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2021.10.21
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​​​​​​​​​​​​​​​第31回「真の神の日」午前零時の御言
「復帰の完成のための心情を尋ね求めて」

1980年1月1日


 堕落したという概念を忘れずに

 きょう、満三十周年の「真の神の日」を迎えました。年数では、三十一回です。このような日に、皆さんが南米ウルグアイの海辺に来て、このような雨に打たれるのは、摂理上で見るとき、大きな意義があります。今後、統一教会の教会員は、水を中心とした地域にいかに早く基盤を築くかということが問題です。将来、数世紀過ぎれば、すべての人が「統一教会の人は、相当に先見の明があって、このような基盤を築いた」と言う時が来ます。雨は、天と地に橋を架けるものです。それゆえ、天地が分かれていたのが一つになり、陸と海が一つになり、天下が一つの地球星となって動くように、これを連結させる水は、この陸地を連結させる代表です。水は、すべてと和合する一体的な統一の自然界を迎えることができるということを、深く感謝するようにお願いします。一九九八年の元旦において、このような自然の環境を感謝します。一度、言ってみてください。(「感謝します」)。感謝します、(「感謝します」)。感謝します、(「感謝します」)

 きょうお話しするのは、「復帰の完成のための心情を尋ね求めて」という内容です。復帰摂理の完成は、心情、愛の世界を尋ね求めて行かなければなりません。堕落したので、復帰という言葉が生まれました。復帰の目的は、心情の世界を尋ね求めていくことです。その心情の世界は、堕落前の世界です。
 それゆえに、堕落した結果がどれくらい途方もないものであり、人類歴史とこの宇宙に大きな損傷を負わせたのかという事実を、皆さんは知らなければなりません。「堕落」は、過ぎ去った言葉ではありません。これは歴史的な言葉です。今日、この地上で堕落した後孫は、無知の真ん中にいるのです。人間は堕落した後孫なので、このことを知らなかったのです。

 けれども、神様を第一とする霊界に行っているすべての人々は、堕落の結果によって自分たちがとどまっている所が天国ではなく、中間霊界と地獄にいるという事実をすべて知っているのです。それゆえ、この結果をもたらした人類の始祖が過ったものを、根本的に解決するためのものが救援摂理の始まりなので、救援摂理は復帰摂理なのです。復帰は、ただ帰っていくことはできません。蕩減復帰です。一度、言ってみてください。蕩減復帰。(「蕩減復帰」)。蕩減復帰。(「蕩減復帰」)。蕩減復帰。(「蕩減復帰」)。蕩減復帰を強調する際に、「堕落した」という概念を忘れてしまってはなりません。堕落したので、蕩減復帰が強調されるのです。

 しかし、今日の一般の人たちは、堕落したという概念が分かりません。今日の統一教会の教会員や宗教を信じる人も、ひたすら自分が信じている信仰の道に従っていけば、救われて天国の神様の前に行くことができると考えますが、それは間違いです。蕩減復帰ということを知らずにいるのです。落ちた所から上がっていくためには、落ちた距離と同じくらいの橋を架けるとか、縄を結ぶとかしなくては、上がっていく道がないのです。そのまま飛び上がっていくことはできないのです。それゆえ、救援摂理は復帰摂理であり、復帰摂理は蕩減を通して行くということを、皆さんは知らなければなりません。

 人間が生きるに当たって、罪を犯すというのは堕落した道を行くことです。堕落したのと同じです。罪を犯し、刑務所に行くようになれば、ただそのままでは許されないのです。刑務所で服役という過程を経て、犯した罪を取り消すのです。それをすべて埋めてしまったという条件を立てずしては、釈放されないのです。これが蕩減法です。私たち人類の生活、歴史路程において、蕩減というものを中心として善悪が分かれ、不幸と幸福が分かれ、福を受ける道と罰を受ける道が分かれます。世の中も同じです。それと同じく神様の復帰摂理も、堕落したので蕩減しなければならないということを知らなければなりません。

