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カテゴリ:鹿児島の歴史
昨日(21日)は春が一気に来たような好天であった。
水曜日なので、午前中はTさんと2人でグラウンドゴルフ8ゲームを楽しむ。成績は似たようなもので終わる。成績は2の次、歩くのが主目的なので、気にしない。 歩くということからすれば、グラウンドゴルフで十分なのだが、この日の好天に誘われたのもあり、従兄弟から借りていた「常盤町名 誕生100周年記念誌」を返すことを兼ねて、水上坂を歩いて下ることにする。従兄弟の家は西田町にあるが、ちょうど常盤町の入り口に位置するので、我が家からは歩いて40分くらいかかる。 ![]() ![]() この道は2月27日の当ブログに書いた「薩摩街道 出水筋」であり、薩摩藩の参勤交代に使われた主要な街道であった。また毎年秋に行われる島津義弘公に因む妙円寺詣りの難所でもある。現在はこの上に私たちの住む大きな団地が出来たため谷を削り、車も通れるようになっているが、私が子供の頃は、鬱蒼とした森の間を登って行くような狭隘な道だった。 ![]() この橋が狭い出水筋をさらに狭くしている。昔はこの橋の幅が道路幅そのものだったのだろうが、現在ではこの道で唯一車の離合が出来ない場所になっている。かなり古い橋なのでそのまま残したのだろう。 ![]() この溝については前記「常盤町名 100周年記念誌」に次のような記述がある。 「私の家の前に幅広の溝がある。一見普通の生活廃水用の溝に見えるが、実は島津時代に甲突川の上流から引き込んで作られた石井手用水と言われる水路なのだ。伊敷の奥にある源流を訪ね調査に行ったことがある。我が家の溝は古い石積で、藩政時代の趣を残している。 また「武郷土誌」には次のようなことが書いてある。この溝には西田橋のような太鼓橋の小さいのがかけられていた。この用水路は文化7年(1810)に着工し文化9年(1812)に完成した。この用水路の長さは9・5あった。この新田用水で120ヘクタールを灌漑したという。下流にいくと西田本通りにさしかかる。ここで水上坂より流れてくる小川といっしょになる。そのところの橋を「すすけ橋」という。現在の西田町と常盤町の境である。この橋の名は「筋違いの橋」がなまって「すすけ橋」というようになった。 今は暗渠になっていて流れをみることは出来ない。 常盤町の史跡については、これまで数回にわたり書いてきたが、他にも「西田寺跡」「金胎山了性寺跡」「医王山薬王寺跡」「雄風亭碑」などまだ沢山の史跡がある。しかし何等の跡形もないものもあるので、少しづつ調べてみたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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