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2021.04.24
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「第四回万物の日のみ言葉」

1966年6月19日(陰暦5月1日)
韓国・青坡洞旧本部教会にて


 歴史の起源と目的

 皆さんが御存知のように、きょうは万物の日です。今から四年前に、我々は万物の日を設定しました。この万物の日を設定してから、我々は全国の聖地を選び定めました。
 ところで、堕落の恨みを解くための父の摂理は、アダム家庭から始まりました。アダムとエバが失敗したことを、カインとアベルを通して復帰しようとなされた父の御旨があります。しかし、アベルを殺害することによって、これがまた悲しい第二次の堕落の結果を招来するようになったので、天が摂理なさったアダム家庭の摂理は、全面的な破綻をもたらすようになったのでした。
 このようにして、神はアダム家庭の八人家族の代身として、ノアの八人家族を選んで、アダム家庭で失ってしまったすべてのものを復帰しようとなさったのでした。しかし、ハムの失敗によって、再び御旨は成されず、ノア、アブラハム、モーセを経て、洗礼ヨハネを経てイエス様まで四千年という歳月が流れたのでした。この長い長い期間中に、我々の祖先たちが失敗し、縦的に曲折した事実を、イエスの時代においてイスラエル民族を横的に立てておいて、これを民族的な蕩減を条件として、勝利の基台の上にイエス様が立って、歴史的な蕩減と合わせて、新しい時代的な使命を出発しなければならなかったのでした。これがイスラエル民族とイエス様の使命でした。このような新しい時代的な出発のために、イエス様は三年公生涯の路程を出発したのです。しかし、民族的な横的基台が、縦的基準を代身して蕩減することができるような実際的な環境が成されなかったので、第二次的な摂理路程として出発したのが、新約の福音の歴史であるという事実を我々は知っております。
 それでは、四千年の歴史の上に、更に加えて二千年というキリスト教の歴史を通しながら、その期間になしたことは何なのでしょうか? 事実上イエス様は、アダムからイエス様当時までの四千年期間の横的な民族の基台を中心として、歴史的なすべての過誤を蕩減しなければならなかったのです。しかし、それを成すことができなかったので、イエス様は新約の福音を中心として、新しい出発をしなければならなかったのです。このような立場から、イエス様は世界的な神の御旨に対することのできる第二イスラエルの編成を中心として出発しなければならなかったのでした。

 摂理歴史の再出発

 従って、今日のキリスト教の歴史は、どこから出発しなければならないかといえば、神の息子に侍ったという栄光の中から出発しなければならなかったのが事実です。しかし、そのようにできなかったのです。
 栄光の中に来られたメシヤを、十字架の路程へ追いやったので、十字架を通して復活なさったイエスを信ずる場に出ようとする者は、十字架の路程を経ずしては、復活されたイエスと因縁を結ぶことがてきないということを、皆さんははっきり知らなければなりません。
 それで、キリスト教は、最低の一番暗黒世界の場から、再び歴史時代を再編成する歴史路程をさかのぼって来るというのです。このようにして、天の御旨のために生命を覚悟した数多くの我々キリスト教信者たちは、歴史的な路程の上にあって犠牲を払いながら何をしたのでしょうか?
 第一イスラエルを編成してきた歴史的なすべての曲折は、イエスを迎えて、時代的な環境の上で蕩減復帰しなければならなかったのがその時代の使命でした。しかし、その基準を失ってしまったので、イエスを信じて来る数多くの人々は、歴史時代における第一イスラエルの失敗を、第二イスラエル時代に再度収拾しながら、今まで世界的なイスラエル圏を作って来たのがキリスト教の歴史なのです。
 しかし、このキリスト教の歴史が、霊と肉を中心とした第三の時代と同じ、そのような立場に立つことができず、肉的基準を除外した、霊的基準のみを中心とした第二イスラエル圏内に属しているので、ここに再び必ず要求されるのが、再臨という一日だったのです。この一日を希望して来た世界のクリスチャンは、第二イスラエルという霊的基準の上に来られる主様を迎えて、第一イスラエルの肉的基準と合わせて、第三イスラエルの世界的な善の主権復帰世界を成就しなければならないのです。これが摂理歴史の再出発です。

 霊的勝利基準と肉的勝利基準

 イスラエルという言葉は、皆さんがよく知っているようにヤコブが争って勝利したから、つけられた名前です。では、誰が勝利したのでしょうか? ヤコブが勝利したのです。それでは、ヤコブが誰に勝利したのか? 天使と戦って勝利したのです。ヤコブが二十一年路程を終えて、故郷の地を訪ねて入るようになる時に、ヤボクの渡しで最後の決戦がありました。その戦いは、たとえそれがヤコブ個人がなしたものであっても、その個人は、当時の数多くの人類を代身した個人でした。
 ヤコブの家庭は、どこまでもその家庭のためだけにする、そのような立場ではありませんでした。数多くの民族を代身し、数多くの氏族を代表した家庭的な立場であり、ヤコブは家庭を天に懸けておいて、ヤボクの渡しで祈る中で天使と相撲をしたのでした。
 それでは、これが何を意味するのでしょうか? 天使世界をひっくり返すためのものでした。それは、人間の堕落が天使世界に支配されたことによるものだったからです。これを再び逆に勝利して、天使世界を屈服させなければならない勝利のプログラムがあるために、ヤボクの渡しでヤコブは、勝利を決める場において天使と戦い、天使自身が祝福を許さざるを得ない、そのような祝福を受けるようになったのです。
 それでは、この祝福は何を意味するのでしょうか? 天使世界の権限をすべて相続してこそ、地上において天の摂理を代身することのできる勝利者になるのです。それで、ヤコブ自身は、はっきり知らなかったかもしれませんが、その心を催促する天の摂理の御旨が、その心と心情を通して、本心を通して因縁を結んだのです。それで、ヤコブは、「お前(天使)は私(ヤコブ)を祝福しない限り、絶対、行くことができない。」と言って戦ったのです。
 このように、ヤコブは生命を懸けて立ち向かったので、天使はそこで敗れたという確認書を与えるという直告(註:ありのままを告げること)をするようになったのです。そのようにして、勝利の栄光の場にヤコブを立てておいて、イスラエルという名を与えるようになったのです。
 こうして、霊的基準をおいて天使の前に勝利の基台を整えたヤコブが、ハランの地に訪ねて入るようになったのです。そのとき、彼はまた、ヤコブの妻子が現れたならば殺そうと考えていたエサウを、再び屈服させなくては、完全に勝利したことにならなかったのです。
 ヤコブ自身の本心を通して動く天の摂理は、ヤコブがヤボクの渡しで勝利したその時に、霊的基準の勝利を収めたのでした。ヤコブが勝利して備えるようになったその霊的基準の実体は、その時の世界的な実体の代身として現れるようになったものでした。
 一方、エサウは血統的に見るとき、ヤコブのお兄さんでした。しかし、摂理上から見るときは、この二人の兄弟は、天と地を代表するものでした。ヤコブは天を代表したのであり、エサウは地を代表したのでした。否、ヤコブは神を代身したのであり、エサウはサタンを代身したのでした。ところで、堕落とは何だったのか? それは、天使がアダムとエバを主管したことでした。
 それゆえに、勝利者としてのイスラエルの御旨を奉るためには、個人的勝利の基準と家庭的勝利の基準を決定しなければなりませんでした。このようにして、ヤコブが自分のお兄さんに会うようになったときに、お兄さんが歓迎することによって、歴史は初めてイスラエルに対して約束の祝福を霊的に与えることができたのです。一方また、約束の祝福を実質的な基台の上に、実体を中心として成し遂げることができたのでした。イスラエルの基準をここで成立することができました。エサウがヤコブに屈服したことにより、ここから新しい歴史を始めることができました。
 これは、どういうことなのでしょうか? 今まで神は、我々人間を思いのままに主管することができませんでした。霊でもって主管することができなかったし、肉でもって主管することができませんでした。神は、どこまでも霊的な勝利と肉的な勝利をもたらした基準の上で、人間を主管しなければならないのです。
 なぜそうなのでしょうか? 神が主管なされた創造当時においては、堕落という名前もなく、堕落というような基準は立っていませんでした。従って、堕落を離れた場、即ち、堕落と因縁のない場で神が主管されるのが本来の創造目的だったのです。それゆえ、本来の創造の原則を中心として神が主管なされるためには、どこまでも創造の原則に立脚した、その場に立った人を主管しなければならないのです。そのため、霊的基準は勝利の基準の上に立たねばならず、肉的基準も勝利の基準の上に立たなければ、神が主管することができません。ここからイスラエルの編成が出発するようになるのです。

 イスラエル民族の行くべき道

 皆さん! イスラエルがこのように新しい出発をするようになって、イスラエルの民族的な新しい基準が立てられるようになった時、イスラエルの一族たちは、どのような道へ行かなければなりませんか?
 天の基台を準備しなければならなかった、祝福されたイスラエル民族は、天が保護する栄光の立場で出発するのではなくて、栄光の道を捨てて、開拓者としての使命の道を歩んで行かなければならなかったというのです。
 それでは、開拓しなければならないその地は、どのような地なのでしょうか! この地球上が彼らの開拓地だというのです。従って、開拓者としての権威と、最後の開拓者としての勝利の基準を決定するためには、どのような所に行かなければならないのでしょうか?
 開拓者が天地を中心として仕事をするときに、易しい立場で開拓しては、開拓者としての勝利の基準を決定することはできません。そのために、イスラエル民族は、想像することのできない逆境地帯へ追いやられました。若干の他の理由もあることはありましたけれども、エジプト苦役路程もこのような立場から経るようになったのです。従って、開拓者の使命を果たすにあたっては、最も難しい使命、難しい立場に立たなければならないというのです。
 これが摂理の御旨を立てて来た神の作戦方法だというのです。従って、すべてのこの世を代身して、天の御旨を代身して現れた人は、全部歓迎されてはいけなかったのです。これが絶対的な公式です。善のためになし、天のためになす使命を背負って立つようになるときに、もし、この世のすべてがこれを歓迎したら、すべてが変えられてしまうので、彼らは一八〇度方向を変えるようになるというのです。
 一から始まって全部が皆、簡単ではありません。従って、万一、善を歓迎する日には、善が繁殖して、悪なる世界を全部破綻せしめるために、悪なる世界の傀首たるサタンはあらゆる反対条件を立てて、天が立てた者たちを追い払うのです。
 それでは、追い払うにはどのように追い払うのでしょうか? 個人として出発するときには、個人的に追い立てられるようになります。しかし、家庭的に、民族的に、国家的に出発するときには、家庭的に、民族的に、国家的に、世界的に追い立てられるようになります。それで、今日に至るまでのキリスト教の歴史は、どの時代にあっても歓迎を受けることができませんでした。
 個人的に歓迎を受けることができなかったし、家庭的に、民族的に、国家、世界的に歓迎を受けることができずに来たというのです。そうでありながら、発展して来ました。打たれ、奪われて来た作戦が天の戦法です。
 このようにして数多くの我々の祖先たちは、二千年の歴史を経て来ながら、血の祭壇を連結させて来たし、伝統的な思想を連結させて来たということを、皆さんがはっきりと知らなければなりません。それにもかかわらず、今日の既成教会のクリスチャンたちは、“信ずれば天国に行く”という妄想的な信仰をもって、天国に行くかのごとくに大きなことを皆、言っているのです。