 悲しみの神様、苦痛の神様

 皆さんは、堕落の道を行きます。毎日のように堕落の道を経ていくのです。人間が堕落したので、復帰摂理的路程を歩まれる神様が、「悲しみの神様」になられました。のみならず、「苦痛の神様」になられたのです。悲しみと苦痛の神様だけではないのです。神様が苦痛を受けられて、悲しみはそこで終わるのではありません。神様が願われる貴いものをすべて失ってしまったのです。すべてを失ってしまったものを再び取り戻そうとするので、苦痛を受けなければならず、悲しい道を行かざるを得ません。神様が、いちばん貴いものを失ってしまったのです。神様と人間が父子の関係で、愛を中心として一体理想を築こうとしたその関係があったのですが、人類の先祖が堕落することによって、神様の一体理想、愛の理想を求めることができなくなったのです。これを再び取り戻すみ業をするためには、ただそのまま蕩減復帰していくことはできないのです。堕落することによって、故障したのと同じようになっているので、復帰摂理は蕩減の路程を行ったとしても、神様が訪ねてくることのできる愛の理想を取り戻すことはできないということを知らなければなりません。完成品を願ったものが、中間で堕落することによって故障したので、再び部品図を通して再創造過程、新しくつくる過程を経て、完全な心情の世界、愛の理想の世界を再び取り戻そうとする立場に立つのです。神様は、愛の対象を失ってしまったものを取り戻すために、受難と苦痛の道を歩んでこられたということを知らなければなりません。

 その神様がどのようなかたなのかといえば、父であり愛の主体です。そして、自分の家庭においての父であり、氏族においての父であり、国においての父にならなければならず、世界において父にならなければならず、さらに天地の父になることのできるおかたなのです。そのようなおかたが、主体であられる神様であり、神様の愛の対象としてつくられたのが人間始祖でした。この始祖が堕落することによって、神様は当然、愛の対象を失われたので悲しまれ、これを取り戻すためには、苦痛の道を行かざるを得ないということを皆さんは知らなければなりません。

 さて、このような観点から見るとき、その苦痛の道がどのように現れたのでしょうか? 再創造の過程を中心とした再創造の公式、再創造のあらゆる形態がどのようになったのかというのです。神様は、環境をまず創造されました。太陽をつくり、その次には水をつくり、空気をつくり、土をつくられたのです。この四つがなければ、生物が存続できる土台がありません。それゆえに、太陽が絶対必要であり、水が絶対必要であり、空気が絶対必要であり、その次には何が必要でしょうか? 土がなければなりません。この土は、私たち人間が持っている体と同じです。この体には、土にあるすべての要素があるのです。すべての要素が全部細分化されて、元素的なものが結合して、私たちの体をつくりあげたという事実を知らなければなりません。体はそれ自体において、神様の内的な性相形態と相対的関係を備えているのです。その相対的関係の主体的立場に立たれた神様が縦的に臨まれ、アダム・エバが完成して横的に臨むことにより、神様と人間は、縦横の九〇度を中心とした中央線で出会うようになるのです。このとき、中央で出会うのですが、神様がアダム・エバをつくられて、すぐに心情の因縁を結ぶことはできません。子女として愛することのできる過程を経る原則があります。そして、子女時代を経て成長して祝福を受けるのです。結婚することのできる立場まで行って初めて、神様の性相と形状が、アダムとエバの心に入って個体の完成が成されるのです。個体が完成するようになれば、男性も女性も別れて行くことはできないのです。

 赤ちゃんの時から男性と女性は、違う方向に育っていきます。徐々に個体の完成が始まるのです。後には、女性は女性の行くべき道、男性は男性の道をただそのまま成長していくことはできません。男性と女性は、必然的に出会うようになっています。それゆえ、成熟期になれば、男性の目も女性の目もお互いが向かい合って見るようになっており、目を合わせ、鼻を合わせ、心を合わせ、耳を合わせ、手を合わせ、その次口を合わせて愛が築かれていくのです。それはすべて皆さんが知っていることです。
 それゆえ、この愛の基準を中心として接触するためには、男性と女性が大きくなってどこに行って一つになればよいのかということです。出発したその基準から左側に、自分勝手に行くのではありません。
 垂直の立場、父母が生むとき出発したその基準の垂直の立場で連結されるのです。二十歳になったならば、二十歳まで父母の愛を代わりに引き継ぐことのできる、第二次的な段階の基準が、垂直を通して連結されなければならないのです。そうすれば、このアダム・エバの息子・娘も同じです。また、その父母を中心として垂直に向かって連結され、これは千年万年たったとしても、垂直は直線、垂直にならなければならないのです。

