|
カテゴリ:モンゴルの近現代史
長い長い道のりを経て、ようやくハルハに到着しました。
ハルハ河 90と書かれています。 これはハルハ地域全体を見下ろせる場所で、1990年にロシアと共に建てたものです。 遠くに戦場だった場所が見下ろせます。左の高い塔は、ハルハ河戦争記念碑で、右にハルハ村(ソム)が見えます。 モンゴルとロシアが共に戦った地として書かれています。 忘れてはならないのは、日本は敵国であり、モンゴルはソ連兵に助けられてこの戦いに勝利したということです。 当然のことながら、アジア各地に残る戦争記念碑はほぼすべてが「日本が敵国」であったということです。戦争の傷跡は、何年たっても消えることはないと改めて思いました。 上記写真のハルハ村に降りて、戦争博物に行きました。 ここでも主役はモンゴルとソ連であり、日本は敵国です。 建物は一見立派ですが、もう50年近く経っているので、建物自体は相当劣化しています。実戦で使われた戦車も展示されてます。 その建物のすぐ目の前に、日本兵の慰霊碑が建てられていました。 2001年に京都の知恩院などが中心となって建てたものです。明日はここで慰霊祭を行う予定です。 ハルハ河戦争博物館の中は、戦死者の名簿や数々の写真が展示されていました。 ここにはモンゴル人兵士の戦死者の名前が書かれています。 たくさんの戦場の写真がありました。 これは戦場マップと言えるものです。 やや左側にある青く蛇行している線が「ハルハ河」で、日本側が主張した満洲とモンゴルの国境です。 中央部の左上から右下に書かれている直線が「ノモンハン・オボー」を貫く、モンゴル・ソ連側が主張した国境です。なので戦争は主として、この2つの国境線の間で行われたことがよくわかります。 地図の左側(モンゴル・ソ連連合軍の陣地)の方が標高が高く、右側の日本陣地を良く見通せたことがわかります。(ハルハ河の左側は等高線が寄っており、高地になっているのがわかる。) 日本兵の遺留品も展示されていました。 この後、更に戦地跡地に行きます。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.07.20 13:27:17
コメント(0) | コメントを書く
[モンゴルの近現代史] カテゴリの最新記事
|