北区田端の石仏
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちらゆっくりとすすめてきました北区の石仏シリーズも今日で一応の最終回です。田端駅から歩いてみましょう。与楽寺 北区田端1-25-1田端駅南口からまっすぐ南へ、坂道を下ってゆくと与楽寺の前に出る。道路沿いに四基の石塔が並んでいた。こちら寺標 宝暦7(1757)正面に御府内八十八ヶ所第56番寳珠山 與樂寺。左上に伊豫國太山寺移とあり、四国の霊場を移してきたことを示している。境内に入ると阿弥陀堂の前に一対の石灯籠が立っていた。左は庚申石灯籠。竿部が角柱形で、左側面の下部に見猿。正面には聞か猿が彫られている。右側面には言わ猿。正面 聞か猿の上に「庚申供養為菩提」右上に寛文第九年。聞か猿の両脇に6名の名前が刻まれていた。右の石灯籠も寛文9(1669)竿部正面 阿弥陀三尊の梵字の下「阿弥陀念佛供養證籠」左脇には武州豊嶋郡田端村と刻まれていた。左の奥の墓地に向かうと、鐘楼付近に六体のお地蔵様が並んでいる。その左端に地蔵菩薩立像 元禄13(1700)光背右には六地蔵四番目 武州江戸講中。さらに地蔵菩薩立像 年代不明 光背右に「奉造立六地蔵」左に武州江戸本江講中。墓地の一番奥に供養塔と彫られた石塔の元、たくさんの石仏が並んでいた。中央に地蔵菩薩坐像 享保10(1725)下の台の中央「四番目地蔵」と彫られている。右脇には本郷四町目富元山眞光寺門前、左脇の下部に講中と読める。前列の右端 庚申塔 万治元年(1658)板碑型。中央に薄く「庚申」と彫る。与楽寺西路傍 北区田端1-13-9与楽寺から東覚寺へ向かう途中、ビルの隙間に小堂が立っていた。庚申塔 寛政12(1800)青面金剛立像 剣・ショケラ持ち?六臂。断裂跡もあり、表面は一部剥落していて像容ははっきりしない。下部には邪鬼と三猿らしい。左側面は狭くて読みにくいが、上に「北」とあるので道標と思われる。東覚寺 北区田端2-7-3石造金剛力士立像、通称「赤紙仁王尊」で有名な東覚寺。左奥に山門がある。山門を入って左側に三基の石塔が並んでいた。真ん中に庚申塔 享保3(1718)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂?青面金剛の右肩にもう一本手のようなものが出ているがなんだろうか?これが手なら 七臂となるが・・・足元には二鶏・邪鬼・三猿が揃っている。大久寺 北区田端3-21-1東覚寺の西にある大久寺、本堂左の塀の前にいくつか石塔が立っていた。庚申塔 元禄3(1690)日月雲。中央 美しい字で「奉供養庚申二世安樂処」下部には大きめに三猿を彫り、その下に10名ほどの名前を刻む。その先に珍しい石造物があった。正面左 帽子をかぶり棒を肩に担いだ猿。その右に合掌して直立する猿。左脇に彫りが薄いが慶安3(1650)の銘があり右脇に「奉造立庚申本尊二世成□攸」と刻まれている。これはなんだろう?台石で上にあった塔がなくなったあととか手水石とか意見が分かれるようだが、石塔の前に置かれる花入れか線香立てでは?この後ろに本来の石塔が立っていたような気がするがどうだろうか。いずれにしても、江戸初期らしく自由な発想の猿たちが楽しい。光明院 北区田端3-21-5大久寺のすぐ西に光明院がある。境内に入ると本堂の右手前に円柱形の石塔が立っていた。大きな字で「正観世音菩薩」と彫り、その右脇には西國二十番よしミ祢寺写だろう。裏に回ると安永8(1779)の銘があり、江戸下谷上野町竹町十七日講中と彫られていた。そのさらに奥、本堂の右あたりに大きな宝筐印塔と笠付の一石六地蔵塔に挟まれて庚申塔が立っている。庚申塔 元禄15(1702)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。唐破風笠付。大きな邪鬼は不気味な面貌をしている。二鶏ははっきり。下部に三猿。塔の左側面に年号。左側面「奉待庚申供養塔二世安樂所」以上で北区の石仏シリーズを終了します。いくつか積み残しもあって心残りではありますが、いずれあらためてご紹介したいと思います。東京を歩いてみると、庚申塔に関してはさいたま市よりも古いものが多くさいたま市では珍しかった地蔵菩薩を主尊とする庚申塔などが多く見られやはり地域によって石仏も様子が違うものだと感じました。さらに足を伸ばして東京全区を見てゆくと面白いのでしょうが、時間もかかりますししばらくは近場を歩いてみたいと思います。岩槻区と川口市が残っていました。ということで次は川口市にします。川口市は結構広くて、最寄駅は京浜東北線の川口駅、西川口駅、蕨駅、武蔵野線の東浦和、東川口、埼玉高速鉄道も使うことになりそうです。どんな散歩になるか、楽しみです。