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私の履歴書「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 (29) 東北6県北海道計量協会の会長さん達-その1- 目次 私が西谷さんに初めて会ったのは60年も前のことで、1948(昭和23)年に営業で北東衡機を訪れた時のことである。西谷さんは当時資材部長として購入窓口担当だったので訪問をする都度お目にかかり、彼の得意とする経済論・政治論をよく聞かされたものだった。 話は一寸それるが福島県の船引という町に大森工業所という棒はかりを製造している工場があった。もともと大森工業所は東京の材木屋で木箱を作っていたが、戦後は材木の知識を活かして棒はかりの製造に転向していた。 朝鮮動乱が始まると同時に木箱の特需が出てきたのではかり屋を廃業し、東京へ戻って本業の木箱を作ることに専念することになった。 私は売掛代金の代わりに棒はかりの材料の樫の木を一貨車分引き取り、それを北東衡機に引き取って貰った。その間の処理が若造ながら大したものだと西谷さんに痛く気にいられ大変目をかけてくれるようになった。 当時の台秤の生産は親方と弟子の徒弟制度で、親方の職人芸に頼る生産方式が殆どであった。北東衡機では台秤の生産には難しいとされた分業方式を早くから取り入れ、流れ作業体制が確立していた。 台秤の生産台数は日本一を誇り、東北では唯一全国に販路を持つ大手メーカーであった。 私は西谷さんのお墨付きで自由に工場内に出入りすることを許され、生産工程についていろいろ勉強して、それを参考にして鎌長の台秤生産ラインの根本的な改造に役立てたものだった。 更に勝手に倉庫に入り錘の在庫を調べ、「今月はこのくらい送っておきます」と自分で注文量を決めて10トン貨車貸切で錘を送りつけたものだった。 西谷さんは東大出だけあって頭の切れが鋭く、その経営論・業界論は誰も反論出来ず東北・北海道の業界では西谷天皇と呼ばれ、大ボス的な存在だった。会長会議でも60才を過ぎた私を捕まえて20代の若者のように「おい、鍋島」と呼び捨てである。呼び捨てに対して周りの人の中には眉をひそめる人もいたが、私は平気で別に違和感はなかった。 惜しいことにワンマン経営が祟ってか晩年会社が廃業に追い込まれて、あの元気な声も聞けなくなった。
●安保さんのこと 昭和20年代の中ごろ(正確には覚えていないが25年か6年だったと思う)、四国の徳島で計量協会の全国大会が開催された。勿論徳島の阿波踊りの時期に合わせて開催された。 私は若造で大会には参加出来なかったが、大会の帰りに多くの方が日本秤錘へ来られた。安保さんも来社され、その時初めてお目にかかった。と言っても垣間見ただけで言葉を交わした訳ではなく、これが有名な北海道の所長さんかと思った。当時の評判は日本一の検定所長で「俺の仕事は道から検定所の予算をたっぷり取ることだ」というのが持論で、5~60人いる検定所の予算を確保した後は部下に任せて全国を歩いているという評判だった。 その後北海道計量協会の会長を勤められ、会長会議でよくお目にかかった。 北海道計量協会は4000軒近い会員数を擁し、ブロック内では会員数も予算規模も当時としては最大であった。会長時代の安保さんは飄々とされてとても風格があった。我々に対しても威張るところは全然なく、所長時代の近寄りがたい厳しさは感じられなかった。 ある年の会長会議の議題で各道県の協会の実態を調査して、その比較をしてお互いの参考にしたことがあった。 その時「宮城県の協会は会費収入40%事業収入60%で一番バランスが取れていて模範的である」と言われたことが思い出として残っている。 安保さんは計量業界が未だ検定所主導で運営されていた時代に偉大な足跡を残した所長であったと思う。
●西さんのこと 西さんは早稲田大学に学んだ秀才で頭の切れは素晴らしかった。会長会議でも活発に発言され、色々な企画や斬新なアイデアを提案された。 別の項で北海道の帰りに困ってお金を借りた話をしたが、昭和20年代から営業マンとしてお宅にお伺いして、新婚の美人で優しい奥様の手料理をよくご馳走になった。 青森県は青森市・八戸市・弘前市が特定市で協会も青森支部・八戸支部・弘前支部としっかりとした3支部にがっちりと支えられた組織であった。 1952(昭和27)年に東北北海道計量協会連合会が発足しているが、その第1回の総会が青森で開催されている。恐らく青森県が提唱して開催されたものと思われるが、毎年持ち回りで山形・宮城・秋田・岩手・福島・北海道の順に開催している。何故、この順序になったのか不思議だが今となっては確かめようがない。昨年で8回りして今年青森大会で9回り目の57回目に入った。1975(昭和50)年頃の青森大会で業界の大同団結を提唱し、青森から全国に向けて発信するという快挙も西さんの提唱したものだった。 また、西さんは青森の名士でもあり、ライオンズクラブでも私の先輩ライオンとして青森地区のガバナーという名誉ある最高の地位に就かれた。その他に赤い羽根募金の青森代表も勤められたということである。 そんなことで早くに叙勲の栄に浴されたが、残念なことに数年前に亡くなられた。息子さんの秀記さんが立派に後を継いで素晴らしい活躍をされていることは頼もしい限りである。
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最終更新日
2018年01月04日 15時17分41秒
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