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カテゴリ:文鮮明先生み言葉選集(講演文)
「子女の日のみことば」
1976年11月22日 ベルベディアにて 堕落圏より養子圏へ きょうは一九六一年から数えて十六回目の子女の日でありますが、統一教会では、この日を重要な行事の一つとして定めております。 本来は人類の祖先のアダムとエバが、み旨の中において堕落せずに完成していしたとするならば、子女の日とか神の日とか万物の日とかこういった日は、一日で終わるのであります。 被造世界の全宇宙は、神を中心とした真に幸福な日として、愛の設定の日が始まったのであります。神が喜び祝うその日をすべての天使世界と被造万物は、昆虫や微生物に至るまで讃美し祝うようになったはずであります。その日は喜びの出発であり、幸福の出発であり、愛を中心とした出発であります。しかしアダム・エバの堕落によってこれが反対になってしまったのであります。全部が転覆してしまったのであります。神が喜びうる日はなくなってしまったのであります。子女達が喜びうる日もなくなったのであります。さらに動物は人間のために創られたものでありますから、主人がそのようになったので万物までが嘆息せざるをえない圏内に入らなければならなかったのであります。それが堕落圏内であります。 栄光と喜びの王を中心とした王族の出発がなされなければならなったのが、反対に悲しみの王であるサタンを中心として、サタンの王族が出発したのであります。 神の本来の創造理想が、善の王国を中心としたこのような創造理想であったために、絶対なる神は理想を実現する立場にあるので、堕落した人間を再創造するため再び救援する摂理を始められたのであります。そしてこれを復帰するためには、僕の僕から僕、養子の時代を経て、子女の時代、父母の時代まで復帰してこなければならないのであります。 いくら人間が本来神の子女であるからとしても、すぐには神の子女に戻れないのであります。すでに血統的にサタンの血統を受け継いで生れたのであるから、この血統を交差せずしては、到底神の子女として帰る道がないのであります。 本来皆さんが堕落せずに生れたならば、神の直系の子女なのであります。それにもかかわらず実際はサタンの直系の子女として生れたので、血統が違っているのであります。それが神の前に子女として帰っていくには、そのまま帰っていくことはできなません。養子という立場にしか戻ることはできません。そして養子は血統が違うのであります。 養子になるには では養子になるにはどうすればよいでしょうか。養子というのは何でありましょうか。まず養子は僕より勝れなければなりません。神側の僕よりも勝れた立場にならなければなりません。サタン側からみればサタンが悪なる世界の主でありますが、サタンよりも勝れなければないのであります。 なぜかといえばサタンは本来天使長であります。天使長は僕であるので僕より勝れなければ養子になれないというのが、原理なのであります。 そしてこのサタン世界は私の手でもって征服するという心を持たねばなりません。そうせずしては養子になることができません。歴史始まって以来もし神を慰める道があるとすれば誰よりも慰めることのできる、誰よりも慰める代表者が出てきてこそ、初めて養子の出発ができるのであります。 そのうな歴史を標準として、悠久な縦的歴史時代を経て一つの民族を動員して、このような養子圏を作るために、神が苦労されなければならない、という結論が出てくるのであります。 そのような観点からみる時、養子が出てくる目的は何でしょうか。それは神を父母として侍る相続圏を受け継ぐためのものであります。では本来神の息子がいるにもかかわらず、なぜ養子を立てるのでしょうか。息子がいないから養子が必要であって、息子がいれば養子は必要ないのは当然のことであります。したがって養子を立てる目的はどこにあるかといえば、真なる息子を立てることにあるのであります。 それでは息子に対してどのような養子でなければならないのであろうか。私が神の相続圏を受けたとしても、その相続圏は私のものでははく、神の本来の息子の前に引き継ぐことのできる相続権である、という思想をもった養子を作らなければならないのであります。 