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奇   知   外   記

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2024.05.24
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第十四回「世界統一国開天日」記念礼拝の御言
成約九(二〇〇一)年十月三日、韓国・中央修練院 大講堂


 ここにいる人は、どこの人ですか? どこから来た人ですか? 「『日本人』という言葉は、使ってはいけません。」と言いました。それは、「日本の祝福家庭」、「日本の兄弟」です。「日本人」というものは、摂理史にはありません。「米国人」というものも、ありえません。

 きょう、先生に初めて会う人は、手を挙げてください。何人かは、来ているはずではないですか? 全員、先生に会ったことがあるのですか? (「はい。」)それでは、あの後ろまで行かなくてもよいですね。全員、見たことがあるのに、また、何を見るのですか? (拍手)

 人は、会えば会うほど情がいって親しくなるので、会ってはまた会い、会ってはまた会いたくなるのです。

 それでは、一番、慕わしくて会いたい人は、だれですか? お父様です。それは、何のお父様ですか? (「天のお父様です。」)天地を創造された主人であられるお父様です。

 そのお父様が、だれのお父様であられるのかというと、日本のお父様でもなく、韓国のお父様でもなく、“私”のお父様です。一度、言ってみてください。(「私のお父様。」)「“私”のお父様」なのです。

 皆さん。先生の顔を見てください。きょうもまた、み言を語ろうとすれば、四時間ではなく四十時間でも語ることができるのですが、そのような時間もないので、一度顔を見て……。

 わたしは年を取っていて、皆さんは若いので、わたしは皆さんにとって、おじいさんになることもでき、お父さんになることもでき、お兄さんになることもでき、おじさんになることもでき、……。

 ですから、わたしは皆さんよりも年を取っているので、皆さんが尊敬すべき先輩や目上の人であるということは間違いありません。分かりますか?

 皆さんが貴く思って、忘れることのない話を、一言話しましょう。今まで、神様が「わたしのものだ。」と言われることができるようなものが、ありましたか、ありませんでしたか? 堕落する前にはあったかもしれませんが、今まで神様が、「わたしのものだ。」とおっしゃることのできるものがありましたか?

 人間始祖が堕落することによって、すべてを失ってしまいました。万物を失ってしまい、息子、娘を失ってしまいました。神様が一代目であられるのならば、アダムとエバは二代目です。そのアダムとエバの堕落によって、三代を持つことができない神様になってしまわれたのです。

 神様は、アダムとエバまで失ってしまわれたのですから、神様が「わたしたち」という言葉を言ってみたことがあるでしょうか、ないでしょうか? (「ありません。」)

 皆さんは、自分を中心として誇りたいでしょう? そうですか、そうではないですか? “誇りたい”と思うことは、この地上に生きている人であるならば、だれでも同じですが、神様が、ご自身を中心として誇ることができるものがあるでしょうか? ありません。

 神様は、ご自身を中心として誇るということもできないのですが、「わたし」という意識を持つこともできず、そのような立場に立つこともできなかったのです。すべてを失ってしまわれたからです。

 このように、神様は、ご自身の理想のためにすべてを失ってしまわれたので、「わたし」ということ自体も主張することができない、かわいそうな神様でいらっしゃるのです。分かりますか? (「はい。」)

 今まで、「わたしのもの」、「わたしと関係しているもの」ということを語ることのできない立場で生きてこられた神様がいらっしゃるということを知れば、地上に生きている皆さんは、どのような立場になりますか? 不敬なことこの上ない立場、ということになります。

 「私のもの」、「私の父母」、「私の夫婦」、「私の子供」、「私の家」、「私の国」……、そのように語り、主張してきたことが、どれほどとてつもない罪を犯して生きていることになるのか、そのような事実を知っている人は、いません。単刀直入に言って、この話は正しい話なのです。

 この太陽系だけでも、どれほど大きいでしょうか? しかし、太陽のような恒星は、銀河系の中には約二千億個もあり、さらに、そのような銀河が、約一千億個も存在するといわれるのが、この大宇宙です。

 考えてみてください。光は、真空中で一秒間に約三億メートルの距離を進み、地球を七回り半も回ることができます。その速度は、どれほど速いでしょうか? 神様は、その光でも、二百十億年かけても果てまでたどり着くことができないほどに広大な宇宙を創造されました。

 この宇宙を創造された神様は、何のためにこのように膨大な世界をつくられたのでしょうか? それは、大宇宙を抱いても余りある愛のためにつくられたのです。そうして、神様は、愛の相対であったアダムとエバによって、その因縁を結実させようとされました。

 しかし、アダムとエバがいなくなることによって、創られたこの被造世界は、神様の内的心情を打撃する悲しみの象徴物となってしまったのです。ですから、神様が、どれほど悲しまれているかということを考えてみてください。このような話は、図書館の本の中にはありません。文総裁が現れて、初めて語る話なのです。

 皆さんの顔を見れば、それは、だれの顔ですか? 「私の額だ。」と言うでしょう? その目は「私の目」。鼻はどうですか? (「私の鼻です。」)口はどうですか? (「私の口です。」)耳はどうですか? (「私の耳です。」)手はどうですか? (「私の手です。」)その体はどうですか? (「私の体です。」)

 女性のものは、どうですか? 女性のものは女性のものです。男性のものは、どうですか? 男性のものです。そのように、すべて自分が所有の主人になっているという事実です。神様の立場を考えてみた場合、それは、どれほど不敬な罪でしょうか?

 どうして宗教が必要であり、どうして国が必要なのかというのです。すべて粉々にして掃き捨てても、神様のものとして残してさしあげることができるものは、一つもありません。それで、どうして“偉い”と誇ることができるのでしょうか?

 なぜ、「私たちの教会を中心として、私たちの神様が神様であり、あなたの神様は違う。」と言って闘うのですか? それは、狂った者たちです。そのような者たちが、「幸せに暮らそう。」と言って結婚するというのですか? 彼らを神様が結婚させてくれましたか、くれませんでしたか? また、神様の息子、娘を教育しましたか、できませんでしたか? (「できませんでした。」)

 皆さんは、何なのですか? 何ですか、日本の国、アメリカの国、韓国の国、統一教会の文先生などと……。文先生は、このようなことを知っているので、神様の友となるために、“私のものはない”と、否定をしました。絶対否定をしました。父と母から否定したのです。

 そこで神様をよみがえらせてくることによって、神様が私に対して、ご自分を中心として「わたしのものだ。」と言うことができる、そのような“私”をどのようにして取り戻すのか、ということが蕩減復帰の世界であり、恨の道なのです。それは、“私”を取り戻し、相対を取り戻し、“私の息子”を取り戻すことができる道を、どのようにして再編成し、再創造するのかということです。

 神様は、ご自身が、絶対信仰、絶対愛、絶対服従され、無限に投入されてはそのことを忘れ、さらに完全投入されて、この宇宙を創造されました。しかし、神様は、そのようにして創造された大宇宙よりも、さらに大きな世界を今でも創造なさることのできる余力を持っておられるのです。

 皆さんは、そのような“投入しては忘れ、さらに投入することができる余力を持っておられる神様に似よう”という心を持つことを、夢にでも考えてみましたか?

 統一教会の教会員たちは、神様に「福を下さい。」と言うことはできません。私は、「福を下さい。」という祈祷はできません。お金がなく、何かがなくても、「お金を下さい。」という祈祷は、一度もしたことがありません。国も持っていない人が、どうして世界のために「お金を下さい。」と言うのですか?

 たとえ死の道でも、自分が努力して血と汗を流して行くならば、自分の体がお金の壁とぶつかったとしても、お金の壁のほうが崩れていき、また国が崩れていくのです。今、アメリカが崩れていきつつあるでしょう? 三十年間、統一教会の文総裁を握りつぶそうとしたのが、ワシントンとニューヨークと……。

 しかし、これらを生かしてあげるために、今回、わたしが祭祀をするのですが、それは、世界の教団の長たちを集め、世界的に超民族的に行うものです。

 アメリカがいくら偉いといっても、文総裁を認めなくては生きる道がありません。従ってこなくては、天国に行く道がありません。それは、日本の者であろうと、韓国の者であろうと、ロシアの者であろうと同じです。

 また、地獄に落ちたままでいる、いかなる男女であっても、文総裁の旗の下に従っていこうとしなければなりません。その旗の下にでも隠れて暮らそうとしてこそ生きる道があるのであって、“自分を中心として生きよう”と、自分勝手に考える男性や女性たちは、生きる道がありません。

 それは、なぜでしょうか? そのままでは、神様の御前にあって、自分の立つ場がありません。神様さえ信じればよいのではありません。神様は、今、この世の中が滅びようとしているのに、手を下すことのできない神様になってしまわれているのではないですか?

 このようなことをすべて知らなければなりません。そのようなことをすべて知って、きょうという日を考えてみなければなりません。

 きょうは何ですか? 「世界統一国……」何ですか? 「世界……」何なのですか? (「『統一国開天日』です。」)「世界統一国開天日」です。今日、皆さんは、国を持っているでしょう? しかし、その今の国は、サタンの国です。そこには、世界を連結することができる道がありません。

 国はもちろん所有しなければならず、世界も所有しなければなりません。天上と地上にあるすべてのものについて「神様のものである。」と言うことができ、「神様が愛することができる息子、娘」、「神様が愛することができる家庭」、「神様が愛することができる国」、「神様が愛することができる世界」と言うことができる世界が、地上天国であったのです。

 そのようなことが創造理想の完成完結であるので、「アー……」何ですか? (「『アーメン』です。」)願われ、感服する内容が、千年、万年、永遠に継承されるのです。「アーメン」です。「アーメン」とは何でしょうか? これは、「エイメン」です。「エイメン」とは、“ナンバーワン”ということです。それは、“ナンバーワン・メン”のことをいうのです。

 先生の顔をよく見ましたか? (「はい。」)悪口をよく言うような顔つきをしているでしょう? (笑い) あえて悪口を言わなければなりません。悪口を言うことによって……。(録音が一部途切れる)神様に対して、もう分かりましたか?

 神様は、そのように孤独単身で、すべてを失った悲惨な立場になっていらっしゃるというのです。寄るべなき囹圄(囚われの身)の立場に身を置いていらっしゃる、そのような神様を「お父様」と呼ぶのですか? 「お父様」と呼ぼうとすれば、お父様以上の立場に立っていただいて、初めて「お父様」と呼ぶことができるのではないですか? それ以上の立場で呼ばなければなりません。

 「死なんとする者は……」何ですか? (「『生きる』です。」)「生きんとする者は……」何ですか? (「『死ぬ』です。」)死ぬのです。死なんとしてこそ、生きるのです。このようなことは、間違いなく理論的であるというのです。

 死なんとするとき、億千万年の間、解放されなかった神様が解放されるのです。そのような解放の日を迎えなければ、“私”が生きることができないという、かわいそうな罪人……。(録音が一部途切れる)

 ところが、皆さんは、偉そうにしっぽを振り上げ、肩をいからせて「えへん。」と言っていましたが、それは汚れた者たちです。そのような者は、すべて流れていってしまいます。皆さんは、“私たち”という範疇とは関係がありません。“私”とは関係がないという事実を知らなければなりません。

 それは、なぜでしょうか? この宇宙は、神様の主管下になければなりません。ところが、神様が主管することができる“主人”の立場に立つ人間が滅べば、すべて“亡国の種”になってしまうのです。

 “亡国の種”から再び接ぎ木して、神様を解放するところから“興国の種”が……。興国の種です。分かりますか? “亡国の種”、“興国の種”というのです。

 ここは、皆、日本の食口ではないですか? それでは、日本語でなければ分からないではないですか? その耳に着けているものは何ですか? (通訳を聞くための)イヤホンが何ですか、イヤホンが? それは、堕落の贈り物です。堕落がもたらした状況です。言うに及ばない恥ずかしいことです。

 神様を中心として一体圏にならない以上は、日本に生まれたことは、恥ずかしいことです。その恥ずかしさをとめる何ものもありません。それを、そういう立場で、日本が世界の基準となることはできません。だんだん、だんだん、そこが崩れてなくなってきます。何のことか分かりますね?