 私たちを見れば、私たちの心と体もアベル・カインと同じです。プラス・マイナスから成っているのです。神様は被造世界のあらゆる環境を創造する太陽と水と空気と土をつくられたのですが、そこには何があるでしょうか? 必ず主体と対象があります。これは公式です。鉱物世界にもプラス・マイナスがあり、植物世界にもプラス・マイナスがあり、動物世界にもプラス・マイナスがあり、人間世界にもプラス・マイナスがあるのです。この環境圏内は、全部が主体と対象によって存続する、というのが公式です。この公式がなぜ、このように生まれたのでしょうか? 何を中心として一つになるための公式でしょうか? これが分からなければなりません。鉱物世界も愛を中心として一つになるために、プラス・マイナスになっているのです。

 今、この現象(雨が降る現象)が起こるのも、そうではないでしょうか。陽電気、陰電気がキスをする音が雷の音であり、世の中で起こるすべてのものを酔わせるのが稲光です。愛し合って、「ああ、うれしい」と言いながら、あらゆることが起こるのです。それが自然の結婚式であるということを考えてください。自然の結婚式をした愛の水をもらって飲むのが、きょうの祝賀の場なので、雨が降っても悪くはありません。

 接ぎ木の標本がメシヤ

 さて、今から話をよく聞かなければなりません。

 では、救援摂理を神様が始めた目的は何でしょうか? 神様がアダム・エバに結婚式をしてあげられなかったのは、人間始祖が堕落したからです。アダム・エバに結婚式をしてから、神様はアダム・エバを追い出したのでしょうか、結婚式ができずに追い出したのでしょうか?、(「できずに追い出しました」)。神様がアダム・エバを追い出されたとき、息子・娘がいましたか、いませんでしたか?、(「いませんでした」)。アダム・エバは、どのようにして子女を生むようになったのでしょうか? 神様が結婚式をしてあげて生んだのでしょうか? 自分勝手にサタンの地獄圏内で結婚式をしたのでしょうか? サタンを中心として結婚したので、サタンの血統を受けるようになったのです。アダム・エバの結婚式は、神様の結婚式です。このことを知りませんでした。これが宇宙の秘密です。宇宙の根本を探してみると、宇宙の根本の出発基地が何かといえば、神様の愛を中心として人間と一つになった愛で、内的・外的に結婚式をするその立場なのです。

 ところが、アダム・エバは追い出されて、そのような結婚をしたのでしょうか、できなかったのでしょうか?、(「できませんでした」)。これは重要な話です。結婚したのですか、できなかったのですか?、(「できませんでした」)。間違いなくできませんでした。ですから、神様の愛の理想は成し遂げられなかったのです。神様を中心に結婚したならば、神様がアダムの心の中に入られてアダムと一つになったのです。そうして、アダムの心が神様の心になるのです。そのようにして、心と体が一つになることによって、アダムの体が神様の体になるのです。

 愛は一体を成します。それゆえ、父子一身です。愛を中心として一体です。夫婦一身、兄弟一身です。東洋思想も、兄弟一身ということは分からないのです。上下関係は父子関係、左右関係は夫婦関係、前後関係は兄弟関係です。なぜ一身なのかといえば、アダム家庭を中心としては、アダム・エバのふたりしかいません。アダム・エバを裂くことができますか? 蹂躙することはできません。永遠に裂くことはできません。このことを知らなければならないのです。

 堕落せずに赤ん坊として生まれて、兄弟として暮らしながら育つ目的は何でしょうか? 一つになることです。何を中心としてでしょうか? 愛を中心としてです。兄弟として育ったアダム・エバは何をするのでしょうか? 結婚しなければならないのです。そのとき、アダムはどのような立場でしょうか? アダムは兄であり、エバは妹です。一つの血統で結ばれているのです。木の枝は裂くことはできません。裂く日には、死んだ枝にならなければならないのです。神様に追い出されたというのは、裂かれたからです。死んだ枝になってしまったのです。死んだ木と同じようになったのです。