だから養子というのは、これから来るべき子女のために、自分の生命のすべてを犠牲にしても神の本心から願われる子女が生れることを願い、自分は真の子女のために準備されている、とう心を常にもたなければなりません。養子としての名を立てずしては、子女と関係をもつことができません。堕落することによって天使長より一段階高い中間的段階として出生したのが養子であることを、皆さんは念頭におかなければなりません。 養子の使命 このような意味で神は旧約時代にこうした原則的な標準に合わせるために、特定な民族としてイスラエル民族を選んだのであります。僕の僕、いいかえれば天使長が失敗した基準を中心として、神側の天使長の使命を成した群とそのような宗教がなかったので、そのような民族と宗教の代表として立ったのが、キリスト教民族の中にメシヤを送るために、四千年間メシヤ思想を中心として教育してきたのであります。 そして神側の天使長の使命をもったキリスト教民族を完全に一つにして、天使圏のすべてを相続し、養子的立場から息子として返すことのできる一人の特別の人物を準備しなければならなかったのであります。 その養子はどういう人かといえば、結婚した人であってはならないのであります。なぜならば神の直系の子女が結婚できなかったので、結婚することができないのであります。 このような原則があるので今日までカトリックでは、修道士とか修道女とか神父が、みな独身生活をしてきたのであります。そして独身生活する意味は、そのような養子圏基盤が残っている故であるということを、今日彼ら自身も知らずにいるのであります。 養子になったために結婚してはならない、という意味が分ったでしょう。なぜか、神の真なる子女が結婚していないからでありました。 ではユダヤ教においてそのうな代表者は誰なのか。それが洗礼ヨハネなのであります。三十年間イナゴと野蜜を食べながら貞節を守ってきた洗礼ヨハネの立場は、これからこられる神の息子であるメシヤのために、全キリスト教の国とキリスト教の民族を収拾して、神と真なる息子の前に捧げるべき代表的使命を担っている、という存在であるということを、その時のキリスト教の国とユダヤ教は、夢にも思わなかったのであります。 この洗礼ヨハネは、キリスト教民族とユダヤ教を代表して、全体を糾合してメシヤの前に導いていくべき責任がありました。 そのためにユダヤ教の祭司長が、みな洗礼ヨハネの神の如く侍らなければ救援することができないのであります。救援の道はそれしかないのであります。そして洗礼ヨハネがすべてをとり戻して、イエスが神の愛する息子であり、神から約束された息子であることを証しするその時には、全部がイエスの主義に一つのなるのであります。 キリスト教民族は民族全体がユダヤ教で一つになっている国で、国自体が教会のようなものであります。その指導者である祭司達が、洗礼ヨハネが独身者で家庭基盤がないからといって、彼に対して「私が伝統を築いたのだから私の話を聞け。」といったら滅びてしまうのであります。同じように洗礼ヨハネと一つになっていたユダヤ教とキリスト教民族であっても、イエスが独身者だからといって「あなたは基盤がないではないか、我々の基盤をあげるから私のいうことを聞け。」というような原則はなりたたないのであります。 今日キリスト教において再臨主がこられるとしたら、「私がカトリックの教皇である、再臨主がひとりでこられたらその独身の人は信ずることができない。われわれの枢機卿が全部調査してから信ずる」などというやり方は通らないのであります。このように教皇がサインしてからメシヤがくるのでしょうか。神がサインしたからメシヤがくるのであります。 養子と実子の違い 洗礼ヨハネが養子であることが明確に分りましたね、では神の息子になろうとすればどうすればよいのでしょうか。神の息子と養子とはどのように違うのでしょうか。それが問題なのであります。目が四つあるのでしょうか、鼻が二つなのでしょうか、耳がひっくり返っているのでしょうか。何か異なる所があるのでしょうか。目も二つでありますしみな同じであります。何をもって真の息子がくることができるのでしょうか。それが問題であります。 養子はサタン世界の血統を受け継いできたが、真の息子は神の血統を受け継いでこなければならない、という点が違うのであります。そう考えれば、原理にあてはまるのであります。 腹の中に赤ちゃんをもつ時、サタンは「これは私の血統を受け継いだ息子であるから私がひっぱっていく。」というのであります。