 「私のもの」と、言ってみてください。(「私のもの。」)そのように「私のもの」と言っている者たちは、強盗団よりも、宇宙を破壊した元凶よりも、もっと極悪な悪党の群れです。それが、「私のもの」と言っている群れです。神様を中心として見れば、そのとおりです。

 それは、いくら女性としてりっぱでも、いくら男性としてりっぱでも、そうです。受け入れますか、受け入れませんか? “受け入れない”という人は、手を挙げてください。“受け入れる”という人は、手を挙げてください。知っていることは知っているのですね。

 ヨーロッパの人たちも、全員イヤホンで聞いているのですか? このように複雑です。だれが、このようにしたのですか? 神様は、このようにはされていません。だれですか? サタンと、“私”の父と母が、このようにし、“私”の先祖が、このようにしたのです。先祖たちです。

 いかなる者であろうと、自らが堕落の子孫であることを否定することはできません。それは、正しい話ですか、正しくない話ですか? (「正しい話です。」)深刻な話ですか、深刻でない話ですか? (「深刻な話です。」)

 わたしが一つ尋ねてみるので、“正しくない”と思う人は、手を挙げてください。一方通行で、すべて終わるのです。悔い改めなければなりません。きょうは何の日ですか? 開天節です。開天節と皆さんと、何の関係がありますか?

 神様の所有圏がありません。日本が、神様の国ですか? 日本の文化が、神様の文化ですか? (「違います。」)米国が神様の国ですか? (「違います。」)韓国は、神様の国になっていません。それらをすべて引っ繰り返して、直さなければなりません。今、希望がありません。

 文先生が、うそをついているかもしれませんが、文先生以外には、本当に希望がありません。一切の希望がないということを知らなければなりません。すべて放棄してしまいました。皆さんも、わたしがサインするまでは、そのままで天国に行くことはできません。事実かどうか、霊界に行ってみてください。

 もうすでに、神様王権樹立を成就させたでしょう? (「はい。」)神様王権樹立を知っていますか、知りませんか? (「知っています。」)どれくらい知っていますか? 神様くらい知っていますか、先生くらい知っていますか? それとも、何も分からずに地獄に行ってしまう人くらいしか知りませんか? そのような人が、王権と何の関係がありますか?

 それは、うそのようですが、事実です。うそだと思うならば、先生の言うことがうそかどうか、死んでみてください。事実です。百発百中、すべて当たるのです。ですから、避ける所がありません。すべて引っかかるようになっています。

 先生は、それを解放してあげようと、千辛万苦の苦労をして、ありとあらゆる精誠をすべて尽くしました。それを、“自分たちを滅ぼすためだ”と思うのですか? 先生は、この“亡国の種”の日本を、エバの国、母の国として選びました。

 母となることができる基台とは、何ですか? すべてを失ってしまった世界において、息子として“私”を主張することができ、娘として“私”を主張することができ、父母として“私”を主張することができる権限をつくってあげるのが、エバ国の使命です。ただ隠しておいて、エバ国になれますか?

 女性は、嫁いでいって息子、娘を生み、義理の父母の世話をきちんとして、嫁と 姑 間の不和な環境を自然に天国にすることができてこそ、嫁いだ嫁としての責任を果たし、ひいては母の役割を果たしているかどうかということにもなるのです。それなのに、天の国の母の役割が簡単でありえるでしょうか? しっかりしなければなりません。

 “わたし”を主張することができない、かわいそうな神様です。それなのに、皆さんは、「私のもの」、「私たちのもの」、「私たちの国」と言っています。そのようなものは、火をつけて爆破して全滅させても、神様の恨は解けません。

 それを文総裁が抱えて身もだえしているので、わたしゆえに滅ぼすことができないのです。それは、わたしが神様のことを、あまりにもよく知っているからです。神様の心情をあまりにもよく知っているからです。

 そのような息子が、このようになってしまった世界をつかんで「解放してみせる。」と言うので、神様は涙を流されながら、その後をついて来られ、涙をふいて「さあ、また行こう、また行こう。」と言われるのです。そのようにして、今まで来たのが復帰の道です。しかし、神様が「また行こう。」と言われるのは、神様が喜んで言われる言葉ではありません。

 そのようにしてでも二重の恨、千年、万年、継続した恨の峠を断ち切ろうとして、そのようにしてこられたという事実を知らなければなりません。かわいそうな神様、かわいそうな真の父母であるということを知らなければなりません。それは、夢のような話でしょう? 皆さんには分かりません。

 それで、皆さんが祈祷するときに、どのように祈祷しますか? 日本のメンバー? 何を中心として祈りますか? 「祝福の中心家庭、◯◯の名前で……。」と祈る、その祈りは、お祈りではありません。祈りというのは、堕落圏に必要なものです。ですから、それは、「懇切に報告申し上げます。」と言うのです。それは、報告です。

 昨日よりきょう、いいことがなければ、報告することはできません。昨日みたいな状況では、永遠に埋めることはできません。前進の発展を目指さない以上は、そうして神の理想郷に発展して、これをだんだん、だんだん接ぎ木して発展していかない以上は、祈ることはできません。そのような立場が、祝福の中心家庭の立場であり、「祝福の中心家庭だれそれの名前で祈る」ことなのです。

 十年前といかに違ったか? 昨年と今年、いかに違ったか? そのままの状態で、そういう祈り、報告をするのは、無礼です。それは、無礼の言葉の上塗りになってしまい、重荷の罪を背負う以外にないという悲惨な状態で終わることになるのです。そのようなことを考える者は、日本にはいないでしょう? 話している内容はいいのだけれど、その内容の根底においては、鉛のような重りが引っ掛かってしまうことになるのです。分かりますね。(「はい。」)

 ですから、神様に対して“私”を主張することができるような状態にしてください、というのです。

 ところで、そのようにすることができる相対は、違います。息子に対して、「おい、息子よ。」と言い、神様と息子二人であっても「私たち」という言葉は出てきます。

 しかし、その二人がいても、そこに国があるわけでもなく、家庭もありません。ですから、息子と娘がお互いに「私たち」と言うことができる、そのような完成したアダムとエバがいなければなりません。

 その二人を中心として愛で一つになるとき、初めて神様の愛を中心として、その中心で神様と二性性相が平面的基準において一つになります。軸が左側に行っても、女性を通して男性が、ぴたっと真ん中に立って、アダムとエバが左右を成すのです。

 それが、神様が「わたしたち」とおっしゃることができる“私”なのであり、そのとき、その“私”も、神様の御前で「私たち」と言うことができ、「私たち夫婦だ。」と言うことができるようになります。そのようなところにおいて“私たち”が生じるのです。

 本来、“私たち”とは、家庭基盤以上で成立します。男性でも女性でも、おじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、自分たち夫婦の三代の四位基台を経て、四代目に息子、娘を中心として初めて種ができ、それを植えることができるのです。

 家庭を中心として、“私たちの家庭”と言うことができる、そのようなところから“私たちの国”と“私たちの世界”ができるのですが、今まで、その“私たちの家庭”を捜し出すことができませんでした。

 キリスト教の歴史は、“新婦”の歴史でしょう? 再臨する新郎と結婚する日のために、今まで準備してきたのです。それは、カイン、アベルです。そのようになってしまったものは、しかたがありません。しかたがないのです。

 皆さんは、“私たちの家庭”を持っていますか? それは、サタン側ですか、神側ですか? (「神側です。」)何ですか? 今、話をしたのに神側ですか? 神様が「わたしの息子よ。」とおっしゃることができるようになっていますか?

 十六歳で、アダムとエバが堕落してしまいました。いなくなったというのです。自分を見てみて、アダムとエバ以上の息子、娘になりましたか? なりましたか、なっていませんか? なれなかったので、神様の御前に「息子である。」と言うことができる立場まで行くことができていません。

 ですから、真の父母を中心として、真の父と真の母を息子、娘として、初めて神様が「わたしたち」と言われる言葉が始まるということを知らなければなりません。そして、真の父母の家庭を中心として、「私の家庭」、「私たちの家庭」という言葉が始まるのです。つまり、真の父母と真の父母の息子、娘を中心として、初めて神様は、「わたしたちの家庭」とおっしゃることができるのです。

 しかし、「わたしたちの国」は、ありません! 「私たちの氏族」もありません。先生は、これを編成するために世界に拡張して祝福してあげたのですが、この祝福がでたらめになっているでしょう? 皆、野良犬のようになってしまっています。まるで無人の境地です。

 先生が祝福を受けるまでに六千年かかりました。しかし、それは聖書の主張であって、実際の創世からは、何千万年もかかっているのです。

 今まで歴史は、“カイン、アベル”を解決するための闘争歴史を経てきました。それで、民主世界と共産世界、左翼と右翼に分かれたのです。

 アダム家庭において堕落するときに、アダムとエバを中心として、右翼が何かというとアベルであり、左翼が何かというとカインです。弟が兄になり、兄が弟になってしまいました。これが引っ繰り返ったということです。それを元に戻すのは、どれほど大変でしょうか?

 蕩減復帰であるとか、復帰摂理的な歴史観を中心として見るとき、歴史がそのように流れていき、世界がそのように流れていったということが分かるのですが、そのことをだれも知りません。統一原理を知ることによって、地上世界も天上世界もすべて、きれいに分かるのです。

 このように恵みのあるものを教えてあげ、さらに歴史も、自分と世界を取り戻して主人の役割をすべき時代に入ってきたのに、自分自体を喪失し、自分の家庭を適当でない方向に引きずり回しています。そうしておきながら、それですべて成されたと思って、「真の父母が行く所に行こう。」と言うのですが、そのようにしては、行くことはできません。

 今までは、楽園と地獄がありましたが、家庭的楽園と地獄が生じます。自分が成したとおりの所に行くようになっているのです。統一教会に来た人は、先生を通して上がっていきます。

 李相軒氏の霊界からの報告で、霊界の実相を見れば、統一教会を信じて亡くなっていった、すべての統一教会の食口たちは、そこでの待遇が違うというでしょう? そのように上がっていくのです。

 神様、そして先祖や霊界のすべての天使たちが協助して、皆さんが上がっていくことができるように、どんどん道を開いてくれるのです。分かりますか? (「はい。」)分かりますね? (「はい。」)

 「私の夫。」と言ってみてください。(「私の夫。」)日本の女性がたくさん来たので、尋ねているではないですか? 「私の夫。」と言ってみてください。「私のだんな様。」と言ってみてください。言ってみてください。(「私のだんな様。」)言いましたか?

 そのだんな様は、本当に“私の夫”ですか? 本当に自分のだんなさんですか? サタン世界、堕落世界と何の関係もないですか?

 たった一つ、神様以外に関係がないという立場に立っただんな様になってこそ、そのときのエバにおいて「私のだんな様」と言うことができるのです。そのような立場ですか? だんな様たる者は、実際には悲惨な立場です。それを「私のだんな様」と信じる悲惨さを自覚することのできる日本のエバ国の家庭、女性というのは、一人もいません。

 このように先生の言うことは、うそですか、本当ですか? (「本当です。」)本当ですか、うそですか? (「本当です。」)うそです!(「本当です!」)この者たち、先生の言うことは、うそです!(「本当です!」)本当です。それならば、本当にやってみてください。これから帰ったら、“本当のこと”をしてください。

 心身一体圏を成し、神様の香りのする女性となって夫を感服させ、強くなって、自分のだんなさんがついて行かざるをえないようにしなければなりません。

 そうして、神様がごらんになったときに、神様が法廷での弁護士のような立場で、その夫のために弁明し、保護してくださるようにならなければ、「私のだんなさん」と言うことはできません。それが、いかに、真剣なことでしょうか?

