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奇   知   外   記

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2021.10.25
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​​​​​​​​​「限界線」
一九八〇年一月二十七日 
ワールドミッションセンターにて


​限界線の突破​

 私たちの住む世界には、いろいろな体制や組織や、従うべき規制があり、それらの制度というものには、みな限界線があるものです。それと同じように、私たちの日常生活の諸分野にも限界線があるので、私たちはそれに取り組まなければなりません。そうしてその限界線を越えたならば、まったく別の違った世界や違った環境・雰囲気が成立するようになっているのです。
 このようにして、私たちのみ旨という観点から今日をみるとき、堕落した世界にも限界線があるということを理解できます。また、同じ観点からみると天国にもまた限界線があります・なぜなら天国はいつも地獄と境を接しているからです。そこで私たちは、ある時は限界線を越えなければならないし、また時には限界線を越えてはならないということを知らなくてはなりません。
 たとえば、私たちがある戦争地帯において、包囲されて孤立無援の状態になったと考えてみましよう。そのとき私たちは、敵の包囲網をいかにして突破していくかを考えなければなりません。そして、本当に生きのびるためには、その境界線に置かれているあらゆる障害を克服しなければなりません。限界線というのは、こういう境界線のようなものです。それは、ある要素を、別の要素が限定するというものです。ある点を突破するためには、この境界線をなんとかしなければならないのです。
 統一教会では、「統一原理」を教えます。統一原理は気まぐれな教えではありません。これは、あなた方をある方向に導く原理です。そしてそこには、私たちが越えられない限界、制限された道があります。それは、個人が個人として行くべき限界線なのです。その限界線は、あなた方の心と体が一つとなってこそ突破することができるのです。心と体が別々であっては、これを越えることができません。必ず、これを越えるためには、心と体が一つにならなければなりません。心と体を統一させる原理は、すでに定められ、そこに存在しています。それは、ゲームにおけるルールのように、あなた方によって作られるようなものではなく、宇宙の創造者によって与えられたものです。宇宙の創造者は、ある決められた動かしがたい原理をもっています。それが、心と体の一体化を導いているのです。ですからあなた方が原理原則の道に従って行くときにはいつも、必ず制限された公式的道があるのです。
 統一原理によると、主体と対象がひとつに結ばれる時、常に統一が生まれます。そしてそこには必ず統一の中心線があります。その統一の中心線は原理の道に通じると同時に、無限の道にも通じます。したがって二つの物、二人の個人、二つの物質がひとつになる場は、この中心線と通じるところであり、永遠に連結するようになっているのです。
 私たちは堕落世界にとじこめられています。そこで私たちは、この堕落世界から抜け出さなければなりません。その堕落した状態から抜け出るために、私たちはいくつかの限界線を突破しなければなりません。この線を突破するために、堕落圈から限界線の峠を越えなければなりません。そして、私たちが完全に解放されるまでに多くの段階を踏まなければなりません。私個人がこれを突破すれば、私は完全に一つになります。