妊娠した時からサタンが私の息子であると主張できない、そのような血筋を清めた立場において生まれずしては、神の息子とはなりえないのであります。 あなたたちはどうでしょうか。血筋が違うのであります。 宗教の使命 聖書にはオリーブの木の比喩が沢山ありますが、あなたたちは偽りのオリーブの木であり、これからこられる新しい息子は真のオリーブの木であることを知っております。 堕落したのちに生まれたすべては偽りのオリーブの木でり、これは本来サタンが作ったものであります。 それで神はどうするかといえば、サタンの偽りのオリーブの木の畑をもっては自由にすることができないから、神が自由にできるオリーブの畑を作るのであります。これが宗教であります。サタンの偽りのオリーブの木の畑は、神様は自由にすることができません。神が自由に木を切りたかったら切り、抜きたかったら抜く、そのような畑が必要なのであります。このような事情のある歴史だから神が神が自由にできる偽りのオリーブの畑を拡大させて、世界的な宗教圏へと動かしていく時がきたのであります。 イエス様が来られる時と、再臨の主が来られる時こそ、そのような時であります。そしてここに真のオリーブの木が出てくる日には、偽りのオリーブの木を全部切り捨ててそして真のオリーブの木に接ぎ木するのであります。すなわちこれを復帰しようとするのであります。 それで堕落した歴史時代であるがそれを通して、本来の神の子女としての世界を成していこうとするのが、救援摂理なのであります。 このように接ぎ木しておけばどうなるでしょうか。偽りのオリーブの木になるでしょうか、真のオリーブの木になるでしょうか。接ぎ木することによって真のオリーブの木、すなわち神の子になることができるのであります。 宗教をなぜ立てるのか、ということを明確に知らなければなりません。宗教がなぜ出てきたかを知らずに歩んではなりません。 現在世界は、宗教圏文化世界とその他の世界、そのように二つに分けることができます。終わりの日が近づいてきたときのであります。子女の日を迎えて知るべきことは、神の真の子女がこの地上にこられたかどうか、イエス様が真の神の息子か、偽りのものか、ということであります。キリスト教の牧師達も、なぜイエスがメシヤであるかそれを証しすることはできないのであります。 たしかにイエス様は外的に見ると、釈迦より孔子よりも劣るのであります。しかしメシヤとして何が異なるかといえば、天の血統が違うのであります。それを明らかに知らなければなりません。 それが分ればまちがいなくイエス様は孔子より偉いし、釈迦やマホメットは天の血統を受け継いでこなかったのでありますから、釈迦よりマホメットより偉いのであります。 エバの復帰 そういうことについて少し話しをしてみましょう。堕落した子女がどのように生まれてきたのでしょうか。 人類始祖アダムとエバからであります。 皆さんご承知のように、蕩減復帰するためには、その時失ったその形通りを再現せずしては、復帰できないことが鉄則なのであります。 ここにおいてエが堕落する時、サタンを中心として一つになったのでありますが、それではエバはどのような立場に立っているのでありましょうか。夫を否定した立場に立ったのであります。女性たちは注意しなければなりません。だから戻っていくにはアダムが先に戻っていくわけにはいかないのであります。堕落する時のエバの立場を蕩減復帰するには、サタン世界における父や夫の立場に反対する女でなければ、戻ってくることはできないのであります。 このような公式を中心としてみる時、本来宗教は新婦の宗教なのであります。だから女性が宗教生活をすると男性は常に反対するのであります。 神を求めていく女性においては、常にサタンが反対し男性が反対するようになっているのであります。なぜかといえば蕩減復帰するためであります。 リベカの立場 それでは神のみ旨において神はいつ、みんなバラバラに別れてしまったのを復帰するのであろうか。それはアダム・エバから二千年すぎたイサクの時代がきて、エサウとヤコブの母リベカを中心として成されたのであります。 ヤコブの母が夫やエサウに対して許すことのできないことをしたのであります。リベカの立場は何の立場だったのでしょうか。エバの身がわりをしたのであります。堕落した世界のエバの立場を代理したのであります。そうせずしては蕩減復帰されないからであります。 