 愛は生命まで支配する力があります。そうですか、そうではありませんか?、(「そうです」)。愛の道を妨げれば、ふたりが綱を結んで漢江の橋から投身自殺することは問題ないのです。死までも恐れない、生命を左右し得る力を愛は持っているのです。堕落した愛でさえもそのような力があるのに、堕落せずに神様と一つになった愛の力を持っていれば、今日の人類世界は、このようにはならないのです。これは、だれと一つになったのかといえば、天使長と一つになったのです。天使長は僕です。神様は主人です。天使長は永遠に僕ですが、神様は家系の主人であると同時に、国の主人であり、天地の主人になられるのです。それゆえ、心と体が一つになって、アダム・エバが結婚式をしたならば、アダム・エバの血統が神様の血統になるのです。それゆえ、そのような本然的基準で考えるとき、神様に対して「父」と呼ぶことができるということを、既成教会の信徒はもちろん、宗教者たちも分からないのです。父子の関係は、血統が連結されなければならないのです。アーメンです。(「アーメン」)

 さて、「アーメン」と言ったのですが、神様と血統が連結されましたか? されていませんか?(「されていません」)。血統が連結されていないので、血統が連結されているという条件を持とうとすれば、接ぎ木しなければなりません。野生のオリブを切って真のオリブに接ぎ木すれば、野生のオリブになりますか、真のオリブになりますか? 真のオリブを求めていこうとするので、接ぎ木せずしては帰る道がありません。この地上に接ぎ木として送られるそのおかたがだれかといえば、聖書に記されている旧約時代に約束したメシヤです。真のオリブ・接ぎ木の標本として送られるのがメシヤです。

 キリスト教徒は、新婦になると言います。新郎新婦になって、何をしようというのでしょうか? 血統を連結させるみ業をするのが、新郎新婦です。何を中心としてでしょうか? 真の愛を中心としてです。
 ここにいる女性たちは、そのような真の愛を中心として、血統を連結させた自分になったでしょうか?
そのようになっていなければ、地獄に行かなければならないのです。堕落してだれの血統を持ったのでしょうか? サタンの血統です。善悪を知る木の果を取って食べて、そのようになったのでしょうか? このような根拠を知らず、結果を知らないので、地獄に行くのか天国に行くのか分からないのです。終末に混沌となって、「家庭がどこにあり、父母がどこにおり、兄弟がどこにおり、国がどこにあり、神様がどこにいるのか」と言いながら、すべてを無視しているのです。

 それでは、神様の恨みが何でしょうか? 苦痛が何でしょうか? 愛するふたりが婚約をして、結婚の日を待っている二、三日前に、怨讐に愛する恋人を奪われてしまったのです。男性であれ、女性であれ、奪われてしまったことが、気持ちがいいでしょうか、悪いでしょうか? 苦痛が大きいでしょうか、どうでしょうか? 痛哭が始まるのです。それは、父親が死んだことよりも、母親が死んだことよりも、兄や姉、弟や妹が死んだことよりも、もっと悲痛なのです。そのようなことが分かりますか? 分かりませんか?、(「分かります」)

 神様の愛の道を再び取り戻すための受難の道、苦痛の道が、救援摂理の道であるということを知らなければなりません。そのような神様が、栄光の中で裁判長になって、悪なる人を地獄に送り、善なる人を天国に送る考えなどする暇があるでしょうか? 息子・娘を求めて立ち上がるのです。将来、自分の理想の夫婦を築くことのできる道を訪ねていくのです。その路程で、ほかのことを考えられるでしょうか? ほかのことは考えられないのです。

 キリスト教を中心とした終着的な結論は、新郎新婦の理念です。来られる主は新郎であり、地上の人間は全部、新婦にならなければなりません。新婦というものは、新郎によって真の愛と一つになった血統を連結させなければならないのです。血統を連結するために、新郎新婦になるのではありませんか? 正しいですか、正しくないですか?(「正しいです」)。血統を連結させるための新郎新婦として訪ねてくる、終末の中心的な存在が再臨主です。

