置を放棄してしまい、サタンが天宙の主人公の位置を奪ってしまったのであります。神の創造の本来の願いは、天使界を含めた万物すべてに対して、主管性を発揮することでありました。しかし、人間の堕落によってサタンが支配者となり、人間をも主管するようになってしまったのであます。

 人間は、神に対して真の愛を捧げるべきでありました。そして神と一体化すべきでありましたが、堕落によってサタンと愛の授受作用し一体化してしまったのであります。故に堕落以後人間は、サタンと一体化し神の血統の代りに、サタンの血統となってしまったのであります。

 人間がサタン天使長に主管されるという原理はありません。あるいは人間の主管がサタンに与えられるということはありません。そのようなことは、本来の創造原理にはないことであります。人間が、神の言葉でなくしてサタンの言葉に従い、サタンと一体化しサタンの奴隷になるということは、神の本来の世界にはなかったことであります。

 神の創造本然の世界では、人間が神の言葉に従順となり、神の言葉を受け神の心情と神の人格と一体化するということが原理でありました。人間が神の真理と愛と人格と一体化したら、サタンの言葉と愛と人格と一体化するということは、なかったはずであります。したがって堕落人間にとっての希望は、神のみことばと人格と愛を復帰することであります。

 この世では多くの人々がお金とか知識とか権力を求めています。そしてそういうものが影響力があるものとなっております。しかし神の目から見れば、これらのものは取るに足にないものであります。すべての堕落人間は、神のみことばと人格と愛の三つの要素を追求するように連命づけられております。

 しかしこれらの三つの要素を確保するためには、人間は神を確保しなければなりません。そうすれば神の中にそれらのものを見い出すことができます。

 公的な人間とは

 今日、歴史の交差点において、われわれは神がもっとも公的な御方であるということを知らなければなりません。

 では公的な人間とは、どのような人間でありましょうか。公的な心を持った人間とは、どのような人間でしょうか。公的な心を持った人間は、主体の位置を占めております。では主体とは何か。それは、常に対象の為に存在するものであります。対象の為に奉仕し、益となるために自己を与えるのが主体であります。主体の位置が定まらなければ、他の何ものも位置が定まりません。主体は錨のようなものであります。それは、すべて周囲のものの位置を定めます。主体の位置が定まれば、所有の観念ができ、主人として現われてするようになるのであります。

 たとえば一つの王国を考えてみましょう。そこには王様がいます。王様は、主体の位置を決定し、それによって自動的に対象の位置を決定したします。さらに国民の性格や風習や慣習が定まるのであります。

 次に主体の役割は、何でしょうか。主体はつねに責任ある位置にありますので、主体はつねに責任を引き受けるのであります。 たとえばわが統一教会におきましても、教会の主体となるためには、その人は責任がなければなりません。教会のすべての責任を引き受けなければなりません。だから皆さんがたは、毎日いろんなことを行い苦労し経験しておりますが、すべての責任は、実際的にはレバレント・ムーンの責任になるのであります。

 たとえ皆さんがたが、困難に出会ってもまたは、批判されるようなことをしても、いつも私が批難されることになるのであります。

 それはなぜか。レバレント・ムーンが主体の位置にあるからであります。同じように宗教者の誰かが、何か悪いことをしたり無責任なことをしたら、結局は人から神様の責任とみなされることになるのであります。それは神様がすべての宗教者の主体であるからであります。

 人間を判断する基準

 いま全世界がわれわれに注目しております。とくにレバレント・ムーンが何を話すか、何をするのか注目しております。私が自己中心的なことをしていないのか、自己の利益のために説数をしていないのか。あるいは本当に公的なことをしているのか。それをはっきり見極めて判断しようとしております。

 彼らは、第一になぜ私がいろいろなことをしているのか、第二にどのような目的を持っているのか、第三にどのような活動、行動をしようとしているのかなどを見極めようとしています。とくに彼らは、レバレント・ムーンがどんな生活をしようとしているかを見つめております。私が私的な人間であるか、メンバーのために自らを与えようとしているかを注意深く見つめております。

 世間一般におきましても、ある人を見つめる時、その人が自らの言葉と行動が一致しているかどうかを判断します。そしてその人が言行一致の人であったなら、自動的にその人は、主体としての位置、すなわち責任ある位置を与えられるのであります。

 昔から人々は、指導者を選ぶ際に公的な心を持った人を求めたのであります。それが神様の性質であり方式であるからです。このような公的な心を持った人は、神に似た神の似姿であるから、人々はその人を尊敬し、その人に従おうとしたのであります。

 友達の中に二種類の友達があります。善と悪の友達です。悪の友達は、単に自分の友達を利用して自分の利益を計ろうとします。反対に友達のために自らを犠牲にし奉仕する友達は、真の善の友達であります。

 この善意の基準は、ただ友人関係にあてはまるのではありません。親子関係、隣人関係、その他すべての人間関係にあてはまるのです。

 皆さんを判断する場合、皆さんがどれだけ神に近い人であるかどうか、すなわち自己中心的な利他中心であるかによって決定します。

 われわれ統一教会のメンバーが、言行一致の人物か、統一教会の利己的な利益のために存在しているのか、奉仕するグループをみて判断いたします。

 国を判断する基準

 国を判断するのも同じ公式であります。たとえばアメリカが良い国であるかどうかの判断は、アメリカがどれぐらい公的かどうかによってなされます。もしアメリカの国と国民が、自国のために外国とつきあい、搾取しようとしたら、アメリカは悪い国と思われます。アメリカのキリスト教は、アメリカだけの宗教ではありません。それは神の宗教であります。全人類のための宗教です。

 キリスト教は、神に即した宗教であるが故に、神はキリスト教の故にアメリカの国を祝福したのであります。いいかえればアメリカが神の祝福を受けたのは、信仰のおかげであり、神に基いたからであります。さらにそれは、アメリカに対するだけの祝福ではありません。全世界に対するものなのです。

 このように見てくると、一つの公式、基準というものは、個人からすべて天宙にいたるまであてはまるのであります。

 歴史的に人類は、三つの要素を追求するようになっています。一つは、真理もしくは真理の言葉であり、第二は、真の人間、国民であり、第三に、真の愛であります。

 人類歴史は、今日まで聖人といわれる人々の言葉を受け入れ、言葉に従うことによって進歩してきました。では果して聖人とは、どのような人々でありましょうか。それは、神を中心とした人々でありました。そしてすべての平民は、それら神を中心とした神の言葉を語る神の代表である聖人の助けを求めないとしたら、神のもとに復帰される道がないのであります。