神側に戻すために、サタン側を代表した父の立場に立たされたのがイサクであり、息子の立場に立たされたのがエサウであります。 それはなぜかといえば、父子の関係は縦的だからであります。神を中心としてみる時神とアダムの関係も縦的であります。 そのような関係においてエバが父なる神を裏切り、息子を裏切ったように、サタン世界においても、父を裏切り息子を裏切りることによって復帰していくということは、原則にあてはまるのであります。 原理からいえば長男はサタン側であり、次男は神側でありますが、本来はカインとアベルにおいてこれを復帰しようとしたのであります。弟が兄の立場に上がり、兄が弟の立場に下りてこなければならないのであまます。なぜかといえば神のみ旨の中において、本来の長男が神の息子であり、サタンの息子ではないのであります。だからそれを転換しなければならないのであます。 ヤコブの祝福 長子がカインに奪われてサタン世界を成したので、新しい世界をもたらすメシヤは神側よ血統を受け継いだ二番目の息子の立場でこられる、という結論がでてくるのであります。 そのように聖書の中において、二番目の息子を祝福する理由がここにあるのであります。エジプトにおいても長子を打ったのであり、次子は神がとることができたのであります。ですからイサクがエサウとヤコブを祝福する時も、手を交差して祝福したのであります。 リベカはエバの失敗を蕩減復帰しなければならなかったので、夫と息子の立場にあるエサウをだまさなければならない、という結論になるのであます。 堕落する時は反対だったのであります。神をだまし息子もだましたが、今度は神のため父なるサタンをだまして、反対にならなければならないのであります。 このようにしてエサウとヤコブの二人の息子を中心として転換するのであります。弟が祝福を奪って兄が弟になるのであります。 聖書をみると、リベカの腹中において戦ったとあるが、リベカが子を生む時神の前にお祈りすると、神は「あなたの腹中には二つの国があるであろう。兄は弟に侍るであろう。」と言われたのであます。それと同じようにここにおいて交差されるのであります。一つの腹中において戦っている六であります。 腹中で兄弟同志戦うのであります。カインとアベルは生まれてかやら兄弟同志戦ったのでありますが、エサウとヤコブは腹中で、生まれる前にすでに戦っていたのであります。 リベカとヤコブを見れば、二人で企てた詐欺師たちであります。しかしそのようなことをせずしては、神側に帰る道がなかったのであります。 それによってヤコブが、初めてこの地上の神の土台を作ることのできる出発者になるのであります。 リベカと別れてヤコブは、ハランの地にきて二十一年間働くのであります。一方イサクとリベカが生活しているのでありますが、リベカは何をすべきかといえばイサクとエサウのヤコブに対する反感や嫉妬の感情を、リベカがすべてとりもって復帰しなければならないのであます。 このため神のみ旨からみる時、エサウの長子の祝福をヤコブに返さなければならない、ということが、理論的に成立するのであります。 リベカは夫をだまし、息子のエサウをだましてヤコブを神側に立てたのであまますが、これが将来において神側の男性を育てることになるのであります。ここにおいてはじめてカインとアベルの歴史が完全に始まるのであます。アダム時代のカイン、アベル型の長子と次子の区別がなくなりはじめるのであります。なぜかといえば堕落したのを蕩減したからであります。 蕩減してからイスラエルという選民圏が始まるのであます。祝福を奪ってこられたのであります。 聖書の中の話しは、このような背景を中心としてヤコブを祝福する、というこの原理を知らずしては解くことができないのであります。 レアとラケル サタン世界であるハランの地においてヤコブは、二十一年回十回もだまされ利用されながら新しい家庭を築いたのであります。 皆さんもよく知っているように、ヤコブは七年間一生懸命に働いたのちに、レアと結婚させられたのであります。なぜかといえばおじもサタン側でありますから、サタン側においてもヤコブが自分の好きな妻を娶るようになれば、サタン世界の血統が完全にふさがれてしまうので、そこでいかにして神側の血統にサタン側の血統を入れさせるか、ということをサタンは思うのであります。 それで結局ラバンは、レアをラケルの代わりにヤコブと結ばせるのであります。 