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2021.04.24
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​​​​​​​​​​​​​​「福地は呼んでいる」

一九六六年三月十三日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十六巻』


 きょう皆さんと共に考えようと思うみ言の題目は「福地は呼んでいる」です。

 福地――神様と人間とが願う地

 イエス様がこの地上に来られた本然の目的は、福地を探し出し、打ち立てるためでした。イエス様だけでなく、有史以来み旨を抱きこの地上に痕跡を残していった数多くの預言者や烈士、偉人たちも、みなこの福地を探し出すために生まれ、死んでいったことを皆さんは記憶しなければなりません。

 文化や歴史はそういう聖人、賢哲たちの功績を基盤にして築かれたものであると私たちは理解しています。そして、今私たちはその文化圏内にある社会で生を営んでいます。それでは、今日の社会、国家、世界が目指している全体的な目標は何ですか。それも、やはり福地に向かっていくことなのです。

 大きな人や小さな人、大きな国や小さな国、また、当代に権威を誇る先進国や、敗亡して悲惨な国運にある後進国など、すべてが到達しようと身もだえするその目的は、福地を探し出すことにあるということを皆さんは知らなければなりません。

 多くの歴史の節目で、数多くの人類が福地を尋ねいくために身もだえしました。しかし、私たちはまだ全人類が共に願う福地を見つけたとか、あるいはそこに住んだことがあるという人に出会ったことがありません。そのような人に出会うどころか、福地を建設するためのスローガンを世界的に掲げて立ち上がった群れさえもありませんでした。また、この世に福地が建設され、そこで住むようになるということ、その日が来るということを誰も知らずにいるのです。

 こういうことを考えてみるとき、果たしていかなる生活をすることが福地へ行く道なのでしょうか。私たちの生と死の問題と現実と未来の問題を、どのような因縁で福地と連結させるのかということが、私たちには何よりも重要な問題です。最初に神様がこの地と人間の先祖を造り、厳粛な願いと理念があったとすれば、それは何でしょうか。それは、やはり福地を築いて暮らすことだったはずです。

 福地の理念は、創世前から神様が胸に抱いてこられた理念であり、創世当時に成そうとされた理念でした。また、堕落以後の歴史を通して摂理してこられた神様が、人間を再び探し出して立てるための理念でした。歴史の背後に神様がいらっしゃるという事実を考えてみるとき、この福地を成し遂げるために人間はどれくらい功労を積み、神様はどれくらい苦労されたのかということを知らなければなりません。

 堕落により福地を失った人間

 神様がアダムを造って願われたことは、地球星すべてが天と一つになって神様が住まざるを得ず、悪が存在しようにも存在できない永遠なる福地となることでした。ところが、アダムが福地の行路を開拓すべき過程で堕落することにより、悲しい一日をつくってしまいました。それ以後この世界は、本来目指していた本然の世界とは反対の所に落ちてしまったのです。

 ではその福地を失った張本人は誰ですか。正に私たち人間の先祖であるアダムとエバだったのです。彼らが堕落したために、私たちが福地を失ったということを皆さんは知らなければなりません。

 それでは、その福地を再び探し出すためにはどうすればよいでしょうか。これが、私たちがまず解決しなければならない重要な問題です。それを解決するためには、アダムが福地を失った動機が何だったのかを知らなければなりません。

 彼はまず、神様のみ言を信じることができませんでした。また、神様のみ言の代行者になることができませんでした。さらに、神様の代わりに福地の主人公の立場で、全宇宙を抱くことのできる心情の主体になることができませんでした。これが堕落の結果であることを私たちは知っています。新しい法度を立てることのできる神様の真実のみ言を失い、その法度を守り、従い、行える人になることができず、その法度を中心として神様の代わりに全宇宙を主管できる真の愛の主人公になれなかったことが堕落だというのです。