 再臨主は、何をするために来られるのでしょうか? 「小羊の婚宴」をするために来られるのです。「小羊の婚宴」とは、何でしょうか? 神様とともに、エデンの園で家庭を築き、神様の血統を引き継いで真の神様と真の父母を中心として、真なる神様の血族という子女の名前を持つことです。そのようにしなければならないはずなのに、これを失ってしまったのです。父母がいないので、真なる子女がいないのです。そして、この地上に真なる家庭がなく、真なる氏族、真なる国家、真なる世界がなく、悪魔が主管する世界になってしまいました。これが堕落した世界です。

​ 愛の相対は優れていることを願う​

 ここはウルグアイですが、男性と女性について見るとき、どちらが主体ですか? 今日のアメリカの女性たちは、「女性が主体」と言うのです。どちらが主体ですか? 男性が主体ですか、女性が主体ですか?、(「男性です」)。男性です。なぜ、男性が主体なのでしょうか?

 男性がどのような姿ですか? 男性は全部、凹を持っていますか、凸を持っていますか? 凹凸を話せば、変な考えをするかもしれませんが、これが根本問題です。このことが分からなくては、天地の調和が分かりません。理想であれ、何であれ、すべて分かりません。男性は天を象徴し、女性は地を象徴するのです。それでは、凸というものは何をするものですか? 女性は凹なので、凸と凹は一つになるためのものです。男性と女性が一つになるのは、天地が合わさることです。男性、女性が結婚するのは、天地が一致することです。一つの体になることです。

 男性が主体ですか、女性が主体ですか?(「男性です」)。女性が主体です、(「男性です」)。女性が主体です(「男性です」)。本当ですか?(「はい」)。これは不可避なことです。なぜ、男性が主体なのでしょうか? 男性は、神様に似ています。それゆえ、神様が軸ならば、男性と神様とは上下関係です。男性は、なぜ主体なのかといえば、愛を持ってくるからです。愛の種を植えるために来るのです。女性がお嫁に行くとき、「なぜ、お嫁に行くのか?」と尋ねれば、「愛を受けに行きます」と言うのです。何の愛でしょうか? 神様を代身した愛です。神様の愛です。神様の愛を受けに行くのです。それゆえ、女性はいつも愛する対象が、自分よりも何百倍、何千倍、何億万倍、素晴らしくてもいいと考えるのです。それはなぜ、そうなのでしょうか? 愛の相手は神様です。人間の何千倍、宇宙を動かす大主人である、そのおかたに相対するために人間が生まれたので、愛の相対は自分よりも優れていることを願うのです。

 では、神様はどのように考えられるのでしょうか? 神様も、自分の愛の相対は神様よりも劣っていることを願いますか、優れていることを願いますか?、(「優れていることを願います」)。動機がそうなので、結果がそうなのです。それゆえ、私たち人間と同じく神様も、神様の愛の対象が自分よりも素晴らしいことを願われるのですが、その素晴らしい愛の対象はだれでしょうか? それは、人間です。アダム・エバです。愛は独りで成り立ちません。

 神様は、縦的な主人です。縦的なものは、横に行くことはできません。垂直というものは、上下に動くのであって、絶対、横的には動きません。必ず、上下に動くのです。神様を地で横的に展開したものが、アダムの創造です。アダムは何かといえば、天の本性をそのごとくに展開したものです。展開したものを一つにすれば、神様になるのです。分かりましたか? 神様のプラス・マイナスが展開するのです。一つになろうとするとき、マイナスだけではやってこないのです。プラス、マイナスが中心で合わさって一つにならなければなりません。一つになれば、それが核になるのです。核というのは縦横が結集するのです。生命の種になるのです。愛を中心として父親、母親の血と肉が結集された中で核としてとどまる生命の種が、赤ん坊として生まれるのです。

 このような話を、なぜするのでしょうか? 創造本然の話をするのではないですか? 皆さん全部が、自分の相対は自分よりも優れた人を探すのです。成長して、世界の各国で男性、女性を探して、「ああ、好きだ」と言うのです。好きだと言うのは、何をもって好きなのですか? 目で見るのです。目を合わせます。この目は、神様を象徴するものです。あらゆる動物は、生まれる際に目が先にできます。目を合わすことのできる愛の主人は、神様であるということを知らずにいるのです。「目を合わせる」という言葉がありますが、見かけが良くなければならないのです。目を合わせれば、その次に言葉を交わし、その次には、手を合わせるのです。手が好きになるのです。

