岩槻区上野 宝生院の石仏と三差路の猿田彦大神塔
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら上野の石仏、残りは二ヶ所です。宝生院 岩槻区上野6-5-3[地図]上野の南の地区にあった宝生院埋め墓から北へ500mほど進むと、道路左側に詣で墓のある宝生院があった。入口左脇に「医眼山 宝生院」と刻まれた石塔が立ち、アスファルトで舗装された参道の奥に瓦屋根の本堂。参道右側が墓地、宝生院の「詣で墓」で、その墓地の前に二基の小堂が立っていた。手前の小堂の中 地蔵菩薩塔 寛文5(1665)四角い台の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。錫杖、宝珠ともに健在だが、顔のあたりの風化具合はやはり年輪を感じさせる。台の正面中央に「奉造立施主」その右に七名、左に六名の名前。さらに左の端に造立年月日が刻まれている。奥の小堂の中 六地蔵菩薩塔 文政2(1819)四角い台に上に丸彫りの地蔵菩薩立像。像台ともに美しく揃っている。造立年の割に像はきれいすぎる感じで、もしかしたら再建されたものかもしれない。六基の台の正面中央にいずれも施主 上野村中とあり、一番左の台にはその右脇に造立年月日が刻まれていた。墓地の中、手前の赤い小堂の裏に四基の石塔が並んでいる。この四基の石塔は、以前は参道の左側に、墓地の前の二基の小堂と向かい合うように並んでいた。現在は参道の左には石塔が移動された跡だけがが白く残っている。四基の右端 庚申塔 貞享2(1685)唐破風笠付角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて外に日月雲 中に青面金剛立像 合掌型六臂。三眼忿怒相の青面金剛。二組の腕はともに肩のあたりから出て上下に直角に曲げられ、上の手は戟?と法輪、下の手の持物は薄くなっているが弓矢だろうか?右枠に「奉造立供養施主武州植野村」左枠に造立年月日が刻まれていた。足元に全身型の邪鬼が磐座にへばりつくように横たわる。その顔は邪鬼としては珍しく人間のようだ。磐座の下の三猿は大型で、邪鬼にも負けない存在感。両脇が内を向く構図だが、左脇の聞か猿はやや低い位置に彫られていて、デザイン上のちょっとしたアクセントになっていた。塔の両側面には大きな蓮が彫られ、下部にそれぞれ四名の名前が刻まれている。その隣 庚申塔 享和3(1803)角柱型石塔の正面 日月雲の下に大きく「庚申塔」下の四角い台の正面に三猿が彫られていた。やや小型の猿たちはお互いに距離をとって、思い思いの足の組み方で座る。塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡上野村。正面に三猿が彫られた台の両側面に、それぞれ十数名の名前が刻まれていた。続いて 庚申塔 天和3(1683)唐破風笠付角柱型の「三猿庚申塔」ほぼ江戸時代初期にのみに見られるタイプの庚申塔だ。石塔の正面を彫りくぼめて、外に日月雲、中には梵字「ア」の下に「奉待庚申供養所願成就攸」両脇に造立年月日。下部両脇には滅罪、生善。三猿は正面向きに肩を並べて座る。頭に白カビが積もっていた。三猿の下の部分、武州植野村とあり、続いて関根氏をはじめ十名ほどの名前が刻まれていた。左端 地蔵菩薩塔 万延2(1861)風化が進み白カビも多く銘は読みにくい。駒型の石塔の正面「安産地蔵尊」文字塔の地蔵菩薩塔じたいが珍しいが、「安産地蔵尊」というのは初見。塔の右側面に造立年月日。左側面に造立年月日。左側面に當所とあり関根氏の名前が刻まれていた。参道を進むと本堂の右の駐車スペースの東の隅、フェンスの前に多くの石塔が一列に並んでいる。そのほとんどは歴代住職の墓石で、卵塔をはじめ、塔の正面に五輪塔を浮き彫りにした供養塔などがあった。一番奥、光明真言供養塔 寛政7(1795)角柱型の石塔の正面上部 蓮座の上に梵字「アーンク」を彫り、その下に「光明真言一百萬遍」右脇に唱満行者、左脇に峯雲法師。塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡上野村と刻まれていた。 永福寺南三差路 岩槻区上野901-1[地図]宝生院の入口から300mほど進むと、道はやや左へカーブしてその先は古ヶ場に入る。カーブのところは右に分かれる細い道との三差路になっていて、その角に小堂が立っていた。すぐ先の道路左側に古ヶ場の永福寺の墓地がある。小堂の中 猿田彦大神塔 明治20(1887)角柱型の石塔の正面に「猿田彦大神」塔の左側面、大きな字で右に 志よふぶ 三里半,、左脇に志の寿 二里、その下に小さく造立年月日が刻まれている。右側面は小堂の側板が邪魔して狭い角度でしか見えないが、奥にいわつき十八丁、手前におをみや三里と刻まれていた。