 福地を回復するための神様の摂理

 人間の堕落によって福地の世界を失ったために、歴史的に数多くの人物が福地を開拓するために身もだえして死んでいきました。そして歴史は、今日まで血にまみれた闘争の歴史を展開してきたという事実を、私たちは否定することができません。

 アダムは福地で神様と共に幸福を謳歌し、神様と共に天上天下のすべてのものを貴く感じ、神様に代わって被造世界を治めなければならない総責任者でした。しかし、アダムは世の中を創造された神様と一つになる場を設けることができませんでした。それが堕落なのです。神様はアダムが堕落したその日から、そのすべてを再び回復するために、今まで身もだえしてこられたことを私たちは知らなくてはなりません。

 希望の心をもち、み旨を成就した幸福な立場でアダムを呼ぶべきであった神様が、み旨を成就できず悲しい立場でアダムを呼ぶようになったのです。神様が「アダムよ! アダムよ!」と呼んだその日は、アダムを喜んで迎えることのできる日ではありませんでした。その日は福地を失った日であり、自身の人格が壊れてしまう日であり、天地の運勢が逆になってしまった日なのです。

 神様が悲痛な心情でその日を迎え叫ばれた一言が「アダムよ、お前はどこにいるのか」という言葉でした。その日から、神様は失った福地を再び探すために歩まれました。神様は福地という名前を未来に残して、その福地を築くための歴史的な路程をたどりながら今日まで役事してこられたのです。

 アダムが堕落した悲しい日、神様はその恨を「アダムよ、お前はどこにいるのか」という一言で叫ばれたのです。それは福地を失った悲しみから始まった嘆きであり、叫びでした。自分の行動が天倫に背いたのだという事実を知り、告白するアダムに対する神様が悲しくなく、嘆かずにいられたわけがありません。私たちはもう一度神様の悲しみを感じなければなりません。

 それゆえ、神様はアダム以後六千年間悲しみとともに、福地を回復するために切実な思いで走ってこられました。しかし、人間は神様が目的とされる福地を築くための叫びの前に一つになれず、共にその道を探して歩むことができなかったのです。これもまた、神様の悲しみと憤りになったということを私たちは知らなければなりません。

 使命を忘れたアブラハム

 復帰の道を歩んでこられながら、神様はアブラハムを召命されました。「アブラハムよ!」というそのみ声は、アブラハム一人だけを呼ぶものではありませんでした。それはその昔、アダムのとき骨身にしみついた恨の心を抱き、その時失った福地を再び探し出そうとする叫びであり、同時に新しい福地の主人を再び呼ばれるみ声であり、福地の家庭と福地の民族と福地の世界を築くためのみ声であったということを私たちは知らなくてはなりません。しかし責任を担ったアブラハム自身は、神様のそのみ声が福地を願う叫びであり、歴史の悲惨な姿を解怨成就してくれという叫びであったという事実を知りませんでした。

 アブラハムが祭壇に祭物を捧げた瞬間は、福地の世界を成し遂げるための約束の瞬間であり、歴史的な恨が解かれるか否かを決定する瞬間でした。それにもかかわらず、アブラハムは神様が祭物を捧げなさいというみ言の真のみ意を悟ることができず、彼自身が担わなければならない天の使命がどれくらい貴重なのかを悟れないまま、自分の立場だけを中心として祭物を捧げたのです。そのため祭物を裂かずに捧げました。それがまた神様の悲しみを呼ぶ動機となり、後日、イエス様が十字架に架かる動機になったのです。

 神様の召命を受けたアブラハムは、夜明けの福地を主管できる新しい預言者と先祖として現れなければなりませんでした。しかし、福地を叫び哀願される神様の前に現れたアブラハムは、そのようなことを十分に成し遂げるだけの姿勢と人格を備えていませんでした。それが歴史的な恨であったことを私たちはもう一度考えてみなければなりません。

 アブラハムは歴史的な責任と、時代を審判できる公義の法度を立てるべき責任と、未来の願いの世界を築くべき責任が自分にあるということを忘れてしまったのです。アブラハムが「小さい」と言って裂かなかった祭物が、歴史路程を台無しにする起源になるとは、誰が考えたでしょうか。