 女性は、愛する人が触ってくれることを願いますか、触ってくれないことを願いますか? 触ってくれることを願うのです。目、鼻、口、耳、手は、それぞれ自体のために生まれたのではないのです。全部が相対的関係です。それゆえ、互いにこのような相対的関係を考えることのできる立場に立つので、女性は男性の相対として生まれたのです。男性は女性の相対として生まれたのです。それゆえ、根本を求めていけば、男性は女性のために生まれ、女性は男性のために生まれたのです。自分のために生まれたのではありません。

 エデンの園は愛の博物館

 それゆえ、人生哲学での根本問題が男性と女性の問題です。女性が女性として生まれたことを、なぜ嘆くのでしょうか? 堕落した元凶となっているので嘆くのです。女性が堕落したということです。ですから、蕩減の受難の道を逃れることはできません。人類が解放されるときまで、女性は苦労しなければならないのです。このようなことをすべて知らなければなりません。世の中の世情をよく知っていて初めて、どこに行くにせよ、偏らずに自分が行くべき道を堂々と行くことができるのです。上下関係、左右関係、前後関係をすべて備えていれば、問題ないのです。これが、数でいえば七数です。七数は完成数です。

 皆さん、夫がハンサムであることを願い、妻が美人であることを願いますか、願いませんか?(「願います」)。顔かたちが整っているというのは、何を通して見る「観」なのかといえば、愛を通して見る「観」なのです。それはどのようなことかといえば、優れた人と愚かな人が夫婦になって、幸せに暮らす人たちがいるということです。ある見方をすれば、「あんな美男子があのような醜女とどうして一緒に暮らすのか? ああ、あのようなふたりなのに、夫婦同士、幸せに暮らしている」ということを知ってみれば、「あなたは顔かたちの整った美男子なのに、そのような劣った女性を連れて暮らしますか」と尋ねれば……。(聞き取り不能)「その男性は、父親に似ている」というのです。また、「私を愛していた叔父さんに似ている」、また、「私を愛するお兄さんに似ている。弟に似ている」というのです。それゆえ、初めて会っても嫌ではありません。

 人間が出会って好きになるためには、どれくらい長い時間がかかるでしょうか? 恋愛する人たちも、十年かかって結婚する人がいるのです。父親、母親は高い所にいるのですが、父親についていきたく、昼食でも一緒に一度食べたいというのです。それゆえ、自分が愛され、愛していたいちばん親しい親戚の人と似ている人が、だれよりもよく、その人をだれよりも愛するのです。ですから、そこで似合わない男性・女性が結婚することができますか、できませんか?(「できます」)。できません(「できます」)。できません「できます」)。できません(「できます」)

 神様は、結婚式ができなかったのです。神様は、人間を結婚させようとつくられたのです。アダム・エバをつくられて、縦的な道が大きくなれば、それと同じ距離を横的にして、四位基台になるのです。思春期ごろになれば、「ああ、男性だけではだめだ。女性だけではだめだ」と言いながら、女性は男性を、男性は女性を求めていくのです。そのようなことは、動物や昆虫を見て、知ることができるのです。昆虫も雄と雌がいます。うさぎの赤ちゃんも雄・雌があり、鹿の赤ちゃんも雄と雌があり、牛の赤ちゃん、馬の赤ちゃん、全部が雄と雌があって、それらが一つになって赤ちゃんを産むのを見て知ることができるのです。

