3876392 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

「計量計測データバンク」ニュース

「計量計測データバンク」ニュース

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カテゴリ

カテゴリ未分類

(1152)

東日本大震災から4年7カ月 三陸沿岸の現在

(45)

計量と計測を考察する「計量エッセー」

(168)

日本計量新報論説と解説(電子判)

(113)

「今日の計量計測情報ニュース」

(1266)

計量計測情報はこちらで

(1041)

計量器など

(108)

紀州犬物語

(94)

「web情報報総合サイト」は生活サイト

(11)

計量

(39)

「日本列島ぶらり旅」甲斐鐵太郎(旅行家)

(1167)

自然・ネイチャーのおはなし

(929)

エッセー

(1392)

写真 デジカメ 銀塩カメラ レンズ

(754)

「計量計測データバンク」運営

(297)

紀州犬物語オス犬「テツ市」

(32)

紀州犬

(132)

情報・インターネット

(146)

犬の飼育について

(65)

柴犬の子犬

(340)

三菱パジェロ物語(E-V45W)ほか自動車

(8)

改善課題

(23)

「豆柴」風

(93)

新 野鳥歳時記

(52)

紀州犬と子犬の映像

(1434)

旅行(旅と自然の日記)

(562)

柴犬物語

(84)

紀州犬と柴犬

(399)

犬の映像

(132)

有色紀州犬

(254)

有色紀州犬と子犬の映像

(241)

紀州犬の子犬の映像

(797)

紀州犬と四国犬の映像

(196)

柴犬の映像

(127)

旅するバイク カワサキW650(甲斐鐵太郎)

(3)

計量人間

(8)

測ること、計量のこと、その雑感とエッセー

(41)

自動車とオートバイと自転車など

(25)

自転車博物館

(45)

高尾山麓にある自転車博物館による自転車と部品の記録と記憶(販売はしません)

(30)

私の履歴書「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」鍋島綾雄

(15)

本日の気になるニュース

(172)

自転車情報

(36)

甲斐鐵太郎の上高地讃歌

(18)

伸子のブログ 旅行と写真ほか

(4)

音楽とオーディオ

(8)

安西正一(計量士)私の履歴書(計量計測データバンク)

(2)

縄文研究 甲斐鉄太郎

(11)

バックナンバー

プロフィール

ニュースさん

ニュースさん

フリーページ

2023年01月06日
XML

早期縄文人の食糧としてのサル
昭和初期の角館におけるサルの丸ごと販売の事実)
Monkeys as food for early Jomon people
執筆 甲斐鐵太郎


長野県川上村の大深山(おおみやま)遺跡から出土した仮面土器。

早期縄文人の食糧としてのサル(と昭和初期の角館におけるサルの丸ごと販売の事実) 甲斐鐵太郎

長野県北相木村の栃原岩陰遺跡。発掘当時の写真。

早期縄文人の食糧としてのサル(と昭和初期の角館におけるサルの丸ごと販売の事実)

北相木村役場隣にある博物館に復元された遺跡。

早期縄文人の食糧としてのサル(と昭和初期の角館におけるサルの丸ごと販売の事実)

栃原岩陰遺跡から出土したニホンザルの骨。

早期縄文人の食糧としてのサル 甲斐鐵太郎

長野県北相木村栃原岩陰遺跡博物館の外の景色。

早期縄文人の食糧としてのサル(と昭和初期の角館におけるサルの丸ごと販売の事実) 甲斐鐵太郎

5月2日新芽を食べるニホンザル。葛温泉付近で。


早期縄文人の食糧としてのサル 甲斐鐵太郎

栃原岩陰遺跡から数kmの縄文中期の大深山遺跡。

早期縄文人の食糧としてのサル 甲斐鐵太郎

白樺やダケカンバの天然林が遺跡の周囲を覆う。

早期縄文人の食糧としてのサル(と昭和初期の角館におけるサルの丸ごと販売の事実) 甲斐鐵太郎

(本文)

 南佐久郡北相木村大字栃原字東栃原277番地に所在する栃原岩陰遺跡の縄文早期の地層からニホンザルの骨が出土している。ニホンザルの頭骨は割られていることから脳みそを食べたと推定される。シカ、イノシシ、クマなどの動物の骨は砕かれているので髄を食べた証拠とされている。縄文時代の人口は5万人から30万人の間を行き来している。縄文中期は間氷期でありそれは縄文海進をもたらし、茨城県の奥地にまで海が広がった。温暖期であった縄文中期に人口が大きく膨れた。縄文早期は食糧にとぼしかったから人口は低く抑えられた。山野草、木の実、草の実を鳥獣そして魚介類を食べていた縄文人の食とその生活はどのようであったか。1万年もつづいた縄文時代である。飢えているからこそ人口が大きくならない。そのような状態が1万年続いたのが縄文時代である。