 アダムにより生じた恨がアブラハムを通して解恨される一日を願いながら、神様はアブラハムを探してこられました。しかし、また再び悲しい心でアブラハムを呼ばなければならない立場になったのです。それで神様はアブラハムの代わりに彼のひとり子イサクを祭物に捧げなさいと再び命じられました。このように恨みに満ちた天の父の事情を、誰が知っていたでしょうか。

 エジプトで苦労するイスラエル民族に対する神様の願い

 イスラエル民族は、ノアからアブラハムまでの曲折の路程を再び歩まなければなりませんでした。そのため、エジプト苦役四百年という恨み多い悲しみの道を歩んできたという事実を私たちは知っています。

 神様が召命した者、すなわち時代に責任をもち、時代的な摂理に責任を負って歩まなければならない者の失敗は、個人の失敗で終わるのではありません。そこには歴史の全般的な問題と時代全体、そして未来のあらゆる問題が介在しているのです。ところが、このような事実をアブラハム自身も知らず、イスラエル民族も知りませんでした。開拓者の使命を担当した天の義勇軍として、天の精兵として、天の闘士として責任を全うしなければならないという事実を彼らは知らずにいたのです。

 今から四千年前、エジプトは文化が非常に発達していました。そのようなエジプトに入っていき、イスラエル民族が四百年間、苦役生活をしました。このようなイスラエル民族に神様が何を望まれていたのかを、皆さんは知らなくてはなりません。神様は彼らがただ僕の生活をして、れんがを焼く労働者で終わることを願われたのではありません。

 骨身にしみる恨が大きければ大きいほど、憤りが大きければ大きいほど、それに比例して怨 讐の都城を踏み潰すのだと新しく決意する彼らになることを、神様は願われたのです。このような神様の心情を忘却したイスラエル民族の生活だったことを、私たちは知らなければなりません。

 イスラエル民族は、むちを振り上げて自分たちに命令するエジプトの役人がいたなら、「いつかは私たちがむちを手にして、お前たちを打つ日が来るだろう。今はお前たちの文化を世界に誇っているけれども、いつかはその文化を踏み越えることのできる新しい文化を私たちが創建する」という精気を養い、最大の内的基盤を備えなければならなかったのです。そうしていたならば、イスラエルの福地、カナンの福地が彼らを迎え、二度と歴史上に恨を残すことはなかったでしょう。

 アブラハム個人が失敗したことをイスラエル民族全体が蕩減し、歴史的な怨讐の都城を踏んで上に立てるように、思想的に強い信念をもって進むべきだったというのです。イスラエル民族は、自然神を崇拝し太陽神を崇拝する宗教理念を中心として形成されたエジプトの文化を踏んで立ち上がり、ユダヤ教の理念を中心として新しい歴史と文化を創建できる精神的な基盤を失ってしまいました。そのために遊離孤客せざるを得ませんでした。彼らの願いはただエジプトの地を離れ、カナンの福地に帰ろうということで終わってしまったのです。

 カナンの福地はイスラエル民族を呼んでいました。しかし、エジプトの苦役を嫌って逃げようとする群れを呼んでいたのではありません。エジプトの苦役に打ち勝ち、怨讐の文化圏を踏んで立ち上がることのできる民族を呼んでいました。

 今日、私たちの民族も死亡の峠が迫ってくるとき、それを跳ね返して出ていくことのできる勇気に燃えていなければなりません。そうして、先祖から伝わる恨を抱いて新しいイスラエル創建のための勇者として勇ましく決断して進み、神様が命令なさるその場所に向かって進むことができなくてはなりません。そういう信念の裏づけが希薄な民族には、悽惨さと悲惨さと分裂と破壊があるのみです。それは歴史的な事実です。