 エデンの園に展開されているすべてのものが、カップル制度になっています。それを見て、自然とアダムは、「ああ、雄がいるから雌がいるのだなあ。自分も雄のような姿形だが、雌はどこにいるのか」と探してみると、「あ、エバだ」となるのです。また、「雄、雌があのようにすれば、赤ちゃんが生まれるのだなあ」と考えるのです。自分がお嫁に行くのは嫌だけれど、赤ちゃんが好きな女性たちはたくさんいるのです。エデンの園で、動くすべての昆虫も動物も、全部、カップルになって動きます。それを見ると、すべて愛の博物館です。愛を展示した博物館なのですが、いちばん後の人間が博物館の王です。愛の王子を立てて、全世界で、動物や植物全部がその王を中心として喜ぶ際に、拍子を合わせて歌い、踊りを踊ることのできる環境をつくられたのです。その中で神様は見物人にならずに、愛する人を中心として歌い踊る手本となって踊り、歌いたいのです。そのように考えることができます。ちょうやはちたちが飛んできて喜ぶように、神様もアダム・エバを中心として踊りを踊るようになるときには、それは、肩を振りながら踊りを踊る、そのような踊りではありません。はちのようなものを見れば、高い所で踊りを踊ろうとするのです。バレエダンサーが踊り手を高く持ち上げるときは、男性を持ち上げますか、女性を持ち上げますか?、(「女性です」)。男性を持ち上げずに、なぜ、女性を持ち上げるのでしょうか? 女性たちの願いは、神様に出会うことです。神様という高い愛の主体に出会うためのものなので、女性が喜んで、そのようにするのです。

 ところで、怪物の中の怪物が女性です。どんなに容姿は悪く小さな女性でも、男性を怖がる女性を私は見たことがありません。「男性が怖い」と考える女性は、いないのです。小さな女性でもみんな、世の中でいちばん優れている親分の男性を相手にしようとするというのです。ですから、女性の目は、男性を怖がらないではないですか。男性の目は、女性を怖がりますか? 最近、堕落した世の中で女性が狐のようにルージュを塗って、目をぱちぱちしながら、どれくらい男性を誘惑しようとしますか? そのような女性たちを怖がるでしょう? しかし、女性という動物は、男性を怖がりません。その国の王がいれば、王の横に行きたがるのが女性です。そうですか、そうではありませんか?、(「そのとおりです」)

 反対に女王がいれば、男性も行きたいでしょう? 行ってから何をするでしょうか? 握手して、目を合わせ、口を合わせたがるというのです。女性が男性を好きになれば、口を合わせようとするでしょう? 男性も同じです。とにかく、いやが応でも男性と女性は、完全に一つにならなければなりません。完全に一つにならなければ、調和が壊れるのです。幸福とか、自由とか、夢とか、理想などという調和です。独りで幸福でしょうか? 人間は、幸福な場にいれば、自分の妻、自分の夫をそこに連れてこようとするのです。その次には、息子・娘を連れてこようとするのです。

 神様を救う統一教会

 愛の理想とともに暮らしたく思われた神様が、愛の相対を失ってしまいました。その神様は、喜びの神様でしょうか、悲しみの神様でしょうか?(「悲しみの神様です」)。どれくらい悲しいでしょうか? 七代続いた一人息子が、育てている途中で死んでしまうとき、その父親、母親がどれほど悲しいでしょうか? どれほど悲しいかを考えてください。どんなに優れた王、どんなに優れた女王でも、涙を流しながら泣くでしょうか、泣かないでしょうか?、(「泣きます」)。だれでも皆、そのようになっているのです。

 それでは、アダム・エバは神様の何代の一人子ですか? 千万代の一人子です。数千代、数万代の一人息子・一人娘なのです。それを失ってしまわれた神様は、何を考えられるでしょうか? 精神病者になられることもあり、狂人にもなられるおかたでしょうか、それとも、遊んで食べ、踊りを踊り、喜んで楽しむことのできる神様でしょうか? どうですか?(「悲しいです」)。その悲しさも、どこのだれとも比較できません。胸が詰まるにしても、これ以上に、胸が詰まり得ない神様であられるのです。そのことを知らなかったのです。そのような神様であられるということを知らずに、キリスト教やその他の宗教を信じる人が、「神様、福を下さい。福を下さい。福を下さい」と言うのですが、それは泥棒の子供たちです。

 人間の世の中で、ただ一代の苦労にもかかわらず、息子・娘が死んだとか、何がどうした、こうしたと言って、神様の前に「福を下さい。福を下さい」と言っているのです。あまりのことにどうしようもなくなって、おなかまで痛くなるような境地におられる神様から、福までもらおうと祈祷している者を、神様が助けることができるでしょうか、できないでしょうか? むしろ、人間が神様を助けてさしあげなければならないのです。福を受ける前に、「このように悲しく、苦痛な神様 私たち人間が分からなくてこのような状況なので、私が悲しい涙を神様の前に流してあげます」と言えば、神様が感動されるでしょうか、されないでしょうか? 神様が訪ねてこられるでしょうか、訪ねてこられないでしょうか? そのようなことまで成すことができる人間を、この地上で見たことがないのです。