 祝福成就の出発

 それでは、今日のこのようなキリスト教の思想は、どのような思想なのでしょうか? 彼らは、天の摂理が死の祭壇を連結させて、新しいキリスト教へ復活することのできる復活の祭壇を仰ぎ見ながら来ているという事実を忘却しているのです。
 アダム家庭の歴史から、アベルが血を流す歴史が始まったために、血の峠を連結させて、血の峠を越えて行って勝利しなければならないというのです。イエス様も十字架の血の峠で勝利したので、メシヤ、すなわち、救世主の使命を代身することができたのです。
 神は、原理原則を中心として戦いをして来ています。従って、その戦法には色々ある訳ではありません。大きかろうが、小さかろうが、皆同じ一つの戦法です。それでは、その戦法はどのような方法なのでしょうか? サタン世界に入って行って、サタンの巣窟を占領して出て来なければならないという、そのような戦法です。
 それ故に、ヤコブも祝福を受けるためにどのようにしましたか? レンズ豆のあつものとパンをもって勝利を収めたのを見るならば、彼にどれほど考えが多かったか、我々はよく考えてみることができます。ヤコブがどれくらい知恵深く、巧みな行動をとったでしょうか? しかし、それは、そうでなければならなかったのです。
 原理を学んでも分かることですが、ヤコブが神の祝福を受ける長子の嗣業を奪うためには、すべての精誠を尽くす中で、彼の生活の感情が、その一つの標準の前に精魂を打ち込んでいたのです。
 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、このようにもつれたことを知るようになるときに、ヤコブは、天を誰よりも考えたし、また自分の祖先から与えられた祝福が何よりも大きかったということを知ったのです。
 それで、心情基準においては、ヤコブは天が無視することができない基準に立ったというのです。それ故に、アブラハムが祝福を受けた以上の心情をヤコブが持たなければならなかったのです。また、イサクが、アブラハムを通して受けた以上の心情をもって、天の祝福を相続するその民族と、天が祝福するその人がどれくらい貴いかということを、ヤコブはエサウを通して体験しなければならなかったのです。
 彼は、寝ても覚めてもその心の中に祝福というものを考えました。そして、この観念が彼の生活全体を支配したということを皆さんは知らなければなりません。この基準は、サタンも公認せざるを得ません。
 このようになるならば、神が祝福を移してやるにも、否定しようにも否定できない基準に立っていたために、内的な心情基準の前にあっては、長子たるエサウが問題ではありませんでした。エサウを踏みつけて立ち、祝福を受けた自分の祖先たちに対する価値を誰よりももっと大きく考えたし、祝福してくれた天の価値を誰よりも大きく考えたのでした。
 ヤコブの心は、神が願ってきたその祝福のことを考えました。「汝の後孫が天の星のごとくに、地の砂のごとくに増える」という祝福を受けていたために、ヤコブは、世界的なイスラエルとしての祝福を受けることを誰よりも渇望したというのです。
 このようなことを考え、条件を提示して祝福を受けるようになったので、ヤコブはレンズ豆のあつものとパンを与えて長子の祝福を受けるようになりました。しかし、天が祝福したその恵みがいかに貴いかということを知らなかったエサウは、これにふざけた調子で対しました。天の祝福を無価値なものと考える彼は、追い出されなければならなかったのです。
 このようにサタンも公認することのできる条件になったので、アブラハム、イサク、ヤコブとこのように三代の因縁がここで初めて立てられたのでした。アブラハムとイサクは、祝福を受けたこと、即ち、神が祝福してくれることを喜んだし、好みました。しかし、ヤコブは、祝福を成し遂げることを重要視しました。祝福を成し遂げることを希望し、好みました。それが異なるというのです。
 エサウとアブラハムは、祝福を受けた場で嬉しがりました。しかし、ヤコブは、成し遂げることに対する希望がもっと大きかったということを皆さんは知らなければなりません。このような観点から見るときに、祝福を受けたことが問題ではなく、祝福を成し遂げさせることが大きな問題になるのです。ヤコブを中心として見るとき、祝福成就の出発が問題になるのです。
 これは、じっと座っていてできることではありません。イスラエルの民を引き連れて行き、個人的な基台を促進しなければならず、世界的な基台を催促しなければならず、天地に奥深く染み入った根本的な基台を建設しなければならないのです。これが正しく天が願う勝利の基準なのです。
 ヤコブがイスラエルになるときには、自分一人でなったのではありませんでした。家庭を治めてこそ勝敗の決定は下すことができるのです。このように、個人において決定するのではないということを皆さんは、はっきり知らなければなりません。
 アダム家庭においても、家庭的にアダムとエバが堕落したのであり、カインがアベルを殺すことによって、家庭的にまた再び堕落の実を結んだという事実を皆さんは知らなければなりません。アダム・エバは、家庭的な堕落の種を蒔いたけれども、カインは、家庭的な堕落の実を結ぶようにしたのです。
 ここから二つの世界が展開し始めました。それで、そこから世界の歴史は二つに分かれて来たのです。ある民族を中心として見たとしても、正が出てくれば、必ず反が出て来、善が出て来れば、必ず悪が出て来たということを我々は知っています。
 このようにして、世界型を備えて共産主義と民主主義が出て来たのです。今後は、共産主義と民主主義世界も各々がすべて二つに分かれるのです。そのようにして、四つの国家形態を備えて最後の審判時代が来るのです。
 皆さんは、原理講論を中心として、原理を通して詳細に見ればよく分かるのです。それが今現在、我々が原理として語るすべての事実と一致するということを知ることができるのです。

 家庭的勝利の基台

 この家庭的な闘いは、モーセ時代の基準と同じものなのです。ここで、歴史的なその基準を見ると、中心は同じなのです。そしてその中心は、時代的な環境まで浄化させるということを我々は知らなければなりません。
 ヤコブが、個人的に、また家庭的に天の前に立てられるためには、個人のための勝利の基台が準備されなければならないのと同時に、ヤコブ家庭の勝利の基台が準備されなければならないというのです。
 それでは、ヤコブが家庭的な勝利の基台を準備するためには、どのようにしなければならないのでしょうか?個人の勝利の基台を準備するためには、家庭的な十字架まで背負うことを知らなければなりません。ヤコブがヤコブとして勝利するためには、ヤコブが一人で勝利したといって神の息子・娘になることはできません。ヤコブが、ヤコブ家庭の十字架まで背負って天の前に行くことのできる基台を準備しておいてこそ、初めてヤコブがその勝利の基台を得ることができるようになるのです。
 それでは、ヤコブを基準として、勝利の基台が備えられたイスラエルの一族たちは、どのようにしなければならなかったのでしょうか? ヤコブが家庭的に責任を持つことのできる立場に立つようになるときに、イスラエルは種族的、氏族的な親戚の立場まで蕩減復帰しなければなりません。そうなると、親戚圏内に留まっているサタンの讒訴条件は、すべてヤコブ家庭を中心として打つことができるようになります。ここで、闘いが展開されるようになるのです。
 個人が完全勝利するためには、家庭的な十字架を背負って、家庭的なサタン世界を攻撃することのできる、そのような基台の上に立って勝利してこそ、初めて個人の勝利が決定されるのです。
 一方、家庭的な勝利を決定するためには、家庭的だけではいけません。家庭だけで真なる義を保護してゆくことはできません。御旨を成すためには、ラバンの家、すなわち、怨讐の世界に入ってから、出て来なければなりません。このように闘ってこそ、家庭的な勝利の基台を準備して戻って来ることができるのです。
 家庭的な勝利を決定するためには、氏族的なその基台の十字架を全部蕩減することのできる基準の勝利者にならなければなりません。こうして、その氏族は、追い立てられる矢を感謝して受けて、一氏族の勝利の基台を作っておいてこそ、ヤコブ家庭が氏族圏内まで拡張することができるのです。
 それでは、個人的な基準で、家庭的な基準で、氏族的な基準で、民族的な勝利の基台を開拓するためには、どのようにしなければならないのでしょうか? ヤコブ家庭の七十二人が一番問題になります。

 イスラエル民族の使命

 これらの人たちは、エジプトの地に入って行って様々な試練を受けました。その試練を受けたその国の環境が外国であったとしても、イスラエル民族は、どこまでも一カ国を代表するのではなく、世界摂理の御旨の前にあって、世界を代表したそのような国家だったのでした。
 このように、世界を代表してイスラエル民族は踏みつけられ、引きずり回されたのでした。しかし、そこで天の前に忠誠を尽くし、天の御旨のためにイスラエルの摂理圏を失わず、天が立てられた祝福の因縁をつかんで出て行く日には、必ず打った群れが崩され、ここから必ず新しい世界としての出発が始まるというのです。
 従って、“イスラエル”としてイスラエルの勝利の基台を備えるためには、外的に民族的な侵略を受けて、そこで勝利の基準を立てなければならないというのです。
 それゆえに、イスラエル民族は、カナンの地に入って、カナン復帰のために世界的な新しい試練、苦難に向かって出発できる準備を整えなければならなかったのです。イスラエル民族は、カナンの地に入って来て、天の御旨を奉って民族的な基台を固めると同時に、世界的に混乱した環境に彼らがぶつかって、その環境を全部凌駕して出て立つことのできる、このような基台を準備して、強いローマ帝国までも打ちのめしておかなければならなかったのです。
 万一、このようにしたならば、その基盤を中心としてイスラエルは、国家的な基準で世界的な試練を越えて立ち、メシヤと共に世界主権国家として越えて行くことができたのです。
 しかし、イスラエル民族が世界的な試練の舞台の責任を果たすことができなかったので、イエスが再び個人、家庭、氏族、民族まで勝利した歴史的な基台を引き継がなければならなかったのです。
 ところが、民族全体がイエスに反対したために、個人、家庭、氏族、民族まで天の前に立てた歴史的な基準が全部崩れるようになったのです。それゆえに、イエスは生命を覚悟して、歴史的な因縁を立てるために、個人の勝利、家庭、氏族、民族、国家の勝利の基準まで再び収拾しに出で立ったのです。これが、彼の三年公生涯でした。
 このようにしてイエスの時代に到って、民族の時代、国家の時代に入って行ったのです。ここで初めて、メシヤが来るようになります。メシヤが来て、捜し求めて行かなければならない所は、世界的な中心の立場までです。
 ここから自分の立場に出て行くためには、イスラエル民族自体が、世界的な試練の途上にあって、天の御旨を中心として完全な準備を整えると同時に、国家的な基準の基盤を磨いて、国家の代表であり、指導者である洗礼ヨハネと一つになって、来られるメシヤと共に一体になって、世界的な試練、苦痛に耐え、越えるようにしなければならなかったのです。世界的な試練、苦痛をイエス様の代わりに背負って出発するようになるならば、ローマ帝国がどれだけ世界の強国だといっても、天が背後におられるので、彼らに負けないというのです。
 万一、イエスがイスラエル民族と一つになって出て行ったならば、ローマの勢力は、問題が無かったのです。このローマを打ちのめすならば、その時から世界は天側へ越えて来ることができました。しかし、これができなかったので、これを捜し求める第二次の途上にあって、二千年間をまた再び回って行かなければならなかったのです。