 祝福を受けて生まれた子供は、“私の子供たち”です。そして、夫婦とともに育っています。しかし、それは、本当に神様の子供、“私の子供”と言えるような子供ですか? 日本の歴史や伝統を否定することのできない立場の日本人の夫婦や、米国の普通の暮らしをしている夫婦などは、天国の家庭でも、天国人の夫婦でもないではないですか?

 それが、神様が認めてくださるような父子関係を築き、神様の子供になることができるのか、ということです。そのような、とてつもないことを考えてみてください。

 そのようなことを分かって批判してみるとき、ただ座ってご飯を食べて寝るということは、恥ずかしいことです。避けることはできません。そのような立場にある現在の自分という存在について、はっきりとした自覚を持たなければなりません。逆の方向に回って行く以外に、生きる道はありません。それは、理論的です。分かりましたか? (「はい。」)

 先生が日本語で話をするので、韓国の人たちは、何の話か理解できません。だれが、このように面倒な状態にしたのですか? 今後は、韓国語が分からなければなりません。(「はい。」)韓国語が分からなければ、来ることもできないようにして、入ってくることができないようにします。

 これからは、先生がサインをして、カードを作ってあげます。先生が作ってあげたカードがなければ、韓国の地に来ることはできません。自分の財産を売ってでも、間違いなく言葉を学ぼうと努力し、ご飯を食べずに断食してでも、一瞬のうちに……。子供たちは、六か月ですべて学んでしまうのに、今のようにしていては、六十年たっても学ぶことができません。

 先生は、本当のことを言っています。本当のことを言っているのです。うそではありません。寝ぼけた、そのような話ではないのです。分かりましたか? (「はい。」)はっきり、はっきりと分かりましたか、分かりませんでしたか? (「分かりました。」)

 明日になって、もう終了してみたら、今、はっきりと語ったことも、うそになってしまうかもしれません。もう大分、八〇パーセント以上は、うそになってしまうことでしょう。

 皆さんは、その後も、習慣づいた日本的な環境の生活をそのまま続けるでしょう。玄界灘を越えてしまえば、“韓国で、先生の前に誓ってきたのだけれど、日本においては、いろいろな事情があって、しかたがない”と。そのように“しかたがない”と考えて、それはもう、地獄の奥地まで落ちてしまうのです。

 ですから、新しく覚醒しないといけません。分かりましたか? (「はい。」)日本のことをよく知っており、日本の女をよく知っている先生は、日本語で警告します! (「はい。」)警告です。そのことを記憶してください。

 ここにいる人たちは、韓国の人ですか? (「はい。」)韓国の人でも日本の人でも、何が異なるのでしょうか? 目を見ても同じで、鼻を見ても同じで、顔もすべて同じで、体もすべて同じで、男性も女性も、顔を見れば、皆、親戚のようなのに、何が異なるのでしょうか?

 ですから、言葉が異なるのが問題です。文化が異なるのが怨讐ではないでしょうか? 日本人と韓国人は、同じではないでしょう? 何が異なるのですか? 顔は、すべて似ているではないですか? 男性も女性も、同じものはすべて同じなのであって、何が異なるのですか?

 文化が異なり、マール(言葉)が異なるのです。と言っても、それは乗り回すマル(馬)ではありません(韓国語では、「言葉」と「馬」は、同じ「」と書くことから)。(笑い)あなたは、なぜ笑うのですか? あなたは、韓国語が分かっているようですね?

 言葉が異なるのに、言葉によって、言葉を通して知ろうとすれば、大変です。本一冊で済むことが、翻訳し、通訳することで何百、何千冊、何万冊になってしまうのです。

 さあ、「私を取り戻そう。」と、言ってみてください。(「私を取り戻そう!」)“私”を取り戻して、何をするのですか? “私”を取り戻してこそ、神様が“私”に対して「わたし」とおっしゃることができるのです。“私”を取り戻してあげてこそ、神様が“私”に対して、「おい! わたしの息子よ。」とおっしゃるのです。

 女性においても、そうです。“私”を取り戻してこそ、神様が“私”に対して、「おい! わたしの娘よ。」とおっしゃることができるのです。そうして、「わたしよりもりっぱだ。」と言われるのです。それは、神様よりもりっぱだということです。

 そのとき、神様を“お父様”と思うのです。神様をだれだと思うと言いましたか? だれだと思うというのですか? (「お父様です。」)お父様とは、何ですか?

 父母の愛と引き離そうにも引き離すことができない関係を持ち、生命と根源関係、血統と根源関係を結んでいます。その三つのうちの一つだけをもって生まれた存在はありません。その三つが一つになって、生まれるようになっているのです。

 そのような“私”なのです。その次は、何ですか? 男性ならば、そのような女性をつくらなければならず、女性ならば、男性をつくらなければなりません。

 ここの人たちも、イヤホンを持っていますか? (「英語は、だめだそうです。」)英語では聞けないのですか? (「……。」)このような集会には準備しなさいと言ったではないですか? あなたは、きちんと聞き取れるので問題ありませんが、千里万里の遠い道のりを訪ねて来て、言葉も理解できなくて、どうするのですか? 英語が分からないのですか?

 韓国語を学びますか、英語を学びますか、日本語を学びますか? (「韓国語です。」)なぜですか? (「学びやすいからです。」)なぜですか? なぜ、学ばなければなりませんか?

 真の父母に従っていこうとするので、真の父母のようになろうとするので、真の父母が願う人になろうとするので、そのようにするのです。通訳では、七〇パーセントにしかなりません。学問の世界でも、すべて原本を読み、一つの単語でも原本を読んで理解している人が、通訳を通して理解している人を凌駕するのです。

 さあ、「きょうを期して、私は間違いなく、三年以内に韓国語を完成する。」、それとも「できない。」、この二つのうち、どちらですか? “できない”という人は、手を挙げてみてください。それでは、“する”という人、手を挙げてみてください。三年以内です。ここは、いないのですか? (笑い)

 韓国の食口は、英語と日本語を学ぶのです。(「はい。」)それとも、苦労しないでさぼろうというのですか? 学びなさい、というのです。しなければなりません。原本を読まなければなりません。翻訳したものでは分かりません。

 わたしは、日本語が上手で、英語も分かる人ですが、それらの言語は、韓国語には及びません。神様が、かわいそうな韓民族に偉大な言語を与えてくださったのです。韓国語では、四十九億とおりの発音ができます。ですから、どの国の言葉でも発音できないものがありません。宇宙にある音声を、すべて発音できるのです。これから、韓国語さえ勉強すれば、……。

 もう先生は、八十三歳のおじいさんですが、五、六十年前に学んだ日本語を話しても、聞き取れるでしょう? (「はい。」)発音が良いのです。(「良いです。」)それでも、あるときは、「おかあさん」の「か」を忘れて「お~! さん」と言うときもあります。

 ぼけたおじいさんは、「お母さん」であるか何であるかを忘れて、「おおおお、(笑)かあああ。」と、捜して回るのです。そのような年齢の先生であるにもかかわらず、六十年前に使った日本語を堂々と語って、皆さんの耳に逆らわず、聞き取ることができるような話をし、発音するということは、偉大なことです。(「はい。」)ですから、この韓国語を完全に勉強して、流暢に話せるようにすれば、世界の言語を語ることは問題ありません。

 日本の宣教師と比べると、韓国の宣教師は、その国の言葉を習得するスピードが、三倍以上早いのです。ですから、外出して、一日の間、新しく覚えた言葉をハングルで書き取ってきて、夕方、家に帰ってから写し、それを朝になってそのとおり読めば、その国の人も皆、その言葉を聞き取ることができます。

 けれども、日本の宣教師が、その国の言葉の発音をカタカナやひらがなで書き留めた場合、それを何回発音しても、「何? 何?」と聞き返されてしまうのです。その音は、聞き取ることができません。

 ですから、日本の宣教師が海外に一度行って、そのような環境に追い詰められ、それが三回以上重なった場合には、もう、口は永遠に閉じてしまうのです。そうして、語ることができなくなってしまうのです。韓国の宣教師は、もういくら長いのを書いても、みんな聞き取ることができます。

 そのようなりっぱな世界一の言葉が、隣国の地にあるということを無視した場合、そのような日本人は、将来は、世界の外交圏において、皆、ぺちゃんこになるのです。

 韓国人と日本人とでは、外交の世界においては、日本人は韓国人に負けます。まず、腹において負け、言葉において負け、そして外交において負けてしまいます。

 日本人は、小さいのです。お土産を上げるとき、韓国人ならば、いっぺんにたくさんのお土産を上げようとします。日本人は不思議です。(笑い)十ドルの出費ができないのです。そうして五ドルか三ドルか。韓国人であった場合、そのような土産は、持っていくことはできないのです。

 韓国では、お父さん、お母さん、あるいはおじいさんの所を訪ねるような場合には、一年のうちで最高のもの、一年の中で使った最高基準を標準として土産を贈るような姿勢を持つように、伝統的に修行してきているのです。ですから、日本は外交世界において韓国にかないません。日本は、将来、困ることでしょう。そのようにして、韓国人に外交で負けてしまうのです。

 ちゃんと「島国根性」という話があるではないですか? (笑い)それに比べ、“大陸根性”とでもいうべきものは、特別です。そのような立場が違うのです。

 ですから、日本の女性たちは、日本人と結婚したらだめです。(「はい。」)最近の研究報告では、男性の精子の数が、通常は、三億を超えないといけないそうですが、もう、ずっと一億五千万から七千万くらいまで落ちているということです。

 それは、韓国人蔘を食べないと、補充ができないといううわさです。(笑い)本当です。専門家が言っているのです。(「はい。」)それで、もう高麗人蔘はそんなにたくさんないので、一生涯食べる分、トラック一台分買っておかなければ、それは、後孫が、もうずっと生まれてこないかもしれません。

 ですから、日本の女性は、韓国の男性と結婚するのが、神様から贈られた、それはもう最高のお土産であるということになります。(「はい。」)(笑い)けれども、それは、いくらお嫁に行ったといっても、そこで子供を生めば、それは日本の子供を生んだことになるのです。韓国人であれば、韓国人を生むのです。

 韓国人は、国境を超越することなどは、問題ありません。国境を越えて、一日に三つの国を行ったり来たりします。それは、訓練されているのです。日本も自由に行くことができます。

 先生も、統一教会の教主であるので、今、日本や中国、ロシアを行ったり来たりすることは、問題ありません。国境圏内に包囲されているものを、解放圏の旗を揚げて、どこへ行っても、万歳の歓声を上げて、国境を堂々と越えるのです。そのようにして、一回、二回行った場合には、皆、友達です。分かりましたか? (「はい。」)

 先生は、不思議な内容のことをたくさん知っているのですが、その内容をすべて知ったら、“韓国人は恐ろしい”と思うかもしれません。先生が、そのような腹と恐ろしいほどの能力を持たなければ、これはもう、どこでも勝つことはできないのです。

 分かりましたか? (「はい。」)日本の女性たち。どうですか? 「日本の女さん」、「日本の女様」、どちらがいいですか? (笑い)「様」、「さん」、どちらがいいかと聞いているではないですか? (笑い)「どちらでもいい。」と、そのようなことでは困るのです。

 「様」と言えば、神様です。それで「女様」とは、神様の妹になるようにつけられたあだ名、ということになります。ですから、「女様」と言われれば、“いやあ、神様の妹の名で呼んでくれるなあ。ありがとうございます。”と、悔い改めなければならないのです。それも皆、分別しないで、「◯◯さん」とか、「◯◯様」などと使っているのでしょう?

