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滋賀県の犬上郡多賀町にある多賀神社。アシを大きな輪にした茅の輪をくぐってお参りする。6月23日に撮影した。-その2-
多賀大社(たがたいしゃ)は、滋賀県犬上郡多賀町多賀にある神社である。 伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれた。 難しいことは抜きにして多賀大社(たがたいしゃ)の茅の輪くぐりが面白い。 多賀大社の前にある土産物屋。大きな杓子が看板になっている。羽二重風の餅菓子が名物だ。 多賀町(たがちょう)は、滋賀県犬上郡に属する町である。古代から近世にかけて犬上君(犬上氏)および多賀氏が勢力範囲あるいは本拠としてきた地域であり、古今を通じイザナギ・イザナミの2大神を祀る多賀大社を中核として発展してきた。総人口7,431人(推計人口、2016年2月1日) 多賀大社の横にある多賀町町役場に足を運んだ。楽天の則本昂大(のりもとたかひろ)投手の写真がパネルにしてあった。 則本昂大(のりもとたかひろ、1990年12月17日)は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するプロ野球選手(投手)及びプロ野球滋賀県人会副会長。滋賀県犬上郡多賀町出身。 滋賀県の犬上郡多賀町にある多賀神社。アシを大きな輪にした茅の輪をくぐってお参りする。6月23日に撮影した。-その2- (タイトル) 多賀大社(たがたいしゃ)の茅の輪くぐりが面白い。 (本文) 難しいことは抜きにして多賀大社(たがたいしゃ)の茅の輪くぐりが面白い。 茅(かや)はヨシでもありアシでもある。似たようなものだ。 琵琶湖の周辺の野にはヨシは沢山ある。ヨシを大きな輪にしてこれをくぐればご加護があるというのは良いではないか。 つくられたばかりの茅の輪は青々としていて加護は大いにありそうだ。梅雨空の6月23日にここを訪れた。 寿命が延びるという境内の食堂の蕎麦を食べてご機嫌になればそれで良いではないか。 則本 昂大(のりもと たかひろ、1990年12月17日 - )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するプロ野球選手(投手)及びプロ野球滋賀県人会副会長。滋賀県犬上郡多賀町出身。 【多賀大社(たがたいしゃ)のこと】(以下はウッキペディアによる説明) 多賀大社(たがたいしゃ)は、滋賀県犬上郡多賀町多賀にある神社である。 伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれた。 また、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めた。 式内社で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁の別表神社である。 多賀大社にはお守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあるが、これは「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされている。 【由緒】 和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也。」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述があり、これが多賀大社の記録だとする説がある。ただし『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮(かくりみや、終焉の御住居)を構えたとあり、『古事記』真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写である可能性が高い。 『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったとの説がある。 犬上君(犬上氏)は、多賀社がある「犬上郡」の名祖であり、第5次遣隋使・第1次遣唐使で知られる犬上御田鍬を輩出している。 藤原忠平らによって延長5年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列した。「二座」とあるが、伊邪那岐命・伊邪那美命とされていたわけではない。 なお、摂社(境内社)で延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る。多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭(コトカツ クニカツ ナガサノミコト)の3柱を祀り、多賀社の南方2kmの小高い丘(神体山)に鎮座する。授子・授産、鎮火の神として崇敬される。 「お伊勢参らばお多賀へ参れ」 室町時代中期の明応3年(1494年)には、神仏習合が進み、当社には神宮寺として不動院(天台宗)が建立された。 神宮寺配下の坊人は全国にお札を配って信仰を広め、当社は中世から近世にかけて伊勢・熊野とともに庶民の参詣で賑わった。 「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もあり、ここに見る「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子であることによる。 なお、社に残る垂迹曼荼羅(すいじゃくまんだら)は坊人が国を巡行して神徳を説く際に掲げたものである。 また、多賀社が隆盛したのは、近江国が交通の結節点だったことにもよる。 (以上はウッキペディアによる説明) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年07月02日 08時44分06秒
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