キジ (雉)
○雉鳥(キジドリ)の 鎧(よろい)見事な 春の野辺 虚心
庭先に広がる畑の中のキジ
キジは日本の国鳥に指定されています。
幾つかの県の県鳥にも指定されており、里山でよく見かけることができます。
この鳥はヤマドリ等とともに狩猟の対象にされています。猪狩りなどは勇壮なものですが、鳥を対象とした狩猟はまた別 の趣をもっています。キジの羽根を間近に見るとその美しさに驚愕し、絶句します。
家の脇の畑で「ケンケン」と声がするので、振り向くとキジの姿がありました。
周辺を二輪車を使って散策するとキジの声が幾つも聞こえてきました。高尾山の南稜が伸びる相模湖のこの界隈にはキジが相当数生息していることが分かりました。
「それほどに自然が豊かなのだろうか」と気持ち引っ掛かるものがあったのですが、この原因が判明しました。隣接の畑の所有者の七十五歳になるEさんとキジのことを話していたら相模湖ピクニックランドで飼育していた二十つがいほどのキジを放したのがそのまま野生化して繁殖しているのだといいます。もっともキジは自然といっても人が農耕生活を営む里山に生息するのですから何処にいても何の不思議もありません。
春になるとキジの活動が活発になって、裏の空き地に終日出没し、不意に足元から飛び立って驚かせます。ケンケンという声は雄が発するもので、声のするあたりに必ず雌がいます。雌は雄と違って極めて地味な姿をしています。
さきほどのEさんの話の続きです。
栗林の下草を除草機でバリバリと刈っているとバッシィという音とともにキジを刈ることがあるといいます。胞卵したキジは除草機の迫るのにもたじろがずに巣を守るのだといいます。四月になるとキジは巣作りに入ります。
つがいで行動しているキジの雄は、遠くで別のキジがケンケン鳴くとそれに対抗して胸を反せてケンケンと威勢よく鳴きます。
そんな様子をみていて考えました。
「キジも鳴かずば打たれまい」といいますが、鳴かずにいられないのがキジなのであろうと推察します。
里山にはキジがいた
日本の鳥猟犬はその昔どのような働きをしたのでしょうか。直接に鳥を捕まえることもしたのかも知れません。明治30年頃の写真で、柴犬をつれた農民の狩猟家が天秤棒にキジとヤマドリをあわせて50羽ほど下げたものを見ました。人と犬が組んで鳥猟の実をあげた証拠の写真でした。捕られた鳥の数に私は驚いたのです。それは里山にそれだけのキジやヤマドリが棲んでいたことの証明でもあります。
薪の時代はキジの楽園
ガスや電気による煮炊きが普及するまえの人々の暮らしは、薪を切り出す山里を必要としたのです。そうした山里はキジやヤマドリに棲みやすいところだったのです。いまは人の暮らしとその背景にある山などの自然のことを、里山という概念で捉えるようになりました。畑や田圃とそれをつくる人の関係とそれによってつくりだされる自然の全体が里山と呼ばれています。
放置される杉林
畑や田圃は人によって耕されておりますが、裏山の林には手がはいりません。薪を採るための裏山には杉やヒノキが植えられました。その杉林、ヒノキ林に管理の手をいれることができなくなっているのです。枝払いはされない、間伐もされない商業樹林が広がっております。
私の住む町の駅に、下枝刈りのボランティアのポスターが掲出されておりました。私の住まいの横の川に通じる林には杉とヒノキが植えられておりますが状態は最悪です。川沿いの傾斜地に植えられる樹木は根の良く張る灌木が望ましいのです。
野鳥の棲みかとしても杉やヒノキの林よりも落葉樹がいいのです。杉材であれば何でもいい、ヒノキ材であれば何でもいいという状況ではなくなっています。商業的に役立たなくなった杉やヒノキの林が日本の国土に広がっています。
自然にやさしい人々
いまの時代「自然にやさしい」「人にやさしい」といったことばが深い考えなしに語られているようで気にかかります。人にも自然にもやさしいのはいいことですが、何をどのようにすればそれが実現できるのでしょうか。自然にやさしいことを求める社会の機運があることは大いによいことだと思います。しかしそれを商業的に衝くような空疎な言葉が氾濫していることにさみしさを感じます。日本は自然にやさしい人々や人にやさしい人々で満ちあふれた楽園であるようにも錯覚してしまいます。
現実の姿は他人のことなどまったく考えない青年、熟年男女が多いのです。2人掛けの座席を独り占めにする。4人掛けのところに2人で占めてしまう。そのほかにどんなことがあるでしょうか。悪さをいちいちあげたら切りがありません。
ノアの箱船の啓示
地球上では人間が増殖するほどに他の動物が圧迫され、減少し、絶滅した種が多くあります。人間の増殖も自然現象で行き着くところまでいったところで制御がかかるのでしょうか。
ノアの箱船はまことに啓示的です。みさかいなく生きて欲望の限りをつくし、善悪などということが心にない人々はどのようにすれば救われるのでしょうか。悪に対して厳しい罰を与える宗教は多いのです。ノアの箱船はそのような思想を現したものではないでしょうか。日本人はノアの箱船に乗れるのでしょうか。そして貴方はノアの箱船に乗れるのでしょうか。そして私はどうでしょうか。
人間のしていること
人間のしていることの全部をよく考えること。自然と人間の関係を考えること。自然と動物のことを考えること。自然と野鳥のことをよく考えることはいいことだと思います。結論などいりません。考えてみることが重要なのです。私たちは実際にはよく考えていなかったのです。
浅はかな思慮
思慮には浅はかなものと深いものとがあります。いまテレビから聞こえてくる「自然にやさしい」「人にやさしい」はそれ自体は悪いことだとは思いません。しかし、日本人の直感的、本能的な危機意識に乗じての商品販売の手段になっているのが気にいりません。ものごとには作用と反作用があります。いまの経済システムがもたらす反作用が自然破壊となっていることの意識がなくてはならないように思います。
情報価値社会
これからの世の中は、少なくとも日本という国は経済にはたす情報の役割が高まるのにつれて、これまであった自然を変えたり壊したりという作用が少なくなる経済社会システムに移行していくと考えております。
さてノアの箱船に乗ることができるのは誰でしょう。ニューヨークで起きた旅客機のビルへの突撃事故、封書による炭疽菌送り付けやばらまきは大洪水のようにも思えますが、これはやはり悪と言い切らなくてはなりません。困ったものです。どのようにして解決すればいいのでしょうか。
ノアの箱船
ノアの箱船はすべてをご破算にしてやり直すことを示しているのです。動物たちはノアの箱船に救われなくてはなりません。
ですから私たちはノアの箱船を探しましょう。私はずっと探しておりました。そして見つけたのです。大洪水がおきたときに高台は舟のような状態になります。私は栃木県と茨城県を流れる那珂川にそった道路を往き来しているうちにこの高台を見つけたのです。そこはノアの箱船です。高台がそのままにノアの箱船に見えました。ノアの箱船は身近なところにあったのです。そこにオリーブの枝をくわえた鳩はやってくるのでしょうか。
ヨタカの星
宮沢賢治の『ヨタカの星』になってはいけません。いまの人々は『雨ニモマケズ』の心を知ったようです。「欲はなく、決して威張らず、何時も静かに笑っている。みんなにデクの棒と呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず、そういう者に私はなりたい」と日本人は思うようになったように錯覚している私です。