一体化の共通目的

 さあ、それでは二つのものが一つになるとき、何を中心として一つになるのでしょうか。それには、ある中心的な一体化させる要素がなければならないのです。では、その要素とはなんでしょうか。それは、共通の目的が統一の要素となるのです。この共通の目的が、二つのものをひとつに結びつけるのです。そしてその目的が成し遂げられるわけですが、そこに成し遂げられた存在は、すでに二つのものそれ自体ではないのです。それは両者よりも上回ったものでなければなりません。そしてそこには、両者をつくり、すでに目的を定めた共通の創造者がおられます。その目的は、二つの存在よりも高い次元から出ているのです。その目的は、二つのものが一体化するための共通の目的です。一つになっているプラスとマイナス、主体と対象を考えてごらんなさい。一体化した主体と対象は、より高いなんらかの目的に相対します。そこで主体と対象がだんだんと一体化しようと近づいてくる時、目的も一つになって上っていくし、逆に創造者の構想は下りてきて中心的位置に動き、創造主の目的が成し遂げられるということになります。そして、四位基台において四つの各々を構成するものが、一つの中心に集結されるのです。
 このような原理は、私たちの対人関係にも、仕事をする場合にも、同じように働いています。あなた方が仕事をするとき、あなた方はその仕事をする理由をもっています。その目的を遂行する目的をもっています。つまり、あなた方が何かを成し遂げるとき、何かを作るとき、それをしていく過程において目的が成就しつつあるのです。こういう観点からみるとき、仕事において、主体と対象が授受して完全に一つになれば、そこに神が臨在し給うということがいえます。東洋の生活様式では、誰かから貴い贈り物を受け取る時、片手ではなく両手で受けます。主体と対象の二つの手に置かれた贈り物、その上にある目的は、より高い目的、あるいは人物、あるいは神に差しあげられたものです。すると、神の喜びがそこにとどまります。
 二つの物が完全に一体化しているとき、それは普通、じっとしてはいません。常に円運動をしています。さあ、では一つになってまわると、それはどこに行くのでしょうか。北に行くのでしょうか、南に行くのでしょうか、東に行くのでしょうか。一つになると、その運動の方向はどっちなのでしょう。これは中心です。主体と対象がまわると、常に中心に引っぱられます。遠心力と求心力という、二つの相対する力のひとつは引く力であり、もう一つは広がる力です。二つの力は授受し、中心を維持する一つの力が強いとき、もう一方の対象がそのまわりをまわって中心に近づきます。中心の引く力がだんだん強くなると、対象は中心に近づくわけです。近づかざるをえません。しかし、対象の引く力が強いと、中心が動きだします。ですから、二つの力のバランスが重要です。それが方向を定めます。主体の側がより強ければ、対象はその中に引き込まれます。
 神は中心です。では、神は他の被造物の引く力に引っぱられるでしょうか。それとも神が常に、自分の方に被造物を引きつけるでしょうか。どちらだと思いますか。神は力が強いので動かず、他のすべてが自然に引っぱられます。
 では、なぜ一つにならなければならないのでしょうか。学校に行けば、必ず学校の先生と一つにならなければならないし、家庭においては父母と一つにならなければならず、また親友との間でも、その親友たちの間のリーダーを中心として一つにならなければなりません。これはなぜでしょうか。それは一体化することによって、創造主から来る共通目的に近づきたいと欲するからであり、善というものを標準として、すべてが善の側に一つになろうとするからです。

心と体

では、善とはいったいなんでしょうか。だれがその善を定義するのでしょうか。善とは一種の素質です。それはあなた方を、創造主に、宇宙の根源に、より近くあらしめるものです。つまり、本然の素質に対してより敏感にしたり似させたりするのです。それがなんであれ、それはあなた方を創造主に近づけるものです。その素質が善なのです。それでは、どのような素質が、あなた方を創造主、神に似せるのでしょうか。それは創造主の本質であり特徴です。中心的な善とは、公的な性格をもったものです。
 さあ、あなた方自体はどうなっているでしょうか。私たち自体は二つの部分からなっています。それであなた方の中に主体と対象を見い出します。つまりあなた方は、あなた方の中に二つの人間をもっているわけです。一つは心の人間であり、もう一つは体の人間というわけです。実は、この二人の人間は一人の内にあって、常に協力し、分かちあい、共存しあっています。この二人の「人間」のうち、どちらが主体だと思いますか。あなた方は、「体は見えるし、体はいつもそこにある。だから体が主体でなくてはならない」と言うかもしれません。それは正しいでしょうか。(いいえ)。するとあなた方は、心の人間が中心的な人間、あるいは主体だと言うのですか。その通りですか。(はい)。
 では、どうして心が公的なのですか。心が「体君。私の言うことを聞きなさい。世界中をまわって、できるだけ正しい人々を助けなさい」と体に命令したとします。そこであなた方はそれをします。しかし、あなた方の心はそれだけで満足しないで、「なぜあなたは、白人だけを助けるのですか。あなたは黒人や黄色人種の人々をも助けて満足しなさい」と言います。そこであなた方は、世界中のあらゆる黒人を助けて帰ってきます。それであなた方の心は満足すると思うでしょう。しかし心は、それ以上に貪欲さを示すでしょう。「いいえ、私はまだ満足ではありません。世界に出て行って、動物を助け、植物を助け、すべての万物のために尽くして、私の所に帰ってきなさい」。このように心は貪欲で、あなた方がより多くのことをすればするほど、心はさらに広く大きくなり、限りがありません。心には、限界線がないのです。
 しかし、体はどうでしょうか。体はいつも、「どうしてお前は、国や国の行く末のことに関心を払っているのだ。それがお前の、なんの足しになるのだ。自分のこと、自分の腹のこと、自分の財布のことを心配していればいいのだ」と言っています。そうではないですか。体は常に自己中心的です。それは確かなことです。ですから、あなた方の内では、あまりすばらしい平和を見い出せません。二人の「人間」があなた方の内で戦っているのです。
 心は常に、体をある方向に引っぱっていこうとします。体は心を別の方向に引っぱっていこうとします。体は時に、心に反逆してこう言います。「お前なんか向こうに行ってしまえ。私の邪魔をするな。私はこっちの方向に行きたいんだ」。そして体は違う方向に行って、欲することをし、幸福になろうとします。すると突然、心が現われて「体君、君は悪い奴だ。自分の仕事をしていないじゃないか。君は善いことをしていない」。――体はいつも心を恐れています。体は、ある肉的欲望を満たして楽しみを得ますから、心に探知されないように、どこかに隠れようとします。しかしそれも虚しく、心はいつも体がどこにいるかを探しだします。たとえ、ほら穴の中であったとしても、そこに来て「体君。ああそうか、君は悪い人だ」と。

