練馬区石神井台 道場寺の石仏
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら石神井公園の南、旧早稲田通り沿いに、道場寺、三宝寺と大きなお寺が続きます。今日は道場寺の石仏を見てみましょう。道場寺 練馬区石神井台1-16豊島橋交差点から旧早稲田通りを西に向かい、石神井図書館のある大きな信号交差点を越えてすぐ、道路右手に道場寺の入り口があった。石段を2回上がって山門、その先もう一度石段を上がって本堂の前に出る。山門の向こう、参道の左側に大きな三重塔が立っていた。本堂の左側が墓地になるが、墓地入口は閉まっていて一般の人は入ることはできない。その入り口の左側奥、三重塔の裏、頂上に新しい丸彫りの大地蔵菩薩坐像を置いた三界萬霊塔が立っていた。六つの面にたくさんの墓石が整然と並んでいる。正面には最上段から最下段まで舟形光背型の墓石が集められていた。全部を確認したわけではないが、江戸時代初期の古い石仏が多く、地蔵菩薩、聖観音菩薩、如意輪観音菩薩などがほとんどだ。個人の墓石も含めて目についたものを紹介したい。正面中央二段目、舟形光背型の墓石が並ぶ中に七観音供養塔 安政年間造立。角柱型の石塔の正面上部に円形の頭光背を持つ合掌型の観音菩薩坐像を浮き彫り、隣の墓石との隙間が無く側面は見にくいが、右側面にかろうじて「安政」左側面に「十七人」の銘が確認できた。時計と逆回りに見てゆこう。2番目の面は文字塔の墓石が集められ像塔は見当たらない。3番目の面は上部二段に文字塔の墓石が並び、下の4段は右端に三基の石仏があるだけで、他は空いていた。右端前 馬頭観音立像 元禄6(1693)光背右脇「奉造立馬頭観音像一尊為牛馬佛果□也」横に施主は個人名。光背左脇に造立年月日。続いて武州豊島之郡下石神井村。その横にまた施主とあり、違う名前が刻まれていた。足元の部分には九名の名前。続いて同行貳百六十三人敬白。これだけ立派な石仏が施主ふたりというのは不自然で、光背に刻まれた二名は世話人か願主なのだろう。この馬頭観音塔の造立にあたって多くの人たちの協力があったのは間違いない。静かな表情は慈悲相というべきか。馬口印を結び、頭上の馬頭も明確である。大地蔵の背面の下に納骨堂の入口があった。その左脇には門番のように四基の舟形光背型の地蔵菩薩立像が並ぶ。いずれも墓石だ。二段目 地蔵菩薩立像 元禄7(1694)円頂、白毫、錫杖、宝珠、欠損なく整っていて美しい。納骨堂入口右脇には三基の大型の舟形光背を持った聖観音菩薩塔。上段に聖観音菩薩立像 寛文12(1672)白カビが目立つが、豊かで均整の取れたお姿は気品がある。4番目の面はまた文字塔のみ。5番目の面は最上部と下の2,3段に像塔が並んでいた。最下段の右から2番目 如意輪観音坐像 万治元年(1658)上のほうの石仏までは確認できないが、おそらくここではもっとも古い石仏の一つだろう。頭上の梵字は「キリーク」か。その上の段 薬師如来坐像 元禄3(1690)両手で腹の前に薬壺を持ち、頭上の梵字は「バイ」墓石に薬師如来像は珍しい。旧早稲田通り沿いに続く道場寺の石塀。その南西の角のところに丸彫りのお地蔵様が立っていた。地蔵菩薩立像 享保6(1721)今は雨除けの下に立っているが、かつては路傍にあって風雨にさらされていたのだろう、顔は溶けてのっぺらぼうで、錫杖、宝珠も欠いている。蓮台、敷茄子は重厚で本格的。台の正面 銘は薄くなっていて読みにくい。中央「奉造立地蔵大菩薩」両脇に造立年月日。台の右側面 下石神井村 講中三十一人、上石神井村三人。立派な講中仏だったのだろう。台の左側面には 江戸 武州豊島郡 一蓮托生と刻まれていた。