 神様がイスラエル民族に四百年間苦役生活をさせたのは、イスラエル民族をしてエジプト文化以上の文化を創建させるためであり、エジプト民族以上の権限をもたせるためでした。しかし、そういう神様の本然のみ旨を知らないイスラエル民族であったために、横道に外れざるを得なかったというのです。

 新しい文化と選民圏を創建すべきイスラエル民族

 この時代を経てイスラエル民族は、サウル王、ダビデ王、ソロモン王時代を迎えるようになりました。サウルは神様の前に立てられ、厳粛な命令を受けました。彼はイスラエル創建の代表者としての使命を担っていたために、自分個人の幸福だけのために生きてはなりませんでした。怨讐の世界に散らばっている異邦の国の権限が大きければ大きいほど、それを踏み越えることのできるより大きな権限を備えた民族に育て上げなければなりませんでした。そうして、当時のエジプト文化以上の文化を創建し、その伝統を立てなければなりませんでした。

 彼はまた、散らばった民族を収拾し団結させ怨讐を打ちのめし、新しい理念を中心として新しい文化を築くことのできる選民圏を創建しなければなりませんでした。そういう使命を果たすためには、義憤心に燃え、歴史的な恨を蕩減するのだという決意にあふれて泣かなければなりませんでした。しかし、サウルとイスラエル民族の歩みは、神様が願われる本意から外れていました。それゆえ、彼らは恨の多い歴史を残す、悲しみの道に進むようになったのです。ダビデもやはり王位についたことで満足するのでなく、王位を基盤としてエジプトを踏み越えることのできる民族を創建し、民族文化を築かなければならなかったのです。

 異邦の国を征服するときには、その国の文化までも跡形なく切り捨てるべきでした。そうしてエジプトを踏み越え、億千万世代に恨を抱かせた怨 讐の前で真理の刀を振り回すべきでした。そういう権限をもって進むべきだったのがサウルの責任であり、ダビデの責任であり、ソロモンの責任でしたが、彼らはその責任を果たすことができませんでした。神様を歴史にたたえられるようにした人物としてソロモンを誇りますが、ソロモンはその時代圏内でのソロモンであって、その時代を超えてたたえられるソロモンではなかったのです。

 福地が呼ぶ人、福地の主人になれる人は、その時代で幸福を謳歌した人ではありません。その当時の歴史を踏み越えてその上に新しい文化を創建し、全人類にその世界に向かって進もうと堂々と命令できる、その新しい何かを見せてあげなければならないのです。このようにしなければならないのがソロモンの責任でした。

 ソロモンは祭物を捧げる聖殿を建て、その聖殿の中でイスラエルの族長たちを集め、自らの王権を誇ることで終わりました。ソロモンの権威は、今まで諸方の数多くの民族たちが立てたあらゆる文化の痕跡を跡形なく滅ぼし、堕落した氏族の因縁を通して築かれたあらゆる文化を除去できる、新しい文化を創建しなければなりませんでした。しかしソロモンはそれをすっかり忘れてしまいました。それゆえ、ソロモンを通して成し遂げようとしていた神様のみ旨は、そういう願いを抱いて歩む群れに向けて再び移らざるを得なかったのです。

 神様は数千年の歴史路程を経てきながら先知先烈を通し、あるいは預言者を通して勧告した内容がありました。それは、イスラエル民族が民族的な使命を担いなさいということでした。世界が素直にイスラエル民族の前に降伏すると思いますか。彼らには福地に向かっていかなければならない使命が与えられているため、その道に反対する者がいれば、それを打ってでも行きなさいということでした。

 新しい文化と福地の世界

 神様がイエス様をこの地上に送られたのは、何のためだったでしょうか。それは福地を探し出すための恨を解くためであり、福地で生きられなかった恨を解くためであり、福地を失うことにより神様の栄光をたたえられない恨を解怨成就するためでした。これがイエス様の使命でした。

