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<12>よりつづく これから私が話す人は光明を得た人として認められていない。彼を認める人がいなかったからだ。光明を得ている者だけがほかの者を認知することができる。その人の名は鈴木大拙(貞太郎)だ。瞑想と禅を普及させるために、この人が現代世界で誰よりも多くの仕事をした。鈴木大拙は生涯をかけて禅の最奥の核を西欧世界に紹介する仕事をした。 p46 鈴木大拙の『禅と日本文化』が私の5番目の本だ。この人は、誰も凌駕できないほどに、人類に対して大きな貢献をした。彼の仕事は絶大だ。全世界が彼のお陰をこうむり、また将来もそうだろう。鈴木というのは誰もが知っている名前であるべきだ。だがそうなっていない・・・・・。私はそうなるべきだと言っている。気付いているのはほんのわずかの人々だ。そして自分が気付いていることを遠く広くひろめるのは、知っている人たちの責任だ。p47 鈴木大拙が禅に対して行ったことを、ブーバーはハシディズムに対して行った。ふたりとも道を求める者のために途方もない貢献をした。鈴木は光明を得たが、残念ながらブーバーは得ることができなかった。p164 彼は禅の花を英語にもたらした。この花は禅に関する他のどの英語の著述家の中にも見当たらない。鈴木大拙でされそれはできなかった。それは彼が日本人だったからだ。光明を得ていながらも、彼は自分の光明の香りをその英文著作に持ち込むことはできなかった。鈴木の英語は美しいが、まったく光がない。多分電気は入っているだろうが、明かりはまったくついていない。p223 そしてクリスマス・ハンフリーズの『禅仏教』については・・・ このハンフリーズという男は、鈴木大拙の弟子だった。そして彼は、師に対して、特に西洋では、他の誰もしたことがないほどに尽くした。彼は一生、鈴木に帰依していた。p224
私は人から借りた本を読むのは、どうしてもいやだった。実際、私は図書館の本を借りるのもいやだ。図書館の本とは売春婦のようなものだ。私は他人がつけた印とかアンダーラインを見るのはいやだ。私はいつでも新鮮さを愛する。処女雪のような新鮮さを。p32 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2] カテゴリの最新記事
大拙は、その師から見性を認められているので、光明を得たと認められていないといのは、どういうことかわからないです。
もっとも大拙自身は、見性を認められた際には自分では納得がいかず、のちに「肘外に曲がらず」と落着したときに、自らの見性を自覚したといわれています。 それは大拙の直弟子のひとり、坂本弘が授業で言ってました。(拙著「魂の螺旋ダンス」127ページ) そのような述懐にも関係しますが、大拙=禅とするのは、物事の半分であり、浄土真宗と大拙の出会いを考えないと、大拙の全体像はつかめないと思います。 僕のゼミの先生だった坂東性純も、大拙の晩年の直弟子です。イースタンブディストソサイエティという、仏教を英語で世界に紹介する組織を大拙から継いだ人です。が、坂東先生も数年前に亡くなりました。 余談ですが、オショーが、大拙が英文著作に禅の香りを持ち込めなかったというのは、微妙な(あからさまな?)英語中心主義であって、「残念ながら私は日本語が読めない、膨大な禅に関する漢籍もその香りを直接味わうことができない」と告白するのが、順当ではないかと思いました。笑。自覚しているんならいいんだけど、それならもうすこし言い方が変わるように思いました。 (2008.03.07 23:31:07)
>abhiさん
貴重なレポートどうもありがとう。 「私は、禅について書かれた本はほとんどすべて目を通しているので分かるのだが・・・」p222という表現は、あきらかに英語あるいはインド言語において、ということでしょうね。 「禅と日本文化」も、もともと「Zen and Japanes Culture」として1938年に発行されていますが、のちに「Zen Buddhism and its Influence on Japanese Culture」として改訂されているので、Oshoはどちらを読んだのでしょうね。 親鸞については、当ブログとして、あとに残されている大きな山のひとつなので、そのつながりのなかで大拙をとらえなおすことも必要でしょう。 (2008.03.08 07:52:19) |
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