 きょうの説教の内容は何だと思いますか? 先生は、きょう、重要な話をしました。それは、神様を中心とした“私”というものについてです。“我”という環境を持たれない神様の御前に、自分自身が、“自分”と“自分の家庭”と“自分の国”を持ったということになれば、それは無礼千万ということになります。分かりましたか? (「はい。」)

 それでは、日本が持っている万物は、日本人の万物ですか、神様の万物ですか? (「神様の万物です!」)“神様の万物である。”と考える者が、日本人の中で何人ぐらいいるでしょうか? 皆さんの中で何人ぐらいいるでしょうか? 率直に比較対照してみた場合、何人ぐらいいますか? 自分のものと思いますか、神様のものと思いますか? (「神様のものです。」)

 “神様のものである。”と思ったら、自分の体まで神様のものです。これはもう、男の体も、女の体も、神様のものです。自分のものではないのです。神様の国のために奉献すべき、貴い宝であり、道具なのです。

 それを、自分のものを勝手に使うことによって、フリーセックスができるのですか? 定まる所のないホームレスペアを作ることができるのですか? 絶対できる、できない? (「できません。」)で、き、る。 (「できません。」)で、き、る。(「できません。」)で、き、る! (「できません!」)で・き・る! (「できません!」)で、き、る! (「できません!」)永遠にやっても、先生が負けます。(笑い)いくらデモをやったとしても、共産党が何百人のデモをやったとしても、真理には負けるのです。

 共産党は、デモをやって、統一教会は大会を行うのです。この大会は世界的です。お母様も日本で東京をはじめとして大会を行い、講演をします。

 ですから、今度帰れば、自分の一族の大会を行うのです。その数多くの氏族、一族を合わせて、民族大会を行い、市の大会、県の大会、国の大会と行って、全国で一族を皆、動員せざるをえないようになったら、その国は、神様の方に献納することが可能になります。そのような便利な時代になってきました。

 それは、反対しうる立場にあるサタンでもできません。先生は、具体的、理論的に教えます。サタン側は理論的ではありません。頭と後ろが合わないのです。頭と中間と後ろというように三等分すると、皆、別々になるのですが、先生の教えは、一つになるのです。それは、一方通行です。言ってみてください。(「一方通行。」)本当ですか? (「はい。」)

 先生が、今から五十年前に、秘密に内緒で話した内容を、今、世界的に話しています。それを今、みんな公開しても一方通行で通じます。真理というものは、変わらないのです。しかし、世界は、そしてサタンは、皆、変わっていきます。根と枝も幹も変わってしまいます。

 そこで、枝を切ってしまい、幹も切ってしまい、根、中心の根まで切ってしまい、否定してしまうのです。そのような滅亡の世界を前にした、この限界をいかに消化していくか、いかに自分自身、覚悟をし、自分の家庭を覚悟するか? そのように、簡単な問題ではないのです。分かりましたか? (「はい。」)

 さあ、きょうは、何の話をすればいいですか? (「真の愛!」)(笑い)何ですか? (「『真の愛』です。」)どのようにして真の愛を訪ねていくのですか? 真の愛を訪ねていくためには、真の愛が目に見えなければならないでしょう? しかし、真の愛は、目に見えないのです。見えないところを、どのようにして訪ねていくのですか?

 それは、自分を中心としては、永遠に訪ねていくことはできません。自分を犠牲にし、自分を否定し、相対のために生きるところにおいてのみ、真の愛の芽が出始めるのです。

 なぜ、そうなのかというと、真の愛の前には、相対のうち一人だけでは、芽を出すことはできないのですが、神様の代身の立場に立ち、ために生きてあげる主体の立場に立っていれば、そこには芽が出てくるものなのです。分かりますか? (「はい。」)

 主体がいて、相対の立場で、ために生きてあげれば、その主体に芽が出てくるのです。簡単です。ですから、「死なんとする者は……」何ですか? (「『生きる』です。」)「生きる」です。死なんとすれば、地獄までも撤廃することができるのです。それでは、「生きんとする者は……」何ですか? (「『死ぬ』です。」)

 生きんとすれば、だんだんと地獄に加担していくのです。それは、百八十度反対です。善悪は、行く道が百八十度反対の方向であり、出発地と行く目的とが異なるのです。

 それで、真の愛の定義をすべて下しました。見てください。目は、鼻が必要ですか、口が必要ですか? 尋ねているではないですか? 目は、鼻が必要で、口が必要で、耳が必要で、手が必要ですか? 尋ねているではないですか? (「必要です。」)どうして必要なのですか?

 男性には四肢五体があり、女性にも四肢五体があるのですが、その四肢五体の焦点を合わせるものが愛です。ですから、目の焦点、耳の焦点、口の焦点、それから手の焦点、男性の焦点、女性の焦点を合わせることができるものが、愛なのです。

 目自体が焦点を合わせれば、今度は、その周辺のにおいをかぐ焦点を合わせたくなります。愛する人が目の前にいるのに、ただ見ているだけですか? それとも、くんくんとにおいをかぎますか、かぎませんか? (「かぎます。」)

 それから、今度は話をしたくなりますが、そのとき、相手の話も聞かずに、ひそひそと面白い話を夜通し一方的にしたいですか? 聞きたいし、話したいでしょう? (「はい。」)

 ですから、目が必要であり、鼻が必要であり、口が必要であり、耳が必要なのです。そして、いくら目や鼻や口が必要であり、耳が必要であっても、手がなければ、どれほど悲しいでしょうか? 愛する人が目の前にいるのに、見ているだけですか? 愛する人に触れるとき、顔でこするのですか?

 手があって、「ああ、この耳は美しいなあ。ああ、この鼻はきれいだなあ。ああ、この唇は、鳩のくちばしよりももっと美しいなあ。ああ、この頭が良く、この体が良いなあ。」と言って、なでてあげるのは、だれがしてくれるのですか? (「手がしてくれます。」)手がしてくれるのです。

 そして、男性のものと女性のもので、何をするのですか? 焦点を合わせますか、合わせませんか? (「合わせます。」)焦点を合わせるためには、全体のために生きて、全体が必要とする最高の焦点基準に立ち、その場において全体が一つになるのです。

 そのようになってこそ、私の体自体が、数限りない無数の細胞が喜び、四肢五体が、「ああ、良い」と言って喜ぶのです。顔も喜び、目、鼻、耳、喜ばないものがありますか?

 このようになるとき、目だけが笑いますか、鼻だけが笑いますか、口だけが笑いますか、耳だけが笑いますか? 体が笑って、「はははは。」と言うとき、鼻もぴくぴくするでしょう? (「はい。」)目も開いたり閉じたりし、耳もぴくぴくし、手もじっとしていないで、このようにするのが真の愛です。

 そして、永遠に、永遠に、永遠に終わることなく、その刺激がどんどん、どんどん、行けば行くほど強い刺激を加えてくれ、宇宙的な愛までも接ぎ木することができるものが真の愛なので、真に愛して、それを感じれば、死んでも止めることはできません。アーメン。(「アーメン。」)

 そのようになれば、監獄に入っていっても、幸福な人になり、どこに行っても、死の境地に行っても死にません。そうして、解放的神様の特権的基準において、神様が願われる以上の位置までも、“私”が復活圏を持っていってさしあげることができ、それをもたらすことができる人になるのです。それ以上幸福な人が、どこにいるのでしょうか? 分かりますか? (「はい。」)

 さあ、きょう、この十三周年の「世界統一国開天日」ですが、十三数は……。今年の一月十三日は、何の日でしたか? (「『神様王権即位式』です。」)「神様王権樹立」です。十三数は、春夏秋冬、四季の十二か月を中心として見た場合、中心数です。

 そして、きょうの「世界統一国開天日」も、制定後、満十三周年であり、十四回目になりました。このように、すべて合っているというのです。そして、神様王権樹立をしたときから、今年一月から九月を経て、十月の開門をする三数、それがきょうです。いつでも三数を区別し、新天地に大きく区別をするのです。このように、いつも三日であるとか、三年であるとか、三十年が問題になるのです。

 きょうが、何日ですか? 十月何日ですか? (「三日です。」)明日は、何日ですか? (「四日です。」)四日は、何の日ですか? (「……。」)明日も、開天節ですか? 何の開天節ですか? 天の門が開いて、先生が西大門刑務所から出てきた開天節の日です。そのようになるのです。

 それでは、十四日は何の日ですか? (「以北出監日です。」)興南監獄において、天地の門が開いて、そこから出てきたのも開天節です。皆さんが死んで、昇華式をするのも、自分の開天節です。天上天下に行くことができない所がなく、すべてが“私”の所有に転換され、それを“私”の懐に抱いて遊び回るのです。言葉だけ聞いても、気分が良いでしょう? (「はい。」)

 さあ、「ために生きる人は滅ぶ」のであり、「自分のために生きる人は発展」します。(「違います。」)違いますか? (「はい。」)では、文総裁が、「皆さんは、永遠に先生のために生きて死になさい。」と言えば、どうですか? (「……。」)何ですか? (「死にます。」)先生は、どうですか? 皆さんが、「死になさい。」と言って、わたしが「死なない。」と言えば、それは、一つになっているのですか?

 何が、熱意をもって一つにさせるのですか? 真の愛です。真の愛があるところは、永遠と瞬間を分けることはできず、瞬間と永遠とが、いつでも同参することができ、一緒に同居生活することができ、相続が可能なのです。それが貴いのです。何が貴いのですか? 真の愛です。

 さあ、今、時が来ました。皆さん。今、統一教会は統一教会ですか、統一国ですか? (「統一国です。」)何ですか? 統一家庭ですか、統一教会ですか、統一国ですか? (「統一国です。」)統一家庭にもなるのです。統一教会にもなるのです。統一国にもなります。

 それは、なぜでしょうか? 教会というものは、氏族を中心としての代表です。ですから、超宗教というときには、そこには民族がありません。一つしかありません。そのことを知らなければなりません。

 それゆえに、宗教の根は一つです。神様の真の愛です。数多くの宗教も、このことを知りません。ですから、霊界についても、真のご父母様が教えてあげたすべてのことは、結局、“神様は、どのようなかたであられるのか?”という根につながっているのです。そして、それは「“私”のお父様だ」ということです。

 神様が、どのようなおかたなのですか? (「“私”のお父様です。」)“私”のお父様なのですが、だれが、そのお父様に似たというのですか? だれがですか? もう、祝福を受けて、すべて知っているので、はっきりと教えてあげます。“私”の家庭が、神様の祝福家庭であり、その中心家庭であるので、神様を先生よりももっとよく知っているのが、夫ということになるのです。そういうことではないですか?

 先生と一緒に走れば、負けますか、勝ちますか? オリンピックのチャンピオンが、万年チャンピオンになろうというのは、どろぼうでしょう? 記録を破らなければなりません。そうではないですか? 記録を破らなければならないでしょう? (「はい。」)破る自信がありますか? 分かりますね。(「はい。」)

 先生が、すべて個人から家庭、氏族、民族、世界、神様まで往来することができる道をつくったとすれば、そのような世界の国、天の国、統一の国は、まだ成し遂げられていません。

 皆さんの国、百二十か国、百八十か国以上を連合して、一つにするようにしてこそ、世界の国家は、自動的に形成され、自動的に完成され、また、天地も、自動的に統一されるのです。問題は国家です。分かりますね? (「はい。」)分かりますか? (「はい。」)

 先生が、神様の王権を樹立して神様を解放してさしあげ、蕩減条件的基盤の上において、歴史上の各時代で失敗したすべてのことを再び勝利した条件の上に立てておくことによって、どのようなことが起きるのでしょうか?

