川越市の馬頭観音像塔の地理的・時代的分布
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら3回にわたって川越市の馬頭観音像塔53基を造立年代順に並べて見てきました。造立年不明のものを除きましたので本当に正確なところは断定できませんが、ある程度の流れはつかめると思います。川越街道の東を東部、入間川の向こうを西部、その間の地域を中央部として表にまとめてみました。 (3六→三面六臂 1二→1面二臂 1六→1面六臂)◎地域的に見ると東部が20基、中央部が13基、西部が20基です。地域の面積を考え合わせると、西部の多さと中央部の少なさが目立ちます。年代のほうは、だいたい50年ごとに1766年まで、次の1815年まで、最後に1864年までを見てみますと、第1期が合計11基(東部1基・中央部6基・西部4基)、第2期が合計35基(東部15基・中央部7基・西部13基)、第3期が合計7基(東部4基・中央部0基・西部3基)となり、それぞれ黎明期、発展期、衰退期と言えるでしょう。◎黎明期、私の見た限りでは1688年の仙波町の長徳寺の1面六臂像が最古で、次は22年後に下松原の日待供養塔基の馬頭観音、さらにその27年後に今福 明月院と続きます。この時期、東部では1765年の鴨田の寒念仏供養塔が最古でこの時期では唯一の馬頭観音像塔。西部では1739年の的場下の丸彫り坐像が最古。20年後に下広谷観音堂、その5年後に的場の的中観音、さらに2年後に下広谷路傍の馬頭観音立像が続きます。◎発展期に入ると馬頭観音の像塔は急激にその数を増やします。よく見ると市内全域で同じように増えていったわけではありません。上の表の黄色く囲った部分はその造立頻度が高いところです。まず東部では1771年鹿飼から1782年握津まで、12年間で5基の馬頭観音像塔が造立されています。西部においては1778年天沼新田稲荷神社から1791年上野公会堂まで、13年間で11基。これは驚くほどのハイペースと言えます。しかしその後急速にペースを落とし、次の造立は15年後の的場 法城寺になります。一方中央部では1765年の砂久保の共同墓地以来馬頭観音像塔の造立は無く、24年間のブランクがあって1789年に池辺の明月院の三面六臂像、そのあとは1801年の長徳寺まで12年間で7基の造立となっています。ただし中央部と言ってもこの7基のうち6基は池辺、大袋、大東など川越市南西部、入間川右岸の地域のもので、像の様子は入間川左岸の的場・笠幡の馬頭観音塔とよく似通っていて、そのほとんどが立派な三面六臂像でした。もしかしたら同じ系統の石工さんの仕事が左岸の的場・笠幡方面に続いて右岸の地域に移っていったのかもしれません。東部では寛政から文化期にかけてもう一回ピークがあります。1798年鴨田大下墓地から1813年の南田島新河岸川左岸までの15年間で8基の造立がありました。この時期の特徴としては三面六臂像が4基に対して一面六臂像2基、一面二臂像も2基とバラエティーに富んでいることです。西部とは像の様子もちょっと違っているようです。◎衰退期にはいると像塔はめっきりその数を減らし、馬の供養塔の文字塔が主流になっていきます。中央部は1801年の長徳寺の一面二臂像を最後に、その後は皆無。西部は1823年の吉田T字路の一面六臂像から1851年能満寺の三面八臂像までわずか3基、東部は1824年菅間観音寺墓地の一面二臂像から4基、1853年の今泉国道254号線北路傍の三面六臂像が川越市最後の馬頭観音像塔と思われます。造立年不明塔がいくつかある限り、「最古」も「最新」も断定はできませんが、確認できる範囲ではおよそこんな流れと考えられます。暮れの忙しい時期でしたが、なんとか「川越市の馬頭観音像塔」をまとめることができました。これでやっと「川越の石仏」を終了することができます。ありがとうございました。次は「ふじみ野市の石仏」の予定です。川越の取材で何度も通った地域ですが、まだちゃんと取材していません。地図つくりが終わったところで、どんな石仏と巡り合えるか今から楽しみです。これが終わるとさいたま市の西のほうは北から川越市、ふじみ野市、富士見市、新座市、志木市、朝霞市、和光市、練馬区、板橋区と、ほぼぐるっと回ったことになります。新シリーズは新年があけて1月4日ころを予定しています。よろしくお願いいたします。それでは皆様、良いお年をお迎えください m(__)m