レアと結婚してしまえば、サタンの願いどおりになってしまい大変なことになるのであります。 それでさらに七年間もっと苦労して働き、レアを代えてラケルを本来の中益位置に立てるのであります。 イスラエルの十二支派が、後日二支派と十二支派の南ユダと北イスラエルに分れる遠因が、この二人の母親にあるのであります。 その後ヤコブが歩まなければならい道は、本郷の母をたずね、父子兄弟間におこったあらゆる問題を解決しなければならないのであります。もしそれを成さなければ、戦いは再び始まり子孫の代まで続いていくのであります。 このようにして個人的な対決の時代から、家庭的な対決の時代が始まるのであります。 神側はヤコブを中心として家庭が霊肉一つになり、一方サタン側ではエサウを中心として家庭が一つになっているのであります。 天使に勝利したヤコブ それでは神の息子ヤコブを誰が先に試してみたかといえば、サタンが先にやったのであります。 それで堕落した天使を代表した天使を送って、天使よりも勝れなければならないのであります。天使を代理として遣してヤコブを打つのであります。それがヤボク川における角力であります。私は二十一年間の受難の道を受けたのだから、私の行く道をふさぐこの天使にも勝つのだ。」ということをヤコブは知っていたのです。 ラバンのところにおいて十度だまされながら神は私を祝福したのだから、それに対して君がいくら反対したとしても私に屈服させられるであろう。」というような信念を植えつけるために、十度も神は修練したのであります。言いかえれば神が保護したのでありました。「天使よ、神が私と共にいるのだから、君は私に負けるのである。」 こうしてヤコブは歴史始まって以来、人間として天使と戦って勝利した最初の祖先になったのであります。 腰のつがいがはずれながらも勝ったのであります。死んでも離さないと知ったので天使が祝福したのであります。 これによってヤコブは霊界を支配することのできる人になり、霊的天使世界の天使が堕落してサタンになったのであるから、サタン世界を屈服させうる根拠をここに立てたのであります。 このように勝利して、勝利したという意味のイスラエルという名をもらったのであります。 それでヤコブが行く道において、霊界は常に協助するのであります。 ヤコブの家庭的勝利 それからそそにおいて天使に勝ったので、次はエサウに出会うのであります。霊的天使に勝利したので、神に安心して肉的エサウに出会わせるのです。サタンは全面的に手を出せないのであります。サタンはエサウにであります。サタンはエサウに対して干渉できないというのであります。 そしてヤコブは何をするかといえば、今まで自分がハランにおいて研究したように、二十一年働いて得たすべての財産を、兄さんのものであります、といってエサウにすべて与えるのであります。 エサウは、二十一年間自分の長子の特権を奪ったことに対する恨みで、ヤコブを打ち殺そうとしていたが、外的にすべてをくれるのでそこに感動したのであります。 それからみるとエサウは現実主義者なのであります。神であろうが何であろうが、将来の神のみ業などどうでもいいのであります。 現実主義者でありますから今お腹が一杯になればいいのであります。こうしてエサウは帰ってくる弟を歓迎したのであります。ここで世界が転換したのであります。 このように二人が一つになると、母と父は長子をだましたといって怨讐になっていたが、息子と息子が互いに喜んでいるので父も母も喜ぶようになるのであります。そうしてみんなが喜ぶようになるのであります。 このようにヤコブを中心として家庭が一つになるのであります。 そのようなことはユダ教の人も知らず、キリスト教の牧師たちも知りません。しかし君たちは知っているのであります。 では知っている人が勝利するでしょうか、知らない人が勝利するでしょうか。 このことからも神は知っている統一教会と共におられることが分るのであります。 こうして家庭的イスラエル圏が始まるのであります。ヤコブは、成長して約四十才になって兄から長子の嗣業を復帰したのであります。 タマルの腹中転換 ここにおいて本来は赤ちゃんの時から出発しなければなりませんでしたが、四十才になるまでそれがなされなかったので、四十才から母の腹中までの距離が残っているのであります。 そのためにこの間にサタンがいつでも入り込めるのであります。