 神様が勝利された条件基盤に従って、その橋に従って個人から天上世界まで、思いどおりに上がって行ったり下がって行ったりすることができるようになるのです。しかし、それは、自動車に乗ったり、飛行機に乗ったりして、行ったり来たりすることはできません。分かりますか? (「はい。」)

 それでは、皆さんが、飛行機に乗って行ったり来たりしようとすれば、どのようにしたらよいのでしょうか? そのためには、数多くの国が合わさって、一つの国にならなければなりません。空中には、どこにでも道があるでしょう? それと同じことです。天地には、どこにでも道があるのです。同じことです。

 皆さんの国々が合わさって、世界ができます。そのように世界が合わさって天地ができるのですが、国まで満たせば、すでに国と世界に行く道が築かれているのです。それゆえに、国の完成者は、世界に接ぎ木すれば自動的に存在し続け、一瞬のうちに天上世界まで連結することができるのです。分かりますね? (「はい。」)

 それで、今回、アラスカのコディアクで修練会をしようとしたのですが、それを済州島に連れてきて、十四日間、修練をしました。そのとき、先生は「決断する」と……。最後に、わたしたちは、どのように生きなければならないのでしょうか? そのとき、先生は、「自然に帰ろう」という、このような話をしました。分かりますか? (「はい。」)

 今から皆さんは、自然と一つにならなければなりません。自然とです。分かりますか? (「はい。」)自然と一つになるためには、水の魚と一つにならなければなりません。

 神様は、天地を創造されるときに、水の魚を先に創られたでしょうか、陸地の動物を先に創られたでしょうか? 何ですか? (「魚です。」)魚なのか動物なのか、わたしも分かりません。「水があり、土がある所には、必ず動物が生まれる。」と言うのですが、水には魚がすみ、陸地には動物がすむようになっています。

 動物は、何種類いますか? 昆虫がいて、そして鳥類がいて、動物がいるのです。昆虫は、足が何本ですか? (「六本です。」)六本です。それから、鳥類は、脚が何本ですか? (「二本です。」)二本です。それから、動物は、脚が何本ですか? (「四本です。」)人は何本ですか? (「二本です。」)二本です。

 鳥と動物と人では、どれが主人ですか? (「人です。」)人も、「四肢」と言うように、手足が四本あるでしょう? (「はい。」)四本あるのですが、鳥も、よく見れば六本あるのです。捜してみてください。すべて同じなのに、人だけがまっすぐに立つのです。

 それは、なぜでしょうか? 陸地世界においても、深い所に入っていって、そこに立ち、最後に見渡して合図を送ることができるのは、鳥でもなく、動物でもありません。分かりますか?

 じっと見てみれば、動物も、水で泳げば、すぐに泳ぎます。人はどうですか? 人が入っていけば、立って遠くを眺めるのです。人が立つということは、知っているでしょう? 立って泳ぐということも知っているでしょう? そのように、人間は、すべての面で異なるのです。ですから、人が中心なのです。

 ですから、堕落とは何かというと、人間が自然の主人になることができなかったということです。そうですか、そうではないですか? (「そうです。」)朝、魚たちが、「ああ、ご主人様。グッドモーニング。お早うございます。」と言うのです。

 「お早う。」は、「早く仕事をします。」ということです。「早く仕事をして、休んでください。」と言うのです。ですから、「お早うございます。」の「ござい」というのは、「御座居」と書いて、“座って休みなさい”ということではないですか? そうではないですか?

 それゆえに、最も重要なことは、だれが自然と密接に暮らしているのか、ということであり、それが、宗教世界において必要な生活なのです。ですから、魚を愛し、昆虫を愛し、鳥を愛し、動物を愛し、それから、そこで愛の訓練を受けることによって、人間を愛するのです。

 人を愛することは、動物よりも、昆虫よりも、植物よりも、自然界全体を愛することよりも、もっと愛さなければなりません。

 ですから、男性は、自分の妻を自然を愛する以上に愛さなければならず、父母は、自分の子供を自然を愛する以上に愛さなければならず、また、子女たちも、父母を自然を愛する以上に愛さなければなりません。そのようにすることができれば、神様の理想的な主人として、その資格が完結するのです。アーメン。(「アーメン。」)

 さあ、そのような世界の主人となって暮らしたいですか? それとも、そのような世界の主人になろうと、それを見習って努力しながら暮らしたいですか? 皆さんは、主人になって暮らしたいのですか、主人になろうとして暮らしたいのですか、どちらですか? (「主人です。」)主人になろうとすれば、神様と同じ立場に立たなければなりません。すべてのものは、神様を主人にしようとするのです。

 ですから、自然に帰りましょう。それでは、帰って、何をしようというのでしょうか? 水に住む魚も、また、水自体も、そして土地自体も、木や植物、動物も、いかなる存在であろうと、モデル的な主人の資格を持った主人にならなければなりません。そのように生きなければなりません。

 そして、皆さんは、そのような自然の前に、植物を見ても恥ずかしくなく、動物を見ても恥ずかしくなく、魚を見ても恥ずかしくなく、すべての自然の前に恥ずかしくない主人とならなければなりません。

 植物、動物、魚の世界では、どのように暮らしているのですか? そこにも雄と雌がいます。知っているでしょう? (「はい。」)雄と雌がいるのです。昆虫にも、雄と雌がいるでしょう? (「はい。」)

 最近では、病原菌までも雄と雌がいて、子どもを産むということが分かったということですが、顕微鏡で拡大しなければ見ることができないそのような世界でも、お互いに愛し合って子どもを産んで暮らしているというのですから、驚きです。

 顕微鏡で拡大すれば、細菌を見ることができるというのですが、その細菌のすむ世界は、どれほどの大きさでしょうか? それは、すべて見えるでしょうか、見ることができないでしょうか? (「見ることができません。」)そのような微細な世界でも、雄と雌が愛することができますか、できませんか? (「できます。」)

 それでは、昆虫は、キスするでしょうか、しないでしょうか? (「します。」)見たのですか? 見ても見なくても、すべて分かるようになっています。キスだけするのでしょうか? ちゅっちゅっと吸ったりもします。一度言ってみてください。「ちゅっちゅっと吸ったりもする。」ということです。(笑い)

 それでは、皆さんは、愛する人の十本の指を、二十四時間ずつ、例えば小指をちゅっちゅっと吸いながら、「ああ、本当に砂糖よりも蜜よりも、もっとおいしい。」と言って、ちゅっちゅっと吸ってみましたか?

 そのようにして、夫が喜んで吸ってくれるのを妻が見るとき、気分が悪いでしょうか、気分が良いでしょうか? 気分が良くて、見開いていた目が、だんだん、だんだん小さくなって細い目になり、「ああ、天下のすべてが思いのままだ。私は、居ても居なくても無事通過だ。」と言って愛し合い、あまりにも気分が良くて、眠りながら忘れてしまうのです。

 新郎の夫たちは、妻をそのように幸福にしてあげたことがありますか? (「はい。」)(笑い)なぜ一人だけでおかしな答え方をするのですか? 「今まで、そのようなところに欠点が多かったので、先生が、そのように言えば、自分が最初に答えようと思って『はい。』と答えた。」と言うのですか? (「はい。」)

 それでは、妻のどこが一番きれいですか? おしりが一番きれいですか、ほおが一番きれいですか? (「すべて良いです。」)どこが一番きれいかと尋ねているのに、「すべて良い」では零点でしょう?

 皆さん。朝、空腹になって食事をするときに、トイレに行ってきて、そのまま妻の胸やおしりを触ったり、愛し合ったりしましたか? それをしてみましたか? そのようなとき、ほおよりも、おしりを触るというのです。

 先生が、東京にいた時、都内を循環する省線(「鉄道省の路線」の略。「JR」の前身である「国鉄」が発足する前の旧称)がありました。そこは、朝になれば、若い男女や学生、老人、あらゆる人が集まるのですが、じっと見ていると、若者たちの群れができるのです。それで、腹黒い男性たちは、いつの間にか女性に近づいていって、その女性のおしりを触るので、女性たちが逃げていくのです。

 ですから、「どうして触るのか?」と言って、けんかも始まり、ありとあらゆることが起きます。男性が、そのようにして女性のおしりを触るのを体験したでしょう? 日本の女性たち、どうですか? (「はい。」)体験していないのですか? 体験していなければ、大きいおしりを持っていても意味がないですね。

 なぜ、女性のおしりは大きいと思いますか? 両手で触っても狭くないように、そのために大きくなっているということを知らなければなりません。そのようになっていてこそ、赤ん坊を楽に生むことができるのです。

 赤ん坊ができない女性たち。夫が妻をうつぶせに寝かせておいて、腰をこすってあげるのです。あざができたときに、卵でこすってそれを消すような要領で、両手で熱が出るほど、触ってあげてみなさいというのです。そうすれば、冷えた子宮が温かくなって、すぐに赤ん坊を妊娠することができるというのです。分かりますか、分かりませんか? (「分かりました。」)

 天の秘密を知っている先生が、そのようなことを知らないでしょうか? そのことを知って話をしているので、一度、してみなさいというのです。そのようにすれば、奇跡が起きて、女性が子供を生むことができるのです。問題ありません。

 “今から、自然に帰って、自然の主人になってみよう”という人は、手を挙げてください。“自然に帰って、主人になってみなければならない”と思う人、手を挙げてください。後ろの方は、手を挙げられないのですか? 今、挙げましたか? 主人になりますか、僕になりますか? (「主人になります。」)欲が深いですね。

 さあ、それで、主人になることができる人は、今からどのようにすれば、主人になることができるのかといえば、“神様が創造された本然の世界に、「私」が帰ってきた”と、このように考えるのです。自然の中のパンタナールとは、どのような所でしょうか?

 そこは、神様が創られた天地創造のすべての“源焦的”な万物がそのまま存在し、“根源的”な万物がすべて存在し、「勝利を賛美することができる所は、ここしかない。」と言うことができ、愛することができる立て札を立てておいた所です。

 パンタナールとは、そのような所なので、そこには“源焦聖地”があり、それから何ですか? (「“根源聖地”です。」)“根源聖地”があり、それから何ですか? (「“勝利聖地”です。」)“勝利聖地”があります。一度、行ってみますか、行ってみませんか?