​   主体の願いにかなうべき対象​

 しかし、一方で体は、自分の方向に行くかわりに心に従おうともします。心に引っぱられて、心が欲することをします。そのうちに体は大変疲れて眠くなります。そこへ心がやって来て、「あなたは良い人だ」と、体を調整して一緒に寝てしまうのです。あなた方の死んだ体は、心に従います。心には平和があります。心は、体が言うことを聞くときに、喜びを得ます。たとえ体がどんなに疲れていても、体がいつも心の期待通りに動く用意をしているとき、心はいつも喜びを得るのです。いつも慰めを得て、平和です。時々、悪い体は決意をして言います。「私には心は必要でありません。私は心と絶交したい。ここから出て行け」。しかし、それは決してうまくいきません。体は心から、完全に自由になることはできません。心はいつも、そこにあるのです。
 さて、体は完全に心を占領することができるでしょうか。それは可能ですか。それは絶対にできません。決して心を占領したり、征服したりすることは夢にだにできません。しかし心は、体を占領する力をもっています。心は、体を征服できるのです。では、どちらが主体ということになりますか。占領されるものが主体ですか、それとも、占領することのできるものが主体ですか。
 それでは、心と体を一体化させるというのは、どういう目的のためでしょうか。どうして、心と体を一体化させようとするのでしょうか。あなた方が心と体を一体化させているとき、あなた方は自分を完全な対象としているのです。その時、あなた方は本来の主体であり、自分より高い、最大の主体と授受するようになるのです。あなた方は、より高い主体と授受することができるようになるのです。たとえば、学校で、良い教師は、生徒に良い影響を与えます。生徒は従順で、教師が願
うように従おうとします。そうすると、結果はどうなるでしょうか。それは良い結果を生むのです。ある特定の生徒は、立派な成功に向かって働きだすのです。
 この原理は、世界、国家のどこに適用されても同じことです。中心的主体の願いがあり、そして対象が常に主体の願いにかなった生活をするとき、いつも結果は良くなるのです。会社においても、完全にその会社の目的と一致すれば、その会社は次第に良くなっていくし、国を中心として、完全に一つになれば、もっと繁栄します。
 こういう観点からみると、心は何を一番願うでしょうか。心は善なることを好みます。では、善とはなんでしょうか。善の本質はなんでしょうか。それは、神がいったい何を中心に存在しているか、ということででもあるのです。なぜ、神は存在しているのでしょうか。神が存在する本質はなんでしょうか。神が存在する目的は、力を全うし、知恵を全うすることですか。神ご自身さえも生き、すべてのものが創造される目的、中心的テーマはなんでしょうか。
 そこには何か、ある本質、あるいは願望がなければなりません。そこには、力やお金や知識などの何かがあるべきです。何か中心的な本質があるはずなのです。それは、愛です。それも、ただの愛ではありません。真実の愛です。そしてもし、真の愛が主体であるならば、真の愛の対象がなければならないことになります。そうではないですか。真の愛は中心であり主体です。偽りの愛、不倫の愛とは一つになれません。それらは良い対象ではありません。