 「終わりの日」

 ですから、「終わりの日」はどのような時代かといえば、歴史的なすべての全体が蕩減される時代です。それ故に、混乱時代が来ます。宗教も混乱、経済も混乱、文化も全部が混乱の中に吹き荒らされるようになります。「終わりの日になった。主様が来る。我々の集団を通じ、我々でなければ救いを受けられない。」このような言葉がなぜ出て来るのでしょうか? 見たところは、平面図上の一時代圏内に、焦点圏内に入って来ているけれども、その内容を置いてみるならば、歴史的な全体でなければならないからです。こうして、世界的な渦中に入ってサタンと立ち向かい、ひっくり返すのです。
 それでは、その時はいかなる時代かと言えば、宗教の目的がぼやける時であり、哲学の目的も、国家の目的も、民族の目的も、家庭の目的までぼやける時、目的の全部がぼやける時なのです。このような渦中にあって、個人を収拾し、家庭を収拾し、氏族を収拾し、民族を収拾し、国家を収拾し、世界を収拾し、すべてのものを収拾することのできる人が現れて、神を中心とした新しい第二世界の出発を展開させなければなりません。
 なぜそのような世界が要求されるのかといえば、堕落したために、神が目的とされる基準の前に、この目的を達成するために、そのような世界が要求されるのです。本来、堕落しなかったならば、サタン主権の世界ではなくて、神の何主義の世界になりますか? 共産主義でもないし、民族主義でもないならば、何主義ですか? 父主義であり、息子主義なのです。
 しかし、神を中心とした、父主義と息子主義が始まらなかったというのです。それでは、何主義が始まったのでしょうか? 神を中心として見るときには、僕主義でも始められなかったというのです。彼らは、サタン世界にまで追放され、追われるそのような一族になったのです。事実上、神側から見るときは、それが僕主義にもなれなかったというのです。
 彼らがそのような過程を経たために、今日の我々は、主人を失ってしまったし、僕にもなれなかったのです。今日の堕落した人間は、どの段階にまで落ちたかといえば、僕の僕の段階まで落ちました。サタンが僕なのですが、そのまた僕になったので、僕の僕にしかなれないというのです。このような立場にあってイエス様を信ずるならば、神の息子になれると、そのように考えています。
 しかし、み言葉を中心として見るとき、このようにしては、勝利することができなくなっています。み言葉と一体となった実体を備えなくては、実体と合わさった世界を勝利することができないのです。闘いをするときは、み言葉は宣伝にしかなりません。宣伝をもってしては、実体の結果をもって来ることができないし、勝利の判定を下すことができません。
 「イエス様を信じて天国に行こう。」と、このように言っています。しかし、元来、人が造られた時、神を信じてこそ天国に行くように造られましたか? 天国生活をして、天国を成し遂げて生活するときに、神が地上に降りて来るようになっています。黙示録二十一章を見ると、エルサレム城がどこに来るとありますか? 昇って行くと言っていますか? 下って来ると言っていますか? 死んだ祭礼をなして神が公認しますか? そのようにして、すべての民族と世界人類を全部救うことができますか? 「信じなければ地獄に行く。」そのように言っていますけれども、彼らが天国に行って見ましたか? ですから、終わりの日には全部が終わりになるのです。それでは、堕落とは何でしたか? それは、目的に向かっている中で背負ってしまう過重なる暗黒の結果を見たことです。希望の結果でなく、失望の結果を見たのが堕落でした。
 それ故に、堕落を通して始まった歴史の経路を知るならば、我々の目的は、ここに公明なる神を中心とした、創造理想で立てられた、その最終的な結果を見ようとすることなので、その時を仰ぎ見て出て行くのが歴史的な運命だったのです。そのため、神と共に生きなければならない時が、必ず戻って来るというのです。
 十六世紀の人文主義文芸復興を中心として、人本主義思想が最高度に発達した今日においては、神まで追放してしまいました。神を追放する運動を展開させております。「神、宗教というようになるならば自他共に嫌いだ。」と言うそのような場に入って来ています。このような立場で、統一教会はサタン世界からの追い出しを受けて来ました。全人類は、終わりが来るようになれば、全部神を嫌だと言い、宗教を嫌だと言う立場に陥ってしまうのです。これが、まさしく「終わり」なのです。
 けれども、失ってしまった神をまた捜し求める運動が展開されなければなりません。これが新しい時代の証拠にならなければなりません。哲学と科学が各々そのような起点を立てて、我々の生活環境の実証的な条件が、そのような基準で実証することのできる、神を中心とした宗教観を作っておかなくては、世界は、新しい世界へと転換することができないという事実を皆さんが知らなければなりません。
 それでは、終わりの日になれば、信じない人は、もちろん天国に行けないでしょう。しかし、信じる人たちは、天国に行くことができますか? 行くことができるならば本当に良いことです。聖書が言ったことをもって、事実そのようになるならば、サタンもその前には追放されなければならないでしょう?
 サタンだろうと我々であろうと、天国に行きたいという心は同じではありませんか! 「私を人類の祖先に置き換えてくれるならば、この宇宙を全部神の前に捧げて私は忠誠を尽くします。」、サタンもこのように言っているというのです。けれども、天理法度がそのようになっていないので、そのようにはなり得ないのです。
 皆さんたちは、サタンほどに神の事情を知り、神の心情を知っていますか? サタンほどは知らないでいるのが事実です。神の事情と心情を知らないでいながら、信じれば天国に行けると言うことができますか?
 私はいろいろ調べて、そうではないという事実を知るようになったのです。統一教会で言っていることは、“そういうことらしい”ではありません。西の方から行ったり、東の方から行ったり……そうしても行けるかどうか分からないことなのに、“そうであるらしい”ということで、どこに行くというのですか?
 従って、皆さんは、歴史時代の終末においては、皆ぼやけるのです。皆さんが信じていた宗教も、好きだった思想も、共産主義までも皆ぼやけて行くのです。共産主義は、今から二つに分かれて行きます。東ヨーロッパの共産主義衛星国家も見てみなさい。今やルーマニアも民族的な共産主義に変転してきています。
 これが世界主義形態へ整えられるようになるときには、民主主義も、国家的な民主主義、民族的民主主義へと落ちるようになるのです。

 歴史的心情の因縁

 この終わりの門を開放することのできる主義は、思想でもないし、人間でもないし、ただただ神なのです。この門を開放するためには、来たるべき主様が必要であるということを、皆さんは明白に知らなければなりません。
 堕落した人間自身としては、どれだけ忠誠を尽くす役割をしても、開放する道理がないために、天理天道のすべての御旨を奉って、この門を開放させることのできる一人の主人が来なければならないというのがメシヤ思想です。
 雲に乗ってメシヤが来られますか? 万一、雲に乗って来られるならば、この世は全部崩れ、壊れてしまうということを皆さんは知らなければなりません。火の燃える穴に一度にたたき込んでしまうと言われましたけれども、それでは何のために六千年間も引きずって来られたのですか? イエス様は雲に乗って来ません。利口な青年の皆さんは、イエス様の再臨をどのように考えていますか? 聖書によるならば、聖なる天使長のラッパの音と共に、雲に乗って神々しく来臨されるようになっております。そのような事実が信じられますか? そのように記録された聖書をそのまま信ずるというのですか? 今は、科学的な時代なのに、そのような妄想的な信仰をもって、偉大な歴史的な仕事をすることはできません。
 歴史を越え、時代を主管することができ、環境を開拓することのできる開拓者、そのような開拓者の勇気の前には、怨讐が逃げ出してしまいます。このような実権と実力を備えた神の息子・娘でなくては天国に行けません。好き勝手に妻を娶ったり、嫁に行ったり、食べたいままに気ままに食べ、したい放題に全部してから神を呼んでいる人が、そのまま天国に行くことができると思いますか? しかし、終末時代においては、このような複雑な環境が展開するというのです。
 宗教界においてもそうですし、思想界においてもそのようになるというのです。すべての家庭もそのような環境下におかれるようになります。儒教思想が及ぶ所では、三綱五倫をもって父母の前に孝行の法度を守ろうとするけれども、それも皆壊れて行ってしまいます。「父がどこにおり、母がどこにおり、兄弟がどこにいるのか? あーあー私は分からない。」と、このようになるというのです。師の道理も皆壊れてしまいます。
 それゆえに、終わりの日に入っては、そのどのような標的をも立てることができないというのです。暗たんの出発として蒔いておいた種は、暗たんの結果として、実を結ぶようになるというのです。そこでは、我々の生きる道は、どのように開かれるようになるのでしょうか?
 今後は、全世界の人類が暗黒の権勢に生け捕られて、「行く道がありません。」と言いながら、手を挙げて痛哭するしかありません。「私を助けてください、私を殺してください。」という痛哭の涙の他は何もないというのです。アダムとエバが涙として蒔いたから、涙として収めなければならないのです。
 それゆえに、終わりの日における堕落人間たちは、心で天を追慕しながら、「神よ、私を助けてください。」と言わなければならないというのです。
 歴史の悲しみを代身し、天の悲しみを代身し、時代的な曲折を代身し、天の曲折を解くという責任をもって涙を流すことのできる、そのような立場に立たなければなりません。この世は、自分を中心として痛哭をするけれども、我々はそのようにしてはなりません。しかし、いずれにしろこの世界を中心として、「私を助けてください。」と痛哭しながら涙を流すのは同じだというのです。天は、いかなる個人的展望からも涙を流すことはなく、一つの公的な御旨のために涙を流す群れを久しく待っています。
 元来、我々は追放された民族でした。そのような人類でした。我々は、どこまでも堕落した後孫として、歴史的に誇ることのできない大悪党の傀首になったのです。しかし、天は、復帰摂理において心情的な恵みを下さいました。昔より今日に至るまで、即ち、アベル時代から、ノア時代、モーセ時代を経て今日まで、このような事情故に神が耐えて来られながら、救援摂理をして来られたのです。
 しかし、その恵みを我々は、生活的な感情ではなくて、歴史的な心情の因縁を担いつつ、神の前に訴えなければなりません。「私は、この時代においてこうした心情を担って行き、このような使命を世界的に展開させるためにこのような闘いをしようと思います。この闘いの中に加わります。私は、昔のアダムとは違います。昔のイスラエル民族とは違います……。」このように訴えながら歴史を変え、歴史的な心情を中心として、また、時代的な心情を中心としてそれを支えていくことのできる、その何かをもって現れてこそ窮境の条件を踏んで行くことができるというのです。

 統一教会の道

 このような暗澹たる天地の中で、統一教会はなぜ出て来たのでしょうか? このような機会を迎えて、世界を一度統一してみようというところから出て来ました。それでは、統一はどこからするのでしょうか? 国家から統一しますか? 復帰の摂理と天理原則にのっとって、一から出発しなければならないのです。従って、統一教会は、一から出発しようとして現れたために、歴史的に歩んできた、その道の繰り返しの道を歩まねばならないというのです。
 反対する者が天の前にぶつかるとき、三十億の人類が、統一教会の文先生を打ち殺すと言って、槍を持ち、銃を持ち、刀を持って出て来ても、文先生は、打たれて死に倒れないというのです。闘って倒れ、転がる日には、私は勝利する、このような立場で、今まで統一教会は発展してきました。
 私は、いつもヨセフをよく考えます。神よ! ヨセフがヤコブの同じ息子たちである十一人兄弟から追い払われるようになった時、その心情はどうだったでしょうか。水のない井戸に落ち込んで殺されるような立場で、それでも、生きることのできる道を捜し求めてエジプトに行き、四十代に総理大臣になった時、ヤコブの一族が全部来て、「あーあー、助けてください。」と、このように言う時、彼の心情はどうだったでしょうか!
 私は、バチカンの宮廷の前に行って、天の前に次のような祈祷をしました。「二千年間にわたって、六億以上の信者をもった教会が建てられてきました。キリスト教、天主教と言いながら、歳月を送って来ました。しかし、彼らが今にどのようになるのかを見たく思います。限りなく多い教派に分裂している教団を、父が願われる通りに打って、散々に壊してしまいます。
 この場所は、ヨーロッパ文明の総本山になっていることを知っております。この場所が、まさしく全ヨーロッパ文明の集結地という事実を知ることができます。真珠と同じような所であります。しかし、神が私と共におられますから、必ず父の御旨を成し遂げてさしあげずにはおきません。」と。真と偽りがぶつかるならば、偽りは壊れるのが原則です。
 我々統一教会は、今まで七年路程を中心として、地方に行って偽りとぶつかって来ました。残酷なほどにぶつかって来ました。そこには、血の滲んだ歴史の痕跡が残るようになるので、天が共に動くというのです。そこには、血の滲む闘争の経倫が迫っておりますから、彼らの眠りを覚まさせて、天の勝利の盾をさし立てておくことができるのです。
 このように、過ぎ去った年月においては血の汗と涙を流しましたけれども、しかし、統一教会の歴史は前進してきたのです。皆さんたちが骨を正常に備えた人たちであるならば、涙なくしては覗き見ることのできない、そのような歴史であるという事実を知らなければなりません。それを指導してきた先生には、胸に奥深く染み入る恨があるのです。民族を天の前に呪いたい心が千万遍染み込むようでありました。しかし、復帰摂理の路程が残っているために、そのようにできないのです。ヨセフがそうであったように、歴史の局面を回そうとするならば、復帰の運勢を迎えなければなりません。
 民族の悲痛さと恨を抱いて、その風雪の前にぶつかって得た勝利の結果を持って来てこそ、初めて民族がその価値を認めることのできる日が来るので、その時まで耐えて行っているのです。そこには、歴史的に悲痛な峠の道が渦巻いて来たということを皆さんは知らなければなりません。
 最近入って来た統一教会の青年男女たちはそれが分かりません。一人の食口のために、十里の道を捜して行って会ったり、あるいは、山里で二人が手を取り合って痛哭するような事がどれだけ多かったことでしょう。あるいは、何里も離れた所に食口がいる場合、一度会えば去る時に淋しくて、ついて行き、来る時にまた、淋しくてあちらの方の人がついて来て、また行って、また来て、三回、四回、このように行ったり来たりした事などが何回もありました。
 この世の人たちが知り得ない悲しい路程が、ここにからみもつれているというのです。そこでは、自分の血統の因縁をもって、サタン世界において誇る父母の因縁は問題になりません。父母でない父母であり、兄弟でない兄弟の因縁を中心として、天だけが兄弟だとし、天だけが喜ぶことのできる道を捜し求めて出て来ながら、我々は、追いつめられる道を歩んで来たというのです。