どういうことかといえば、イスラエルの国の歴史の背後においても、未来に行く道においても、常にサタンが侵入することができるということであります。 ですからイスラエルの家庭は、その侵入を防がなければならない責任があるのであります。 そこでヤコブの息子ユダを中心として、再び腹中において両側に分けて交差する戦いをしなければならないのであります。 聖書を見るとユダ支派を通してメシヤが来る、と書いてあるが、なぜユダの支派を通さなければならはいかということは、今日まで分らなかったのであります。 それを説明しましょう。 それはユダ支派を通してこのブランクの過程を清算した、という事実があるためであります。ユダの家庭において、リベカの家庭のエサウとヤコブの戦いを再びしなければならないのであります。 ユダの嫁の中にタマルという人がいるが、マタイの福音書にこのタマルが出てくるのであります。 本当におもしろいことにはタマルはしゅうとのユダと夫をだまさねばなりません。 タマルは自分の夫が死んだので、本来イスラエルの伝統からいえばその弟をもらわなければならないが、その弟が嫌だといったので打たれて死んでしまったのであります。そして三番目の息子が生きていたがまだ子供なので血統を引き継ぐことができない。しかしタマルは自分の血統において神の血統が結晶されるのを願っていたのでありました。自分がどうにかしてヤコブの血統を保とうとするが、若すぎる三番目の息子ではそれは不可能であります。そこでしゅうとを欺して関係を結んで、その血統を残そうと努力する女なのであります。 タマルは娼婦に仮装して、しゅうとが畑仕事をしている道端に行って誘惑して、関係を結び妊娠するのであります。 とても不思議なことが多いのが聖書なのです。世の人達はこれをどうして信じることができるでしょうか。レバレント・ムーンが出てきたからこれらのことがみな解決できるのであます。 結局タマルは誰を欺したかといえば、息子としゅうとをだました、というこの公式が、エバとまったく同じなのであります。 結局リベカはヤコブを生んでからヤコブを大きく育てて神側に戻したのであますが、タマルはどうしたかといいますと、息子を腹中において神側に復帰したのであります。 それを知らなければなりません。カインとアベルのような立場を、腹中において転換したのであます。腹中においてこれを転換しておけば、サタンは腹中の子には讒訴することができないのであります。そうすふことによって宇宙が転換するのであます。 タマルの腹中において二人の子供が戦う時、神に「私の腹中で二人の子供が戦っています。」と言いますと、その時神はリベカに言われたのと同じことを言われたのであります。 「腹の中には二つの国があって、兄は弟に侍るであろう。」とまったく同じ返事をされたのであます。 この時長男が先に生まれようとして、手が先にてきたので、産婆が緋の糸を結んだのであます。それは将来共産党が出てくることを象徴するのであります。 そのうに長男のゼラが先に出ようとしたのですが、それを押しのけてペレツが出てきたのであます。 こうすることによって腹中で戦ってすべてを清算したために、これからこの伝統的な思想を受け継ぐイスラエルの女性中において、腹中にいる赤ちゃんに対してサタンが讒訴できないという決定的基盤を整えたのであます。 国を求める二千年間 腹中においてこのような伝統を受け継ぎ、ユダ支派を通して伝統を受け継いで出てくる子女は、腹中からサタンが讒訴する条件が一つもないのであります。 このようにユダ支派を通してメシヤがくることができる歴史的伝統の偉業を、私たちは明らかにすることができるのであます。 ですからユダ支派からメシヤが出てきた、すなわち神の子女が生まれたとてもサタンが讒訴でないという基盤、すなわち神の血統からメシヤが生まれることができる伝統的基盤が整えられた、という理論が成り立つのであます。 それが神にとってどれほど嬉しいことであろうか。それでの女性たちが様々な苦労をしたのであすが、その時で神の血統を受け継ぐことができなかったのであります。 その時腹中きおいて交差したので、ここから二千年間をすぎたのちにイエスが来ることができるのであます。 ユダ支派の血統について、メシヤが誕生するまでなぜ二千年間必要であったかといえば、サタン世界が国家的基盤を整えているのに、イスラエル氏族が国家形態をもっていなかった故に、サタン世界の国家に対しる神の世界の国家がなければ、カインとアベルの関係を蕩減することができなかったのであります。 