   真の愛の道

 私たちに真の愛は必要ですか。(はい)。どうして必要なのですか。(神に近づくため)。ではどうして神に近づきたいのですか。―それは、神が真の愛の主体だからです。神は真の愛の貯水池です。真の愛が得られる唯一のより所です。誰もが窮極的な安息所を求めています。神は永遠の安息所を求めています。多くの人々が永遠の安息所を求めています。すぺての被造物が永遠の安息所を求めています。その安息所の窮極は、いったいどのようなものでしょうか。あなた方は、永遠に安息したいですか。どこに安息したいと思いますか。あなた方はどこに滞在し、どこで生活したいと思いますか。
 「真」とは、いったいどういうことなのでしょうか。(不変)。その通りです。真は、ある質をもっています。それは永遠という性質、不変という性質です。また真の愛の道は、真っ直な道です。そして、それは短い、最短の道なのです。電気にたとえてみましょう。たくさんの回路があって、多くの電線が敷かれていたとしても、そこに電力が接続された時、電流は、どの線が真っ直に最短距離を行くか、正確に知っています。電気は賢いのです。いつも最短距離をまわるのです。たとえ、その最短距離が手強かったり、けわしかったとしても、電流はその方を行きます。そこに火花が見られます。どんなにスパークしても、電流は最短距離を行きたがります。
 そこで、神と人間の間においても、その関係や因縁を結ぶとなれば、そういう授受の道、回路がなければなりません。神と人間との最短距離は、なんでしょうか。(真の愛)。そうです。真の愛の道。それは最短です。あなた方は真の愛が好きですか。(はい)。あなた方が真の愛が好きだというとき、それは、真の愛の道が好きだということですか。(はい)。
 では、あなた方は、最後に何を達成しようとしているのですか。実際には、真の道によってあなた方が最後に期待しているものは、神なのです。あなた方は神を捕えようとしているのです。つまり、あなた方は神を守るのではなく、神をあなた方の立場にしようと思っています。ひじょうに貪欲な生活ですね。あなた方は、神をあなた方のものにしたいと思っています。神は私のものなのです。神があなた方を所有するかわりに、あなた方が神を所有します。神が私を所有するのではありません。それは、私たち人間が求めている窮極的な特権なのです。
 では、なぜ神は。心と体という別々な存在をつくったのでしょうか。どうして一つの存在としてつくらなかったのでしょうか。それは、心と体が一つであったら、なんの楽しみもないからです。心は神の次に世界全体をもつべきです。世界全体と一つになり、それから神と関係をもつのです。そうすれば、変化も豊かで、楽しみも多いのです。
 おもちゃは、いろいろな種類があります。子猫のおもちや、馬のおもちや、うさぎのおもちや……あらゆる種類のものがあります。また、あなた方の家に行けば、いろいろな植物があります。花もあり、緑の木もあります。「私には愛する夫がいるので、他には何もいりません。私に必要なのは夫だけです」。―それでいいと思いますか。その愛を、豊かな楽しいものにするためには、環境が必要です。あなた方は自分のまわりに、動物、自然、木、あらゆる家具、絵画など、雰囲気をつくるものをもっています。そこであなた方は真に、愛の授受ができるのです。
 主人が愛を与えるとき、あらゆる被造物は、その愛に応えます。動物、植物のすぺてが、主人の愛に応えます。また自然は、主人を感動させます。鳥たちが愛しあっているのを見るとき、「ああ、私も主人とあのように愛しあわなければならない」と悟らされます。そう教えてくれます。それは刺激です。美しい自然は、常に刺激を与えてくれます。たとえば、どうしてあなた方はイヤリングなどを身に付けるのですか。なぜなら、その人は、なんとかして、より自然と関わりあいたいからなのです。一つの自然が、体の一部になるのです。自然の一部が、それを身に付けることによって、自分の体の一部になるのです。それは芸術作品と同じです。
 遊び場を作ると仮定してみましょう。それを美しく清潔に、すぺてを片づけて、きれいにします。ゴミ一つなく、木の葉や草の一本もなく、完全にきれいな運動場ができました。しかし、これを誰も、良い芸術的な遊び場とはみないでしょう。そこに、一つの岩山を置き、アクセントにしました。そうすると、たとえみにくい岩であったとしても、あなた方の注意をひきます。これこそ芸術の世界です。人間は、単なる物質ではなく、生物であり、芸術的、霊的な生き物です。ですから、芸術的なものをみようとするのです。

