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地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

2009.01.04
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カテゴリ:osho@spiritual.earth

<22>よりつづく

「私が愛した本」 <23> OSHO

 カリール・ジブラン その2

 9番目・・・・またまたカリール・ジブランに戻ってくる。私は彼を愛して来たし、できることなら助けてやりたかった。これまで待ってもいたのだが、今のところはまだ生まれていない。彼は、未来の誰かほかの導師を求めなければならなくなるだろう。「漂泊者」が、私がこの番号に選んだ本だ。

 カリール・ジブランによる「漂泊者」は寓話集だ。寓話とは意味の深いことを言うための最古の手法だ。言いえないことも寓話の形でなら表現できる。それは小さな物語のすばらしいコレクションだ。

 私もまた何というペテン師だろうね。目を閉じていても、デヴァギートが何かを言おうとしているのが見える----それどころか、彼は足まで使っている。これはあまり紳士のやることではない。しかも師(マスター)の後ろで・・・・どうしようというのかね? 世の中はこうしたものだ。

 これはすばらしい、アシュ。番号を私に思い出せてくれないか。

 「9番目について話しているところでした、Osho」  p161

 

 10番目、カリール・ジブランによるもう一冊の本、「霊の言葉」だ。さて、私は異議を称えなければならない。それがたとえ私が愛するカリール・ジブランに対する異議であってもだ。彼が「霊(スピリチュアル)の言葉」と書くことは許されない----霊(スピリチュアル)の? それはすばらしい本ではあるが、カリール・ジブランは、それを「美しい言葉」と名付けたほうがよかった・・・・美しくはあるが、霊的ではない。それを霊的というのはただ馬鹿げている。しかしそれでも私はこの本を愛している。まさに私があらゆる馬鹿げていることを愛しているように。

 私はテルトゥリアヌスを思い出した。この人の本は----申し訳ないが、私は入れなかった。それを全部入れることは私にはできなかったが、少なくともその名前に触れておくことはできる。テルトゥリアヌスの有名な言葉は、「クレド・クア・アブスルドゥム----不合理故に吾信ず」だ。世界中のすべての言語において、これ以上に意味深長な言葉はほかにないと思う。しかもこのテルトゥリアヌスは、キリスト教の信者ときている! そうだ、素晴らしいものなら私は評価する・・・・たとえキリスト教の聖者であろうと。

 「クレド・クア・アブスルドゥム」----これはダイヤモンドで書かれるべきだ。金文字でも足りない。金では安すぎる。この「不合理故に吾信ず」をいう言葉はそれほどにも価値がある。テルトゥリアヌスなら「愛の言葉」と題する本を書けたかも知れないが、カリール・ジブランには無理だ。

 カリール・ジブランは瞑想すべきだ。彼が瞑想すべき時がきている。私が話を止めるべき時が来ているように・・・・だが50という番号を完成しなければならないという単純な理由で、私は止めるわけにはいかない。 p162

 

 9番目・・・・。私はいつもカリール・ジブランを評価してきた。彼を非難する前に、もう一度彼を評価しておきたいと思う。心配しなくていい。私はこの「非難する」という言葉をただ軽く使っているのではない。文字通りの意味で言っている。9番目は、カリール・ジブランの本「散文詩集」だ----すばらしい。現代社会では、ラビンドラナート・タゴール以外には、誰もこのような散文詩集は書けない。ふたりとも英語圏の人でないのは奇妙だ。おそらくは、だからこそ彼らは、あのような詩的言語を書くことができたのだろう。ふたりは別な言語の出身だ。カリール・ジブランはアラビア語だが、この言語はこの上もなく詩的だ、純粋な詩だ。そしてラビンドラナートはベンガル語だが、これはアラビア語よりもっと詩的だ。実際、もしふたりのベンガル人が喧嘩をしているところを見たら、驚くだろう。互いに愛の言葉を交わしているのではないかと思うに違いない。彼らが喧嘩をしてるなどとはとても考えられない。喧嘩の中でさえ、ベンガル語は詩的だ。

 私はそれを自分で経験して知っている。私はベンガルで人が喧嘩しているのを見たことがある・・・・まさに詩だ! 私は驚倒した。マハラシュトラに行って、人がただ世間話をしているのを見たときは、彼らが喧嘩をしているのではないか?----警察に知らせなければならないのではと心配になったほどだ。マラティー語というのはそういう言葉で、甘いことなどとても言えない。荒くて、きつい言葉だ。闘う言葉だ。

 英語圏で、カリール・ジブランとラビンラナートのふたりが評価されているのは不思議だが、彼らはこのふたりから何ひとつ学んではいない。彼らはこのふたりの成功の秘密を学んではいない。何がその成功の秘密なのか? 彼らの「詩情」だ。 p209

 

 10番目。これは私が決して公には非難したくなかったカリール・ジブランによる本だ。私はこの男を愛しているからだ。だが、たとえ自分が愛している人間でも、その言葉が真実を表していないなら、私がその人間を非難することもありうることを記録しておくために、それをしなければならない。

 その本とは「思想と瞑想」だ。さて、この本には私は同意できない。そしてこの本ゆえに、カリール・ジブランが瞑想の何たるかをまるで知らなかったことが、私には分かる。この本の中の「瞑想」とは、「熟考」以外の何ものでもない。そうであって初めて、それは思想とともに並べられる。アシュ、お前は思考とともに行く必要はない。瞑想とともに行かなくてはならない・・・・私といっしょにだ、カリール・ジブランといっしょにではない。だからもっと高く行きなさい。それを達成しなければ、私はじきにこんなふうに話すことを止めてしまうつもりだ。私は自分の超越をあらゆる方法で主張したい。これまでにそれをした覚者(ブッダ)はひとりもいない。私はパイオニアでありたい。

 私は思考に反対であるがゆえに、この10番目の本に反対する。私はまたカリール・ジブランが「瞑想」という言葉を西洋風の意味に使っているということでも、これに反対だ。西洋では、瞑想とは単に、あることについて集中して考えるという意味にすぎない。それは瞑想ではない。東洋では、瞑想とはまったく考えないことを意味する。それは「あれやこれやについて」とは何の関係もない。それは対象を持たない。その中にはどんな対象もない、純粋な主体性だけだ。ゼーレン・キルケゴールは、「人間の内奥の核は純粋な主体性だ・・・・」と言った。それこそが瞑想の何たるかだ。p210

<24>につづく






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Last updated  2009.01.10 22:11:32
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