 聖書を見れば、イエス様がエルサレムの聖殿で群衆に追い込まれるなど、悔しい立場に入っていく場面が何度も出てきます。それを見て、今日キリスト教徒はあたかもゲッセマネの丘からゴルゴタ山頂までの苦難が当然のことのように信じており、十字架にかけられ亡くなるためにイエス様が来られたと信じています。しかしイエス様は福地を創建して怨讐の文化を取り除き、新しい文化世界を創建するために来られたのです。ところがユダヤ民族の不信により、そういうイエス様になることができませんでした。

 それゆえ、その後キリスト教徒たちが四百年間ローマから迫害を受け、今日まで二千年間数多くの先祖たちと信仰の先祖が処刑されたのです。そうでありながらも、彼らは天が目指す一つの目標に向かって血と汗と涙で歩んできたということを皆さんは知らなければなりません。死の道でも「神様、福地がこの地上に築かれるようにしてください。福地の主人公が現れるようにしてください」と切実に絶叫したのです。

 このような恨の泣き叫びをずっと連結し、天の祭壇が倒れるたびごとに再び基台を立てて収拾してきたキリスト教であることを知らなければなりません。このようにして、今日の二十世紀のキリスト教文化世界が形成されたのです。

 それでは、これで歴史は終わるのでしょうか。そうではありません。まだキリスト教思想を中心とする民主主義も共産主義も、福地を築くことができないでいます。

 それなら何をもって福地を築くのですか。新しい文化を創造しなければなりません。新しい福地の文化を中心として、新しい世界、新しい歴史を創建しようとするのが、神様の願いです。

 み言の立て札になれ

 今日の私たち統一教会が、そのような目的を中心として、成さなければならないみ旨を抱いているのです。そのような意味で、統一教会が必要なのです。

 私たちは誰がいくら反対し迫害しても、「殴るなら殴りなさい。しかし私たちは滅びない」と言って進まなければなりません。統一教会は歴史的なすべての罪悪の峠、さらにはゴルゴタの山頂までも打ち破っていかなければなりません。いかなる思想も踏み越えることのできる、徹頭徹尾思想と真理に立脚し、その真理に代わる人格的な代弁者として善悪を分別し、神様の心情を中心とする真の人、真の子女、真の家庭、真の愛を創建しなければならない厳粛な使命を自覚して、責任を負いながらきたのが統一教会です。

 それゆえ、追い込まれ追われても確固たる鉄則を立てなければなりません。先生が捕らわれの身になり鎖に縛られていてはなりません。たとえ縛られていても、いつかは自動的に切れる日が来るはずです。この時代が理解することができなければ、未来に成される日が来るでしょう。皆さんはそういう姿勢と信念をもってサタンの計略や願望、また目的を踏み越えることのできる立場に立たなければなりません。

 そのような意味でイエス様は三大試練を受ける時「サタンよ、退け。天下のすべての栄光をくれると言っても、私が願うことがあるので、それしきのことで安息を夢見ると思うのか」と言って苦難の中でも、その理想を守り通したのです。そういう凛々しい余力があったために、イエス様は三大試練に勝利したのであり、十字架の山頂で勝利したのです。

 イエス様はいくら困難な迫害の矢が激しく降り注ぎ、いくら暴悪なローマ兵の魔の手が自分の生命を縛りつけたとしても、それが問題ではありませんでした。そのようなものは一時的に通り過ぎるものにすぎないのです。イエス様にはそれを踏み越えることのできる信念があったために、世界の運勢を蕩減することができたのです。今日までその願いの一念が残っているので、再び来られるイエス様が創建しなければならない文化世界が残っているのです。

 それならば、イエス様が願われた文化世界、すなわち福地とはどのような世界でしょうか。その世界はいまだ成されていません。その世界は今日まで私たちに代わってある個人や教会、主義や教団、国などを呼んできました。

 アブラハムを呼ぶ時にも福地は顔を背けて呼ばなければならず、イスラエル民族に対する時にも、腕を広げ両手を挙げて「よしよし、慕わしい民族よ」と言って正面から歓迎することができず、目を背けて迎えなければなりませんでした。その角度が大きければ大きいほど歓迎することが難しかったということを、皆さんははっきり知らなければなりません。

