絶望しそうになったら道元を読め!
絶望しそうになったら道元を読め!〜『正法眼蔵』の「現成公案」だけを熟読する〜【電子書籍】[ 山田史生 ] 私は道元が言う 薪が灰になったら、ふたたび薪にもどることはありえない。 だから灰が後で薪が先だと、つまり灰になるのは薪だといいたくなるが、そのように見てはならない。 薪は薪であって、そのあり方には前があり後がある。 だが前後があるとはいっても、その前後は断絶している。 灰もまた灰であって、そのあり方には前があり後がある。 薪についていえば、灰になったら薪となることがないように、人も死んだら生き返ることはない。 そうではあるが、生が死になるとは仏法ではいわない。 だから不生というのである。 また死が生とならないことも仏法によって定められている。 だから不滅というのである。 生は今のあり方であり、死も今のあり方である。 譬えてみれば、冬や春のようなものである。 冬が春となるのではないし、春が夏となるのでもない。という部分が理解できないのだが, なんとかくらいついて理解してみたいな, と思っていた。 生死というものを薪と灰に例えた話である。 そこがどうも私自身ピンと来なくて, つまり現象としての薪,灰はわかるのだけれども,同じ薪が燃えて灰になったら, それは燃えているどこかの段階で,裁断されるものなのかということ,このことがなかなか理解できなかったのだった。 それがもう一度本書を最初から読み始めたのであるけれども, そうすることによって道元禅の真髄がほんのり見えてきたのだった。 どういうことかと言うと, 生死について,生は不生,死は不滅 という大前提 があって, その結果生と死は別のもの, つまり上記のとおりまさに薪と灰の関係, 本書において著者はそのことを生は不生死は不滅だから, 今を 一生懸命生きることを提唱しているのだ。 その前提として而今がある。 つまりこの世には今しかない という前提である。 今, 今, 今,の 連続の中に私は生きていて, その私がこの今に融合することで 迷うこともなく生きることができる, それが不生であり, その結果死というものが訪れるのであろうけれども, それはそれで死という法位に座するものだから, とにかく生きなはれ!ということ なんだろうなと今回は理解したことである。( 6月 18日 記)