上宗岡 大仙寺 その1
今日は30,000アクセスを期にブログのデザインを変えてみました。できるだけすっきりと写真、文が見やすいようにしたつもりですがいかがでしょうか?では、上宗岡 大仙寺を見てみましょう。大仙寺 志木市上宗岡2-7-45いろは橋の東の交差点から北へ向かう県道36号線、通称「宿通り」の上宗岡5丁目交差点のすぐ左手に大仙寺の入口がある。先日見た「細川家庚申塔」のすぐ東の位置。訪問時、朝早くからご住職がせっせと境内の清掃をされていて、禅宗のお寺らしく作務=修行をそのまま体現されているかのようなお姿だった。もちろん、境内は手入れが行き届きとても気持ちが良い。山門を入り参道の左側、新しい堂の中に両脇に六地蔵を従えるようにもう一体のお地蔵様が立っていた。右脇には白山社も祀られている。地蔵菩薩立像 元文3(1738)やわらかい表情でたたずんでいる。台の正面に「三界萬霊」脇に再興主 細田氏と刻まれていた。西路傍に祀られた庚申塔の講頭の細田氏と同じ家だろう。左脇には僧名も刻まれ、その呼びかけに有力な檀家の細田氏が応じて、再建されたということだろうか。右側面に年号。左側面に世話人名が刻まれている。丸彫りの六地蔵菩薩立像。やや小型ながら真ん中のお地蔵様と佇まいなどが似ている。六体はほぼ同時期のもののように見える。それぞれの台の正面に「寶珠地蔵大菩薩」「寶印地蔵大菩薩」などと地蔵名が刻まれている。なかの一基の台の左側面に宝暦(1764)の銘があった。六地蔵の小堂の奥は墓地になっている。その中にある個人の墓地の中であるが宝篋印塔に似た大きな石塔 宝暦3(1753)が立っている。塔身部?正面に「大乗経王一千部塔」納経供養塔のようだ。銘文は一部しか読めないが、武州入間郡宗岡郷とあり功徳者 関根姓4名の名前があった。下の台には凝った彫りが施されている。個人の力でこれだけの大型の石塔を造立できたということは、江戸時代中期になって、地域の経済もそれなりに発展して豊かになったということだろう。参道を進み本堂の左側、墓地の前に三基の石塔が並んでいた。こちらはいずれも個人の墓石のようだ。像塔二基は様子が面白い。聖観音菩薩立像。光背両脇に寛文7(1667)銘のある二つの戒名が刻まれている。この時代のものとしてはきれいだ。地蔵菩薩立像 慶應3(1867)幕末のものだ。ちょっとユニークな造形である。右側面に年号。左側面には 越後□□□□郡宮本村之産 高野六左エ門二女同三女 施主とある。いずれにしても講中などのものではないようだ。このあとは長くなりますのでまた次回にします。