それで国家形成期間として、二千年間待たねばならないという結果になるのであります。それで二千年後に初めて歴史を転換させるための準備をしなければなりません。その時がすなわちメシヤがこられる時なのであります。 問題はエバがやったことを家庭を経て国家的世界的にしなければならないのであます。 家庭的に勝利したのでありますから、氏族的にヤコブ、ユダ、タマルの三代を経て勝利した基盤をなした歴史を転換して、国家的な基準にしなければなりません。 そのためには世界的相対を前にして国家的な転換運動をなし、国家を打ち砕かなければなりません。 マリヤの立場と使命 そしてその仕事を誰が責任をもななければならないかといえば、女性が責任をもたなければならないのであります。 それは誰かといえばマリヤであります。同じ原則によって父と夫をだまさなければなりません。そしてマヒヤの夫は誰か、ヨセフであります。サタンが父の立場、ヨセフが夫の立場であります。その父と夫を欺さなければならないのであります。なぜなというとエバが堕落した時、アダムは自分の婚約した夫だったのであります。それと同じ立場に立たせるのであります。だから、ヨセフもそれとまったく同じ婚約した立場であました。 エデンの園においてエバをサタンが奪っていったから、サタン側にいるそのエバを神が奪ってこなければなりません。 マリヤをみる時、夫であるヨセフを中心として関係がなされてならないのに、他の人の子を妊んだとすれば父母が歓迎したでしょうか。二人とも歓迎しないのであります。 しかしマリヤら、自分はタマルやリベカのように神から祝福を受けたのだから、自分の腹中から生まれる子供は神による子である、と信じていたのであります。 さらにマリヤは、将来イスラエル民族にメシヤが送られる、という一つに希望的な祝福が成されることをよく知っていたのであります。 マリヤは使命を果たすためには父母も夫も問題でなくみ旨に従う、そのような妻であったことを知らなければならないのであります。 このようにしてサタンからまったく讒訴されない神の息子が、初めてマリヤを通して生まれ、その歴史的な因縁を蕩減して生まれた人がイエス様であります。 このようにイエス様のみが神の息子のなることができる、という結論になるのであります。神の愛を一身に受けられる最初の息子であります。十字架と神のみ旨 こうして歴史的に最初に緊張した祝福の場面が展開することによって、イスラエル民族の生きるべき道を開いた、世界を復帰する一人の主人公がこられたのでありましたが、しかしイスラエル民族はこの主人公を殺してしまったのであります。 こように歴史的な過程を通して、摂理的蕩減期間をへて、歴史的な基盤の上にイエス様を送ったにもかかわらず、十字架で死ぬために送られた、というような思想が、今統一教会に反対しているのであります。 神が最も衝撃を受け悲しまれる十字架という言葉を、十字架が救援の動機になったといっているとはありうべからざることであります。 十字架につけられたその瞬間は、神にとっては言うに言えない瞬間でありました。イエス様は神に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれたが、その時神は答えなかったのであります。 神は言いたかったのであります。「私はあなたが死ぬことを願ってはいなかった。」と。 このようにして歴史的に深刻な決定的秘密を、レバレント・ムーンが、キリスト教世界に、宗教世界に明らかにしました。 マリヤはイエス様を生んだのち、ヨセフと生活してはならなかったのであります。そういうことを宗教家達は知らないのであります。そしてカトリックでは、マリヤを聖母だと言っているのであります。 ヨセフと生活していたマリヤを宗教家たちは、そうしてはならなかったのだ、というようにみることができないのであります。原理原則を知って初めて彼らの誤った観念を正すことができるのであります。 きょうこの話を聞いた人は、神のみ旨はそのようになっていたのかと驚くことでありましょう。旧約以後のユダヤ教もこのみ旨を受け入れなければなりませんし、キリスト教も更めて教理を修正しなければならないということは、原理的、理論的原則が明らかにするのであます。 