 復帰摂理の最終目的

 それで私は、今朝も考えてみました。それは、どのような時代の一時を私が考え、父の前に祈祷したことがあったかという事実についてでした。
 南韓に来て、私が空腹を抱えて父の前に談判祈祷した、その時のことが思い出されました。私をこのようにしたのは、天が私を亡ぼすためではありませんでした。死ねと追い出した道ではなかったのでした。もっと大きな希望を捜し、時に合うようになされたことだったという事実を、今になって知るようになりました。
 このように、時ならざる歴史過程が支払って来た、その長い時間があったということを皆さんは知らなければなりません。個人からイエス様に至るまで捜し求めて来ようとするので、待たなければならない時間が耐え難く長いのです。しかし、その心情は父の心情なのです。その耐え難く長き時を待つ子女たちを見られる心の事情があります。しかし、それはもっと大きいものと合わせて、それを耐えるようにするための、その道へ導くためのものであるので、我々は、天の前に感謝することしかないということを感ずるようになるのです。
 こうして、我々は、七年路程を出発したときから、我々の怨讐である共産主義を克服しなければならないということを体得するようになっていたのです。今まで国が鼻でせせら笑ったために、我々の御旨成就がどれだけ遅くなりましたか!
 最近になってこそ、国家的に統一教会でなければ駄目だという話が広がり始めました。アジアにおいて、我々の理念でなければ駄目だということを、今になって感ずるようになったのです。混乱した世界を克服することのできるのがイエス様の能力です。サタンが展開しておいたすべてのことが、艱難のときには全部倒れてしまうというのです。
 アダム・エバが見目が良いって? 彼らは、エデンの園で堕落してしまいました。見目が良いと自負すること――それがエバの本性なのです。そのように、自己第一主義の立場で批判します。世界的なサタンは、個人第一主義、自己第一主義であるのです。父母であろうと、兄弟であろうと、歴史であろうと皆何だ、そのような態度です。ここから、この世の混乱が始まると同時にまた、霊的世界の混乱が始まるのです。
 最近、ある一人の長老が、我々の教会を非難した事実がありますが、それも結構です。私は彼らと同じように、誰々を異端だと言ったことがありません。私がじっと見きわめると、牧師たちには、私が死ぬようにと祈祷する人が多いのです。しかし、そういう祈祷をした人たちがむしろ倒れるのではないでしょうか? 私は大丈夫です。
 北韓にいる時にもそうした牧師たちは、捕えられて獄に入れられて全部死にました。私は、このような祈祷をしませんでしたがそのようになりました。このようなどん底の状態から、南韓に来た時にも、数多くの人々から反対を受けました。それを思うと悲しい限りです。皆さんがありのままに見えません。それを復讐蕩減するならば、ここに一人も残っている人はおりません。九十五パーセントは皆蕩減しましたが、しかし、五パーセントは蕩減条件が残っているということを皆さんは知らなければなりません。
 混乱した世界舞台の上で、第一の混乱は霊的な混乱です。前に、ヤコブの勝利は霊的勝利を定め、肉的な勝利を決定して、イスラエルという勝利者になったと語りました。それと同じく、今日のこの世界舞台においても、霊的世界を主管してから、肉的世界を主管することのできる勝利の王権を捜し求めずには、天国に入って行くことができないということを皆さんは知らなければなりません。それをはっきりと知らなければなりません。今日、我々の韓国において、ある別の思想があって、それによって影響を受け感化されうる、そのような癌的な要素があるならば、皆さんは天国に行けません。統一教会であるならば、共産主義がどれだけ洗脳工作をしてもびくともしません。
 皆さんは、共産主義者になることができますか? 霊界があり、神がいるということを知っている人は共産主義者になることができません。我々の思想はそれによって感化されません。私は、「一九六六年度から神霊の役事が起る。」と言いました。霊的世界に混乱が始まることを話しました。近頃、既成教会にそのような風が吹いています。それは天の御旨を知らないために生じて来ることなのです。
 霊的世界に混乱が始まる時に、この混乱を収拾することのできる男と女たちは、神の息子・娘になった人たちなのです。神の権威と苦しみ――そして、その価値を帯びて、神の全体、全能に入って行って、代身することのできるその権威をもつならば、どれだけかりりしく、素晴らしいことでしょうか。
 それで、神霊協会に引きずられて行って、「真か嘘か分からない。」と言うような人たちは、皆間違った人たちです。それ故に天は、今日のこの世で勝利して、王者の歴史時代を代身することのできる、そして、未来を通じて責任を負うことのできる、そのような王者を求めるのです。そのような王者に侍ることのできる一つの家庭が必要であり、そのような王者のための氏族が必要であり、国家が必要であり、世界が必要なのです。だから神は、このような復帰摂理の最後の目的を達するようにするのです。
 死んでごらんなさい。死んだ後に私の所に訪ねてごらんなさい。どのようになるか御覧なさい。統一教会は、本当に恐ろしい所です。それで、ある牧師とか博士のような方々を、私は別の角度から見ているのです。ぶつかってみるならぶつかってみなさい! ぶつかって誰が倒れるのか? 我々は、無難に隙間をこしらえて、出て行くというのです。
 私は、アメリカとか全世界を回りながら、そのような確信をもっと固く持つことができるようになりました。我々にはそのような信念と自信があります。
 皆さんは、放送局を知っているでしょう? その周波数が高くなれば、雑音が入って来るのです。それで、放送する時が夜であれば、雑音はあまり入って来ないのです。
 皆さん、我々は、今日のような混乱の中で、一番最初から終わりまで、私の話を聞くことのできる、同時代的な子女たちを捜し求めなければなりません。皆さんは、別の人の話を聞く用意がありますか? 私にはありませんという信念をもって出て行かなければなりません。このような所が統一教会です。それで、統一教会というのは、このようにとてつもない立場からのみ入って来ることのできる総本部だというのです。
 従って、ここに入って来た人たちは、本来の住所を失ってしまわないようにしなければなりません。堕落の群れは、自分の位置を失ってしまったのです。神を中心とした、本来の住所を失ってしまったのです。このような事実が確かですから、皆さんは、自分の本来の位置を確保しなければなりません。

​ 絶対に滅びない組織​

 このような立場から見るとき、歴史は再現されて来ているという事実を、我々は知るようになります。歴史は同時代型に展開されてくるのです。個人型と民族型が大きくなって、それが中央を中心としてすべての源泉は、同じく蕩減されるのです。
 それで、今日のこの時代は、昔のローマ時代と同じく民主主義の時代圏内へ入って来ているというのです。天の摂理上から見るときには、今日のアメリカが世界的なローマであるのです。韓国を中心として、摂理の御旨が成就して、統一教会がこの上もなく大きい歴史的な使命を背負ったというからには、統一教会自体において身につけたところの性質は、どうでなければならないのか?
 ローマ兵士たちを討伐することのできる、即ち、イエスを殺したローマ兵士である怨讐を打って、蕩減復帰し、世界を全部復帰することのできる、このような信念と気魄をもって、世界を統一することができなければなりません。アメリカのホワイトハウスとかどれか一つが問題ではありません。ある人たちは、「統一教会がこのように動くならば、何年か後には統一教会の時代になるだろう。その時、統一教会の文先生が大統領になるのではないか。」と言っています。真に淋しい話と言わざるを得ません。そのような役を求めていたならば、もうとっくに大統領になっているかも知れません。しかし、それが目的ではありません。我々の目的は、世界にあるのです。
 先回、アメリカに行った時、私は、ある元大統領に三大条件を実践するように勧めました。歴史的な問題と宗教に関する問題、そして、思想に関する問題をどのようにするのかということに対して語りました。最初は、五分間と面会時間が定められていました。それが二十分以上も過ぎたし、二十分が過ぎて帰る時には、彼は、別れを惜しんで下の階の待合室まで来て、二階に再び連れて行き、自分の生活観を皆見せてくれるのでした。すべてを神が導かれ、そのようになったのだと信じます。彼は自分の生涯を通して自慢して来たという、一八〇〇年前の昔の品物一つをプレゼントしてくれるというのでした。それから彼は、チャーチル、スターリンのような人々と、昔どのようにしたなどと自慢するのでした。
 我々の統一教会は、アメリカを第一の飛行場にしようと目指しています。第一の飛行訓練場にしようというのです。統一教会から一青年が現れて、全世界にそのようなことを言って、事実がそうであるならばそうなります。皆さんが共感するならばそうなります。
 それで、きょうもイタリアから祝電が入って来ました。アメリカからも、フランスからも祝電が来ています。韓国では、統一教会を何かのように思って、悪口を言って騒々しいのですが、外国ではどうして祝電を打ってくるのでしょうか? 私は、一人心の中で笑ってみました。私は、先ほどアメリカで、世界的に著名な人たちに会ってみました。そのときに、世界のこのような問題をどのように解決するのか? どうするのか? と三、四回問うてみましたが、彼らは答えられないでいるのです。
 皆さん! アメリカとヨーロッパ一帯では今、統一教会の文先生に対するうわさが大きくなっています。このような世の中に、歴史を代身し、時代を代身し、未来を代身して、「私がいる!」と統一教会の文先生自身が入ったビラをまいてごらんなさい。求めて来る人がいかに多いことでしょうか? 何の話か分かりますか? 「耳がある者は聞け。目がある者は見よ。」その次に何と言っていますか? 「知恵ある者は悟れ。」と言っています。そう、皆さんは知恵がありますか? 統一教会は実に変な所です。それにもかかわらず、普通の人たちは、このことを知らないでいます。真に妙で、面白いです。我々は今まで悪口をたくさん言われました。我々統一教会は排斥を受けて来ました。ひどい迫害を受けて来ました。しかし、消え去りはしませんでした。
 私は監獄に入って行って打たれ、血を吐き、倒れる時も、父の前に心配をかける祈りをしませんでした。「父よ! 私は、昔の預言者たちと同じではありません」と。このように心の中で強く決意しながら、私は難しい時には一言の祈祷もしませんでした。「神よ、私を救ってください。」と、つまらなく、男らしくない祈祷はしません。私は、天のための祈祷以外はしません。
 私は、神が愛されることを幼い時からよく知っていました。囚人の身になって苦労するときにも、天は私に期待をかけており、私に希望をおいて見ていたのに、失望し、泣き顔になって、「私を助けてください。」と言って、男らしくもなく祈祷をすることができますか? 日帝時代(植民地時代)には日本人たちから追われ、その後に、共産党から追われ、また、民主世界でも追われ、次には、全世界に訪ね求めて行って追われても、「打て! 追い出してみろ!」と、このような役をするのです。
 力の強い人が勝利を収めるのです。「お前たちは、一世紀、二世紀の権勢を持つかも知れない。しかし、私は千世紀、否、全歴史を賭けて闘っている。」と、このようにしているのです。すべての人たちは、統一教会が亡びると思っていました。ところが、「亡びないかなあ」と眺めているけれども、我々は絶対に亡びません。私の首を切ってしまったとしても亡びません。ついには、歴史の上に勝利の旗を打ち立てるのです。