  限界線のない真の自由

 レバレンド・ムーンは特権をもっています。私はどこへ行っても歓迎されます。あなた方が一人で寂しくしていても、たった一人ぽっちでいても、独身の生涯をおくっていても、男やもめであったとしても、先生の姿が見えると暖かくなるのです。あなた方の心を暖めるのです。そうですか。(はい)。あなた方は、私を自分の家に歓迎しますか。(はい)。たとえ、私がたくさんの贈り物やお金をもっていかなくても、私が近くに来ると暖かく感じるのです。内的に暖かくなるのです。満腹になったような気分になります。家が満たされるのです。それは、私が何かを持ってきているからです。そうではないですか。(はい)。それはなんですか。(真の愛)。それは神秘的なものです。
 私は、限界のない生き方をしています。いかなる限界線も効果がないのです。私は、白人の限界線、黄色人種の限界線、黒人の限界線、異質文化の限界線などのすべての限界線を越えていきます。自由に動きます。そうして同じ暖かさと満足を与えます。あらゆる人種を越えて世界を自由に動きまわる私の姿を見て、サタン世界は、「わあ、俺たちはなんとかしなければならない。どこかにレバレンド・ムーンを入れる檻はないか。なんとかして彼を閉じ込めなくては」と言います。しかし、今のところ、まだ、そういう檻を見つけだしてはいないようです。それでなんとかしょうとして、私の動く所へ岩を置いてさえぎろうとしています。しかし、レバレンド・ムーンは動き続けます。たとえ石の壁があったとしても、それに邪魔されることはありません。あなた方も、特別のテクニックをもっており、その壁を越えることができます。壁の下や壁の割れ目を、くぐりぬけることができるのです。
 考えてみなさい。愛は強力です。優れた力をもっています。サタン的愛であっても、それなりの力をもっています。時々人間は、サタン的愛のために命を捧げることもあるのです。とすれば、天的な愛に陶酔しているときには、それはいかぽかりでしょうか。何をもって、あなた方を止めることができると思いますか。止められますか。止められません。
 神の愛は、伸びるゴムのようです。どんなに隠しても伸びていきます。とてつもなく伸縮性があるのです。百マイルも千マイルも。霊的体験によると、心と体の間には命綱があります。霊人体と肉身は、命綱で連結されています。それはひじょうに伸縮性に富んでいるので、あなた方が眠るとき、体も眠るのです。霊人体は霊界のすべてを旅行しますが、命綱は何百万マイルあろうとも関係なく、伸びるのです。伸び続け、決して切れることがありません。そうして霊人体が帰ってくるとき、その命綱は、元通り体に納まるのです。愛はその綱のようなものです。
 あなた方は、自由について語ります。若者が自由について語るとき、彼らは口角泡を飛ばします。「解放されたい、自由を与えよ」と。これは現代の叫びです。自由、何が自由ですか。黄金に対する自由ですか。権力に対する自由ですか。知識に対する自由ですか。なんの自由ですか。もしも黄金に対する自由を得たいからといって、銀行強盗をする自由があるとでも言うのでしょうか。
 私が言わんとするのは、愛に対する自由を与えよ、愛に対する自由を与えよ、ということです。自由、それは、真の愛を受けられるようにしてくれるものです。そして真の愛は、完全な自由を得させてくれるのです。たから、真の愛によってのみ、あなた方は真の自由を得ることができるのです。真の愛によってのみ、真の自由を楽しめます。そうして、真の愛をもつ時、いつも威厳に満ちるのです。いつも誇りを持ち、大股で歩きます。真の愛によってのみ、それが可能です。真の愛をもって、あなた方は前線で活動します。そこには貪欲さがないのです。真の愛はいつも、あなた方の実績にプラスアルファを付加してくれます。その実績は、永遠の意味において。、煌々と輝きます。


