上町氷川神社
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は埼京線の北与野駅から氷川神社をまわって与野本町駅まで約8,500歩の散歩でした。北与野駅の北の八幡通りを西に行き県道165号線にぶつかる交差点で右折、しばらく行くと右手に氷川神社の鳥居が見えてくる。鳥居の前、参道の両脇に大きな石灯籠が立っていた。右、安政3(1856)塔身に伊勢太二講中と刻まれている。「太二」=「太太」=「太々」のようだ。下の台に講元、世話人合わせて5名、他に9名の名前が刻まれていた。左は明治27(1894)台に二名の名前が刻まれていた。二つの鳥居をくぐると参道の左側に4基の大型の石灯籠が並んでいる。手前、文化3(1806)塔身に榛名山太太講中と刻まれていた。続く3基はいずれも同じ個人の奉納。左 文政4(1821)奉納上野國榛名山とある。中 文政6(1823)塔身に大日本國六十餘州 天神地神八百萬神寳前と刻まれる。右 文政4(1821)こちらは奉納相州雨降山(相模の大山)と刻まれていた。参道右にも石灯籠 文政4(1821)塔身に御神燈、奉納讃岐國象頭山、榛名山太太講中台座に発願主として二名の個人名が刻まれている。次に鳥居をくぐると両側に狛犬 安永4(1775)が立っていた。大正3年増築とある。多分、台の部分を修復したのだろう。狛犬の後ろにはそれぞれ石灯籠が立っていた。左 永代燈籠 元文2(1737)側面には與野町 太々講中と彫られている。右 永代常燈籠 宝暦8(1758)右側面に西國秩父坂東諸願成就と彫られていた。左側面には與野町施主として個人名を刻む。先に進み、拝殿の西の奥には庚申塔 享保4(1719)が立っている。下部に三猿が彫られた厚みのある文字塔。中央の偈文はうまく読めない。塔の左側面には従是左川越道と刻まれていた。台の正面には与野 上中町講中と彫られている。右側面、年号に続いて 従是右 大宮道 奥州道だろうか。--------------------------------------------------------------------------------さて、氷川神社のあと長伝寺を訪れ、赤山通りに出て薬師堂に向かったのだが影も形もない。近所のかたに聞いてみると円乗院のほうに移動されたらしい。円乗院に行ってみると長く続いていた境内の工事もおおかた終わっている気配。早速写真を撮ろうとしたら・・・山門の前に立札があり、境内での迷惑行為の禁止など、注意書きが書いてあった。犬の散歩などと一緒に境内での写真撮影も禁止とのこと。違反の場合は犯罪行為として訴えるという。お寺はお参りするところで、公園と同じように自由に振る舞える場所ではないという趣旨。ということで楽しみにしていた寛文の庚申塔、六観音石幢などの取材は断念することになった。当ブログ(2014.01.06の記事)で取り上げた薬師堂にあった大日如来坐像二基は参道右の大日堂の前に安置されていた。見学は可能だと思うが、スケッチなども迷惑行為とみなされてしまうのだろうか?