 揺るぎなき確信

 私は最近になって昼寝を少しします。四十年生涯にわたって、昼寝を知らずに過して来ましたが、最近になって初めて、少し眠ります。昔は、疲れても「闘いがまだ終わっていないのにどうして眠れようか。」と、精誠を尽くし、忠誠を尽くしました。この世界に数多くの人類と数多くの信仰者がいますが、その中でも一番目に行く人にならなければと思いました。語ることのできない心情を感じながら、父の胸の中に六千年の恨みをかけて打ち込まれた、最後の釘を抜いてさしあげなければならないと固く決意をしました。
 この前、霊妙なる霊通者たちが「韓国は、主様が来られる国である。」と語りました。しかし、どのようにして来られるのか、ということは知らないでいます。それならば、そんなことを言って何になりますか? 韓国がどうだ、こうだと言っても、それを知らなければ何になりますか! 万一、彼らがそのまま霊界に行くなら、どのようになるか皆さんは分かりますか? 問題が大きいというのです。彼らの舌が言うに言えない恥ずかしめを受けるのです。
 とにかく、どこかの角からひょっこり出て来て、また何か証すると言います。このような面白さがあるために、今まで来たのです。我々は、悪口を言われながらも面白くやって来ました。ところが、この頃は迫害がなくて面白みがありません。
 その頃には、平均早朝四時前、あるいは、二時前には眠ったことがありませんでした。平均睡眠時間は二時間でした。そのように生活しました。このようにして七年間、天のために精誠を尽くしました。
 眠ることができず、食べ物を食べることができず、着ることもできず、迫害され、追い回され、そして打たれながら生きて来ました。ある時にはじゃがいも二個を持って過ごしました。見る人が涙を流すのを見るとき、むしろ私はもの悲しい見物をしました。統一教会のこの先生は、言うことのできない、もの悲しい人間博覧会の見物をたくさんしました。
 ところで、ある人たちは、「統一教会に来て苦労が多い。」と言います。誰がついて来るようにと言いましたか? 何かを何回も分け与えて来いと言ったから来たのでしょうか? 自分が来たくて来たのでしょう?
 そのような時が私は好きです。皆さんもその時が好きでしょう? 私は今、血を吐いて床の上に五本の指の印をおして置きたいです。この手は、昔誰かと争って大きな傷ができた手です。その時に私は、最後の勝利に導く方が父だという事実をよく知っていました。私は、「父は私を生かしてくださり、また、希望をかけてくださる方であるということを知っております。私の行く道において、死を何千回も覚悟していますから、心配なさらないでください。」と、心の中で祈祷したのです。一方、お腹が空いて、追われているときでも、「御飯をください。」と願われればあげたのです。今でも、御飯を与えたその時のことがとても記憶に新しいです。その時に既成教会の牧師何人かにもあげた記憶があります。
 私は、監獄にいる時に、口を開かずとも弟子たちをたくさん育てました。このような何かがあるために、たとえ天地が崩れ落ちるとしても、何の感情もわきません。しかし、天に向かっては、勝利の道程を過ぎて、勝利の天国に入って行く自信があります。私は、このような覚悟をもって出発したのです。だから、統一教会の文先生から去って行く人がいません。自慢ではありません。事実です。そう信じられないならば、四十日断食して祈祷してごらんなさい。事実かどうか? それが分からないなら、反対する資格がありません。
 そのために、統一教会は、眠っている中で目覚めて活動する世界を知っています。これらの人たちは、私の手紙一枚があるならヨーロッパでも世界のどこにでも行くことのできる道が開かれています。

 統一教会の偉大さ

 穀物の熟す時が近くなれば、台風がよく吹きます。台風が吹いて来る理由を、私はよく知っています。熟していないものは皆、黒くなって倒れてしまうというのです。
 統一教会には原理法度を中心とした蕩減路程があるために、原理というのは許しがないのです。たとえ、おじいさんであってもその公式を外れることができません。数多くの義人たちが出て来ても、その公式はどうすることもできません。一に二を加えれば幾つですか? 三であるというのは、公理の法度に定められているために、それを全部修正しようとするならば、歴史的なすべてを、学問的な全体をひっくり返すようなことになります。
 今日、我々統一教会が偉大であるというのは何でしょうか? 人間が神を捜し求めて行く復帰路程において、公式的な順序を経て行かなければならないという、その手続順序を合わせることができるからです。その手続順序に関しては、死んで行った昔の先祖たちもそうであったし、今の私もそうであるし、我々の後孫たちもそうです。その公式は許しがありません。許しのない法が、皆さんが分かってみると、全く道理に合うというのです。だから統一教会は恐ろしいというのです。
 韓国社会においては、朴長老、羅長老、何長老と、すべて大衆たちに宣伝しながら現れています。しかし、我々統一教会は、(そのようにして)現れなくてもよいというのです。悪口を言っていた人たちが後悔する時が必ず来るのです。
 この頃、パゴダ公園(註・ソウル市内にあってその昔、一九一九年三月一日、ここで独立宣言書が朗読され、独立運動が全国に広がって行った。)で伝道して回っている人たちに、「統一教会の文先生は、背が大きいか、小さいか、年は若いか、二十代の青年であるか。」と尋ねるという話を聞きました。全く面白いことだと思います。
 誰が、どれだけ聖書のみ言葉をもって来たと言っても、統一教会には及ばないのです。神の人格を中心とすることにおいても、統一教会でなければならないのです。神の心情を教えるにあたっても、統一教会でなければなりません。
 一方、忠臣烈女の道理を教えてくれる歴史の理念と、時代的、社会的なすべての風習の基準は、どこまでも天倫を通じなければなりません。「このようにしなければならない。」と是正し教えてくれた、いかなる過去の教えよりも、千万倍も価値のある天倫を通じなければならないというのです。
 従って、眼をしっかりと開けた人は、「乗り越えて来るな。」と言っても、統一教会に向かって、争って乗り越えて来るというのです。だから、統一教会に入って来れば、こん棒でたたいても出て行かないというのです。

 完全否定の立場

 皆さん! 万物の日が出て来る時までにどのような路程を経たのか御存知ですか。この世界からあの世界へ逃れなければならないのです。それでは、この世界とは何なのでしょうか? この世界は堕落圏内であるために、そのままでは本来の目的とした世界に行けないので、そこから逃れなければならないのです。全部逃れなければならないのです。それにはどうすればよいのでしょうか? 接ぎ木をしなければなりません。「あなたがたは野生のオリーブであり、私は真のオリーブである。私は葡萄の木であり、あなたがたはその枝である。」と、イエス様は語りました。それで、接ぎ木しようとすればオリーブの木を切らなければなりませんか? オリーブの木を切るために、イエスを殺したのです。このように大変なことになるとは知らずに、その時はそれでよかったと騒々しいのです。自分たちが切り損ねて、血を流したのです。逆に皆さんを切らなければなりません。脚を逆に持って切らなければなりません。木を切るには、根本を切らなければならないのですから。人は、足首を切らなければならないのではありませんか!
 切ればどのようになりますか? 死ななければ復活できません。それで、審判の命令に耐え忍ぶことができないため、そこに現れて来たのが宗教だというのです。
 それでは、天は我々人類歴史を通じて、どのような審判をしようとなさるのでしょうか? 一〇〇パーセント、完全審判をしようとなさるというのです。
 それゆえに、堕落したこの世で生まれたすべてのものを追い出してしまいたいのが、天の心なのです。何の話か分かりますか?
 きょうまで習ってきた何々主義、何々教育という、そのすべての思想を全部捨てろというのです。拒否する道がなく、完全否定しなければなりません。サタンを九十八パーセントまで否定したとしても、二パーセントは残っているでしょう? 二パーセントが残っているならば、その二パーセントが問題です。完全否定しなければなりません。“イスラエル”という名前は、完全否定から出発したのです。
 そのために、人間的な希望の道とは正反対です。ノアがそうでした。一二〇年間をかけて老人が、河辺で舟を造らずに、山の頂上で舟を造りました。また、アブラハムには自分の故郷を去るようにさせたし、ラバンの家でまじめに生活しているヤコブを呼んで、「今まで楽しく生活していた家庭も親戚も皆退けて、旅の風呂敷を包み、それで何カ国かの国境を往来しなさい。」と言ったのでした。
 心情生活において、最後のもの悲しい場が、否定の場に出て行くことです。このような中で、神はアブラハムに、「息子イサクを献祭しなさい。」と言ったのでした。信じられますか?
 モーセを御覧なさい。イスラエル民族を救うためにパロの宮中に送る時、途中で神が現れて刃物で切り殺そうとしたのです。自分が否定しなければ、天が否定させてサタンを分立させる、このような天理の公道があり、このような法度があるため、完全否定をして出て来るのが宗教だというのです。そのような観点から見るとき、宗教は否定から出発するのです。
 「誰よりも私を愛しなさい。」これがイエスの愛です。「愛せよ。」これは、統一教会の愛ではなくて、イエスの愛です。その後にはどのように語りましたか? 「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」と言いました。「わたしよりもむすこや娘を愛するものは、私にふさわしくない。」(マタイ十・三七)と言いました。そして、「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい。」(マタイ十六・二四)と語りました。
 自分の十字架とは何でしょうか? 父が成功したとしても、息子がその道を易々と越えて行くことはできません。免罪することは許されません。それで完全否定なのです。堕落した人間には恨みが残っています。それで、審判が展開されるのです。それでは、どこまで否定するのでしょうか?
 今までの歴史のあらましは、人倫道徳の基準を中心としたものでした。しかし、人倫道徳を中心として創造された文化世界の背景を踏み越えた上に立ち、天宙を中心とした新しい文化の世界を創造して行かなければなりません。そうするためには、人情プラス天情ではできません。完全な人情否定の基準から、完全な天情基準に到達するために、高次的な宗教であるほど、もっと完全否定を強調するのです。
 そうして、「汝の父母を捨てよ。妻を捨てよ、子供が怨讐である。」と言いながら、「天の夫婦を迎えて応待せよ。天の父母を迎えて応待せよ。神を汝の父として侍り、イエスを汝の新郎として侍って、新しい家庭の編成をなせ。」と言うのです。完全否定をしなければ、そこに向かって出発することができません。サタンが入って来て、サタンが残っているならばいけません。神は、サタンへの未練を完全に切ってしまって初めて、新しい出発をなさるために、人情を塗り潰してしまい、天情基準を立てなければなりません。このような天の摂理であるために、高次的な宗教であるほど、すべての自体内に全体を抱くことのできる鍵があります。
 サタンを誰より以上に排除して、天のみを完全に捜し求めて侍ること、これをはっきりと明らかにできない宗教は偽物です。統一教会に来るようになれば、統一教会の文先生が家庭を破壊させようとしましたか? 自分たちがそのようにしたのでしょう?
 堕落人間は、いずれ一度はこの峠を越えて行かなければならないのです。そうして、偽りの家庭を自分が否定できなければ、天が否定する場に立たせるというのです。それで、天が願うその時を準備させるために、宗教はそのような立場にあるというのです。時が至って、自分自ら否定できないとき、天が否定させることのできる場に立たせて、誰が否定させるのか? サタンが否定させるのです。サタンが否定させるようになれば、この人たちは、今までの信仰で闘わなければなりません。信仰というのは闘わなければなりません。宗教というのは、生活的な宗教に転換しなければなりません。今日、我々が考えているその人格基準は、天国のものではありません。学識が豊かで、大学教授になり、総長になり、大統領になるとしても、天では認められないのです。
 サタンは、人格面において、この天地を蹂躙し、この世界を蹂躙し、神を六千年間も苦しめて来たのです。それらは、天理法度の原則から天の前に怨讐です。この僕の僕として、今まで歴史を蹂躙してきた歴史的な怨讐であり、時代的怨讐であり、未来的な怨讐です。この怨讐サタンを屈服させて、天の前に孝子になることのできるその基準を備えた人格者、その人格者が正しくイエスなのです。それ故に、サタンもイエスを怖がるのです。サタンも屈服させられたのです。

