緑区上野田 上野田交差点北の石仏
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら緑区の石仏の最終回です。日光御成道上野田交差点北東西路傍 緑区上野田554[地図]日光御成道を上野田交差点から岩槻方面へ進むと、100mほど先の道路右側に小堂が立っていた。小堂の中 右 地蔵菩薩塔 宝暦6(1756)四角い台の上の角柱型の石塔に丸彫りの地蔵菩薩立像。錫杖の先と宝珠が欠けていて首には補修跡が見える。顔の一部にも傷があり、損傷は風化のためか、人為的なものか?厚い蓮台の下の角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中「奉造立地蔵尊」右側面に造立年月日。左側面に武州足立郡南部領 新染谷村講中と刻まれていた。左 諸病除供養塔 文化2(1805)二段の四角い台の上、四角い蓮台に角柱型の石塔。塔の正面と両側面は違った内容の供養塔となっている。台の正面に「念佛講中」と刻まれていた。塔の正面 上部を舟形に彫りくぼめた中に、左手に薬壺を持つ薬師如来坐像を浮き彫り。その両脇に天下泰平・日月清明。坐像の蓮台の下に「爲諸病悉除村中安全」両脇に造立年月日。下部両脇に施主 村中。村に病がはやらないようにと祈ったものだろう。いつの時代でも人は祈るしかないのかもしれない。右側面上部を舟形に彫りくぼめた中、こちらは阿弥陀如来坐像。その下に「百万遍供養」脇に施主は個人名。念仏供養塔でもある。左側面上部には聖観音菩薩坐像。像の下に先祖とあり、その下は戒名。両脇の正保4(1647)年の紀年銘は命日。右下に守富三代目分、脇に俗名。左下に七代目 施主とあり、塔の右側面の施主と同じ名前が刻まれていた。四代前の先祖の供養をしたということだろう。野田トレーニングセンター西三差路 緑区上野田491[地図]日光御成道をさらに進む。上野田交差点から300mほど先を右折、細い道を行くと三差路の角の所に石塔が立っていた。三差路左の道の先は天神宮、右の道を進むと競馬組合野田トレーニングセンターの北を通って高畑、さらにその先は岩槻区の横根にでる。庚申塔 明和5(1768)上部が丸みを帯びた駒型の石塔の正面を彫りくぼめて、外に日月雲、中に青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。前回見た御嶽社前の小堂の中の庚申塔と同じく「萩原庚申塔」そのもっと早い時期の作品である。「萩原庚申塔」の特徴を整理しておこう。一番大きな特徴は髪を三つに分けて三角形に結い上げ、中央の大きな三角の先が右に曲がる(左に折れることもあるようだ)邪鬼は全身型、多くは左足を立て、両手を合わせてその上に顎を乗せるような形で正面を向く。三猿は両脇が内を向く構図。こんなところか。三眼忿怒相、カッと口を開いた青面金剛。持物は矛・法輪・弓・矢。風化はほとんどみられず、彫りは比較的きれいに残っていて力強い。足元の邪鬼はこの形の定番。庚申塔研究の先輩である五島さんは「萩原鬼」とよんでいる。中央で分けた髪の先がカールしていて「かつら」のように見える。邪鬼の両脇に二鶏。雄鶏・牝鶏いずれも尾を上げ、下から邪鬼の様子をうかがうように振り返るポーズ。その下の三猿は両脇が内を向く構図。これも定番だ。塔の左側面に造立年月日。下部に足立郡新染谷村 願主 西信、同 惣村中右側面には大随求真言とあり、梵字25文字が刻まれていた。上野田東台墓地 緑区上野田491[地図]三差路の右の道を行くとすぐ先の左手に小さな墓地がある。10年前に来たときはもっと荒れていたのだが、その後整備されたようだ。墓地の一番奥の一角、右側に四基、左側に宝篋印塔が一基、合わせて五基の石塔が並んでいた。右の四基の一番手前 阿弥陀三尊図像板碑 延慶3(1310)市内に残る図像板碑としては最も古いものの一つという。基部を欠き、中央に断裂跡がある。上部に瑞雲に包まれた蓮台に立ち来迎印を結ぶ阿弥陀如来像を浮き彫り。放射円輪光背は線刻。下部に向かい合う観音菩薩と勢至菩薩を線刻。両脇侍はやや前かがみの姿勢で瑞雲に乗る蓮台の上に立つ。その下中央に紀年銘。延共三年とあるが、音が同じで延共=延慶らしい。両脇には梵字で光明真言が刻まれていた。その隣 宝篋印塔 宝暦7(1757)相輪の付いた屋根型笠を持つ。この時期の宝篋印塔としては小型で、こちらは墓石のようだ。続いて 秩父観音霊場供養塔 文化7(1810)角柱型の石塔の正面 上部を舟形に彫りくぼめた中に聖観音菩薩坐像を浮き彫り。その下に「奉納秩父三十四番爲二世安樂也」両脇に天下泰平・日月清明。塔の右側面に造立年月日。左側面 武州足立郡南部領 願主とあり一名の名前が刻まれていた。左端 地蔵菩薩塔 寛政8(1796)角柱型の石塔の上に大きな蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。像は大きな欠損もなく堂々としたたたずまい。石塔の正面中央「奉造立地蔵尊爲現當二世安樂」両脇に造立年月日。塔の左側面に武州足立郡南部領 新染谷村講中と刻まれている。四基の石塔の向かいに 宝篋印塔 宝暦10(1760)屋根型笠付きだが相輪・宝珠は欠けている。塔身、基礎とも蓮台付き、敷茄子、反花付き台など豪華な構成。塔身四面に四仏の種子。基礎には偈文、左側面には造立年月日も刻まれていた。反花付きの台の正面に上野田村をはじめ近隣10ヶ村の名前と人数が刻まれていて、全部合わせると300人近い人たちの協力があったらしい。以上で緑区の石仏を終了、次回からは見沼区になります。