蕨市北町 三学院の石仏
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら「蕨の石仏再訪シリーズ」の最終回は、中世以前の創建と伝えられる真言宗の古刹 三学院です。三学院 蕨市北町3-2-4[地図]中山道から少し東に入った小径に三学院の山門があった。山門の右手前に大きな寺導が立っている。さらにその右手前、ブロック塀の前に二基の石塔が並んでいた。右 鋪石供養塔 文久3(1863)大きな角柱型の石塔の正面、梵字「キャ」の下に「鋪石供養塔」敷石供養塔である。塔の右側面に大きく蕨宿中と刻まれている。左側面には塚越村、大谷場邑、文蔵村から小谷場村まで、近隣12の村、宿の名前が刻まれ、最後に蕨上下郷中、下部に大きく「檀中」と刻まれていた。左 馬頭観音塔 寛政12(1800)大きな唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面、梵字で六文字「南無馬頭観音」と刻まれてるという。下の台の正面には一頭の馬が生き生きと線刻されている。塔の右側面に造立年月日。その隣に當所馬持、さらに大きく講中と刻まれていた。左側面 足立 坂東 第二拾番 三學院。裏面に世話人二名の名前が刻まれていた。山門を入ってすぐ、参道右側に大きな堂が立ち、中には丸彫りの六地蔵、舟形光背型の古仏、通称「目疾地蔵」さらに大型の丸彫りの「子育地蔵」が祀られている。(2015年5月8日の記事参照)地蔵堂の入口両側に一対の石灯籠が立っていた。石灯籠 元禄14(1701)左右とも同じ構造で竿は円筒形だが、笠、火袋、中台、基礎はいずれも四角形。火袋だけ色が違っていて、たぶん後から補修されたものだろう。竿部正面に銘が刻まれているが、経年のため薄くなっていて、特に上の部分は全く読み取れない。こちらが右の石灯篭。銘の内容は全く同じなので、両方を見比べてやっと一部だけ読み取ることができた。中央「□□□□貳銭之諸衆二世安樂之所」両脇に造立年月日。下部に願主 欽白。さらに修造 西蓮と刻まれている。これまでいろいろなところで見かけたことだが、この竿部裏側にも多くのくぼみ穴が穿たれていた。地蔵堂前からさらに進むと正面に仁王門がある。その右手の涅槃門の先、塀の前に四基の石塔と三基の石碑が並んでいた。左端 庚申塔 貞享元年(1684)江戸時代初期にのみ見られる板碑型の「三猿庚申塔」中央を独特な形に彫りくぼめた中、日天と月天の間、梵字「カーン」の下に「庚申供養支堤」この「支堤」というのは他ではあまり見かけないが、すぐ近くの個人宅地内の延宝2年の庚申塔にも刻まれていた。「支堤」を調べてみると「石塔」「石仏」を表すらしく、「庚申供養塔」という意味になるだろう。縁の部分、右に造立年月日。左に武刕蕨上宿衆敬白。三猿は正面向き、頭が大きくややアンバランス。三猿の下、右上に小さく本願とあり、十三名の名前が刻まれていた。その隣の板碑型の石塔。下部には蓮台に立つ阿弥陀如来と聖観音菩薩を浮き彫り。上部に禅定尼、禅定門二つの戒名が刻まれている。命日は同じ寛文二年の四月と五月、あいついで亡くなったご夫婦の墓石だろうか?続いて第六天塔 元治元年(1864)角柱型の石塔の正面に「第六天」塔の右側面に造立年月日が刻まれていた。その奥に庚申塔 明和6(1769)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。頭上に蛇がとぐろを巻く。顔はつぶれているが、たぶん人為的なものだろう。青面金剛の足元に邪鬼が丸くうずくまる。三猿は下の台の正面に彫られていた。塔の右側面に造立年月日。左側面に願主二名の名前が刻まれている。正面に三猿が彫られた台の両側面にも銘があった。台の右側面にはひらがなで24名、漢字で1名、左側面はひらがなで25名の名前が刻まれ、最後に講中 五拾人とある。中に一人だけ男性が含まれるのは面白いが、女人講中と言っていいだろう。続く三基の石碑は「地域教育の形成と教師と学童との人としてのつながりを知ることができる大変貴重な資料」ということで、いずれも蕨市の市指定文化財になっている。解説板に従って見てゆこう。左 墓碑建設寄付連名碑 明治24(1891)石川直中墓碑建設のための寄付者82名の名前が刻まれている。中央 石川直中墓碑 明治24(1891)明治初年、蕨郷学校の初代校長を務めるなど、蕨地域の近代学校教育の普及に大きく貢献した石川直中の墓碑。右 中山保治頌徳碑 明治36(1903)明治初年、塚越学校の初代校長を務めた中山保治の頌徳碑。背面に門人たちの名前が刻まれている。仁王門をくぐると正面に雄大なスケールの本堂、左に壮麗な三重塔、右に新しい阿弥陀堂が立っている。阿弥陀堂の裏の墓地に多数の宝篋印塔が並び、その中に「木食観正塔」というユニークな石塔もあるのですが、今回はこれくらいにしたいと思います。興味のある方は2015年5月10日の記事をご覧ください。