 本郷の地と心情の世界

 今日、我々は家庭を中心として天道の基準を編成しています。心情的な基準が全部家庭であるために、イエスも家庭を中心として働かなければならなかったのです。そのために、新郎と新婦の名前で、イエスがこの地上で結婚しなければなりませんでした。
 このような話をすると、統一教会は異端ではないか、と考えるかも知れません。しかし、死んでごらんなさい。そうすれば、本当か嘘かはっきり知ることができるのです。
 神が愛することのできる息子・娘として、天の主管下で結婚させ、新郎・新婦の名前を備えて、新しい天地と共に、神を中心とした直系の子女が現れるならば、その後孫はどこに行くのか? 今日、イスラエルの二千年間流離孤客(りゅうりこきゃく)した道を復帰するというのです。心情一体の人間が出て来なければならないというのです。
 それ故に、キリスト教は他とは違って、精神的なものになるのです。キリスト教であるならば、心情世界の骨髄を備えたものです。神を私の父としましたが、主を新郎・新婦としました。天情を基準とし、天倫の法度に向かって、新しい世界を創建していくに当たって、核心的な単位が家庭なのです。それで、家庭を中心とした新しい父母の基準と、新しい夫婦の基準と、新しい子女の基準を教えてくれるのです。このように我々には、天情を中心とした代表的な基準があるために、世界的な宗教が反対してはならないという結論が出て来るのです。それでは、皆さんが新郎になられたイエス様に会ったならば、何をしようとしますか?
 アダム・エバは、天の基準を中心とした新郎新婦になれませんでした。それ故に、神の前で、新郎新婦としての内容を完全に備えて、一つの生活圏内にいてこそ孝子、忠臣、孝女になれるのです。人間はこれができなくて溜め息をつき、嘆くのです。
 アダムとエバは、天地の法度を代身した二人の夫婦になって、「汝は、私の肉の肉である。」と言うことができ、また、天の前で息子の中の息子であり、孝子の中の孝子であり、忠臣の中の忠臣であり、万国を代身し、家庭を代表して天的なすべての基準を立てることができる、そのような資格者になれなかったのです。それを蕩減復帰するために、イエスは新郎の因縁をもって現れなければならないのです。
 新郎・新婦を基準とするということは、何の意味でしょうか? 「子羊の宴」が何であるか分かりますか? 六千年前、堕落せずに迎えなければならなかった真の父母が、行く所もなく逃げたので、六千年前に成し遂げなければならなかった真の父母を復帰して、人類の所願を回復するというのが正しくそれ(子羊の宴)なのです。これが神の摂理です。
 複雑な、天宙的なことを処理するにあたって、そのすべての細部組織を構想することのできる、そのような群れに、我々はならなければなりません。それで、色々な民族と教派を代身して、皆さんはすべてのことをたくさん見ておかなければなりません。一番最後に残るのが、統一教会であるのです。
 遠くない将来に、人類は統一の世界を成し遂げて、永遠無窮なる安心の福地として安着することができるようになるのです。
 それではその根拠地がどこなのでしょうか? それが、「心情の世界」だというのです。心情の世界において、父は、子供がなければ生きられず、妻は、夫がなければ生きられません。今後来たるべき世界は、真実なる世界です。今後、宿命的に勝利することができ、最終的に勝利することができるのは、どこまでも心情なのです。心情を革命させて、天道の基準を立てることのできる、新しい歴史観を中心とした世界観、人生観を創建することのできる、その主義が出て来なければなりません。それが心情的な人生観、心情的な世界観と宇宙観であるのです。これが歴史の期待するところだというのです。

 真理審判時代

 それで、このような基準が出て来て、終わりの日の審判をするようになるのです。それでは、統一教会では何を言っているのでしょうか? 一番目は、真理審判です。真理から出て来た者は信仰で救いを得るのでなく、真理の合格者にならなければなりません。
 本来、神は、み言葉を通してすべてのものを造りました。み言葉としての真理が完全でなくては、その実体が完全であり得ないので、真理が不完全であっては、実体も不完全にならざるを得ません。信仰基準も完全な真理に立脚せずしては、完全な人格を構成することができません。神と天地が願う、一つのその真理が出て来なければなりません。そのために、真理審判の時が来るのです。
 歴史は何を捜し求めて来たのでしょうか? 人格者を捜し求めて来ました。人を捜し求めて来る場合には、更に何を捜し求めて来なければならないのでしょうか? 民族を中心として、信仰と子女の過程を通じて来ながら、真理を捜し求めて来る世界は今日まで発展して来ました。今や人間たちは、行く所がなく、絶望に塞がれてしまいました。しかし、最後の是非の判定を決めなければならないので、これではいけないというのです。ここから、真理に満ちた新しい天地に入って行くことのできる、真理の開放運動が展開されなければなりません。
 そのために、ただ一つしかない生命の道においては、失望と絶望にぶつかったそのような環境を越えて、再び第二次生命路程に導くことのできる基準に至らなければなりません。それで、今まで歴史は、何主義、何主義と言いながら、真理を捜し求めて来たのです。完全な真理が出て来る時、世界は完全に統一されるのです。
 しかし、真理を通じて出て立つことよりも、もっと重要なことは、人格であり、その次には心情です。我々は心情を通して歴史的な神を知らなければなりません。
 創造時代における神の心情と、堕落した以後の心情がどのようなものであり、歴史過程を経て来ながら、どのような心情をもってこられたのか、その歴史的な神の心情を知らなければなりません。
 その次には、時代的な神の願いが何であり、神の心情がどうであるかをよく知って、未来的な神の心情を知らなければなりません。神は永遠なる存在であられ、過去、現在、未来を通して、その生命線を現実的な舞台において、今まで摂理して来られた方であったので、その方の心情は、歴史的な心情を慰労することができるものであり、時代的な心情を慰労し、未来の心情の前に温柔であることを我々が悟ることができてこそ、神が認めることができるというのです。
 一方、終わりの日になれば、偽物たちがたくさん出て来ます。堕落した世界にあっては、偽物が先に出て来て、本物になるものは多くありません。そのため、本物が今まで軽蔑を受けながら来たのでした。
 この頃は、少しでも霊界に接してみた人は、「主様が韓国に来る。」と、皆そのように言っています。それでは、どのようにして来るのか? そして、それをどのように知るのか?
 それは、とても簡単です。息子も知らないし、天使も知らないし、父だけが御存知のことです。それでは、父だけが御存知で息子は知らないから、息子は、相続を受ける資格がないという結論が出て来ませんか? その田圃(たんぼ)がどこにあり、その畑がどこにあるのか、それを知らずには、どのように相続を受けることができますか?

 神の心情と接ぎ木する生命の因縁

 新しい光明なる天地の前に、新しい子孫として来るのが統一教会です。それで、真理審判時代が来るのです。けれども、真理に立脚した言葉だけではいけません。言葉だけで絞り取る人が多いけれども、統一教会の文先生はそうではありません。私は、労働もしただけでなく、色々な仕事をしてみました。夜に仕事をして、昼に眠ってみたし、かわいそうな人たちのもの悲しい事情の前で痛哭してみたし、そのような心情の世界と因縁を結んで、今まで闘って来たのです。
 そのような準備を整えた後に、真実に満ちた指導者の良心に呵責があってはいけないのです。私がいる故に、天がいるのです。
 地方巡回をする時、我々統一教会の食口たちが、悲惨な立場で生活するのを見るようになります。それで、天の前にこのように言いました。「父よ、彼らと共になさってくださいますように。私がこのような環境を経て来るとき、あなたは私と共になさったし、私が天を代身して、そのような立場に立ったときに、『私がいる。汝が行く道が残っている』と喩して勧められた天の因縁があるではありませんか!」
 悲惨なるその立場が、悲惨にのみ終るのではありません。悲惨なる立場において、善を中心として勝利の凱歌を歌うことのできる、その姿で現れようとするならば、悪なる世界を根本的に審判することのできる天の王子が決定されなければなりません。
 いかなる風浪が吹いて来ても、台風が吹いて来る怒涛の前に押し出さなければならない先生の立場を、皆さんはよく分からなければなりません。私が神を愛し、神が私を愛しているから、すべてのものを捨ててでも、天の実績をつかんで訴える立場に立つというのです。私は、二番目に行く人間は嫌いです。
 私は、そのような集権的な決定をもって、すべてのことを越えて行き始めたのでした。それゆえに、それと同じ事情と心情の因縁をもって、「父よ!」と言うときには天を痛哭させたのです。そして、天は、私につかまって勧告し、痛哭なさったのです。今もそのような事実が、生々しい記憶となって思い出されます。
 追われ、追い払われる監獄の生活――囚人の身になって、鉄格子の中に閉じ込められ、涙ぐむ環境においても、天は私と共におられ、私が申し上げなくとも天は役事なさり、私に弟子たちを送ってくださいました。
 そのために、再度神様に侍りたいという思いで、千辛万苦御旨に対する自分の思いのすべてを捧げて、天の前に一片丹心の忠孝の道理を果たすために身もだえしているのです。このように、私は孤独な道にあっても、天の前に忠誠を尽くすという心を持っております。天が、このような忠誠の心を私に教えてくれた恩に報いることを忘れられずにいます。その後に溢れる感動の心を、今も禁ずることができません。
 誰かが私の前に現れて、このような曲折と、このような悲しみをもって語るならば、最初の一言で痛哭することのできる、そのような事情と因縁の中に、私は今も深く入り込んでいるのです。
 この世に預言者たちも多く、また霊界に行っている数多くの預言者たちもいるけれども、このような事実は分からないでいるのです。このような事実は、亡びるようにするためのものではなくて、貴く、最も大きいものを与えるためのものなのです。
 私は韓国で何かになろうという考えはありません。私が死ぬ時まで行き、私が生きている限り責任を果たすことができる、その日が成し遂げられることを願う、それ以外に何がありますか? 嫌だと言っても、もたらされるがゆえに、願わざる仕事をしていることを皆さんは知らなければなりません。
 私が、言うことのできない死の谷間を眺めて、今まで皆さんたちの前に強調したことは何でしたか? 我々は、三千万民族が良い生活をするために、津々浦々、至る所で痛哭することのできる場を作らなければなりません。そうしないで避けて行くことはできないのです。
 既成教会のすべての信徒たちが、皆さんの前で胸を打ちながら、天地をかき抱いて痛哭することのできる、そのような心情を通じなくしては、心情の因縁を結ぶことができないのです。
 イエス様がゴルゴダを前にして、最後の命運を賭けて「わが父よ、もしできることでしたらどうかこの杯を私から過ぎ去らせてください。」と祈祷されたことから見てもそれを知ることができます。
 天は、ここでこのような心情を知って、心情の切実さをもって慰労するのです。父が願われたその心情まで知って、天を代身し、一方また、イエスのその心をもって、今日の聖職者たちは天の仕事をしなければならないのです。全体に責任を負って、最後の残りの心情の審判過程を経て、歴史的な天をとらえて、過去の歴史として残されて来た因縁を現代において、その悲しい天の姿を私の部屋に導き侍って、悲しかった父の心を慰労して、喜ばしい栄光を眺め見る孝子の仕事をする私自身にならなければなりません。
 しかし、失望し、嘆息する立場に立ったのが、今までの歴史だったという事情を、統一教会の食口たちは知らなければなりません。我々は天に侍って民族を越え、世界を越え、万民と共に、更に進んでは、天宙の全権を代身して、父の恨みをとらえて慰労してさしあげようとし、勝利の一日として父の代わりに祝福してあげたいと言うことのできる、そのような息子・娘の事情と因縁は、どこにあるのかと身もだえすることを知る、そのような人になってこそ、残れる群れになるというのです。
 とがって、角ばっている環境の苦難、逆境がぶつかって来るにもかかわらず、そこで「私だけ残りました。」と、訴えることのできる、そのような心情的な絆から、初めて天との生命の因縁を結ぶことができるのです。このような心情が因縁になったならば、どれだけ暴風が吹いて来るとしても、その生命力を持った心情の絆を踏みつけて破壊することはできないのです。
 そして、春三月の良い季節が来るようになれば、生命の種は新しい天地に向かって、新しい力をもって発展します。これが天地の道理なのです。今日、統一教会の食口たちは、暴風雨が吹いて来る秋の季節を過ごし、氷が固く凍る冬の季節を過ごし、楽しむことのできる春の日を迎えうる時代に入って来ています。
 ところで、一つ皆さんが持たなければならないものは何でしょうか? 生命の種を充分に持って、そこに神の心情と接ぎ木する因縁を持ってこそ、皆さんは亡びません。それで、統一教会が良いというのです。