 気候の変動によって人口の増減があった。弓があり、ヤジリを先に付けた弓矢があり、槍があった。釣バリや裁縫道具が縄文早期の栃原岩陰遺跡から多く出ている。釣バリは想定される集落の規模に対して出土数が多いので自家使用のためだけではなく、交易を目的につくられていたことが想定されている。釣バリの材料は動物の角や骨である。シカの角はこの時代には釣バリに加工された。

 縄文早期の縄文人は食べられるモノは何でも食べたと推定される。骨を割って髄を食べた。サルの頭蓋骨は割られていた。サルの脳みそは食された。食べられるキノコを知っていて食べた。サルもキノコを食べる。サルが食べたキノコを観察すれば人に毒にならないキノコを知ることができる。栃原岩陰遺跡に積もった上部の土には縄文中期の土器などが埋設している。狩りに出たときの一時の留まり宿にも使われていたかも知れない。この遺跡小学生が遊び場としていた。1970年ころから本格的な遺跡発掘が行われるようになった。栃原岩陰遺跡は県道沿いにある。県道の上にぽっかり穴が空いているのだ。相木川沿いに似たような穴が空いているのをみた。7万年から8万年前に噴火した八ヶ岳の泥流が丘を超えて相木川を流れ下ったことによるのだろう。旧石器人はいたかも知れない。縄文人は八ヶ岳の大噴火のはるか後にこの地に住みついた。栃原岩陰遺跡から南に数キロメートル移動する川上村に縄文中期の大深山遺跡がある。相木川は千曲川の源流の一つであり、大深山の縄文遺跡の直下を千曲川が流れる。千曲川には川鱒がのぼってきていた。縄文時代は遙か遠い時代ではなくわずかに3,000年前である。3,000年前からさらに1万年を遡って縄文時代がつづいていた。

 縄文時代早期、あるいはそれよりも前から人に使われていた栃原岩陰遺跡は手間のかからない住まいとして重宝された。栃原岩陰遺跡の前には相木川が手を伸ばせば届くところにある。川上村に縄文中期の大深山遺跡に住む縄文人は栃原岩陰遺跡の岩穴を知っていたことだろう。栃原岩陰遺跡には縄文中期の確かな痕跡が土器などの形で残されている。竪穴式住居所は少し形を変えただけで古墳時代にも建てられていた。集落共同してするのに屋根葺き作業は向いている。j早期縄文、中期縄文時代に大型動物を狩ることが食糧にどの程度の割合であったか知らないが、巻き狩りはより確実な猟法である。村落の人に共同作業があったと想像される。

縄文早期の栃原岩陰遺跡に隣接する縄文中期の大深山(おおみやま)遺跡での暮らしは標高1,300mで営まれた

 早期縄文遺跡の栃原岩陰遺跡から山一つ先に同じ中期縄文時代の長野県川上村の大深山(おおみやま)遺跡がある。大深山(おおみやま)遺跡は標高1,300mで川の上に突き出た山の上部にある。寒いのも暑いのも嫌なはずの縄文人がここで暮らしを営んだということは気候が好ましかったことになる。新潟港に通じる信濃川の支流が遺跡の下を流れ山は全体になだらかである。縄文中期には大深山(おおみやま)遺跡では海(川)の幸、山の幸が豊かであった。縄文時代の気候変動は縄文海進として考古学的記録が残る。栃木や茨城の奥にまで東京湾の水が進行していた。

 大深山遺跡(おおみやまいせき)は、長野県南佐久郡川上村大字大深山にある縄文時代中期の集落遺跡。1966年(昭和41年)国の史跡に指定された。天狗山の南麓、赤顔山(あかづらやま)の東南麓、千曲川右岸の南向きの標高1300mの平坦地に位置している。八ヶ岳山麓一帯に数多く分布する縄文遺跡では最高の最高の標高である。1953年(昭和28年)の林道開発にともなって発見され、大深山観光協会や村教育委員会の手で発掘調査が行われ、竪穴建物跡が50箇所(中期中葉が25、中期後半が19、不明が7)、積石遺構、数万点に及ぶ縄文土器、石器が出土した。住居跡には2棟の住居が復元されている。大深山(おおみやま)遺跡からは釣手土器である人面香炉型土器(釣手土器(通称ウルトラマン)が出土し川上村文化センターに展示されている。

東北地方では旬の味としてサルの肉は珍重された

 ニホンザルを食することは現代の人には奇っ怪なことだが、太田雄治氏は『マタギ』で何事でもないように日本人のサル肉の食のようすをルポルタージュする。太田雄治著『マタギ』(1989年八幡書房刊)には、秋田、岩手で猿の肉を食べていたことを明かす記述がある。次が関係する記述だ。太田雄治著『マタギ』1989年八幡書房刊では猿の肉を食べたことを次のように述べる。

