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カテゴリ:チェロキー
「マヤ・アステカ・インカ文明」 <2> ジョヴァンニ・カセッリ監修 1997/3 ニュートンムック 原書1990 <1>よりつづく マヤの人々は2種類の暦を使いわけていました。一つは祭式暦とよばれる宗教上の儀式や予言などに使われた暦で、260からなる1年を、20日間づつ13ヶ月にわけたものです。もう一つは、現在の太陽暦とほぼ変わらない民間で使われていた暦で、1年が365日でなりたっていました。この民間の暦は、祭式暦と同じように1ヶ月を20日と定めていましたが、月の数は祭式暦より多くなっていて、1年が18ヶ月にわかれています。これだけですと、20*18ヶ月で、1年が360日しかないことになりますが、残った5日間の分は、”暗やみの5日”とよばれて、別につけ加えられていました。このマヤ暦の紀元は、紀元前3113年から始まるといわれています。p34 この辺は、ほとんど前書と同じだが、マヤ暦の紀元が、紀元前3113年とか3114年とか、のブレがあるのは、興味深い。つづいて、アステカ文明の暦についてだが・・・ アステカの数学と天文学は、マヤからひきついだ知識を発展させたものでした。事実、アステカ人の数学は、マヤで使われていたのと同じ20進法を基本としていました。こうした知識をもとにして、アステカでは、物の重さをはかったり商品の価値を決めたりするときの、独自の単位が定められていました。 また、天文学や暦の知識でも、マヤの影響が強く感じられます。とくに暦のほうは、マヤで考案された1年を365日とする太陽暦と1年を260日とする祭式暦が、そのまま引きつがれてました。さらに、この二つの暦が52年周期で一致することから、52年間を一つの”世紀”と定めたことまで、先住民のマヤ人にならっています。p58 マヤ文明とアステカ文明は、時代や地域的に完全に分離されているという表現もあったが、文化は、このように継続され、発展されることは当然ありうることだ。ムー、レムリア、アトランティスという「失われた文明」の文化や知識が、地域や時代が断絶していても、継続し発展している可能性がある、いい証左となるだろう。 さて、一方のインカ帝国だが・・・。こちらは、南米の西海岸一帯に広がる文明だ。 インカ族がアンデスに出現したのは、13~14世紀ごろのことです。もっとも当時はペルーの太平洋岸にチムー王国が、中央の高原部にはルパカ王国がそれぞれ栄えていて、インカ族がアンデスの歴史の主役となるまでには、まだしばらくの年月を要しました。p64 13~14世紀といえば、チベット高原で700年前の多火手が、密教の修行をしていたころだろうか。 マチュ・ピチュの遺跡から発見された”インティウァタナ”という石は、日時計の役目をはたしていたと考えられています。これを見るかぎり、インカではアステカなどとちがって、一日の時間をはかる方法が開発されていたようです。しかし、インカには、マヤやアステカで使われていたようなすぐれた暦は存在しませんでした。もちろんインカにも、天文学者や占星術師といった人々はいましたが、彼らの能力はマヤ人やアステカ人の足元にもおよばず、日食や月食の予知などは、まず行なえなかっただろうと思われます。したがって、彼らが作成した暦も、1年を12か月にわけた太陰暦となって、実際の季節感との間に大きなずれを生じていました。p74 ここにおいては、インカの「遅れ」より、マヤの「先見性」に注目しておくべきだろう。 このように、天文学や暦の分野では、メソアメリカに大きくおとっていたアンデス地方ですが、未来のことを知る予言のほうは、メソアメリカをしのぐほどさかん行なわれていました。p74 この項<完> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.02.11 12:32:10
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