 そこが、どれほど良い土地であるので、先生が“源焦聖地”や、“根源聖地”や、“勝利聖地”をつくったのでしょうか。そこには、ないものがありません。ないものがないのです。

​ 先生は、五十代に、東西南北の名のある所には、すべて行ってみましたが、どこに行っても、そこにあるのは、すべて制限された動物や植物であり、環境も制限された所でした。ところが、パンタナールには、無制限な環境が展開しているのです。そこにある自然は、すべてペア・システムになっています。​

​ 「ペア・システム」という言葉も、統一教会から始まったでしょう? 知らずに使っていますね? 目もペアですか、シングルですか? (「ペアです。」)そのようにペアになっているものが一つになってこそ、機能するのです。​

 鼻も、一つだけ穴が開いていたら、どのようになるでしょうか? 鼻が詰まるでしょう? 唇が一ミリ、二ミリでもずれれば、話しづらくなってしまいます。耳も、内と外が共鳴して、お互いに授け受けするようになっているのです。

 文総裁を見てみれば、顔も大きく、鼻も鼻筋が長めで、それに比べて目は、大きい鼻と合いません。目まで大きければ、どうなるでしょう? 支障が多いでしょう? 口は、どうですか? 先生の唇は、薄いのです。ここを見れば、唇がないようにみえるので、言葉が、玉のようにころころと転がり出てきます。ですから、話がうまいというのです。唇が厚くては、話を上手にすることはできません。

 話の上手な息子、娘を生もうとすれば、胎教時代に唇を中心として、専門的に研究しなさいというのです。“上唇と下唇が細ければよい”と思って、そのような写真を見てキスをすれば、そのようになるのです。

 先生の唇を見れば、話がうまいということが分かるのです。頭も、後頭部が、このようになっています。ですから、西洋人は、頭をこのように押さえて、丸くしなければなりません。

 さあ、自然に帰るのですが、どこに行っても、ぴたっと合わせることができる生活をする人は、天国に行っても、その活動舞台の自然環境が、広くて大きいものになるのです。分かりますか? (「はい。」)

 ですから、「私は、本然の太陽に仕えてみよう。太陽は、堕落した世の中の見るに堪えないものを、どれほどたくさん見て生きてきただろうか? 地上の醜悪な人たちを照らすために、どれほど苦痛を受けただろうか? きょうは、私が解放的な太陽の光を見詰める主人の王である。だから、きょうは、いつもよりも先に太陽の光に接するために、明け方に一緒に起きて、最初に昇ってくる太陽の光に、私があいさつしなければならない。『グッドモーニング。』」と言ってみましょう。分かりますか? (「はい。」)

 それで皆さんは、詩のようなもので、朝に昼に夕に自然を賛美するのです。朝に対して賛辞したり、昼の十二時に賛辞したり、夕方の夕焼けを中心として賛辞するのです。それはなぜでしょうか? 自然界のすべての獣たちも、そのように暮らしています。獣たちは、夜になれば、休んで眠りに入るので、そのようにして賛辞をします。

 ですから、朝は、今から生きるために出発しなければならないので、あいさつをしなければなりません。出動のあいさつ、休むときのあいさつ、それをして暮らさなければなりません。動物たちもそのようにするのです。

 動物たちを見れば、鳥でも、どのような獣でも、太陽の光が昇ってくれば、歓喜の姿勢で羽をはためかせながら歓迎しようとし、夜になれば、すべて自分の家に帰ってきて、ばらばらにいた雄も雌も子どもも、夕焼けになれば、一つの巣に集まってくるようになるのです。分かりますか?

 朝にあいさつをし、そして、昼になれば、皆、食べる物を探し回り、山、川、東西南北のどこでも活動し、食べる物を探して子どもを育て、自分たちも食べて生きていくのです。同じです。子どもが暑い所ばかりにいては、体が膨らんでしまって、収縮できません。ですから、強くないのです。

 それで、つばめが、なぜ南方に行ってきて、春になって北方に訪ねて来るのかというのです。冬の季節に萎縮して、縮小しながら生命を残すために努力して、そこで子どもを産むことによって、強弱を兼ね備えることができるのです。そして南方にいた鳥類たちは、北方に向かって大洋を越え、山を越えて訪ねて来るのです。

 魚たちも、そうではないでしょうか? サーモン(鮭)のような魚も……。「さけ」と言っても、それは、飲む酒ではありません。海に住んでいる鮭も、自分が父母から生まれた故郷を訪ねていって、そこで子ども(卵)を産み、冬で寒いのに……。

 今の時期は、アラスカの鮭たちが、子どもを産むころです。鮭が卵を産んで、子どもが生まれる季節です。それは、十一月ころまでですが、一月まで延長されます。そのころは、一番寒い時なので、虫のようなものたちは、気温が合わないので、すべて暖かい海に流れ出ていき、寒い所には虫もいないし、何もないのです。

 ですから、産まれてくる稚魚のために、親鮭が死んで、その体を餌にして育てるのです。やあ! これは、本当に驚くべき事実です。自然から学ぶべき事実が、どれほど多いか分かりません。

 この机の脚のようなものも、曲がった木の枝が模様をつくります。自然の中から学ぶことがたくさんあります。家庭の家具を見れば、いすを見ても何を見ても、それらは、すべて自然の中から学んだものです。

 ですから、自然と和合して、自然とともに生活環境を築いて暮らしていかなければならないのが、人間です。自然を無視する人は、信仰の道、修養の道、良心世界の道を行くことはできません。

 さあ、それでは、“私”は、太陽を“源焦的”に愛することができる主人になりましょう。分かりますか? (「はい。」)遠い熱帯地方に行って、朝から昼、夜まで、暑い所で汗を流しながらいろいろなことを経験し、“私たちの先祖や兄弟は、このようなことを感じながら暮らしたのだなあ。これを、私が補強しなければならない。”と思って、それを補強することができなければなりません。

 そうすることができてこそ、東西南北の四方を往来して休養所を持ち、趣味を補強しながら谷間を水平にすることができるのです。自然の環境に一致することができる訓練をしなくては、円満な人になることはできません。先生は、そのように思うのです。分かりますか? (「はい。」)

 そして、皆さんは、“私は、空気のような人になろう”と考えてみましたか? 空気は、生命の要素です。この空気は、すべて高気圧と低気圧になっており、一瞬のうちに訪ねて行くのです。訪ねて行きますか、訪ねて行きませんか? (「訪ねて行きます。」)気圧の差が大きくなるときには、北極でも南極でも、いかなる環境でも貫いて直行します。くねくねとは行きません。さっと、直線で走っていくのです。

 自然は、低気圧と高気圧が、お互いに授け受けしています。空気は、お互いにバランスを取っているのです。ですから、風が吹いていない静かな水面、静かな貯水池の水と静かな木々と葉も、涼しい風が欲しい高温地帯になれば、風が吹いてきて、揺れなければならなくなるのです。そのように、すべて水平、平面基準を意図して運動するのが、空気です。

 水も同様です。高い所にあるものは低い所に行き、大洋に出ていって水平を成すようになります。そうして、水平になった所で、冷暖の空気の温度の差によって、それは水蒸気となり……。そのようにして、空気は海を渉猟するのです。そして、陸地では、南方から吹いてきた風が大陸を訪ねて来るのです。これも、やはりバランスを取って動きます。分かりますか?

 太陽の光も同様です。太陽の光を見てみれば、すき間があれば、入っていかない所がありません。壁に少しのすき間でもあれば、さーっと照らし込んでいくのです。

 このように、浸透力が強く、どこにでも機能を発揮する性質を持つものは、生命の要素になっているのですが、太陽の光も同様です。太陽を見てみれば、東側も西側も、すべてバランスよく明るく照らしているでしょう? そうではないですか? 平面で明るい所は、その明るさは同じです。また、水も同様です。水も、高低差があれば、必ず水平に補強し、空気も平準になるように補強するのです。

 その中で、一番の生命要素が何かというと、それは、愛です。ですから、愛は、空気よりも、水よりも、もっと密接で、太陽の光よりも、より狭いすき間にでも、どこにでも入っていくのです。

 水には、付着力や表面張力というものがありますが、皆さんにも同じような力があるのです。毛細管作用のことを知っているでしょう? 木や植物の中でも同じ力が働いていて、すき間があれば、導管や篩管を通って、水分や養分が、あの高い所にある芽まで上がっていったり、下がっていったりします。それは、循環運動であるということができます。

 一つの生命体を保存するためには、天の国の太陽がそのようにして世界を包括し、空気もそのようになり、そして、生命の動機を生じさせる水が、そのようにならなければなりません。東西南北どこにおいても、そのような平衡作用をすることができる基準は愛なのです。

 ですから、水を愛し、空気を愛し、太陽を愛し、地を愛し、草を愛し、木を愛するところでは、いつでも、昼でも夜でも、その環境条件で区域化されたその自然環境によって、千態万象の平面基準、立体基準を合わせることができます。そのような調和への因縁が、自然の中にはあるのです。

 それゆえに、今日の統一教会は、六十三歳になれば自然に帰ることを提唱するのです。分かりますか? なぜ「六十三」なのでしょうか? 六十歳が還暦だというでしょう? 「六」数は、平面的に六度、帰っていかなければならない、ということです。

 それでは、「三」数とは何かというと、垂直になることです。家庭の垂直、国の垂直、世界の垂直が、天地の垂直を中心として立ってこそ、自分の一族が天上世界に行って、神様の玉座の前で功をおささげすることができる基台ができるのです。

 すべての存在は、お互いが、そのように関連した関係を中心として、水平と垂直の因縁を中心として、調和して発展、存続することができます。ですから、わたしたちも、何種類にも区別された複雑多様な自然環境の世界に入っていって、縦横の度数を合わせなければなりません。

 それは、神様の創造本性の世界に心が一致することができるようにすることです。自然に帰っていくことによって、自然とともに生きることによって、神様の代身として、主人の立場の近くに立つことができるので、“自然に帰ろう”と、このようになるのです。

 それでは、きょうの開天節という日は、どのような日なのでしょうか? 天に通じることができる門を開くのです。それは、人に限ったことではありません。堕落によって、植物世界もふさがれています。本来は、愛を通して呼吸することができる環境なのですが、堕落することによって、逆さまになっています。上に上がっていかなければならないのですが、だんだんと地獄に落ちていくのです。

 これが本然の過程に戻って、自然と呼吸することができる本性の神様の創造性を取り戻すようにならなければなりません。そうして、無限な愛のために、お互いがために生きてあげ、主人の立場でお互いが同情してあげるようになれば、我知らず、神様の人格に近づいていくのです。

 そのようになることができるものは、自然しかありません。それで、“統一教会の教会員たちは、自然に帰ろう”というのです。分かりますか?

 自然に帰るためには、宗教世界の最高の立場を超え、哲学世界の最高の立場を超え、超宗教の立場、超思想の立場をさらに超えて……。そのためには、統一思想を知らなければなりません。それから、左翼、右翼の世界において、神様を否定する無神論の世界を乗り越えて……。

 自然界に無神論がありますか? ありませんか? 超宗教がありますか? そして、超思想がありますか? ただひたすら、真の愛一つで結ばれ、水と空気と太陽の光が協力して相和しながら、人間の生命体を構成し、その一生の路程を天国と連結することができるようにと働いているのです。

 そのような理念が形作られているということが事実であるのにもかかわらず、わたしたちは、自由に従って、勝手に生きることができますか、できませんか? (「できません。」)

 毎日のように飲むものは、何ですか? (「水です。」)水です。それから何ですか? (「空気です。」)空気です。それから何ですか? (「太陽の光です。」)太陽の光です。それから何ですか? 土です。植物です。植物の中に草も入り、木も入りますか? 木だけが植物ですか、木と草を合わせて植物ですか? (「合わせてです。」)合わせて言うのです。

 それでは、皆さんが食べる朝食と夕食をじっと見詰めてみると、野菜の入っていない、植物のないおかずがありますか? (「ありません。」)また、肉が入っていなければ、「おいしくない。」と言うでしょう? 牛肉、豚肉、青魚、何々と……。

 それは、だれのものですか? “私”のものですか、自然のものですか? (「自然のものです。」)自然のものですが、その主人は、だれですか? (「神様です。」)ですから、神様の息子になって神様を愛してこそ、神様が愛することができる万物を食べて生きるようになっているのです。

 どろぼうの子女になり、サタンの血を受け継いだ怨讐となって食べれば、すべての万物が嘆息圏に入ることになります。万物嘆息、動物嘆息、人間嘆息、天上世界の永遠な嘆息圏を解放するためには、自然に帰って、神様の創造の本性的愛の心を持たなければなりません。

 皆さん。芝生に行ってみてください。探してみると、ありとあらゆる虫がたくさんいます。それらの小さな虫が、皆、独りで生きていると思って見てみると、すべてペアになって、子どもを産んで生きているのです。そうですか、そうではないですか? (「そうです。」)

 皆さんも、子供を生みますか、生みませんか? (「生みます。」)ですから、子供を教育するためには、ああだ、こうだと言う必要はありません。「自然を見習いなさい」と言えば、よいのです。

 自然界を見れば、雄が成長して雌を訪ねていき、雌が成長して雄を訪ねていき、ペアになって子どもを産みますか、産みませんか? (「産みます。」)春夏秋冬の季節に従えば、季節に合うように環境に従っていき、自然の環境レベルや地域を分別していきながら、そこに合わせて適応することができる自分の子孫を立てて、力のある子孫を残そうとするのです。

 動物同士で二匹いれば、お互いに競争するでしょう? 雄同士で闘うでしょう? 決闘するでしょう? 北米には、エルクという大きな鹿がいますが、そのエルクは、二つの山に別れていた雄が出会うと闘って、勝ったほうに雌の鹿がついて行くのです。

 春になって春風が吹けば、あちらの園の花びらが、こちらの園に来るようになり、こちらの園の花びらも、あちらの園に行き、そのように花粉が行き来して交流しながら、生命を繁殖させるのです。そのように、こちらの園とあちらの園の境界線によって分かれていたものが、春になれば、出会うようになります。

 最近、皆さんがコディアクに行けば、山中でタク、タクと……。何と言うのでしょうか? 板をたたくような、タク、タクという音を聞くことができます。それが何の音かというと、雄の鹿同士が角をぶつけ合ってけんかしている音なのです。

 そこには、わたしたちの鹿農場があって、わたしは、よく知っているのですが、その鹿はハーレムを形成して、雄一頭で雌を五十二頭もつれて暮らしているのです。やあ! 何頭ですか? (「五十二頭です。」)

 二頭の雄鹿がけんかをすれば、いくら体格が大きくても、年老いたほうが、若鹿に負けるでしょう? そのように、いつも若鹿が大声で鳴きながら、「あなたは、先祖になることはできない。私に勝たなければならない。」と言って、年長の鹿に対して挑戦するのです。挑戦するでしょう?