 最近、私たち統一教会の食口をじっと見てみると、現実的な環境に自らの基盤をつくってそこに安息しようとする姿が見られますが、そうであってはなりません。ここは一人だけの立場ではありません。この立場にはアブラハムも、イスラエル民族も、イエス様もつながっています。私たちは、昔アダムが神様に背いたことにより失った真理のみ言を再び探し出した、万世の何とも取り換えることのできない真理と理念を見つけた立場です。

 したがって、私たちはこれから見物だけしていてはなりません。その理念に代わってみ言を守り、再武装してみ言の立て札にならなければなりません。そうして完結された一つの障壁を越えていくことにおいて、ぶつかる障壁をすべて破壊するという信念をもって歩まなければなりません。神様にはこのようなみ旨にかなう相手が必要なのです。

 イスラエル民族はカナン復帰路程において、荒野での生活が苦しく困難になると、時が流れるにつれて再びエジプトの地を懐かしがりました。夢にも考えてはならないエジプトの地を懐かしがったのです。サタンの罠にかかったのです。このように、神様が願われる基準を超えられなかったイスラエル民族であるということを、皆さんは知らなければなりません。

 統一文化圏を創建しなければならない私たち

 二十世紀後半に差しかかった今日、私たちは新文化世界を創建しなければなりません。これから統一されます。間もなく万民が「統一教会が行く道についていかないと生きられない。統一教会が創建した文化圏内でなければ全人類は住む所がない」と言える立場まで行かなければならないのが統一勇士の目標です。

 これが福地が願う方向であり、福地が呼ぶ人であり、福地が呼ぶ民族であり、福地が探す国家なのです。それでは、そういう福地の世界が成されるには、あとどれくらい行かなければならないのでしょうか。現二十世紀の試練の過程を経なければなりません。

 振り返れば、ノアが自分の当代に祝福を受けることができなくても、神様のために苦難の道を行き、死の場に処しても億千万世に死なないで耐えていくと約束したとするならば、神様が審判なさったでしょうか。アブラハムも、イスラエル民族も同じです。彼らは神様が約束なさった願いが自分たち当代に成されると思っていました。歴史時代を過ぎて、神様の公義の審判が終わったのちに初めて福地が来るということを知らなかった彼らは、その時代圏内で福地を探していたというのです。

 イスラエル民族は世の中の思想と理念を凌駕し、神様と一つになることのできる位置にまで進まなければなりませんでした。しかし、そのようにならなかったために付け込まれたのです。皆さんは決して、信じて天国に行くために来た群れになってはなりません。追われる者の歩みを自ら招きながら、死を覚悟し、天の前に誓って立ち上がった皆さんです。一日一日の生活の目的を中心として、一日一日の生活を営むためにここに来たのではありません。これを皆さんははっきり知らなければなりません。今私が置かれている場所を、安息の根拠地にすることができなくてはなりません。

 先生は、今日統一教会が国内に築いた基盤だけでは満足できません。どのような文化や思想も先生には大したものではありません。この世のどのようなものも先生と連結するものが一つもない孤独な身なので、先生の手で安息の根拠地をつくり、先生の力でこの仕事を開拓するために、精誠をみな注いできました。その他の何ものにも神経を遣う余裕がありませんでした。

 アダムは、自分を中心に考えていて堕落しました。アブラハムも自分の幸福を夢見ていて滅び、イスラエル民族も自分たちの民族的な幸福を夢見ていて滅びました。今日のキリスト教も、この世界でキリスト教だけを中心として夢見ていては滅びるのです。世界を踏み越えることができる新しい文化を創造し、その上で福地を探し出して出発していくことのできる、ある噴火口をつくっておかなければなりません。これが統一教会の目指すことです。今後、「統一」という名詞のそのごとくに、この世界が統一される日が来るでしょう。その日が終わりの日なのです。