キリスト教の霊的基盤の上に 歴史過程において神が生きておられ、このように摂理され、神のみ旨を立てる歴史的な事実があったにもかかわらず、今までそれを知らずして、神のみ旨を放棄してきたのであります。 これらのことを知って、神が歴史過程に生きていることを知らなければなりません。このような迫害の歴史を経てキリスト教は霊的国家基盤を整え、更に霊的世界基盤を整えてきたのであります。 それゆえに本来ならば、霊的のみならず霊肉を中心として、アダム、エバの根本的な復帰完成をしなければならないにもかかわらず、霊的な立場において、イエスは夫であり、聖霊は新婦であるというように、霊的父母の基盤を中心として導いてきたのが、今のキリスト教なのであります。 だから、キリスト教は霊的基盤のみでありますから、この現在世界を捨てなければならないのであります。 統一教会はどうか、われわれは霊肉両面において復帰するのであります。今までの話のごとく、統一教会は、世界的キリスト教の基盤を中心として整えてきた霊的な基盤の上に、肉的基盤を組み立てて合わせる仕事をしなければなりません。 そのようにしてアダム、エバが失なった神の日、父母の日、子女の日、万物の日を、今日統一教会は歴史的過程を通して、父母の日、子女の日、万物の日、神の日と再びとり戻すようになったのであります。 この驚くべき歴史的事実が始まっているということを、他の誰も知らずにいるのであります。 子女の使命 今日韓国の国家的基盤を中心として、アジアを通して、世界的中心がここアメリカにきているのであります。アメリカにおけるレバレント・ムーンが問題であります。私がアメリカに来て失敗したのか、成功したのか。すでに判定戦は終わったのであります。アメリカの宗教界においていくら勝れている人でも、レバレント・ムーンの所にきて学ばなければなりません。真理を学ばなければならないのであります。 このように神が歴史の中におり、時代の中におるということを、若者たちに教えれば、若者たちは教会を離れたりするでしょうか。決して離れることはないでしょう。 それではどうしてイエスのみがメシヤであるということになるかといえば、イエスのみが血統的に根本において清められてきたのでありますから、お釈迦様もできず、孔子もできず、マホメットも成しえなかったことを成しえたのであります。 ゆえにただイエスを通してのみ天国に行く、という堂々たる結論が出てくるのであります。これは誰も否定することができない結論であります。 以上で統一教会の位置と使命が分ったと思います。 今後統一教会の道は神のみ旨を大きく果たしていくであましょう。 きょう、子女の日でありますが、これからは先生が子女の栄光をもつことができるよう皆さんがやってほしい、皆さんが子女の権威をもって、堂々たる子女になってほしいのであります。統一教会の道であることを知って、子女の名でもって頑張ってくれることを願うのであります。 新しいピリグリム・ファーザーズ 二百年アメリカの歴史が斜陽化するこのごろにあたって、三百年に向う明日のアメリカのために、われわれは養子の時代を過ぎて子女の権限をもって世界にはばたいていくことが、今後統一教会の道であることを知らなければなりません。 今はそのような時代であり、皆さんの時代であります。 新しい歴史時代のわれわれは、新しい歴史を担おうとしてここにきたのであります。 新しく二次的に集められてきたピルグリム・ファーザーズのようなものであります。 新しいアメリカはわれわれの手の中にある、という信念をもたなければなりません。その信念をもっていれば、必ずやアメリカは救われるのであります。そのためにはキリスト教と一つにならなければならないのであります。キリスト教は、われわれと一ちになるようになっているのであります。行くべき道がないから必然的に一つになるようになっているのであります。 そのような意味において、きょうこの子女の日、新たなる進軍を誓う勇士とならねばなりません。 イエス様に負けず、先生に負けない皆さんになることを願っております。 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。 奇知=人とは異なる知恵 世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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