 しかし、そうやってレスリングやボクシングのように挑戦して、負ければ、チャンピオンベルトはもらえません。そして、勝てば、自分を基準として、すべての基準が決まるのです。

 このようになれば、負けた鹿は悲惨です。従っていた数十頭の雌が、あいさつもせずに、さっと行ってしまうのです。それは、わたしたち人間世界よりも徹しています。さっと向きを変えるのです。そして、春になって子どもを産み、優秀な種を残すのです。すべての動物が、そのようになっています。

 人間の場合は、どうですか? 人が、そのようにしたら大変でしょう? けんかの強い人ばかりが残ってしまいます。そのような人が、何の役に立つのでしょうか? 人は、万物の霊長なので、すべての園で、どこに行っても、優れている人も愚かな人も、すべて万物の霊長としてふさわしい、生活の手本とならなければなりません。

 人間の場合、真の愛においては、高い位置にいる者も強い者も、同じ愛の感情を持っています。ですから、同化した平均的基準において、愛を中心として楽しく暮らし、万物と和動することによって、万物の主人であられる神様が和動して、永遠に存続することができるのです。分かりますか? (「はい。」)

 農村に入っていって、歴史上の最高の農夫より以上の農夫となりましょう。そうして、満ち足りて、少しも他人をうらやむことがないような暮らしができるように、農作業を一度してみましょう。

 ほうれんそうを育てるうえでも、今までの歴史上の人たちは、自分の生活や自分の父母、息子、娘のために働いて育てたのだとすれば、自分は、天下の人類を食べさせて生かすためにほうれんそう畑をつくるのです。そうして、そのような目的で作ったので、“全体の三分の一は、分けてあげよう。”と思って、育ててみてください。そうすれば、良い穀物ができるのです。分かりますか? (「はい。」)

 そのような農作業を、わたしはしようと思うのです。わたしにできない農作業は、ありません。豆畑も上手に実らせることができます。一番大変な農作業は、綿畑を実らせることです。それから、粟畑です。

 粟の種をまとめてまいてから雨が降ると、畝の溝が崩れてしまうのです。それをすべて見ていきながら、どれを残して、どれを捨てるのかを考えます。すべて間引くには、しばらくの間、ずっと間引いてあげなければなりません。粟畑は、そのようにしなければなりません。

 そのようにして、汗を流しながら、こうして……。自分の血と汗を流して精誠を尽くし、もちを作って祝宴する日には、それを創造された神様が、どれほど喜ばれるでしょうか? 神様も、「やあ! この供え物は、どこから来たのか?」と言われて……。そのようになれば、供えた万物で、世界じゅうから来ていないものがない、というようになることでしょう。そうではないですか?

 魚を見てみても、東の海の魚もいて、西の海の魚もいて、南極、北極の魚がいるのです。それを漁夫たちは、歴史を通して愛してきたので、わたしは、それ以上、歴史上の漁夫が釣ったそれ以上の立場で、神様を代身して食べてあげ、愛してあげれば、体も健康になるのです。病気にかかる心配は要りません。

 わたしは、今、何歳ですか? 私は八歳の時に、一度、病気になって寝込んだことがありますが、それから今の八十歳まで、これほど疲れる生活を継続しながらも、病気で寝込んだことがありません。それは、だれが保護してくださったのですか? (「神様です。」)神様の代わりに、自然が保護してくれたのです。自然の中で神様の愛を味わってみると、神様の愛は、死亡圏内で消化されることはありません。

 さあ、それゆえに、一生を生きていくうえで、神様が愛される万物を、その代身として愛することができる主人の立場で生きてみましょう。自然が喜ぶでしょうか、怒るでしょうか? (「喜びます。」)喜ぶのです。

 ですから、“源焦聖地”、“根源聖地”、“勝利聖地”に行ってみなければならないでしょうか、行ってみてはならないでしょうか? (「行ってみなければなりません。」)その記念日に、そこで祝宴をするとき、“世界じゅうのたくさんの人類の中でも、自分の一族は、毎回一人残らず、そこに参席する。”と決心する人は、手を挙げてください。

 尹晶老氏? (「はい。」)全員、決心したそうです。(笑い)(「ありがとうございます。」)公文を送るのです。(「はい。」)開天節の日に、先生が約束したのですから、だれでも、親子で、四位基台を作って、四年に一度ずつ行かなければならないようになっています。分かりますか、分かりませんか? (「分かりました。」)

 そこには、“根源的”で“源焦的”な動物が、何でもいるというのです。それは、本当に驚きです。そこに生息している魚の種類が、どれほど多いことでしょうか?

 わたしが、最初にそこを訪れたとき、オクチャメ(南米の沼地帯に生息する水草)という水草があるのですが、その下が暗く影になっていて、いつわにが出てくるか、いつスクリューヘビが出てくるか分かりません。その真っ暗な所に、手をさっと入れてみると、稚魚が三匹は捕まります。あの小さな魚です。

 それをやってみましたか、やってみませんでしたか? (「やってみました。」)やってみたのですか? (「はい。」)捕まりましたか、捕まりませんでしたか? (「……。」)分からないのですから、やってみなかったということではないですか?

 千万種類の姿をした、ありとあらゆる魚が、すべています。それは、どれほど面白いか分かりません。その魚をすべて捕まえて、家の中に水族館のようなものをつくって育てれば、どれほどよいでしょうか?

 すべての種類をそのようにして飼育し、わたしが統一教会の人たちに、十種類、百種類分けてあげれば、一年以上食べさせてあげることができます。そうして、十年以上食べさせてあげることができる代価をもらって、すべて分けてあげようと思うのです。

 そのようにしてこそ、貧しく暮らしているすべての人たちに分けてあげられるでしょう? それを育てることが、子供を育てることよりも、もっと面白いのです。どれほど面白いか分かりません。そのような趣味を持ちますか、持ちませんか? (「持ちます。」)“持たない”という人は、手を挙げてください。

 そのような趣味が満ちあふれて、一〇〇パーセントを超えれば、神様が、その家に作っておいた魚の博物館をごらんになりたくて、訪ねて来られるというのです。そのように育てておけば、神様が、その家に福を下さるでしょうか、下さらないでしょうか? 神様は、「わたしの代わりに、このように愛しているのだなあ。」とおっしゃって、福を下さるようになっています。

 そのようにして動物を育てれば、動物も死ぬことはなく、子どもを産めないということもありません。昔、ヤコブがそうだったでしょう? それ以上、自分の環境が……。

 今の世の中では、就職して、月給をもらって生活していき、定年退職すれば、自分の死後、墓守をしてくれる子孫もなくて、共同墓地に行くのが当たり前です。しかし、このようにして、六十三歳を超えて農場に入っていけば、八十歳まで生きるのは普通で、百歳まで生きる人が、どんどん増えるだろうというのです。

 昔は、六十歳で老人扱いしたのですが、最近では、八十歳でも、昔の六十歳よりも若いというでしょう? (「はい。」)それは、なぜですか? 統一教会が天から祝福を受けて、神様の運勢を地上に連結させたので、人類の年齢が延長し、寿命が延長したというのです。

 それは、だれかが政治を上手に行ったからでも、他の善なる宗教の恵沢によってそのようになったのでもありません。文総裁の恵沢によるのであり、昔は、八十歳の人が珍しかったのに、今では、百歳の人も珍しくありません。

 そのようになったことも、文総裁の生き方に人類全体を近づけるために、神様が公平にされたことによるのであり、それが現象として現れたことなのです。アーメン。(「アーメン。」)(拍手)

 わたしが、あと何年、何歳まで生きると思いますか? (「百二十歳以上です。」)百二十歳ですか? 二百歳以上ではなくてですか? (笑い)それは、“せいぜいこれくらいだろう。”と思って、「百二十歳以上です。」と言っているのです。逆さまにして「二百一歳です。」と言えば、分かりませんが。(笑い)

 わたしが、“そのように生きたい。”と思えば、生きるのです。(拍手)見ていてください。世界に、真の父母として生まれた息子は一人しかいないのに、その一人しかいない息子を早く霊界に連れて行って、何を誇ることができるでしょうか? そうではないですか?

 たとえ病気がわたしを訪ねてきても、“一週間くらい、わたしが冷遇すれば、逃げていくだろう。”と思ったら、本当にそのようになったというのです。分かりますか?

 わたしは、風邪などは、隣の町内からはえが飛んできて、額に一度止まって、また飛んでいったくらいにしか思いません。それなのに、何ですか? 風邪を引いたからといって、布団を敷いて、タオルを額の上に載せて横になるのですか? それは、死のうとする準備です。先生のように生きれば、病気が来ても、一週間……。

 「病は気から」です。そのように思うのです。信じて生きるのです。絶対信仰は、すべてのことを克服し、再創造し、主体の前に対象存在として、永遠に存続させることができると、神様は仰せられるのです。アーメン。(「アーメン。」)

 病気になれば、薬を飲むことの反対に、おいしく食べれば、病気が治ります。そのような話を、初めて聞いたでしょう? それを説明しようとすれば、切りがありません。

 自然に帰って、自然から学ぶことが本当に多いということを知ってください。分かりますか? (「はい。」)自生するいばらのようなものを切ってすりつぶし、それをできものに塗れば、すぐに治ります。そのようなことを知っていますか?

 漢方薬は、そのように発展したのです。自然の葉があれば、どのような葉なのか調べて、それを薬剤として使います。すべて自然から採取して、薬剤にするのです。人がつくったものは、すべて副作用が多いのです。自然の中で、動物たちが……。

 きじを捕まえるときに、きじの足が折れたとします。何年もたつと、折れて治った箇所は、木の年輪のようになりながらくっついているのですが、それを開いて見てみると、折れた箇所に針金を巻き、絹糸を巻いたようになっているのです。

 医術は、人間のほうが学んだのであって、動物世界が学んだのではありません。自然の中には、何でもあります。ですから、自然を愛さなければならないというのです。

 そして、食べ物をおいしく食べなければなりません。昔、先生はうなぎを、あまりにもたくさん捕まえて食べたので、今でも、うなぎを見るだけでも嫌です。(笑い)

 日本人は、うなぎでも何でも食べるのですが、皮をはいで、脂身の多い中の肉だけを食べて、残りは食べません。今回、アラスカに行って、キングサーモンを刺身にしたのですが、それがどれほどおいしいことでしょうか? 一つ一つ食べるには、あまりにも時間がかかります。一度にさささっと、一週間以上、十日近くかけて食べたのですが、それも嫌になるのです。

 貧しい人たちをアラスカに連れて行き、キングサーモンをそのように食べさせれば、皆、飽きて嫌になるので、「二度とアラスカの魚を食べなくても生きていける。」と言うようになっているのです。どれほど野菜が慕わしいか分かりません。

 そのようなときは、体自体が、自然に自分が存続することができるように、内的栄養と外的栄養が合うように調整します。人間の体には、そのようにすることができる補完装置ができているのです。それゆえに、おいしいものを求めて食べ、よく消化するようにすれば、よいのです。そのようにすれば、健康になります。分かりますか?