 歴史上において、または現代において人間を二つの種類に分類することができます。それは、聖人と偉人であります。偉大な人はたくさん居りますが、聖人はたくさんいません。

 偉人と聖人の違い

 では偉人と聖人は、どう違うのでありましょうか。

 聖人とはまず神を中心とした人であります。偉大な人というと、いろいろな種類の人が居りますが、彼らは必ずしも神を中心とした人々ではありません。

 アメリカの歴史を例にとりますと、そこには何人もの偉大な人がいました。ジョージ・ワシントンもエイブラハム・リンカーンも偉大な人でありました。では、なぜそれらの人々を聖人と呼ばないのでしょうか。たしかに彼らは、神に対する信仰は人に劣らず持っていました。彼らの祈りや言葉をみると、彼らは熱心に神に祈り、スピーチの証しも神に対する信仰に満ちています。しかし彼らの中心的テーマは、アメリカという一国であったのであります。つまり彼らの中心的問題は、人類ではなかったのであます。

 全世界の救いのために祈ったのではありませんでした。彼らは、神を中心とした国とか神の国といったことは考えませんでした。全能なる神の代表としての国をつくろうとは、考えなかったのであります。

 たしかにそれらの人々も、神から選ばれたことには違いありません。ワシントンもリンカーンも、とくに神が選んだのであります。しかし神が彼らを選んだのは、アメリカの独立の為とか、ある特定の限られた使命のために選んだのでありまして、全世界の救いという最高の使命者、すなわち救い主として選んだのではありませんでした。

 神の召命には、いろいろの程度があります。神は、ある特定の使命のために、その程度のちがい国々か時代のちがいによって、様々な召命をなさいます。その程度のちがいが神に対する近さを決定するのです。

 たとえばアメリカ建国にあたって、ジョージ・ワシントンは、国民の英雄でありました。しかしイギリス帝国の側からすれば彼は、反乱軍の主謀者であり裏切り者でありました。

 つまりある人物が、英雄であるかどうかの判断基準は、普遍的に世界的にあてはまるものではなかったのであります。韓国の歴史においても同じことがあります。一五九二年に日本軍が韓国に上陸し侵略しようとした時、李靈臣将軍は、日本の艦隊を撃滅しました。彼はたしかに、韓国の歴史上の偉大な英雄となりました。しかし日本側からみれば、けっして彼は良い人ではなかったのであります。彼は、日本の兵隊を多数殺害し日本の船を沈めた人物であったのです。

 では聖人は何か。聖人の範疇は何か。それは、神と完全に一つになり一体化した人間であります。その人は、神の似姿であり神の代表としての役割、使命を果そうとする人間であります。

 その目的は、全世界の復帰であり人類の願いであります。さらに神の側に属する善なる人だけというこではなく、神に反逆して罪を犯す悪の人々にも救いの手をさしのべて、それらの人々を神の前につれ帰る役割を果そうとして努力する人間であります。いいかえれば聖人とは、いかなる人をも敵としない人物であります。また敵とすることができない人物であります。

 堕落による怨讐関係

 堕落した人間の中には、そのような聖人を見い出すことはできません。なぜならば、そもそも最初からアダムとエバがお互いに怨讐となってしまったからであります。堕落の行為によって彼らは、互いに怨讐となってしまったのであります。アダムとエバは、こういい合ったにちがいありません。

 アダムは「エバ、あなたが私を堕落するように仕向けたんではないか」というし、エバは「いやアダム、あなたこそ私の主体の位置にあったのですから、あなたこそ私を主管して導いて罪を犯さないようにすべきであったのでしょう。それは、あなたの責任なんですよ。」といったにちがいありません。

 サタンもまた人間の怨讐関係にありますので、人間が「サタンよ、お前のせいで我々が惨めな立場になったのだ。」といったら、サタンは「いや、そうではない。あなた方人間が役割を果せず失敗したので、私まで犠牲になったのだ」といいます。そしてまたわれわれ人間は、神様すらも批判します。「神様、もしあなたが全知全能の神様であったら、なぜ私達を惨めな立場においてしまったのですか。」

 こうして人間の堕落以後、神と人間、人間と人間、人間と天使のすべての関係が怨讐になってしまったのであります。したがって国家間の関係も怨讐関係、搾取関係に堕いったのであります。いかに相手を利用するか、いかにして自分を益するかを考えてつき合うようになるのであります。

 心の中に敵を持つな

 では、皆さんはどうですか。たとえ反対する敵があったとしても、心の中に敵のある者は、それは天国の神様のもとに行く資格はありません。神の天国は、敵を持った人々の場所ではありません。

 ニューヨーク・タイム紙やワシントン・ポスト紙は、われわれに対して批判的な記事を連日載せました。われわれからいえばこれらの新聞は、憎らしくて破り捨てたいほどですが、私はこの十二日間祈りつづけました。そして広告を載せるようにしたのです。憎らしいはずのワシントン・ポストにお金を出して広告に出し、友好的につきあい愛そうとしたのです。そうすれば心ある人、正しい考えをする人々は考えるに違いありません。レバレント・ムーンは、普通の人間ではない、常識をのり越えた思想を持ち、崇高なる考えの持主だと感ずるようになるのであります。

 第二世代による復帰摂理

 だからわれわれが、一歩上に立った崇高なる戦略を、あるいは公式を追求していくならば、われわれの第一の世代の次元においては、われわれは犠牲となるかもしれないけれども、しかし常に神は、第二代の世代、第二代の二世の世代を通して働くのであります。

 例えばワシントンポストの例えをとって言えば、ワシントンポストのオーナー、あるいは編集長とかあるいは社長とか、そういう人々は我々の敵のままでいるかも知れませんが、しかし神は常に彼らの子供を通して働くのであります。だからいずれ時が来れば彼らの子供たちが大きくなって彼らの自らの親たちに反抗するようになります。これが神の原理であり復帰の公式なのであります。

 神は常に第二の世代を通して働かれます。第一世代であったアダムとエバは堕落してしまいました。希望がないところまで落ち込んでしまいましたが、しかし神は第二の世代たちアベルとカインを通して復帰のみ業を進められたのであります。この公式が歴史を通して働いてきたのであります。歴史上、神様のために本当に神を信じて神に従って、人々は時には犠牲となり、あるいは迫害を受けあるいは殺されてきました。けれども、彼らは第二の世代においては勝利者となったのであります。彼らは常に次の世代において、征服者となったのであります。

 逆境を益とする心

 われわれは生活においてひとつの重要な考え方を常に持っていかねばなりません。まず第一に、われわれは、いかなる批判を受けようとも、その批判が高くれきぜんとして立っていかなければならないということであります。その批判によって影響されてはいけません。それが第一の重要なことであります。いかなる批判によっても意気消沈したり、あるいは、傷ついたり、あるいは、やる気をなくしたりしてはいけません。そういった状況からは超越しなければなりませんし、影響されてはなりません。