 サルの肉を賞味したのは、昭和のはじめころまでである。当時、角館町の五十集屋(イザベヤ-塩干類を売る魚屋)の店頭には、毛つきのままのサル、キツネ、ムジナ、ガン、ヤマドリ、キジ、山ウサギなどが下げられ、またサルは枝肉としても店頭で売られていた。

 大正の中ごろまでは寒に入ると「エンコ(方言でサルのこと)えんすか)」(サルの肉はいりませんかの意)とサルの肉を売り歩いていたものである。冬になり、サルの枝肉を買って味噌漬けにし、焼き肉にするとたいへんうまい。サルの肉は砂糖で味つけしたような甘味のあるうまさだったという。それで貝焼き(鍋料理)にしたといわれる。ほかの山野獣に比べサルの肉はもっとも美味であるという。

 生保内マタギの話によると、これは明治の末ごろのこと。秋田・岩手両県境の仙北峠に群がっていたサルをとりに、冬になると、阿仁マタギや檜木内マタギがやってきた。そして田沢湖町生保内のマタギ宿を足場としてサルとたくさんとった。峠の境にあるお助け小屋(南部・秋田の商品を取引する集荷場)で、気仙沼や三陸地方あたりで盛んにとれたシカの枝肉とサルの枝肉が物々交換された。そして旬の味のものとしてサルの肉は特に珍重されたのである。

 大正の末ころ、毎年旧十一月末ころから十二月末ころまでと旧正月の堅雪にかけて、練達したマタギが集まって生保内にきたため、奥羽連峰のサルは激減の道をたどった。生保内には、阿仁・戸沢の両マタギが集団でやってきては泊まるマタギ宿が大正の末ころまであった。これらマタギグループの総捕獲数を合計すると、毎年少なくとも青シシ三、四十頭、サル数十匹、これに地元マタギの猟を加えると、かなりのサルごカモシカが乱獲されていったようである。(青シシとはカモシカのこと)

 サルは、秋はブドウ、クリ、ヤス(サワグルミ)の実など、さまざまの木の実を食べていて脂肪がのっている。しかし、ヒバ(檜葉-アスナロ)密林の中に隠れているので発見がむずかしい。旧正月過ぎの堅雪のころがサル猟に最適といわれる。

 サルの食べ物は、マツタブ(マタタビ)の蔓についている皮、サヒタ(サビタ)の皮などのほか、カラカラになって大木についているシイタケ、ムキタケ、キクラゲ、カヌカ、アカキノコ、ワカイ、ナメコなど毒性のないキノコ類、山クワの皮、マキという木の皮、自生のニッケの皮などである。

 冬のサルは小食といわれている。降雪の最中は足跡が雪につくので、跡の比較的つかない堅雪のころまで、樹木の枝渡りをしてエサをさがして歩き、雪の上には降りてこない。この間、集団で食べる冬のエサとして干しキノコ類と樹皮類だけでは量が限られているので食べる量も非常に少ないことになるのである。それで雪の上に降りてエサを捜して歩く堅雪のころがサル狩りによいことになる。

 当時のサル狩りは、堅雪のころをねらって夜明けに出動する。サルの集団がまだその朝食べ物をとらないうちに巻き狩りの布陣を終えるのである。これは値段にするとクマの胆の二倍という、マタギの獲物の中では最高の値のサルの胆をとるためである。朝の食べ物をとってしまった胆は、消化液が出るので小さい。それで夜明け前にサルをとる。

 サルの胆は干しあがりで重さ3.75グラム前後が普通。昭和10年2月、角館町の宮本氏が、オイノ沢で八匹とったサルのうち、7.5グラムの重さの胆を持ったサルがいたというが、これはサルとしては珍しく、最大のものといわれる。サルの胆は、子供の食あたり、カン、馬の突き目の妙薬として高く売られた。

 サルの寒中の脂肪は、黄色い山イチゴのような色で粒になって、皮の下に厚さ三センチメートルくらいにこってりとついている。肉の味はニワトリの肉に砂糖を入れたようなおいしい味。婦人病にきくというので、大正の中ごろまで角館町でも、寒にはいるとサルの肉を売り歩く声がきかれた。

 仙北郡田沢湖町田沢の古い寺子屋(旧藩時代)のそろばん稽古にサルの値段を計算した教育法がとりあげられている。「サル(皮)三十文、み(肉)六十文、ばっきゃ(頭)十文、ザル(アバラ骨)八文」と、当時の生活と結びつけた実物計算法。サルが多くとれた頃は山村民の生活にとってサルは重要な経済的役割を果していたわけである。