 私たちが行くべき最後のゴルゴタの道

 皆さんがはっきり知らなければならないことは、皆さんのその立場が福地の叫びの前に背く立場ではなく、皆さんの歩みが福地の泣き叫びの前に背を向ける歩みではないのか、ということです。これを固く肝に銘じなければなりません。

 皆さんが行くべき最後のゴルゴタの道とは、どこでしょうか。皆さんの職場でも家庭でもありません。皆さんは過ぎた歴史時代のその基準を中心として歩むべき運命にあるのです。しかし、皆さんは昔、祭祀を行った祭司長やイスラエルの一族と同じ立場で消え去ってはなりません。そのようになると、この世界を踏み越えることはできません。皆さんの視線を他の何に向けてもなりません。皆さんが生まれたのも、皆さんが生きていくのも、ただ最高のその一つの目的だけのためであることを知らなければなりません。

 敗北し、ふらつく人を見ると「ふらふらするようなら早く滅びろ」、「もし私がそんな立場に立てば、寝ないで相手を打ち負かすための準備をするだろう」と言うでしょう。皆さんは自ら自覚し、自ら衝動を起こし、自分を刺激して進むことのできる人にならなければなりません。

 皆さんは今どこにとどまっていますか。あなた方は統一教会にとどまろうとしてはなりません。そのような人は真の統一教会員ではありません。皆さんは、きょうはどこに行って何をするのかを考えなければなりません。

 先生がいつか「太平洋に壁を造って遮ろう」と話しました。そのような話をしたのも、すべて一つの目的に対する一念から出てきた話であるということを皆さんは知らなければなりません。

 統一教会についてきながら、今まで試練と曲折を経てきたのに、その末路が悲惨ならばどうなるでしょうか。自分自身と自分の子供を中心として嘆くそのような群れを見て、神様が嘆かれるのです。

 神様は願っていらっしゃるのに、皆さんが自嘆する場にいるならば滅びなければなりません。もし滅びないならば、先生が殴ってでも滅びるようにするでしょう。このような覚悟と基準をもっていかなければならない人々が、統一の役軍であるということを知らなければなりません。

 福地は呼んでいる

 福地は呼んでいます。神様は六千年前からアダムが成せなかった福地を築く中心人物を探して立てましたが、まだ人間はその福地を築いていません。私たちの先祖もこういう復帰の道を歩んできたのに築くことができず、数多くの聖人、賢哲たちもこの目的に向かって苦闘してきましたが築き上げることができませんでした。

 イエス様もこの地に来られ、この目標に向かって新しい文化世界を願いましたが、成し遂げることができませんでした。しかし、その世界はいずれにせよ成されなければなりません。万一成されないならば、堕落した世の中はこのまま続いていくようになり、神様が成そうとされる新しい世界は、結局この地上に築かれないでしょう。

 それゆえ、私たちはその世界を成し遂げるのだという抱負を抱いて歩まなければなりません。このような私たちが、どこかで安らかに休むことができるでしょうか。私たちは死亡の峠を越え、また越えていかなければならないのです。越えていかなければならないその谷間は、ゴルゴタです。私たちはそこで戦って勝利したのち、再び一つの峠を越えなければなりません。ところで、再び越えようとするならば、新しいことを創造しながら越えていかなければなりません。勝利することが問題ではなく、再び収拾して神様の世界をどのように作り出すのかということが問題です。

 そのために皆さんはまず、真理を探し出さなければなりません。堕落することにより真理を失い、霊的なすべてを失い、心情を失ってしまいました。

 皆さんがもっている理念は、世界の何かが引っ張っていこうとしても引っ張っていくことのできない理念です。サタンがそそのかし、もてあそんでも、そこに引っ張られず、譲ることのできない理念です。それゆえ、イエス様もはっきりとサタンと悪に対しては、断固として立ち向かったのです。