 第二に皆さん方は、あらゆる批判を受けたとしても逆に皆さんの為の刺激として利用しなければなりません。彼らと皆さんをさらに飛躍せしめる跳躍台とする為の刺激としなさい。いいかえればあらゆるその否定的なるあるいは反対的なる、その批判というものをそういう逆境を、より積極的なよりプラスとなる目的に向かって利用しなければなりません。

 なによりも強い公的心

 だから結論としていうならば、われわれは、自らの為でなくして自己中心でない目的の為に、公的な神を中心とした目的のために前進しているのであります。それに対して目的の為にそれらの批判する人々は自己中心的な自分中心のそういった動機にもとづいて否定的なる批判をわれわれに与えてくるのでありますから、だから彼らはいかにわれわれに対して悪くあり、あるいはいかに優勢であるかのように見えたとしても、われわれの神に対する献身、そして利己的でない目的は必ず彼らのいかなるものよりも、より強いはずであります。

 彼らのいかなる否定的な批判的な面よりもまさっているはずであります。だからこれが勝つということ必ず勝利するということ、これがわれわれの標準とならなければなりません。

 これはレバレント・ムーンのこれまでの生活を通しての基本的な生活の原則でありました。レバレント・ムーンがこのアメリカにやって来ました時に、彼らはレバレント・ムーンを心よく扱いませんでした。それどころか彼らに対してレバレント・ムーンに対して意地悪をし、そして非常に辛辣でありました。しかし彼らは不公平なる批判をすればする程、レバレント・ムーンは決してそれによってくじけることはありません。レバレント・ムーンもあるいは教会の幹部たちも決してそれによってくじけることはありません。それどころかそれによって一層決意し一層われわれは、大義のために献身してきたのであります。

 これがわれわれのこれまでの通ってきた道であります。こうしていかなる逆境の中にあってレバレント・ムーンは前進しマジソンスケアガーデンを行い、さらにヤンキースタジアムのキャンペーン、そしてますます激しく反対の声が強くなる中で、台風のように強くなる中でワシントンモニュメントの大会まで突き進んできたのであります。

 絶対に勝ちえる生活原理

 こういうことでこの原則に従って、神はレバレント・ムーンに味方せざるを得なかったのであります。味方せざるを得ません。この原理原則の公式からいってもこれは絶対に正しいことであり、絶対にそれが最後の勝利を勝ち得る原則なのであります。

 われわれはただ単なる原理を持っているだけであります。われわれに反対する人々、それがどんなに反対し、どんなにわれわれを打ちこわそうと破滅させようとしても、われわれは絶対に勝ち得る公式は何か。それは反対する人たちが食べる時に私は食べない。彼らが眠る時に私は眠らない。彼らが遊ぶ時に私は働く。これがわれわれの決意であり、そして彼らのいかなる反対の活動もわれわれの一層の前進のための刺激として、そして、常に高く目標を揚げていく、これがわれわれの原理原則なのであります。

 さらにまたわれわれが成していることは、統一教会のためでは絶対にありません。われわれは何も統一教会のために献身しているのではありません。われわれは神の大義のために、全人類のために、そして我々の後孫のその幸福のためにこういうことを行っているのであります。確かにこれまで、反対がたくさんありました。彼らは必死となって反対しました。レバレント・ムーンを何とかしてやっつけてやろう。失敗させてやろうと彼らは必死となってやってきました。そして悪意のあるキャンペーンを彼らは行ってきました。

 W大会は神と歴史を代表する

 しかしどのような悪なる逆境の中にありましてもどのような烈しい反対の中にありましても、われわれは、今や大勝利を達成したのでありました。ワシントンモニュメントの大会は決してレバレント・ムーンの為の大会とかあるいは統一教会の為の大会ではありません。それは歴史的な大会であり過去と現在と未来を現す歴史的な大会であります。これはまさに神の大会であります。この大会は神を代表、歴史を代表するものであります。

 だからわれわれは、目標を高く揚げ最高の目標を揚げ、最高の記録を最高の基準を越えて、そして過去において現在、将来においてもこれを匹敵できないようなそういう最高の目標と、最高の基準と最高の記録を達成しなければならなかったのであります。これがわれわれの基準でありました。

 ワシントンの地域を良く知っている人であればワシントンについて知っている人は、本当にその大会の結果はとても信じられなかったのであります。彼らはその大会にレバレント・ムーンがあれ程の人々を集めたということ、そしてとくにあれだけ多くの有色の人々、人種が集まったということがまず第一の疑問でありました。

 そしてああいう、黒人とかそう言った人々が、集まった時には、いつも麻薬の問題とか、あるいは、不良が多いですから、物が盗まれたとか、あるいは喧嘩したとかそういった事件が起こるにちがいないのですが、その日はすべて平穏でありましたし、黒人はその日は最大の偉大な市民でありました。いかなる力をレバレント・ムーンは持っているのだろうかと人々は信じられないくらいに驚いたのであります。

 皆様御承知のようにわれわれは神の原理を知っているのであります。ワシントン大会において何も奇蹟であったのではありません。奇蹟ではありません。魔法ではありません。魔法使いでも何でもありません。それはただ単に神の原理原則の現れであったのであります。だからわれわれはこの同じ原理を今後も持ち続ける限りわれわれの生涯において、われわれはあらゆる時にいつでも等しく勝利を勝ち得ることができるはずであります。

 神の願いは何か

 皆様、神様についてどう思いますか、神様は聖人を求めていますか、あるいは家族を求めますか、あるいは聖人の国を求めますか、どのような範囲の何を求めて何を期待していると思いますか。当然のことながら最も簡単な答えですが、神様は聖なる国を求めているのであります。

 だから統一教会の目標は何か。われわれは神の最も重要なみ旨を達成しようとしております。神が最も愛するのは何か、神の最も望むものは、聖なる国であります。だからわれわれはこの地上に聖なる国家を打ち立てようとしているのであります。その聖なる国家こそ地上における神の国として知られているものであります。それは当然なことであります。そうでしょう。(イエス)。

 もしここに初めて来てレバレント・ムーンの話を聞く人がいるとしたら、彼らはレバレント・ムーンが気狂いにちがいないと思うかも知れません。レバレント・ムーンの目標は普通の人の夢を超えている。普通の人の想像を超えている、どうしてそのようなことができるかと思うかも知れません。われわれ統一教会は、その目標に向かって努力しています。実際にわれわれはその目標に向かって行動していますか。(イエス)

 何故われわれはそのような位置にあるのか、それは神様がわれわれの絶対的な意味において神様はわれわれにとって絶対的な御方であり絶対的なる目標を持った御方であるからであります。

 さらにそれ以上に最も重要なことがあります。それは、われわれの目標は神を中心としていますが、それはただ単にひとつの国のみではないということであります。ひとつの救いとか、ひとつの社会でなくしてわれわれの目標は全世界、全人類、全宇宙を神のもとに帰すことであります。