 イエス様の本来の目的

 そうであろうとするならば、歴史的な同席者になって、死んでいったイエスのその心情を仰ぎ見る天が、三時間も暗くなって、天が顔を背けたというその基準まで、その心情の背後に入って行って、父の背けた顔を見て、これではいけないと祈祷することのできるイエスの代身の息子にならなければなりません。死んだイエスではなくて、死なずに天を慰労することのできるそのような日々のために生きなければなりません。
 今まで、数多くの先祖が血の滲んだ歴史路程を経ながら、死の道の前で、「おお! 父よ……」と言って叫び、生命を捨てて行った伝統的な因縁をかき抱いて、過去の悲しかったその歴史的な預言者や鮮烈たちを慰労することができなければなりません。
 一方、彼らがそのような道を歩む時に、天はどれだけか切なかったし、それに対する曲折がどれだけ多かったかというその心情までかき抱いて、「父よ、彼らの恨みを私を見て解いてくださいまして、その時悲しかった心を今、きょうこのように活動する私を見て、喜んでくださいませ。」と言うことができなければなりません。そして、現代の環境を開拓して、天の前に忠孝の道理を代身して現れることができる、そのような群れが必要なのです。
 それにもかかわらず、「私が天国に行く。」と言うことができますか? 我々は、天国へ行くのだ目的ではなくて、天国に送ってくれる天の前に、なさなければならない人間の道理として、忠誠を尽くし、悲しい天の歴史が人間によって負債を負ったので、その父を慰労してさしあげるのです。このようなことが人間の責任であるにもかかわらず、「天国に送ってくれ」と言って、天国に入ることができると思いますか? 我々は、地上で、天の前に忠孝の道理を誇って、天国をこの地上で味わって行かなければなりません。

 父母の日、子女の日、万物の日

 総結論として、それでは万物はどのようになるのでしょうか?
 万物の日は、真実に満ちた真の父母が現れる前には、迎えることができません。人類の真の父母が来なければなりません。これが統一教会で教えてくれる法なのです。
 イエス様はどのような方なのでしょうか? この地上に新郎過程を経て新婦を迎え、人類の父母として現れることがイエスの目的でした。それを知らなければなりません。新郎・新婦が目的だったのではありません。
 パウロは、「迫害や飢饉や危険やそのいかなるものであっても、キリストの愛の中にある神から切り離すことはできない。」と言いました。しかし、キリストの愛からは切り離されうるのです。その理由は、まだ父の前に夫婦が整えられて忠孝を尽くしえない、そのような立場にいるからです。ここには距離があります。忠孝の過程を経てこそ、初めて息子に至ることができるのです。
 そのために、イエスも、天が願いの基準とした息子の目的を完成できずに行ったのです。歴史路程において、終末時代には何が来なければならないのでしょうか? 堕落しなかった父母が現れなければなりません。この父母は、堕落圏内に留まっていない父母であるため、サタンが侵犯しようにも、侵犯することができない不可侵圏内に立つというのです。
 その世界が、どれだけ悪い群れの中に処しているとしても、この怨讐の世界とは因縁を結ぶことができないというのです。どこであっても、この真の父母と、サタンが占領することはできないのです。それ故、歴史は血の出る夜の街を過ぎ、午前零時を過ぎて、早朝の未明に向かって新しい光明の太陽を迎えるためのものであるということができます。
 それでは、それは何を意味するのでしょうか? 人類の太陽というのは、即「父母」を意味するのです。この父母が出て来る前には、本郷の地が出てくることはできません。
 人類の本郷の地! 皆さんには故郷がありますか? 堕落した父母の血統の因縁をもって成されたのが故郷ではありません。この故郷は、踏みつけて無くさなければならない故郷です。従って、自分の父母があるとしても、真実に満ちた良心と本心を持った人においては、父母を否定し、社会環境を否定し、良心が私の欲望を屈服させるということを皆さんは知らなければなりません。それが目的地にならなければなりません。
 神を中心とした父母を捜し求めて、本来の故郷を捜し求めて行くのですが、そのためには、父母が現れて、父母を中心とした兄弟が出て来なければなりません。
 皆さん、我々統一教会の食口たちは、世界に類の無いこのような日々を作定しました。統一教会で記念する四大名節は、我々大韓民国で守る歴史的などんな名節にも負けません。
 人類が一番願うのは何の日ですか? 父母の日を迎えることです。人間が堕落して、父母の日を失ってしまったので、復帰の中でも一番大きいものが何かといえば、父母の日を迎えることなのです。
 その次には、天の願いを中心として、父母に侍る立場に入って行かなければ、子女になることができないという事実を、皆さんは知らなければなりません。父母の日が完全に蕩減復帰された後には、子女の日がなければなりません。
 そして、真実に満ちた父母と、真実に満ちた子女の因縁を中心としてこれが決定された後には、万物の日が出て来なければならないのです。皆さんの中には、きょうここに初めて来た人がいるかも知れませんが、万物の日というのは何のことですか?
 エデンの園で、アダムとエバが堕落することによって播かれたものは、その息子のカインとアベルによって解決がつけられなければならなかったのです。しかし、それが解決されなかったために、父母復帰が必要になったのです。
 従って、天宙史的な父母復帰の基台を中心として、これが復帰されることによって、その父母の前に忠孝の道理を果たすことのできる子女の基準を復帰することができるようになり、この基準が決定されてこそ、初めて万物の日を迎えることができるのです。このような事情を皆さんが知らなければなりません。今日、この地上に拡がり、散らばっているものは、至極(しごく)かわいそうな人々だけです。

 人間の堕落と祭物の悲しみ

 神の希望の中で造られた万物だったのです。六日間に万物を造られるために、天はすべての精力を傾けたのでした。そのような万物であるにもかかわらず、この万物を真実愛することを知る人がいなかったのです。このように人間が堕落したので、必然的に祭物過程を経なければなりません。人を捕えて献祭することができなかったために、万物を祭物に定めて、今まで犠牲的な祭物として、万物を捧げて来たのです。
 それ故に、万物として捧げられるその祭物も悲しいものでした。それと共に、神の愛する息子・娘がこの地上で多くの血を流していきました。それが、何世紀にもわたって歴史路程の摂理を動かしたという事実を考えるとき、その背後には、人類が否定することのできない天の悲しい事情が、心の奥深くに染み込んでいるということを知らなければなりません。
 その歴史を正すために、数多くの歴代の聖賢烈士たちが血を流す、血の祭壇を引き継いで来ました。そのために、この地は、本来の創造の因縁を中心としては、想像することもできなかったのです。また、考えてはならないし、見てもならない、もの悲しい歴史の逆境を歩んで来たということを、皆さんは知らなければなりません。
 犠牲の立場を免れることができなかったのです。それも、一度犠牲になって人間を救い、幸福になってくれることのできるそのような一日を待ち焦がれたのが事実だったのです。それにもかかわらず、天の責任を背負って来た、この地上の数多くの預言者や先烈たちは、あちこちで血の涙を流して倒れてしまったではありませんか?我々は、深刻に考えなければなりません。今日、三千里半島に皆さんが対する度ごとに、この地上で、真実に満ちた天の聖徒がこの民族を救うために、この民を生かすために、天を代表して来た人たちが血を吐き、死に、血の汗を流しながら、祭物、あるいは囚人の身となって追われる道を行くという、悽惨な運命の道を行った人たちが、無数にいたということを皆さんは知らなければなりません。
 天が愛する息子・娘たちが血と涙と死の峠を行かなければならないというこの悲しい事情――。それが堕落しなかったならば、このようなことがなかったのに、堕落したため、今日、この天地にはそのような形態が展開されるようになったのです。そのようなことが、一日も早くなくならなければなりません。
 天国のために、霊的なイスラエルを創建して来た宗教人たちにおいては、神に侍って生きることができる土地がまだ一つもありませんでした。永遠に住むことができる土地があり、家があるけれども、神が、「永遠なる私の土地であり、私の家である。」と言うことのできるものはまだなかったのです。神は放浪者でした。ここで追われ、あそこで追われながら避難していかなければならない、流浪の民であることを免れることのできなかった天の一族があったのです。
 そういうわけで、悪主権の前に苦しめられながら、善主権の一日を追慕するのに六千年間、その日が来るのを両手を合わせながら、もの悲しい血の汗の祭壇が積まれて来ました。そのような歴史を通して、善主権の本郷の地を捜し求めて来る宗教人の故に、善の背後にあるもの悲しさと死が渦巻いてきたことを、皆さんはよく理解することができるのです。
 この歴史的な恨みを一時代に収拾して、預言者たちを立てておいて、「あなたたちの恨みを、この怨讐たちを処断することによって解いてくださいませ。」と言いながら、責任を負うことのできる天の王者と、天の精誠を育てて来るのが、神の願いであるということを、はっきりと知らなければなりません。
 それで、私は父にこのように祈祷したことがあります。「一生の苦労は、私に残らず過ぎて行くものであるけれども、私の一生の一片丹心と、あなたに対する赤々と燃えるような情熱だけは残るようにしてくださいませ。そのためには、死の道も苦労することも意に介しません。」
 我々は、一氏族を従え、一民族と国家を中心としてもくろみ、億千万世に天が捜し求めて来られた安息の国家的基台、あるいは、氏族的基台、家庭的基台と個人的な基台を天の前に捧げることのできる、そのような何かを持たなければならないというのです。
 こうして我々は、今まで個人復帰の基準を捜し求めると同時に、天が許すことのできる万物復帰の基台を復帰して来たのです。七年路程において四年路程と三年路程を経て、息子・娘たちが真の父母の日と真の子女の日を立てて、万物の日を作定してから、既に四年になります。このような日々を、今まで大韓民国の人たちは知らずにいます。また三十億人類も知らないでいるけれども、世界万民が追慕することのできる歴史的な一日であることを皆さんは知らなければなりません。
 皆さんが死んで、他に自慢するものがなくても、この場に訪ね求めて来て、万物の日に参席し、文先生のみ言葉を聞いたということは、自慢せざるを得ないなつの絶対的な条件になるのです。
 天地が開かれた初めの因縁を、一つの理念の前に統一しなければなりません。神の心情と永遠のために家庭を統一し、その家庭を中心として、伝統的な新しい歴史時代の父母と子女の因縁を中心として、新しい祖先の立場で新しい決定の場を定めて、越えて行かなければなりません。統一教会では、このような目的のために合同結婚式をして来たのです。