 福地は真理と人格と心情で成される

 皆さんはそのような理念で武装した真理を探し出さなければなりません。真理を探し出すために歴史上の数多くの民族が死んでいき、数多くの烈士たちが犠牲になりました。皆さんは真理を探し出すために死を覚悟してみたことがありますか。皆さんは、どれだけ苦役の路程を自ら進んで歩んでみましたか。

 真理の盾を持っていく道に世界的な十字架が遮っても、け飛ばして進んでいくことができなければなりません。世界的にもつれているすべての思想を片づけてしまい、社会的な腐敗を清算し、サタンが立てた悪の都城を全部屈服させることのできる実力を備えなければなりません。私たちには、そのような人物が必要です。そして、神様の真のみ言を中心とした真理をもってサタンと対決し、偽りのみ言を屈服させ、サタンの霊魂までも屈服させることのできる人格を備えなければなりません。サタンに引かれていった人間はそのような人格を備え、神様の心情を中心としてサタンを屈服させずしては、神様の前に行くことができないのです。

 そして人格を備えたのちには心情を備えなければなりません。心情を備えた基盤の上に初めてアブラハムが安息でき、モーセが安息でき、数多くのイスラエル民族が安息できるのです。またイエス様と世界万民までも安息できる根拠地になるのです。

 その心情が裏づけられた人は、万民に代わって霊的な父母の位置に上がることができ、そのように父母の位置に上がったとき父母の心情を備えるようになるのです。

 福地を尋ねいくべき運命の道

 愛する息子に対する父母は、たとえ息子に欠点があったとしても、その欠点をまず探し出したりはしません。自分の良い点だけが似るように願います。息子の悪い面を見てほおをたたいたとしても、同情し後悔するのが父母の心情なのです。それは、その時の悪なる事情を基準として殴ったのではないからです。自分に似た小さな部分でもあれば、それを悪い面よりもっと大きく見ようとする基準を中心として、理解しようとするのが息子に対する父母の心情です。

 神様が今日まで罪多き人類を尋ねてこられるときには、神様の本性を基準として、人間に少しでも似た部分があれば、その部分を多くの悪性よりも大きく評価し、それにすがって訪ねてこられたのです。それが父母の心です。

 皆さんは今日、民族的な使命と世界的な使命をもって、父母の心情へと進んでいかなければならない立場に立っています。皆さんが民族を見つめるとき、その民族は失った父母を探し出すために、泣き叫ぶ孤児のような立場に立っているということを知らなくてはなりません。一つの国を見るときにも、父母を失った国として、世界を見るときにも、父母を失った世界として見ることのできる心情をもたなければなりません。そうして皆さんは、天との因縁を再び結ぼうとする心で、新しい根拠地に向けて立ち上がることのできる基準を準備しなければなりません。イエス様も、それを実現するためにこの地に来られたのです。

 それで私たち統一教会でも父母の心情で僕の体を用い、血と汗と涙で復帰の使命を完結しようというのです。統一教会が超えるべき試練がありますが、それは世界のどんな主義や思想も超えられない峠であり、民主世界やどんな体制も超えることのできない峠です。彼らが行けなこを私たちが行き、彼らができない仕事を私たちがしなければならないのです。

 そのためには、今日皆さんがこの場でとどまっていてはなりません。皆さんが立っている場は安息の根拠地ではありません。福地へ行く過程です。私たちには個人的に、家庭的に、氏族的に、民族的に、国家的に、さらには世界的に行かなければならない運命が残っているのです。

 私たちは一つの安息の根拠地を見つめて、この世界を超えに超えて、新しい文化世界を創建しなければなりません。そして、新しい歴史の伝統と基準を打ち立てなければなりません。そうでなければ、福地が呼ぶ個人になれないのであり、福地が呼ぶ家庭と氏族と教団になれないのであり、福地が呼ぶ民族と国家と世界にはなり得ないということを知らなくてはなりません。皆さんすべてが、この目的のために最善を尽くしてくださることを願います。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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