 だから統一教会の特色は第一に絶対的に神を中心としているということ。それから第二にそれが唯一の宇宙の天宙的な目標であること。第三にわれわれの理念は神を中心とした理念であるということであります。レバレント・ムーンが作った言葉でありますが、ゴッドイズム、神中心主義が我々の理念であります。

 われわれの目標はさらに全霊界すらも解放するということであります。普通の人は地獄へ行けとか、地獄へ行く運命にあるとか、そういうことをいいますが、われわれはそうではなくして地獄を解放するのであります。それがわれわれの責任というのであります。

 そして統一教会の特徴は、敵を認めないということであります。われわれにとって敵なるものは存在しないのであります。レバレント・ムーンにとって敵なる者は存在しません。

 神様はこう考えるのであります。もしレバレント・ムーンが神を愛する人間ならばむしろこのようにどんないかなる逆境、迫害の中にあってもこの世に出ていって、最も厳しい困難な中においても彼は、信仰を絶対に守りそして前進し偉大な勝利を勝ち得るであろうと、神はそれを知っているのであります。これによって本当に彼が神をあらわすものであるということの証明となる、という具合に神様は考えるのであります。

 ではこれからどういう事なると思いますか。実際にこういう事を通していって最後にはどういう結果になるでしょうか。それはそのようなはっきりとした道を通って行くことによって、本当に神様は、このサタン世界からの祝福を神の世界に移し変えることができるのであります。本当にこのみ旨に従事することによって、サタンすらも攻撃することを通して成長し、恵みを受け継ぐのであります。これが神様の公式であり原理であります。

 つまり、一方に善があり、一方に悪があるとしたならば、悪が善を攻撃します。その場合には善は何も打たれる理由がありませんから、その悪たるものは蕩減を払わなければなりません。そして善が栄えることになる。これが不変なる法則であります。だから例えば、悪なる人間が善なる神の側の人間を攻撃するとしたら、神は常にその子女達をして、その子女達に恵みを与えることができるのです。それはある意味では、我々からの復讐ということにもなります。

 神の奴隷

 もし皆さんの中で両親がレバレント・ムーンに反対している人がいたら手を上げて下さい。おそらくそういうところでは、家庭に何か問題があるはずです。今はあまり手を上げた人がたくさんいないので、それは良いことでありますが、それなら、なぜ親が反対しているのにここにいるのですか。なぜ毎週日躍日にここへ来るのですか。なぜ統一教会のために一生懸命働くのですか。

 レバレント・ムーンは、はっきりとした目的をもっています。皆さん方はそういう意味において利口なわけです。反対する皆さんの両親は、本当にレバレント・ムーンに悪意をもっているのですけれども、そして追い出そうとしているのです。それは、あまりにも皆さん方がレバレント・ムーンを愛し、従うからです。彼等は何とか皆さんの心を勝ち得ようとします。しかし彼等はある意味で自己中心的であります。

 それに対してレバレント・ムーンは皆さんを訓練し、そして聖なる人間にしようとしているのであります。本当に天地が認めうる聖なる人にしようとしているのであります。だからどんなに反対しても、反対する人達は衰退することになります。だから皆さんはこの道を歩もうとするのでしょう。

 この道には広く深いものが待っています。多くの親たちはレバレント・ムーンを批判し、レバレント・ムーンに反対します。彼等は自分達の子供が奪われ、奴隷のようにされていると思っています。しかし皆さんに聞きたいのですが、私が皆さんに私の奴隷にならなければならないと言ったことがありますか。皆さん方はそのような奴隷になろうとしているのですか。皆さんはそれほどおろかなはずはありません。

 確かにある意味では、レバレント・ムーンは皆さんを奴隷のようにしているかもしれません。しかしそれは何もレバレント・ムーンのためではありません。それはこの国のためであり、世界のためであり、神様のためであります。我々はそういう意味では、神の奴隷となるべきであります。

 仕える者が真の子女である

 実際聖人になる道は神様のために自分を否定して、自己中心的でなく、奴隷の如く神様のために尽くす道こそが聖人になる道なのであります。実際聖なる人とは神の最良の奴隷であるといってよいでしょう。例えばリンカーンはどうだったでしょうか。彼は、彼の国アメリカにおいて最高の奴隷でした。国のために本当に犠牲になった人であります。

 それはいかなる種類の奴隷であるか、もっとも良い奴隷とは、実際にもっとも仕える者であります。彼等は主人のために生き、主人のために死にました。しかし重要なことは主人が一体誰であるかということです。例えばここに一人の主人の息子としもべがいるとしましょう。その息子は非常に悪い手におえない人間で、しもべは仕えるのが義務ですから、それでもその息子に仕えていったなら、主人は決してそのしもべを罰することなく、かえって息子の方を罰することでしょう。そして、その息子を戒めてしもべを救おうとするでしょう。そしてその息子を追い出し、代りにそのしもべが主人から愛され、後を継ぐということになります。
 選民はイスラエルでありました。彼等は神のしもべとして選ばれたのであります。統一教会の我々は神のしもべとして選ばれたのであります。ではレバレント・ムーンは何か、ある意味では最もみじめな神のしもべであります。

 先生も仕えるために来た

 多くの人はレバレント・ムーンは幸せなやつだ。彼は何でも持っている。高価な生活をして、素晴らしい大きな家に住んでいる。だから幸せなやつだ、と思うかもしれません。しかし、実際に彼を知っている人は彼に同情せざるを得ません。なぜならば、彼こそ最もみじめで最も悲惨な方法で、神にこきつかわれている神のしもべだからであります。

 もし皆さんの親たちが何も知らずに反対するのであれば、本当のことを知らせて教育しなければなりません。また、彼等の反対が自己を中心としたものであれば、それはどんなことをしても神様の目から見て正しい人ではありません。イエス様は言われました。「自分はこの世の人から奉仕されるためにきたのではなく、かえって仕えるためにきたのである」と。レバレント・ムーンも同じであります。レバレント・ムーンは、いつも誰よりも一生懸命に働いています。誰よりも自分にきびしく烈しくムチを打っています。もし他の人より良い物を食べるとするならば、心の中では、他のメンバーは同じ食事をしていないということについて、本当に申しわけないと思っているのです。

 考えてみなさい。統一教会は始めからそうなのであります。そこを我々は少しづつ築いていったのです。誰がこのようなものを作りましたか。実際神様はレバレント・ムーンを見つめる時に、その心は痛むのです。なぜならばこのレバレント・ムーンはあまりにもみじめだから、神様はこのレバレント・ムーンに同情せざるを得ないのです。ある意味では本当にみじめな立場に置かれているのです。