 ですから、そのようにすることができる修練方法は、自然に帰って愛し、一緒に和動して暮らす道しかありません。太陽も“私”が主人、空気も“私”が主人、山川の草木も“私”が主人です。そうして、“神様の代身として「私」が最初に食べる。”と思うのです。

 今まで、神様が共にいらっしゃるものがなかったではないですか? ですから、主人の立場に立って、神様に同伴して接待しながら、“このように開拓する先鋒者の生涯を生きてみよう。”と思うことによって、天上世界の門、地上世界の門、東西南北の十二真珠大門までが、さっと開くのです。そうして、自らの行く道にいかなる支障もないという解放者になるのです。アーメン。(「アーメン。」)

 そして、きょうは開天節であり、これからは国境を超越する時が来ます。もう平和大使は任命しましたか? その人たちが、国境なく行き来することができるようにするのです。

 米国の大統領も、国連の事務総長も、皆、公認をして、ばんばんと判を押し、文総裁の写真があれば、どこでもビザなく通過することができるような世界をつくるのです。つくるかつくらないか、見ていてください。そのようなことに関心がありますか、ありませんか? (「あります。」)

 そのような人たちが集まって、自然とともに……。朴久培氏? (「はい。」)その農場の名前は、何ですか? (「ビクトリアです。」)「ビクトリア」ですか、「ビクトリー」ですか、「ビクター」ですか? (「『ビクトリア』です。」)それは、形容詞ではないですか? 名詞は「ビクター」です。ですから、「ビクター農場」です。

 そこに行って、全員、訓練を受けさせるのです。今後、夏季のバケーションシーズンに入れば、三年間、四年間、ここに来て訓練を受けなければなりません。そのようにしなければ、他の所では、バケーションシーズンを過ごすことができないようにします。

 尹博士、来ましたか? (「はい。」)どこにいますか? 来ているのですか、尹博士。(「ここにいます。」)今年は、どこでバケーションですか? これからは、それを防止するのです。

 そこは、一番の自然があり、木も良く、気温も良いのです。いない獣がいません。虎がいないでしょうか? すべています。マウンテン・ライオンがいないでしょうか? 豚がいないでしょうか? すべているでしょう? (「はい。」)

 朴久培氏? (「はい。」)すべていますか、すべていませんか? (「すべています。」)それらを均等に捕まえてみなさい、というのです。捕まえて、そこに動物園をつくるのです。そこで子どもを産ませなければなりません。

 食べるものは、わたしたちが、えびのトロール船を造って、南極からいくらでも持ってくれば、飼料は問題ありません。そのようにすることができるように、環境条件に合わせて、自然とともに歌を歌い、たくさんの詩的文学と芸術が芽を出すことができる園、エデンの園以上の地域をつくるのです。

 そうして、国連がそこを管理し、すべて米国の保護圏内で世界を援助することができる資源農場……。資源です。資源農作業をし、資源農場をつくるのです。

 ですから、そのように関心を持ち、今後、そこに行って四十日修練を受けていない人がいれば、早く受けるようにしなければなりません。(「はい。」)

 それで、船に乗らなければなりません。先生は、ハリケーンが吹き荒れているのに、米国のグロースターに行きました。そこは、ボストンのエリアです。そこには、数千、数万の船があるのですが、すべての船が、ハリケーンのために出て行くことができない状況でした。

 しかし、先生は、「どうして出て行くことができないのか?」と言いました。夜中の一時半になっていたので、警察まですべて寝静まっていて、雨が滝のように降っているのですが、それでも行くのです。漁場まで行くためには、二時間以上かけなければなりません。

 ところが、船を運転する人が、うとうとしているのです。そこで先生は、“寝るなら寝なさい。海のどこに暗礁があるものか。”と思って、「大丈夫だから寝なさい。」と言ったのですが、「寝なさい。」と言ったので、かえって寝ないのです。

 激しく降る雨が、このように当たり……。その雨が、鼻の頭から、耳たぶから、このように流れて、首からへそを通り、三角地帯を通って流れ、ひんやりとしたことが、今も印象に残っています。

 そのとき、娘の仁進を連れて行きました。仁進は、そのときはまだ、はいはいをしている赤ん坊です。はいはいをするので、恐ろしいのです。船の上に置かれた物が、すべて動き回り、転がってしまうからです。それが分かりますか? (「はい。」)

 いろいろな物が転がっていくのですが、船が、こちらに傾けば、こちらにごろごろと転がり、船がまた、あちらに傾けば、あちらにごろごろと転がるのです。そこに波が飛び込んできます。そのようなことを見て、「ああ、お父さん、怖い。」と言うのです。皆さんであったなら、半分は死んでいたでしょう。しかし、それを見て、楽しく思わなければなりません。

 なぜ、それを見て、楽しく思わなければならないのかというと、わたしたちの船は沈まないので、楽しく感じなければならないというのです。ハリケーンの中で、感傷的な詩を詠み、芸術的な絵画を描くことができる、このような趣味が潜在している船なので、楽しく過ごすのです。分かりますか? (「はい。」)

 それでは、沈まない船を、だれが開発したのですか? わたしが開発したのですが、世界の造船業界は、「自分たちが開発した。」と言って、売っているのです。そのような者たちは、早くもうけて、退いたらいいのです。彼らは、今後、造船会社をわたしに譲って、自分たちは出て行かなければなりません。わたしには勝てません。分かりますか? (「はい。」)

 そして、皆さんの中で、船に乗れない人たちは、これからは、人間扱いしてあげないかもしれません。また、釣りができない人も、狩りができない人も、また、絵を描いたり、芸術的な素質のない人も、しかるべき扱いをされないかもしれません。

 わたしも、幼いころ学院に入り、そこで初めて絵を描きました。そこは、クルバン(漢文を教える私塾)だったのですが、そこで初めて絵を描いたのです。なぜならば、画用紙や色鉛筆を、そのとき初めて見たのでした。それなのに、わたしがそこに行って初めて描いた絵が、そこに飾られたのです。それは、絵の素質があるということでしょう? (「はい。」)

 他の人たちは、ただ絵を描いているのです。ところが、わたしは、四方を中心として、目印となる点をさっさっさっと描いて、そこに大きさを合わせて、色も合わせるので、りっぱな絵が描けるのです。そのように、前もって構想が必要なのです。線を引いて、そっと描いていくのです。

 釜山の凡一ミル洞でも、金元弼氏が肖像画を描くのを、わたしがコーチしてあげました。写真を、B4サイズの紙にさっさっさっと、拡大して描けば、よいのです。肖像画の大きさが写真の大きさの十倍ならば、十倍の距離を測って、そのまま当てはめて描けば、間違いなく、そのごとくの絵ができるのです。

 肖像画は、目と鼻を描くことが問題なのであって、口と耳は、どう描いてもよいのです。頭も、どう描いてもかまいません。目を描くことが、一番苦労します。

 そのようにして、すべて描いた後に、頭の色などは、わたしがすべて色の調整をしてあげるのです。そのように、絵の素質があるのです。

 また、「建築現場に行って、家を建てなさい。」と言われれば、上手に建てるのです。のこぎりが挽けないでしょうか? 鉋がけができないでしょうか? 手斧が使えないということがあるでしょうか?

 ですから、どこに行っても、わたしは便利です。頭が良いのかどうか分かりませんが、構想力があり、一日中遊んでいても、新しいことを創案して遊ぶので、楽しいのです。

 皆さんも、先生が好きですか、好きではないですか? (「好きです。」)「好きではない」と言うのは、本性的に堕落した、地獄に行く者たちです。本性が正しい人は、先生を好まざるをえないというのです。なぜでしょうか? 先生には、そのような何かがあって、光線が出ているのです。それゆえに、相対的立場に立てば、先生を自動的に好んで、引かれてくるのです。

 それで、統一教会の文総裁との間には、そのような引力関係があるので、“男性も女性も、文総裁にほれ込んで、好きでたまらない”というブームが起きた一時期がありました。今、そのようなブームが起きたら困るでしょう? そうではないですか?

 さあ、自然の中からすべて学ぶのです。先生も、原理の八〇パーセント以上を、自然の中から見つけ出しました。分かりますか? 自然の中で、夜通し楽しみながら、甘栗と松の木畑に行くと、枝が絡み合っているのですが、そこに満月、秋夕の月の光が照らされるその神秘さは、言葉では語ることができません。

 松の木畑で祈祷して瞑想するときに、さーっと吹き込んでくる風の音が、神秘的なのです。そのような神秘的な所で、月の光で明るくなった所で瞑想したことが忘れられません。そのように面白さを感じなければなりません。分かりますか、分かりませんか? (「はい。」)

 農作業するのも、楽しいことです。土地を掘るのも楽しいことです。一生の間、汗を流していくことができます。家を建てるのも楽しいことです。

 わたしが、してみなかった労働はありません。けれども、そのような話をする時間がありません。ですから、自然と和合して、環境条件において自分と関係を結び、そのようにして事に着手すれば、成功しないことがありません。アーメン。(「アーメン。」)

 そのような人を、神様は好まれるのです。分かりますか? ですから、皆さんも、先生にそのような素質があるので、先生を好むのです。“先生の行く道について行きたい。”と思うでしょう? (「はい。」)

 “先生の乗る専用機に、一度、乗ってみたい。”と思う人は、手を挙げてください。その飛行機一台の価格は、とても高いのです。だれでも乗れる飛行機ではありません。しかし、先生は、それに乗りながら、誇らしくは思いません。かえって恥ずかしく思うのです。

 行くべき道が忙しく、すべきことが多く、時間が必要なので、しかたなくそのようにしているのです。車に乗っていけば、どれほど時間がかかるか分かりません。

 自然を愛することにおいて、一度、王になってみようということです。海を愛さなければなりません。アラスカのような高い山には雪があり、中間には草木があって、そこには花が咲き、その下では、船遊びや釣りをします。そこが、どれほどの別天地でしょうか?

 そこで、「おお。よしよし、わたしの愛よ。」と歌えば、そこに似つかわしくない歌はありません。流行歌を歌っても合い、歌曲を歌っても合い、西洋音楽を歌っても合い、どのような歌を歌っても、すべて合うのです。気分も爽快で、どれほど良いでしょうか? 朝、起きれば、すがすがしい気分ではないですか? 今、アラスカに行けば、ちょうど良い時です。

 さあ、ですから、これからは、自然とともに楽しく、深くつきあって、神様の友人となり、神様の同役者となって、主人たる代身者となるのです。

 そうして、神様が創られたすべての被造世界の王の立場で、相続を受ける皆さんになることを願いながら、それが開天節の忘れることのできない一つのテーマとなることを願います。アーメン。(「アーメン。」)(拍手)

 神様を愛し、天地開門の開天節を完成しなければなりません。アーメン。すべて終わりました。(「アーメン。」)(拍手)

 ケーキカット、万歳三唱​​​​​​​​​​​​​​​​




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。
奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵
世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2024.05.25 16:50:48
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