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カテゴリ:agarta-david
人生には出会いのタイミングというものがあり、会うべきものには会うべき時期に会うことになるのであろう。また、どのような良いものであっても、結局は会うチャンスがない、というものもある。この本も、このタイミングで読まれるべきなのか、現在の当ブログでは、どこかカテゴリ・エラーに属してしまいそうなのだが、とにかく不思議な一冊ではある。 「チベットの死者の書」は、死者に捧げられるミサに形を変えてきたようであるが、実際それは人生へのガイドブックであり、<意識の中心を今すぐに方向転換すること>に関わっていると言うほうが適切である。そして同様に臨死体験への関心の高まりは、死後の人生への熱中から生まれるものであるが、実際にこれらの経験がより意味深く語っているのは、死の前の人生について、この瞬間について、そして、ともかく今そして常に、人間とは本当は何であるのか、についてであると思えるのである。p25 ここで語られていることは正論ではあるが、「死者の書」はやはり死者に捧げられるもの、と言っても別におかしくはないのだ。西洋においてのチベット文献は、かつてあまりに数が少なかったので「死者の書」だけが突起していたが、現在のようにチベット文献が氾濫している時代であれば、「人生へのガイドブック」とするのは、他にも良書がたくさんある。 私の自由自在さは人間以上のものだけでなく、人間よりずっと下のものまで拡大する。私は<超人間>であると同じように<人間以下>の存在でもあるが、明らかにこのことは、<上にあって大きい>ことが<いい>とか、<下にあって小さいもの>は<悪い>ということは意味していない。それゆえ、私が一瞬、自分の国(正しいにせよ、間違っているにせよ)や自分の政党(ナチのことを考えてみよ)や(異教徒を火刑にする)自分の教会にあまりに同情して、それと一体化するあまり、それらのために何人もの人間を火葬にしたり、粉砕することによて、自分の感情をすすんで抑圧することは非常によくあることである。そして、次の瞬間には体の中の一成員(たとえば、胃)のためや、中毒や食欲のために、体全体の健康や幸福やその生命よりも、体の一部の耽溺を優先して、自分自身の人間の肉体を破壊する。p45 この人物について、私はよくわからないが、この本がでた10年後、つまり2007年に亡くなったようである。「今ここに、死と不死を見る」自分の不死の中心を発見する---というタイトルの重さは永遠のものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.12.05 14:52:09
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