「自然界も人間の社会も多様性によって支えられているのです」
自然界は多様性に満ちています。というより、多様性によって支えられています。多様性が失われたら自然界は崩壊するのです。じゃあその「多様性」とは何かということです。「多様性」とは、「ただ単に色々なものが存在している状態」ではありません。その「色々なもの」がそれぞれの個性を大切にしながらもお互いにつながり、支え合い、全体の大きな動きや流れを支えているように機能している状態です。それは、オオカミはオオカミらしく、ウサギはウサギらしく、カメはカメらしく、杉は杉らしく、苔は苔らしく生きていながら、お互いにつながり合い、支え合っている状態です。「オオカミさんも、ウサギさんも、カメさんも、見かけは違っていてもみんな同じなんだよ。そこに違いはないんだよ。」という考え方は理論としては分かります。でもそれは観念論としては正しくても、「オオカミやウサギやカメが生きている現実」とは異なります。ウサギとカメが競争したら間違いなくウサギが勝つのです。オオカミとウサギが一緒にいたら、ウサギはオオカミに食べられてしまうのです。これが、「オオカミやウサギやカメが生きている現実」です。その現実を無視して理想論を押しつけたら、自然界は多様性を失い簡単に崩壊します。「多様性」が成り立つためには、それらの「らしさ」や「個性」を大切にする必要があるのです。「みんな同じ」という所に価値を見いだすのではなく、「らしさ」や「個性」の中に価値を見いだすのです。人間の社会もまた、自然界と相似形になっています。みんなが自分の「らしさ」や「個性」を大切にすると同時に、相手の「らしさ」や個性」も尊重し、そして、一人一人が「自分が出来る事」をやっていくことで多様性が維持され、社会が活性化して行くのです。現代人も観念論としてはそのことを理解しています。ですから「自分らしさや個性を大切にしよう」というスローガンはあちこちで見かけます。でも、実際に行われているのは「みんな一緒」「みんな同じ」という子育てや教育です。人目や評価を気にする子育てや教育は、「みんな一緒」や「みんな同じ」を大切にしようとする意識の表れです。また、その「みんな一緒」や「みんな同じ」が出来ない子を、「その子のために」と別の場所に移動させ、別の教育を行っています。それでも、「みんな一緒」や「みんな同じ」が出来ない子の個性を大切にし、その子が持っている他の能力を育てようとしているのなら分かるのですが、私が知っている範囲では、そのような場で行っているのは、「みんな一緒」や「みんな同じ」が出来ない子を、「みんな一緒」や「みんな同じ」が出来る子に変えるような働きかけが中心のようです。実際の現場で大人達は、「自分らしさや個性を大切にしよう」というスローガンとは逆のことをやっているのです。本気で、子ども達の「自分らしさ」や「個性」を大切に考えているのなら、みんな同じようにイスに座らせて、みんなに同じ知識を覚えさせるような教育などするわけがないのです。そこで必要になるのが、本当の意味での「多様性」という考え方なんです。