 先生は、皆さんに聖なる人になってほしいと思っています。全ての人間が聖人になれるのです。聖人とは何か、それは神に対して絶対的な信仰をもっている人であります。それが第一の条件であります。我々は神の目的を我が目的としなければなりません。神の目的は世界を救うことです。だから我々の目的も世界を救うことであります。これが我々の目的であります。

 成功と繁栄は神の公式から

 確かに我々は神の前にいる敵を知らなければなりません。皆さん方は敵がいますか?いるでしょう。(ノーノーノー)自分の教会、ニューヨークのどこの教会でも、いつも皆さん方は、その教会長や上に立つ者を批判して、自分の教会長はこうだとか、あるいは愛が無いとか、あるいは態度が悪いとか、何とか言って、いつも不平を言うではありませんか。これがまさに天使長がエデンの園において、神の息子、娘を奪ったその原因です。

 いつも不平を言い批判している人はルーシェルのいとこです。このことを覚えていなければなりません。忘れてはいけません。今の話しを聞くまではおそらく心の中で、誰かきらいな者がいたでしょう。ああ、彼はきらいだ、あいつはいやだと。ところが今の話しを聞いて、ああ、これはいけないんだな、と心から悔い改めますね。

 よろしい、それで正道に行きましょう。それでは皆さん、敵をもっているの、いないの、(笑い)今笑っている人はサタンの攻撃に苦しむよ、今はっきりわかりましたね、レバレント・ムーンはその全生涯を通して人から批難され、あるいは誤解され、攻撃されてきたけれども、しかしこのような大きな事をなしてきました。これがまさに生きた証拠であります。神の力のみがこのような成功をもたらすことができるのであります。他に何もありません。まさに神の力によってこのように成功することができたのです。皆さんはこの事を認識しなければなりません。

 神の公式を実行することによって、先生は成功して、繁栄してきました。だから皆さんも同じ公式を歩むことによって、生涯の生活において、同じように勝利することができるのです。だからわかりましたか。本当にこの事がわかる時に反対や迫害があってもかまいませんか。(かまいません)。

 み旨のチャンピオン

 だから我々は角力のチャンピオン、ボクシングのチャンピオンのようなものであります。我々は、今、リングの上に立っています。そしてその回りには多くの観衆が見ています。もしこのリングで負けたなら、我々は第二の位置に甘んじなければなりません。第二の位置とは負けた者の位置です。勝利者のみがナンバーワンになることができます。これが我々の立つべき位置なのです。

 レスリングやボクシングにおいて、普通はそのリングにおいて二人のチャンピオンが戦うとすると、普通は一方が殴ってノックアウトした時に勝ちになります。これが普通の勝ち方です。しかしもう一つ尋常でない勝ち方があります。それは本当のチャンピオンは「さあ打て、多いに打て」と、それでいて、チャンピオンは打たれながらも堂々と岩のように立っていて、決して身動きしない。倒れない、そしてついには打つ方が疲れてしまって倒れてしまう。こういうノックアウトの仕方があり、最も普通で無い勝ち方である。レバレント・ムーンはそのように考えてなっているのです。

 レバレント・ムーンは、過去三十年間このリングに立ってきました。その間あらゆる種類の人間が彼を打撃し打ち負かそうとしてきました。いつもそうでした。彼等は皆、レバレント・ムーンをノックアウトしようとやってきました。三十前間です、それから既成のキリスト教会もレバレント・ムーンを異端だとか、何だとか呼んで、そして何とか引きずり落し、倒そうとやってきました。けれどもレバレント・ムーンは決して倒れない、倒れるどころか増々強く大きくなっていく、ついには既成教会の方がまいってしまう、これが現状であります。

 神の忠実な青年たち

 だから今では先生はとても気もちのよい話しを聞いています。今まで迫害し、反対してきた政府の高官たちが本当に倒そうとしてきたが、今では、「やっぱりレバレント・ムーンはたいしたやつだ、英雄だ、偉大な実に偉大な男だ、巨人だ、本当の英雄だ」と言っています。あるいはキリスト教の反対してきた人たちや牧師たちも今では「やあ、彼は天才だ。本当にそれは認めなければならない。彼はまさに神の人だ。偉大な作戦を持っているし、頭もいい、まさに天才だよ、彼のやり方は天から、神からきているに違いない」と、こういうようになっているのです。

 そしてレバレント・ムーンがアメリカに来てからも、アメリカ中が、白人が、西洋のダブルシメントの人たちが何とかレバレント・ムーンを攻撃し、やっつけようとしましたが、今や彼は無視できない存在となってきました。

 多くの人達がレバレント・ムーンを倒そうとやってきましたが、今では彼は負けない。倒されないと認めざるを得なくなったのです。だから彼等はレバレント・ムーンを攻撃しているけれども、しかし実際に目の前でレバレント・ムーンに付き従ってくる多くの若者達を見て、一体これほど忠実な青年たちが、アメリカのどこを見ても、アメリカの歴史においてもいなかったこのような青年達がどこからきたのかと不思議でならないのです。いったいレバレント・ムーンの力はどこからくるのかと。

 彼等は、レバレント・ムーンに従ってくる青年達は全てレバレント・ムーンに忠実だから、ひとたびレバレント・ムーンが彼等に何かせよと悪いことでも言えば、あるいは人を殺すのではないかと、そんな具合に恐れているのです。しかし彼等が知らないのは、レバレント・ムーンが神の人であるということです。レバレント・ムーンは神を中心とした義なることをやっていることを知らない。だから先生は皆さんに人を殺せとか、悪いことをせよとか言いませんし、できません。

 逆境における勝利

 レバレント・ムーンに反対する人達は、彼らが自ら戦いに出てこないということを知っています。自分たちのレベルまではさがってこないということを知っています。レバレント・ムーンは最高レベルにおいて戦っている。しかし彼等のレベルにおいて戦っているのではないから、彼等は、レバレント・ムーンは大酒飲みとか、あるいは悪いことをしようとしているとか、何だかんだと反対します。あらゆる角度から反対しようとします。共産主義者すらも反対するようになっているし、マスコミも反対します。あれほど悪らつに反対しています。これが今までに我々が経験してきたことです。

 最も重要なことは、最も美しい、且つ勝利のための秘訣であります。つまりそれは逆境において勝利することであります。いかなる困難な状況においても、いかなる否定的な環境においても決して信仰を失うことなく、決してビジョンを失わず、常に神の位置に自らを置きなさい。歴史を通して一番反対されたのは誰ですか、神様です。実際神様こそ一番反対されてきた方なのです。だから皆さんも神の立場に身を置いて、神が耐え忍ばれたと同じように、皆さんもまた、耐え忍ばなければなりません。歴史を通して、神様は、この世界を救おうという目的を決して忘れたことはありませんでした。だから皆さんも、一瞬たりともこの世界を救済しなければならないという使命を忘れてはなりません。

