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カテゴリ:旅行(旅と自然の日記)
5月19日、山梨県清里の清泉寮にでかけました 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
5月19日の清泉寮。新緑が広がり始めている。 5月19日、山梨県清里の清泉寮にでかけました 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞 清泉寮の1950年ころの旧館の写真。秋の景色です。 5月19日、山梨県清里の清泉寮にでかけました 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞 現在のレストランのベランダに立つポールラッシュ。 5月19日、山梨県清里の清泉寮にでかけました 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞 レストランのベランダには花が飾ってあった。5月19日撮影。 5月19日、山梨県清里の清泉寮にでかけました 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞 ハーブ花壇の向こうに旧宿泊施設がある。5月19日撮影。 5月19日、山梨県清里の清泉寮にでかけました 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞 ポール・ラッシュ像の周り咲いている花。5月19日撮影。 5月19日、山梨県清里の清泉寮にでかけました 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞 牧場跡の向こうの富士山は雲に隠れてた。5月19日撮影。 (タイトル) 5月19日、山梨県清里の清泉寮にでかけました 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞 (本文) 5月19日、山梨県清里の清泉寮にでかけました。 午後になっておりました。 清泉寮は、現在ではロッジ、コテージ、レストラン、キャンプ場などを有する宿泊・研修施設であるが、建設当初の1938年(昭和13年)は、清里開拓の父と呼ばれるポール・ラッシュが指導したKEEP(Kiyosato Educational Experiment Project:清里教育実験計画)の一環としての日米協会青年活動によるキリスト教研修の中心施設であった。 当時まだ貧しかった山梨県のこの地に大きな可能性をもたらし、キリスト教信者のみならず多くの人をひきつけた。清泉寮という名称は、1937年(昭和12年)秋に現地を視察した立教大学の高松孝治教授司祭により名付けられた。高松は、「キャンプは清里駅から上っていくが、地番は大泉村に入っている。それなら両方を取って清泉寮としたらどうか」と提案したという。 ポール・ラッシュ像の周り咲いている花に管理者の心をみました。草の生えた牧場跡の向こうに富士山があるのですが雲に隠れておりました。照る日曇る日が天気です。 清泉寮の1950年ころの旧館の写真が宿に掛けてありました。現在の本館の三角屋根をレストランのベランダから眺めるポールラッシュの写真もありました。1950年代という時代が懐かしいです。 日本は技術の発展と経済の大成長がありました。この先も電子機器とインターネットでめまぐるしい動きがつづきそうです。 山と自然は人に安らぎを与えます。清泉寮で過ごした正月や夏が思い出されます。 (写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郞) 2019-05-19-i-went-to-the-seisen-dormitory-in-kiyosato-writing-tetutaro-kai- お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年05月20日 19時40分05秒
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