百パーセントの真の愛を目指して

 あなた方が地球を引っぱるとき、あるいは真の矢を放つとき、たとえ破滅すると思って地面に向かってその矢を放ったとしても、それは地球を貫いて金的を当てるのです。その金的が、神の愛です。どこに向かって放っても、それは神の心情のもとに行くのです。的を狙う必要は、どこにもありません。的を狙う必要がないのです。このことをどう表現しますか。真の愛は、自動誘導装置を備えています。
 これは単なる話ではありません。あなた方が霊界に入るとき、はっきりとします。それは、日常の生き方によります。真の愛は百パーセント全能です。どんな形をもとうと、どんな方向に向かっていようと、変わりはありません。それはいつも正しい方向に向かい、正しい方向で終わります。私が言ったように。真の愛は、自動誘導装置を備えているのです。あなた方が歩いていようが、飛んでいようが、跳ねていようが、変わりありません。正しい方向へ行くのです。いつも正しいのです。真の愛はいつも正しいのです。
 これが、もし五〇パーセントであるというならば、あなた方は限界をもっていることになります。ということは、完全には限界を越えられないということです。限界に抱束されているのです。もしも真の愛が10パーセントであるとすれば、そこには九〇パーセントの限界があなた方を抱束していることになります。この話を、あなた方は正しいと信じられますか。それとも、そのことを知っていますか。(知っています)。
 たとえば、大学で百点取ったとします。卒業時の点数が百点であったというわけです。その百点は、あなた方の残りの人生にいつもついてまわります。「はい、私は百点という名誉を得て、卒業しました」と。そうですね。ハーバード大学で満点を取ったとすれば、どうなりますか。「私は満点で、ハーバード大学を卒業した者である」と、残りの人生についてまわります。そのように、宗教の世界についても、同じことが言えます。多くの宗教、統ー教会もそのーつですが、その多くの宗教の中において、統一教会はなんの大学でしょうか。なんの教育をする所でしょう。(真の愛)。そうです。真の愛、真の愛の大学ですね。
 世間を見てみましょう。ハーバード大学は有名です。アメリカでナンバーワンの大学です。しかしそこには、腐敗がみられます。神的でない多くのものを発見することができます。神的でない愛、まちがった愛の用い方がそこにはあり、世俗的な愛が氾濫しています。溢れているのです。統一教会が真の愛の大学であるとすれば、ハーバード大学は、反対の極を行っています。私たちは双眼鏡で愛を見透すのです。つまり私たちは、方向性をもっているのです。真の愛という方向です。真の愛という規律です。ここで男女が分かれて座っているのも、その規律のためです。世間では、男女が楽しみをもつこと、それは彼らの世界においては当然のことになっています。
 私たちの目的はなんですか。私たちは真の愛から少しでもはずれたくないと思っています。私たちは、百パーセント、真の愛を目指しています。それは私たちだけの目的のためでしょうか。それによって無限、無限の解放を受けるのです。あなた方が神の肩にのぼるとき、神は文句を言うでしょうか。そんなことはありませんね。あなた方が幸福であるように、神も幸福です。

   真の愛は地獄さえも溶かす

 あなた方は、神を誘拐します。新しい言葉です。神を誘拐する。あなた方は綱を投げ、神を綱の中に捕え、誘拐しようと引っぱります。神は、喜んであなた方に誘拐されたいと思っています。真の愛にです。そのように霊界も動くのです。驚くべきことは、朝起きるとき、百パーセント真の愛が自分にありさえすれば、どこへも行く必要がないということです。神のみ座に行かなくてもいいし、神のみ座を捜す必要もありません。神のみ座の方から、あなた方の方へやって来るのです。それと共に全霊界もやって来て、あなた方の面倒をみてくれるのです。探すことも出かけることも必要ないのです。向こうからやってくるのです。
 レバレンドームーンは、世界中で一番良い条件を出しているのではないでしょうか。まちがいありません。その条件があまりに良く、信じられないくらいにすばらしいので、多くの人々は、レバレンド・ムーンを気違いだと思っているのです。
 もし、真の愛が結果であり、収穫物であるとすれば、ブレーンウォッシュどころではありません。私ならば、ブレーンウォッシュ(洗脳)だけではなく、フットウォッシュ(洗足)、マウスウォッシュ(洗囗)、ボディウォッシュ(洗体)と、あらゆる種類の洗濯をしてほしいと思います。つまり、トータルウォッシュ(総合洗脳)です。反対の人はいますか。(いいえ)。「真の愛は欲しくない。私はどうしても欲しくない」という人がいるでしょうか。ただ問題なのは、真の愛は、あなた方が“本当に導かれ、正しい大学に行っていないならば得られない”ということなのです。あなた方は「正しい大学」に行っていますか。多くの人々は、「レバレンド・ムーンは洗脳している。統一教会員は洗脳されている」と一生懸命に叫んでいます。そのように私たちは、真の愛によって洗われているのです。端的に言えば、ムーンウォッシユされているのです。
 真の愛は火の玉のようです。人がその火の玉に触れると、心と体には問題が何一つなくなります。心と体はたちまちのうちに、ひとつに溶けあうでしょう。真の愛が一つに溶かし込むのです。こうしたことからみると、イエス様は説得力のある教えをなさいました。「汝の敵を愛せよ」というのです。敵を愛すれば、それは消えてしまいます。敵をも含めて、誰でも愛せるようになります。それゆえに真の愛は、敵をも溶かすことができるのです。真の愛は、地獄さえも溶かすのです。私たちは地獄を天国に変えなければなりません。それは真の愛がもっている力です。
 これが、私たちの宣言です。これは、私たちが世界に与え得る最良の贈り物です。世界に与え得る特権です。私たちは永遠に行くことができ、限界線のない贈り物をもっています。真の愛のあるところでは、限界線が限界線にならないのです。私たちはこれを世界に与え続けることができます。今年、来年、そうして、これから千年の間も。

