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テーマ:受験シーズン(578)
カテゴリ:教育関連
センター入試の国語で、教科書に載っているのと同じ文章が使われたことが話題になっている。
受験生にしてみれば、不公平な話だ。 問題作成側のチェックが甘かったといえばそうなのだが、これからも同じことは起こるのではないか。 教科書に載っているものは使えないとなると、古典など、有名なものはほとんど使えない。 しょうがないので、誰も知らないようなのを引っ張り出してくるしかなくなる。 かといって、古典には数に限りがあるだろうし。 以前から思っていたことなのだが、どうせなら、あらかじめ試験問題を公開してしまったらどうだろう。 もちろん、「今年の問題はこれです」というのではない。 問題を何千問か作っておき、それを公開してしまう。そして、その中から毎年無作為に50問なり100問なり出題するのだ。 これなら、どの受験生にも公平だし、新しい題材を探し出すという苦労もして済む。 さらに、センター入試を受ける人は、共通して一定の知識を持つことができ、ゆくゆくは日本全体の教養の底上げにもつながっていくだろう。 もちろん、知識と教養は同じではないのだが、教養以前に知識がない、というより、知識を身につけようという姿勢を持たない人間が多すぎる。 「これが高卒程度の人間に要求される水準だ」というのをあらかじめ示しておけば、大学進学希望者はその水準を満たそうと努力することになる。 では、進学しないものはどうなるのか。 無理に知識を身につける必要はない。頭で身につける知識よりも、体で覚える技能が要求される仕事だって多い。 そして、積極的に技能を身につけようとするぐらいの人は、まじめで勤勉なので、進学希望じゃなくてもちゃんと勉強する。したがって、知識も身につける。 目標がはっきりしていれば、勉強にも達成感があるだろう。 そもそも、「大学を出なければならない」「高卒じゃないと人並みじゃない」という考え方の方がおかしいのだ。 以前テレビで見たのだが、京浜工業地帯の町工場で、世界でそこでしか作れない製品を作っているところがあった。 手先を使う作業が中心で、機械化できない。 そこの社長は、「できれば中卒で来て欲しい、高卒ならまだ何とかなるが、大卒では遅い」と言っていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.01.18 13:20:19
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