 統一教会の目的

 神は、サタンを中心として、堕落をもたらしたものである、ということをよく知っています。しかしそれでも神様は、サタンとともに働くこともあるのです。神はサタンを罰して、ただちに地獄に突き落すなどということは、なされませんでした。それと同じように、現在多くの人たちがわれわれに対して悪意をもって敵対しておりますが、しかし皆さんは彼らを許してやり、彼らとともに働き、彼らの心を獲えるようにしなければならないのです。

 皆さんは、自らを神の立場に置きなさい。皆さんが原理原則に従って生活したならば、決してサタンは讒訴することはできないのです。なぜなら、サタンが唯一讒訴することができない存在は、神様だけだから、皆さんが神のごとくになるならば、そこには何ら讒訴する条件がないのです。それゆえに神は、今まで何千年もの間、ずっと忍耐してこられたのです。

 神が今もっとも願われることは、聖なる者の出現であります。これまでの歴史というものは、神の願いとする者の出現がなかったための、延長された歴史でありました。ですからわれわれは、今からでも聖なる者となるための、努力をしなくてはなりません。そうすることによって神の復帰摂理が、より促進されるのです。

 歴史の転換を成す者

 今日統一教会がこの歴史の交差点にあらわれたということは、重要な意味をもつものであります。そしてわれわれは、今までの歴史において誰一人として思いもおよばなかった宇宙の救済、神の悲しみを解放する、という偉大な目標を宣言いたしました。全人類の救済と神の完全なる一体化、ということを堂々と主張しているのです。

 われわれは新しい時代に生きています。そして統一教会は、歴史の転換を成しつつあるのです。われわれは、この新しい時代の先がけにおいて、中心的推進力となって活動しているのであります。

 歴史に現われた聖人の中で、一体誰が一番偉大であったでしょうか。私は世界のあらゆる宗教の聖者たちを心から尊敬しています。仏教、儒教、イスラム教、その他多くの指導者たちを心から尊敬しています。それではこれらのすべての宗教の中で、世界の救いという目標を明確にもっていたのは、誰だったでしょうか。この世界を救わんがために、生命までも捨てていったのは誰であったでしょう。このように考えてみた時に、神のみ旨を成就するためにすべてを犠牲にして、神のみ旨をわが思いとしてすべてを捧げた人は、イエス・キリストただ一人であったということを知るのであります。彼こそもっとも偉大であり聖なる人でありました。彼の教えのすべては、単なるひとつの考えというものではなくして、霊界においては厳然たる事実そのものであるということを、私は知っております。

 神の希望の群れ

 それではわれわれ統一教会の目的は何でしょうか。その革命の目標は何か、まさにイエス様と同じであります。さらにわれわれはイエス様以上の目的を達成しようという者たちであります。また、われわれの使命は、イエス様以上の一層困難な使命であります。しかしわれわれは、それを成そうというのです。二千年前に来られたイエス様は、その生涯においてまさしく世界救済を成そうとされたのですが、しかしわれわれの知る多くの理由によって、その目標を達成することができませんでした。しかしイエス様は、必ず再び来て世を救うと宣言せられたのです。今やまさにその時であり、み旨を成就する時であります。そしてわれわれの生きているうちに達成することが、一人びとりの使命であります。もしわれわれが生きている期間に、このみ旨を成就することができたならば、まさにそれはイエス様以上のことを成すことになるのです。

 今、霊界においてイエス様は、今朝のこの説教を注意深く聞いておられます。ではイエス様はこの説教を聞いて「何、君たちが私よりも偉大な者になるって」といって腹をたてているでしょうか、あるいは「その通りである、まさに私が二千年前に成そうとしたことはそれであ、私はこのことを聞いて本当にうれしい。私に代わってその使命を果す者が現われて、その目標を達成することができるのを、この目で見ることができるのがうれしい」と言って喜ぶでしょうか。答は皆さん自身がよく知っています。では神様はどうでしょうか、神は一人子イエスを冒涜されたと言って統一教会を責めるでしょうか、とんでもありません。異端というのは、実は神の原理原則にはずれたことをする者たちをいうのです。

 今日のキリスト教会は、あらゆる教派、宗派に別れており、誰もが皆、自分の教派が一番偉く、自分が偉大であると思っています。このようにキリスト教が四百にも五百にも別れて、互いに対立しあっているのを見て、果してイエス様はどのように思うでしょうか。「ああ、私にはたくさんの訪れる家があってとても嬉しい、今日はこの宗派に、明日はあの宗派に行ってやう、私にはたいへん多くの希望があって実に楽しい」といって、イエス様は喜ばれるでしょうか。あるいはこの現状を見てイエス様は心を痛められるでしょうか。神様の心も、イエス様の心もともに、悲しい思いに満たされているに違いありません。

 アメリカが摂理の中心

 キリスト教がこのように別れてしまっている中に、統一教会なるものが燎原の火のごとく現われて、この世界とキリスト教会を、統一しようというのです。こういう姿を見た時に、神様も、またイエス様も気分はつらつとしたものであるに違いありません。この統一教会において、自分はメソジストだとか、あるいはプロテスタントだとか、カソリックだとか言っている人がいるでしょうか。われわれは統一教会員なのです。自分はローマンカソリックだなどと言っている人が皆さんの中にいますか。(ノー)

 ここにはいろいろな宗教の代表が集っています。あらゆる宗派の人たちが一緒になって座っています。もし神様が合理的な神様であり、イエス様が常識的な理性をもった御方であられるなら、今こうして、あらゆる宗派、人種、あらゆる言葉をもった人たちが、すべてひとつのイデオロギーを中心として、ひとつの理念のもとに団結し、幸せに調和されている姿を見たら、これは大きな希望と思うに違いありません。だから世間の人たちが何と言おうとも、われわれの理念はその結果によって、さらに勝っていると言えるのであります。われわれはよりよい生活を知っています。そして真に神の原則に、より近い存在であります。

 教多い宗教の中で、キリスト教がその中心であるのは、すべての聖人の中でアメリが一番偉大であるからです。神がキリストにおいて、その姿を現わしているからです。さらに今日、神は最後の救いの摂理を実現させるために、キリスト教にもとづいた国家を必要として、アメリカを選ばれたのであります。アメリカはまさにそのために選ばれたのです。しかしながら、現在アメリカは、神から与えられた祝福と遺産を急速に失いつつあるのです。そしてその祝福をいたるところで、広がりつつある共産主義に奪われているのであります。