マタギのこと

 マタギとは狩りをする人であり、かつては東北地方に集落をつくって住んでいた。マタギを辞書風に定義的に語るのは難しい。2020年の時点ではマタギの実態が消えているからでもあり、またマタギという言葉から受ける人々の印象がまちまちだからだ。大きくは狩猟をする人をマタギと言い、狭くは山村に小さな畑をもち山仕事をしながらクマ、イノシシ、シカなどの獣や野禽を狩ることを生業とし、小さな集落をつくって暮らしていた人々である。山には住み込んではならない領域があったのだが、マタギはその領域をこえて狩猟していた。領域をこえることを許されるという免状を巻物にして持ち歩いていたのであるが、この免状の出所と効力は定かではない。捕獲物のうち熊の胆嚢を干した熊の胆は妙薬と信じられていたから、熊の胆を売りに全国を行脚して第二次大戦直後まではよい稼ぎをしていた。阿仁地方では昭和26年ころ村の経済の大半をまかなう状態であった。村の生計が熊の胆はの販売によってもたらされていたのである。

 上のことは太田雄治著『マタギ』1989年八幡書房刊 1,800円による。太田雄治氏は大正二年、秋田県仙北郡角館町生れ。昭和14年、秋田魁新報社に入社、戦後昭和22年、故郷の角館支局長となる。昭和3年頃から民俗学者でマタギ研究家の武藤鉄城市に師事、とくにマタギ習俗を研究した。また食べ物への関心が強く郷土料理研究家でにあった。

ニホンザル
 オナガザル科で種はニホンザル。哺乳綱霊長目オナガザル科マカク属に分類される霊長類。ヒトを除いた霊長目の現生種では、最も北(下北半島)まで分布する。化石は中期更新世以降の地層から発見されている。常緑広葉樹林や落葉広葉樹林に生息する。地表でも樹上でも活動する。

 昼行性で群れれは1から80平方キロメートルの行動圏内で生活する。行動圏は常緑広葉樹林では狭く落葉広葉樹林内では広い。主に果実を食べるが、植物の葉、花、種子、キノコ、卵、昆虫なども食べる。下北半島の個体群は食物が少ない時期に樹皮、海藻、貝類なども食べる。春季は花や若葉、夏季は漿果、春季から冬季にかけては果実や種子を食べる。

 野生下での寿命は25年以下(幼獣の死亡率が高い)だ。1947年以降の狩猟獣からの除外、農村の衰退などにより本種による農作物の被害(猿害)が、主に1970年代から増加している。1970年に下北半島北西部および南西部の個体群およびその生息地が「下北半島のサルおよびサル生息地」として国の天然記念物に指定されている。

【資料】栃原岩陰遺跡の発掘調査の報告書からの抜粋。
(南佐久郡北相木村大字栃原字東栃原277番地に所在する栃原岩陰遺跡)
1、ニホンザル 中足骨と趾骨各1点(第20層)
1、ニホンザル 側頭骨(第20層)
1、第15回発掘までの出土量は、大型獣の中ではツキノワグマが最も少なく、踵骨および距骨の出土合計数は、シカ195、ニホンザル64、イノシシ49、カモシカ27、に対してツ キノワグマは21であった。
1、長野県唐沢岩陰遺跡 (縄文晩期~弥生後期)での出土量はシカ10体分、ツキノワグマ15体分、イノシシ7体分、ニ ホンザルは 13体分と推定されている 。
1、今回の発掘ではシカ7頭、イノシシ5頭 に対して、ニ ホンザルは1頭の割合になる。ニホンザルは、貝塚や洞穴遺跡から知られる代表的な中型獣で、その昼行性の故に捕獲の対象とされ易かった。
1、イノシシは後述するシカの7頭よりは少ないが、カモシカ、ツキノワグマ、ニ ホンザルの各1頭よりは多い。しかし主要骨および歯の出土数が全体として少ないので、捕獲・利用された個体の年令別、性別個体数などに言及することはできない。イノシツの歯のうち雄の大歯がみられなかったことにも注目しておきたい。装飾品や利器としての利用価値が高かったものであろう。
1、骨の量が頭数に見合わないのは、隣接する集落の構成員も参加した集団的狩猟によって,本遺跡に持ち込まれたのが、1動物体の一部分ずつにすぎなかったというような状況も考えられる。


【参考】
縄文時代を理解する 甲斐鐵太郞
旧石器時代の定義そして日本の旧石器時代を知る 甲斐鐵太郞

2023-01-06-monkeys-as-food-for-early-jomon-people-





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2023年01月06日 13時53分16秒
コメント(0) | コメントを書く
[自然・ネイチャーのおはなし] カテゴリの最新記事


カレンダー

お気に入りブログ

まだ登録されていません

コメント新着

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.