   私たちの敵

 人々は、統一教会がなんであるかを知らないばかりに、足を引っぱろうとします。もし、本当に統一教会を知ったならば、誰も足を引っぱる者はいなくなるでしよう。時々、短気な教会員は「神よ、どうしてあなたは、敵を放っておかれるのですか」、「どうしてあなたは、大きなハンマーを持ってきて、彼らの頭に叩き落とさないのですか」と考えます。ひじょうに短気です。
 しかし、それはまちがいです。彼らは無知なるがゆえに反対しているからです。私たちは、彼らを無知から解放してあげることのできる特権をもっでいるのです。彼らに真理を与えることができるのです。どうして私たちは、彼らを非難できるでしょうか。その上、私たちは真の愛をもっているのです。真の愛は敵を溶かすほどに良いものです。この世界においても、法廷において犯人を叱責するとき、まずあらゆる記録を調査し、判決を下す前に、この犯人が事柄を知っていたかどうかを確かめなければなりません。それと同じことです。
 天国において私たちは、彼らを叱責したり、ただ裁いたり、罰したりはできないのです。彼らにまず教えなければなりません。私たちを代表しているものを、彼らが知っていたかどうか、確かめる必要があります。今まであなた方は、そのような努力をしなかったのではありませんか。彼らに教え、知らせる、無知から救いあげる責任があるのです。それで、私たちに対して陰険な人々や反対する人々を見るとき、それは私の責任たと言って悔い改めなければなりません。彼らに真理を与えなかったから、それが問題であると。そう判断しなければなりません。そう考えなければなりません。もしも彼らが、私たちの代表しているものが真の愛であり、真の愛が何をなしうるかを知ったならば、そうした多くの敵は悔い改めると、あなた方は思いませんか。彼らは悔い改めるでしょう。
 レバレンド・ムーンは正しい道にいます。レバレンドームーンは、どのようにしてあらゆる限界線を突破できるか、どのようにして真の自由に欲することができるか、その方法を知っています。それは真の愛です。
 本当のところ、あなた方に対する最悪の敵は、あなた方の体です。もし、体を征服しようとするならば、あとの残りのものとの一体化は簡単に成るでしょう。氏族・民族・世界との一体化は、実に簡単です。最大の敵は、まさにここにいるのです。つまりあなた方の体です。私は生涯のスローガンをもっています。私は人生の道を開拓してきました。この道を開拓しているのです。その私がいつも忘れないスローガンは、「天宙主管を願う前に自己主管せよ」です。なぜなら体が最悪の敵であることを知っているからです。ゆえに、それが出発点です。一つになるための最初の戦いです。もし、最初の段階で失敗すると、あなた方はどこにも行けません。これが最初の出発点です。したがって、自己を完全に主管する、自分の体を鍛えれば、かなりのところにいることになります。あなた方は目的地に到達するでしょう。そうなりたいと思いますか。真の自由こそ、私たちが話している自由です。
 外の気違いじみた世界では、彼らは日に日に、肉欲、肉的慰め、感覚的欲望、感覚的慰めや満足を追い求めていますが、それらは真の慰めや安息をもたらすことは決してありません。神・心・良心は、彼らにつきまといます。「あなたはまちがっている」と。
 さて、それでは皆さんは、この運動に参加することを始めますか。イエスですか、ノーですか。イエスと答える人は、手をあげてください。神の祝福が皆様の上にありますように。





一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

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世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.10.25 23:51:27
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