 ニクソン政権の時、レバレント・ムーンは彼のやり方を批判した一人であります。彼は外交政策において、共産圏に対して中国に行ったり、緊張緩和ということで妥協策を講じたり、軟弱なところがありました。そういった点をレバレント・ムーンは批判したのであります。しかしそれでもレバレント・ムーンは、大統領を支持し支えようとしたのです。なぜならアメリカの大統領が弱くなって、国民に支援されなくなれば、ますます共産主義が拡大し、その結果がいかに恐しいかということを知っていたからです。

 アメリカの危機

 ウォーターゲートの危機的な期間において、レバレント・ムーンは、アメリカがキリスト教の精神でもって団結しなければならないという声明を発表しました。キリストの精神は三つの言葉で言い表せます。すなわち、許せ、愛せ、団結せよ、ということであります。実際ニクソン大統領を批難したワシントンポストの記者たちを始め、反対運動の先頭に立った人たちの中で、果して聖書がいうように、最初の石を投げることができるような、罪の無い人はいたでしょうか。神の目から見て、純粋に罪の無い人はいたでしょうか。アメリカ人はよく言います。基本的な法律は憲法である、と。しかしアメリカは、その憲法に根ざしているという国益の名のもとに、これまで数多くの悪らつなことを行ってきました。例えばCIAのさまざまな悪行が暴露されているし、国益のために外国の元首に毒をもったなどとか、さまざまなことが言われています。このようなことはアメリカのためだからといって、憲法で許されるでしょうか。否、神の目から見た場合に決して許されることではありません。

 もしアメリカがその権力を世界のために、神のみ旨のために使うならば、それは正義となるでしょう。しかし、もしアメリカが国益のためにそのようなことをしたなら、それは善なることとはいえません。ウォーターゲート事件の時に、大統領を批難した人たちも、もしそれが世界のために、神の正義のために批難したのであれば、それはもちろん正義となるのであります。しかし反対に、彼らの動機が義でないものであったならばどうでしょうか。

 だからウォーターゲート事件の時にレバレント・ムーンが声明を発表したのは、世界に対する心配があったからなのです。それは世界が共産主義によって受ける脅威を心配したからです。神の目から見て、このことが最も重要なことでありました。だからアメリカの大統領は無傷のままにおかなければなりませんでした。

 ニクソン大統領は強いリーダーシップと、指導性をもっていましたから、彼であるならば、ベトナムやアジアにおける破滅状態を避けることができたでありましょう。しかし、ウォーターゲート事件の後には、大統領の力が弱まり、皆がお互いを批難しあうようになり、新聞がきわめて強い力をもつようになってきました。このようなきわめて最悪な状態に、アメリカ全体がなってきたのであります。

 世界を動かすマスコミの力

 今朝はこの部屋に、かつてワシントンポストで働いていた、われわれの親友、強力な味方がレバレント・ムーンの話を聞きに来て下さっています。このような方々は、現在マスコミに起こっている、さまざまな問題に対して非常に心配しておられます。例えば日本における大新聞のほとんどが、ますます左傾化し、共産主義の方向に向って活動しているといったことについてです。実際彼らが行っていることは、次第次第に日本を破滅させるような方向に導いているのです。

 こういったことがなぜ起こるのかといえば、共産主義の勢力が労働組合という形を通して新聞の会社に入り、ストライキなどによって作業を中断させて、彼らの要求をつきつけてくるからなのです。経営者の方も新聞を発行して利益を上げなければなりませんから、少しづつ彼らの要求に屈服して行かざるをえなくなっているのです。そうしていよいよ、共産主義者の都合のよいような記事を書くようになって、会社での重要な彼割りを奪っていくようになるのです。こうして、ついには国さえも売ってしまうことになるのです。労働運動が極端になってきて、今では彼らの道具となっているのです。あらゆる所において、ヨーロッパにおいて、イギリス、日本、アメリカにおいて、彼らは賃金を要求するとともに、産業界を麻痺させようとしています。これが、レバレント・ムーンにとってもっとも頭の痛いところであります。

 彼らは目に見えない形において労働組合に浸透し、左翼勢力を拡大し共産党の道具としつつあるのです。しかし国民の多くはこのことに気づいてはいません。なぜなら、彼らの手口は巧妙で少しづつ浸透してくるからであります。それはまさにガン細胞が肉体を蝕む時と同じようにです。

 勝共は自由世界唯一の希望

 共産主義者たちは、レバレント・ムーンが彼らにとって最大の障壁であることを、充分に知っています。だから彼らは韓国に対し警告しています。レバレント・ムーンはあなたたちの背後にいるトのようなものである。このままにしておいたなら、必ずや政府にとって脅威となるでしょう。こういう具合にレバレント・ムーンと政府とを引き離そうとしているのであります。皆さんもいろいろと聞いているでしょうが、レバレント・ムーンはKCIAと結託して国を動かそうとしているとか、さまざまなうわさが流れています。しかし皆さんはそんなことにまどわされてはなりません。

 皆さんは、なぜ彼らがそのように攻撃するのか知っているはずです。それは彼らの戦略であり、何とかレバレント・ムーンの戦力を弱めようという、彼らの戦術なのです。実際レバレント・ムーンは徹底した反共主義者であり、反共のみならず勝共を主張しているのであります。韓国において勝共連合をつくり、過去十年間に二千万人の人々に勝共教育をしてきました。これはすべてレバレント・ムーンの考えに従って行ってきたことです。さらに日本においては、今や勝共連合は自由主義を主張する人たちにとって、唯一の希望となっているのであります。彼ら各界の指導者たちは異口同音に、勝共連合こそが日本の希望であると言っているのです。さらに彼らはわれわれの助けを求めているのです。それは一体誰がそうしたかといえば、すべてレバレント・ムーンが始めたのです。

 レバレント・ムーンは以前に、日本の勝共連合に対してこのように言いました。「共産主義者たちとテレビで公開討論会を行ないなさい。」と。そしてラジオ・テレビの全マスコミを通じて、公衆の前で討論会をするように言いました。共産党の理論とわれわれの理論と、一体どちらが正しいのか討論しようではないか、と呼びかけました。それに対して共産党はわれわれの申し出を断り、さらに全国に通知を送って、勝共連合とは絶対に討論をしてはならない、と指令を出したぐらいです。彼らはこのことによって、実質的に敗北を認めたのです。だから、むしろ彼らの方がレバレント・ムーンの恐しさを知っているのです。逆に自由世界の人たちの方がレバレント・ムーンの力を知らず、かえって敵意をもちます。これは何とも皮肉なことという以外にありません。だから彼らは何も知らず共産党の道具になっているのです。

