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カテゴリ:アンソロポロジー
何がどう次の瞬間におきてくるのか、人間にはわからない。中国産の食品問題とか、free tibet の掛け声さえ、遠くにかすんでしまうような出来事だ。こんなときに下世話な心配だが、こんな状況で、北京オリンピックは開催することはできるのだろうか。開催すべきことなのだろうか。中国共産党は13億の民を、統治しつづけることができるのだろうか。 ひとりひとりの人間が、人類というかたまりを意識して暮らさざるをえない地球化時代の鍵は、やはり地上最大のこの大陸のゆくえにかかるところが大きいだろう。そこは、人類文明の多くを生みだした交流の大空間であった。人間もしくは人類に役立つ大きな「知」というものがあるならば、それはおそらく、歴史と現在をつらぬくまなざしのなかにこそ、求められるのではないか。そう考えるとき、800年の時をこえて、ユーラシアの大半をゆったりとつつみこみ、アフリカをふくめた陸海を大きく穏やかにつなぎとめたモンゴル帝国とその時代の記憶が、今に蘇る。p17 「アジア」という語は、古代のアッシリア語で「アス(asu)」、すなわち「日いずるところ」を起源とする。おなじくアッシリア語で「エレブ(erebもしくはirib)」、すなわち「日没するところ」という語と、もともと一対のものである。「アス」が「アシア」となり、さらにギリシャに伝わって、牛に変身したゼウスが女神エウローペーを略奪してその背に乗せて海を西に渡ったという神話がかぶせられる。「エレブ」と「エウローぺー」の語の要素は、ほぼ共通している。かくて、ギリシア語の「アシア」と「エウローペー」が地中海域の西へもひろまり、やがてアジアとヨーロッパの呼び名が定まったとされる。p44 さて、「アス」と「エレブ」の語は、まさにアッシリアの碑文に登場する。「日いずるところ」が東、「日没するところ」が西。まこと単純素朴ないい方である。逆にいえば、アジアとヨーロッパは、それだけの意味でしかない。そして、このシンプルきまわりない表現は、ギリシア語からラテン語にひきつがれ、「オリエンス」もしくは「オリエンテム」と、「オクシデンテム」なる語となった。すなわち、「のぼる太陽」と「沈む太陽」である、これまた、東と西を意味するにすぎない。p46 「ユーラシア」という語は、もとよりヨーロッパとアジアのふたつをあわせ、それをつづめたいい方である。ヨーロッパのほうが先にくるのは、ユーロセントリズム(ヨーロッパ中心主義)のためというよりも、用語としてのおさまり具合のよさによるものだろう。とはいえ、ともかく近代ヨーロッパで生まれたいい方ではある。とりわけ、地理学・地政学にかかわる人たちが使った。p52 なるほどたしかにアシューロパ(asia + europe)では収まりが悪いかもしれないが、しかし、順番としては日の出→日没の順番で考えるのがものごとの順序ではあるはずだ。 なお、地政学は、とくに第一次大戦後のドイツにおいて、軍人にして学者であったカール・ハウスホーファーにのってナチスの膨張主義政策と連動して展開し、日本などにも影響を及ぼした。戦後は、そのマイナス・イメージと米ソ冷戦による二大対立構造のなかで衰えたが、ソ連の解体以後の国際情勢の多極化・流動化によって息をふきかえしつつある。ポーランド出身で、カーター政権の大統領補佐官であったズビクニュー・ブレジンスキーが「ユーラシア地政学」の戦略を示したのは、今後のひとつの可能性をおもわせる。p55 800年前のジンギスカンの登場によるモンゴル帝国の勃興とその後の歴史が、ユーラシア大陸の西側地域の住民たちに対して、未知なる東側への、限りない憧憬と探究心をかきたてたと考えることは難しくない。1942年のコロンブスの航海も、じつは、アメリカ大陸や日本を目指したのではなく、この日のぼるところ=asiaをめざそうとしていたのだった。 「帝国」なるものは、あきらかに今もユーラシアに生きつづけている。それによるパワー・ゲームも歴然と存在する。ところが、現存する「帝国」がもしゆらぎ、あるいはさらに瓦解するならば、その反動もおそろしい。そうした「帝国」が、みずからの崩壊による恐怖をもって世界を脅迫することも十分にありえる。 わたくしたちの「この時代」も、いぜんとして所詮は、ひとつの通過点にすぎない。世界の枠組みはすでに定まったとするのは、性急すぎるだろう。とりわけ、広くアジアなるものはまだ到底、定まってなどいない。ましてや、アフリカはどうなのか。その悲惨な現状は、とくにヨーロッパにこそ、責任の多くがまぎれもなくある。きちんとした世界史の理解のうえで、現在はもとより、「これから」をはからざるをえない。そういう「時」の突端に、わたくしたちは生きている。p335
Last updated
2008.05.15 22:09:27
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