 天の選民権を守る聖地の決定

 一方、我々は聖地を選んで、我々が祈祷することのできる地を定めておきました。追い払われ、追い出されて祈祷することのできる地がなくて、祈祷しようにも、行く所がなかったのです。それで、天の前に行って訴えることのできる聖地を選び定めたことは、歴史的、世界的な一つの勝利的な旗であるということを皆さんは知らなければなりません。
 このような基準を通じて祈祷する我々を経て、新しい聖地の拡大因縁を経て、四十カ国に一二〇カ所の聖地を選び定めるために、先般私は世界を巡訪したのですが、他の人たちは、このような事情を知らないのです。色々な国に聖地を選び定めて、そこから石と土を持って本国に戻って来なければならなかったのです。このようなことは、過去の歴史にないことでした。
 それでは、このようなことをなぜしたのでしょうか?天地の運勢に拍子を合わせる一つの摂理のプログラムとして、四十カ国を中心として一二〇カ所の聖地が、天の選民圏を守護することのできる一つの地になるためです。また、この地を人々が守ることができないとしても、霊界の霊人たちは、ここに旗を立てて、闘うことのできる基台を創建して、その民族復帰運動の闘いをすることができる起点を立てるためのものでした。このようにして、天地の運勢と共に、運命を結合して現れる最後の時代圏内に入って来ているということを、我々は明確に見ているのです。
 統一教会が出て来たのは、死ぬ前に、このような世界から、愛されうる孝子烈女の因縁を通じて父の前に出て行く道を開いておこうというところにあります。

 迫害を通じて基盤を形成

 我々が講義をするとき、聞くのは良いと言います。しかし、彼らは統一教会を怨讐視して来ました。我々に反対する者たちは滅亡するのです。私も、感情的には誰にも負けない復讐心が強い人の一人です。しかし、腰が砕けた虎と同じ立場にあるのです。だからと言って、統一教会の恨みが解かれないのではありません。
 我々は、心深くに潜んでいる神の天倫と共に、恨みを解き、世界的な復帰の一日に関して訴える問題を解決するための闘いの過程を経て来ているということを、明確に知らなければなりません。父母や妻子が問題ではありません。私は父も母も全部排斥してしまったのです。妻子までも排斥して、私には友達も親戚もありません。
 皆さんに会うためです。神が貴いという息子・娘と神の忠臣・烈女たちがこの地の上に祭物になって、堕落した世界を救わなければならない天の摂理があるために、自分の直系圏内にある人たちを立てて、犠牲の祭物をさせたのが天の作戦の原則であることを知ったのです。
 それで、父母を排斥し、兄弟が訪ねて来るのを会わずに、逃げ回ったのです。そうでなければ、イエスを愛することのできる神の心情に至れなかったからです。自分の近くにいる者を、そのまま愛することができないのが復帰歴史の運命でした。それで、近い人を踏みつけて犠牲にして、数多くの人類を生かさなければならないこのような御旨が残っているために、私の父母にも靴一つ買って上げられませんでした。思えば、私は親不孝者です。
 父母の前に親不孝するとしても、天の前に親不孝する立場に立ってはならないと身もだえしながら来ました。私はそのような決心をもって出て来たために、その決意が成就されない限り、その日までは、私は安息することができないという心をもっています。
 そうして、統一教会は追われ、追われる場で根を下ろし、世界的な基盤を磨きました。私が一番重大に考えることはこの世界の統一です。統一教会の食口たちを愛するのは、ここで会って互いに好きになり、恵みを与えることよりも、この世界を復帰するために責任を負い、闘うことのできる一つの勇士を作るためなのです。それが一番の目的です。闘って勝つことのできる天の勇士になれなくて、どうして天の前に忠誠を尽くす孝子・孝女になることができますか! それ故に、未だ人々が忠臣・烈女の立場に行けないのは、堕落した世界の運命であったということを明らかにして、今は避けることのできない立場で、皆さんを打って追いやらなければなりません。
 自分の愛する弟子たちを十字架の道に追い出す師がどこにいますか? 送り出しておいては、痛哭しなければならず、彼らが私を見て涙を流すのを見るときには、胸が痛んで耐えることができないのです。あの人たちは、自分の父母から追い出され、兄弟からも追い出されて出て来ました。それ故に、追い出された身になりました。だからといって、すぐさま実績が現れるのでもありませんから、何年かは忍びなさい。痛哭したいけれども、その胸を抑えて閉ざさざるを得ない天の心情があるのです。

 新しい再臨時代の出発

 こうして、すべての人類は復帰の道を経なければならず、父母の日を定め、子女の日を定め、そして、この日に対しているのです。この喜ばしい日を迎えることによって、世界は新しい運勢圏を経て行っているのです。歴史的に見るときに、イエスの十字架を中心として右側の強盗とバラバがイエスを見たのと同じく、今日の世界は、終末時代の形態に近付いて来たために、必ず天的な立場で収穫されるのです。
 それで、民主と共産の右、左というのは、イエス様を中心とした、十字架の上の右側の強盗と左側の強盗を象徴するのです。左側の強盗は、「神はどこにいるのか。」という立場です。イエスのこのような事情をめぐって人類の新しい歴史が出発したために、その歴史は深刻なものにならざるを得ないのです。右側の強盗と左側の強盗が、「神がいる、いない。」と言い争う中において、バラバと同じ立場が回教圏なのです。我々はここで、十字架にかかって死んだイエスが復活する時代が、回り回って来るということを知らなければなりません。
 それ故に、アラブ圏統一時代が回って来ます。アラブ圏統一時代を経て、共産主義と民主主義が連合紛争時代を経て、越えて来るというのです。
 その次に、死んだイエスが復活することのできる再臨時代が来ます。天宙主義、新しい時代が出発することのできる時に入って来るというのです。この主義が統一主義なのです。赤十字架の血を流した悲しい場を踏んで、白十字架の勝利の旗を持って来るのです。
 色々な苦難と最高の悲しみがあるとしても、歴史を創造することのできる勝利の旗を持って発展しているのが、今日の統一教会なのです。我々の中において、血を流し汗を流して、死の道で身もだえした人たちは、この後千秋に、永遠に輝くことのできる歴史創造の貴重な人たちなのです。共産主義や民主主義が問題になりません。アラブ圏が問題になりません。統一主権を捜し求めて行くためには、それを創建する同志が必要なのですが、これが統一教会の人たちなのです。
 私は、韓国の全域を巡回しながら、「私が行く歩みの前に、心情が流れ、また流れの根幹となれるようにしてください。」と訴えたことが多かったです。
 世界の歴史的なすべての面をもって現れる国家がなければなりません。それで、私は、八月十五日(註・第二次大戦修了。韓国にとっての解放の日)を期して、「父よ! この日に、あなたが愛する子女がおりますか? 私をして、それを記憶するようになさり給わらんことを。」と祈祷を捧げたのです。天のために忠孝の道理を立てるという希望の因縁をもって、死の道を自ら願う、そのような場にあっても、天を慰労することのできる使命を持って皆さんは統一教会に集って来ました。
 皆さんが見るに、統一教会は全くもの悲しいでしょう? 今、私はすぐさま何千万ウォンの教会を建てようと思えば建てることができます。しかし、それが問題ではありません。三千万民族の精誠を集めて建てることのできる、そのような教会を慕う心があるために、まだこの問題を解決できないでいるのです。
 完全否定から完全創建に至る、そのような国のためにし、兄弟姉妹のためにし、万物の日のために、私はこのような基準の前に立って、万物との真実に満ちた因縁を結ぼうとするのです。そして、また真実に満ちた子女として、真実に満ちた兄となり、弟となって活動することのできる、そのような因縁を結びたいのです。カインとアベルの闘いが起って、この歴史を破壊したために、そのような立場にある人たちがかえって和合し、一つの兄弟的な因縁を結ぶことによって、韓国はもちろん、世界人類はこの希望圏に復帰されうるのです。このようなことを宇宙出発の起点として、祭物的な条件として提起することのできる日がまさしく万物の日です。このような使命をもう一度決意するために、我々はこの日を記念するのです。
 きょうは、たくさんの食口たちが教会に集って来ました。昔と同じそのような熱心さをもってこの地を捜し求め、この場で精誠を尽くせないことが恨みになるのです。
 我々がすることを、他の人々は何をしているのかよく理解できません。五、六年が過ぎ、十年ほど過ぎてこそ、何をしているのか初めて分かるようになります。とんでもないことをするようであるけれども、過ぎて見れば、皆分かるようになります。仙和児童舞踊団だけ見てもそうです。既成教会でどれほど反対しましたか? しかし、帰国後のソウル公演と釜山、大邱、大田の公演の時は、互いに見物しようとして窓ガラスが割れたりするほどの爆発的な歓迎を受けました。

 養子の基準を越えて

 今では我々は、目も復帰し、口も復帰しなければなりません。耳の再創造、目の再創造、口の再創造を過ぎて、目の統一、耳の統一、口の統一、鼻まで統一して、心情統一、行動統一をしなければなりません。神の僕である天使長が我々を蹂躙して、その僕になったのですから、我々は僕の基準を抜け出さなければならないのです。
 主人の息子・娘の小間使いだけをする僕の位置を離れて、養子の立場に出て行かなければなりません。しかし、僕の僕になる以前には、養子の立場に行けません。
 父の前で祝福を受けることのできる復帰の因縁を許可されるためには、僕として忠誠を尽くしたという条件を立てなければなりません。養子は相続を受けることはできますが、血族を代身することはできません。養子の基準を越えて立つためには、直系の息子・娘と接ぎ木しなければならないのです。それで、イエス様は、この地上において接ぎ木をしてくれるための“真のオリーブの木”として来られたのです。
 そのように接ぎ木できる仕事をして、世界的な代表の立場の十二弟子を選んで兄弟の因縁の基準に立て、この兄弟の因縁を中心として、完全に神側の世界の囲いになって、サタンの都城(とじょう)を侵犯することのできる力を養成する兄弟にならなければなりません。終わりの日のイエス様は、その兄弟を中心として、父母の立場に上がって行くのが目的でした。
 父母の立場に上がって、息子・娘を再祝福して天の前に立てるならば、イスラエルの天国が始まるというのです。これが摂理の歴史です。
 それでは、今日は、時代的に見てどのような時なのでしょうか? 世界は既に第三イスラエルを迎えております。ところが、イエスを中心としたその時代の無念さがあるために、霊的な第二イスラエルを担当していた今日の既成教会が統一教会を迫害して来たのです。イスラエルが反対して死の道を余儀なくされてから、再び復活してイエスの基準を復帰したのと同じく、統一教会がキリスト教界から追われ、追い出されて、言うに言えない苦労と死の道を経た後に復帰して、国家、世界的な基準の歴史時代を出発したのが、統一教会から見た歴史観なのです。
 それでは、皆さんはどこにいますか? 僕の僕の立場にいるのか? 僕の立場にいるのか? 養子の立場にいるのか? それとも息子の立場に出て行こうとしているのでしょうか? そうでなければ、いかなる祝福家庭の立場にあって、天の祖先の立場に上がって行くのでしょうか? 皆さんは、どのような段階にいるのかということを確実に分からなければなりません。そして、個人と家庭と氏族と国家と世界の基準を完全に征服することができてこそ、万民の目的を達成することができるということを知らなければなりません。
 このような目的のために、我々がもう一度固く決意して、新しい世界に向かって走らなければなりません。世界的な、そして天宙的な残された責任を成就するために闘い行くことを、皆さんがもう一度決意しなければなりません。
 皆さんの誓いと共に、全世界に拡がっているすべての食口たちが、この問題をもって祈祷しているということを肝に銘じて、きょうこの日を感謝する心で迎えてくださることをお願い致します。



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.04.24 20:10:05
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