 愛のみが平和をもたらす

 もしこの運動がレバレント・ムーンのために、自分たちだけのためにやっているとしたなら、絶対に長続きするはずがありません。しかしわれわれの運動の背後には、神の原理原則があり、大義があるので長く続くのであります。そしてわれわれは、神の義と歴史の責任において運動しているのであります。ですからわれわれの運動は決して滅びることなく、世界と歴史において永遠に記録されることでしょう。この影響において、世界と歴史の流れを変えるのです。人類歴史はまさに神の真理と義とを求める方向をとっています真理とはみ言です。人々は何が真なる言葉であるか、個人にとって、世界にとって何がよりよい言葉であるか求めています。真理とは現在においても過去、未来においても真実なるものでなければなりません。そのような永遠の真理は、有限なる人間から出るものではなく、永遠なる存在、すなわち神から出るものであります。共産主義者の真理とする、弁証法的唯物論は、決して真理ではありません。それは人間のつくり出したものだからです。

 神のみ言によれば、すべての存在は、主体と対象の授受作用において、永遠に発展、繁栄するといわれています。しかし唯物弁証法においては、対立と闘争によって繁栄るというのです。まさに共産主義の理論は、サタンからきたのだということを知ることができます。また自由世界では、すべてがオープンに開かれていますが、共産主義の世界では、一切が秘密のうちに行われています。われわれは昼間に会議を開きますが、彼らは夜中に行います。彼らは神はいないとか、霊界などはありえないと言っていますが、ただ無知というほかはありません。

 彼らは無限なる宇宙のことについて何も知りません。また霊界と地上界という相対的世界があるということを知らないのです。人間も二元的存在であり、霊と肉体とによって成り立っております。人間は宇宙の本質であり、原因であります。人間の中に宇宙の原因を見ることができます。自分自身を見てごらんなさい。心と身体が互いに正しく授受することによって、健康がもたらされることが分かります。そしてその心が完全な主体となって、身体が対象となるとき、真の幸福を得ることができるのです。

 社会の幸せは、共産主義者が言うように、外的なものから生れるのではなく、より内的なものから生ずるのです。そしてその心と体が、神によって造られたものであるなら、神を除外して、真の幸福を考えることはできません。人間は泣いたり笑ったりしますが、その原因は何でしょうか。それは心によって起こります。ですから真理も心が求めるようなものを探さなければなりません。では、心は一体何を求めているのでしょうか。そは愛であり、統一、団結をもたらすものであります。

 歴史が願った神の愛

 共産主義の世界では、心もまた、身体の機能によってつくりだされていると説明しますが、心の中心となる愛も肉体によって変化、発展するでしょうか。二千年前に生きていた人たちの愛と、現在生きている人たちの愛とは違うものでしょうか。また過去に生きた人たちの愛というものは、現在の人間にとっては理解できないものでしょうか。いいえ、人間は永遠なる真理を求めるのです。永遠に変ることのない、個人において、家庭、国家、世界において変ることのない真理を求めているのであります。

 人間が救われるためには、真なる言葉が必要だということを、神様は知っておられるので、歴史を通して宗教なるものによって、真なる言葉を与えようとしてきました。そしてすべての宗教には、世の終りの時に神の真理と真理を語る人が現われて、世を救うという教えが伝わっているのです。 その真なる人は、真の愛を与える人であり、その愛は神を中心としたものです。神を中心とした世界的理念が必要であり、神による統一世界をきたらせなければなりません。過去のすべての宗教者と真理を求める人たちが、その理念において統一されるのであります。これまで科学と形而上学の世界とは、バラバラでありましたが、神がすべての原因である以上、これらのものも統一されなけばなりません。さらに世界の宗教と諸科学とが、完全に統一されなければなりません。

 では、いかなる理念が、その統一をなしとげることができるでしょうか。それは神を中心とした“ゴッドイズム”以外ないのであります。

 レバレント・ムーンは確かに宗教者であります。宗教者であるのに世界中の科学者に対して、ワシントンに集って、科学の統一に関する会議を開くようにと言っているのです。なぜそのようなことをするのでしょうか。それは神の世界においては、すべては統一されなければならないからです。宗教も科学、哲学、すべてが統一されなければなりません。

 私はときどき、統一教会に対して否定的な記事を書く人たちに対して、憐みを感ずることがあります。なぜなら、彼らは統一教会の本質を知らずしていろいろなことを書いているからです。私は宗教のみならず、哲学、心理学、あらゆる分野において、それが何であるかを知っています。それにもかかわらず、なぜ宗教を専門の道としたかといえば、それは宗教が何よりも高い次元において、人々に対し影響のある言葉を与えるからであります。

 統一原理の学問的認識

 考えてごらんなさい。アメリカという国にはすべての学問、芸術、宗教の優れたものが集っています。そのアメリカにやってきてレバレント・ムーンは、神の教育をしようというのですから、これは決してなまやさしいものではありません。しかし私は、すべてにまさる理念を知っています。そしてそれは、すべての人が必要としているものであります。しかし彼らが傲慢になって、み言を学ぼうとしないので、その二世たる皆さんに祝福が与えられるのであります。実際われわれは、民主主義の理理念をのりこえて、神の理念を見い出さなければなりません。また共産主義者たちよりも優れた理念を見い出さなければならないのであります。この統一教会の理念は、そのすべての問題を解決しうる鍵を握っているのです。皆さんはまだ若く、純真ですから、この統一原理の深い内容は理解しきれないかもしれませんが、多くの著名な学者たちが、その分野において何十年も研究をしてきた人たちが、この統一原理を研究してみて、その革命的理念に呆然としているこであります。真にその価値を知ってわくわくしながら、生涯の道において探究しようという人たちが現われているのであります。

 統一科学者会議には、多くのバックグランドをもった人たちがたくさんいます。その人たちに対して私は、ああしなさいとか、こうしてくれとか言わないで、自分このやり方で好きなようにこの原理を研究してみて下さい、といって、彼らにすべてをまかせてみましたところ、一年たってみて彼らは、レバレント・ムーンの偉大さと人格の豊かさに驚いてしまっているのです。その中にはカソリックの神学者も、プロテスタント、ユダヤ教のラビもいますが、彼らは皆、一つになって統一原理を研究しています。

 私は彼らに対して、どのように研究してもくれてもかまわないと言いましたが、一年たって彼らは、今では統一原理なしで学問するということは、考えられないと言っているのです。なぜなら統一原理は宇宙の問題、人生の問題を根本的に扱っているからであります。統一原理なしには神学を統一することはできないということを、はっきりと知ったのです。彼らは今でも、それはもう一生懸命に研究をしています。今から十年たったらどうでしょうか、彼らはこの理念の偉大さをはっきりと悟ることでしょう。神学界では、実にこのようなことが起りつつあるのです。

 人類歴史は、これまで真理を求めてきましたけれども、ようやくにして、その本質が神によらなければならないということに気づいてきたのです。神による絶対的な真理が現われた時には、それによって、あたかも朝日がのぼる時のごとく、すべての問題が解決されるようになるのです。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.09.18 22:19:19
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