 では、今日の統一教会は、一般の宗教と何が違うのでしょうか? 統一教会では、「泣かれる神様、苦痛を受け、どうしようもない絶望の中におられる神様を救ってあげよう、孝子になろう、孝女になろう、国を代表した王になることのできる神様の前に忠臣になろう、烈女になろう、聖人君子になろう」というのです。「聖子になろう」、ではありません。聖子の息子・娘となって、結婚させて、神様を解放してさしあげようという志を持って生きる宗教団体が、何の宗教だと言いましたか?(「統一教会です」)。

 統一教会は優れた宗教ですか、愚かな宗教ですか?(「優れた宗教です」)。世界が皆、文先生を愚かな人だと考えているではないですか。いちばん悪い人だと言うではないですか。

 神様は、文先生をいちばん嫌がるでしょうか、好まれるでしょうか?、(「好まれます」)。それを知っていますか? 見ましたか? 見ていないのかどうか分かりませんが、することを見れば滅びるようなのに、いつも滅びずに成功してきました。人間が協助するのではなく、人間世界の外にいる別のおかたが協助なさるのです。人間世界は、サタン世界です。サタンが嫌がる人は、神様が愛されるのです。それゆえ、全世界が嫌がるレバレンド・ムーンを、神様はいちばん好まれるのです。それは、道理が合うのです。そのようなときは、「アーメン」と言わなくてはなりません。(「アーメン」)。

 さて、今から問題が大きくなるのです。根こそぎ復帰ですか、順次的な復帰ですか?(「根こそぎ復帰です」)。それを願う人、手を挙げてみてください。根こそぎ復帰です。

 個人主義はすべてを失う

 神様が蕩減役事をして蕩減復帰してこられる、自然な再創造歴史過程を経てくるのですが、再創造の歴史過程は、必ず主体と対象関係なのです。小さな主体と対象が一つになるようになれば、そこにとどまるのではありません。鉱物世界の主体と対象が一つになった後には、植物世界に吸収されなければなりません。植物世界でプラス、マイナスが一つになれば、全部、動物世界に吸収されなければならないのです。この原則を知らなければなりません。一つになったプラス、マイナスの次元が低いものは、より次元が高い、より大きな愛の価値を形成するために、吸収されていくのです。吸収されなければ、もっと大きな愛が現れることができません。それゆえ、植物が動物に吸収されるのです。元素が吸収されるのです。植物は動物が吸収するのです。動物の中に、昆虫がいるでしょう? 昆虫も植物を食べます。また、動物の中では、牛も植物を食べるのです。小さな次元にあるプラス・マイナスの植物は、動物たちが取って食べます。動物も小さなものは、大きなものが取って食べます。分かりましたか? これが原則です。

 ハエのような昆虫も、トンボがよく食べるでしょう? ツバメはトンボを捕って食べます。このようになっています。「順応の道理」を知らなければなりません。循環運動する天地の道理を知らなければなりません。小さな次元のプラス、マイナスになったならば、大きな次元のプラスと一つになり得るものに吸収されていくのです。ですから、微々たる動物から鉱物、植物、動物、小さな昆虫までも全部、大きなものに吸収されて入っていかなければならないのです。ですから、万物の中で人間が最も貴いので、人間はすべて捕って食べるのです。人間が食べられないものがありますか? 虎も捕って食べ、、狼、も捕って食べ、ワニも捕って食べ、蛇も捕って食べ、食べないものはないのです。人はすべて食べることができますか、できませんか?(「できます」)。世界の中で、カップルになったすべてのものを、大きなものであれ、小さなものであれ、すべて捕って食べれば、どのようになりますか? そのようにして、人間たちだけ幸せに暮らすのではありません。捕って食べるその男性、女性は、さらに高いおかたに吸収されなければならないのです。そのおかたが神様です。

 神様に吸収されて、入っていかなければなりません。そのように吸収されるのは、何をするためのものでしょうか? もっと大きな愛を求めていくための橋です。分かりましたか? 何の橋ですか? 上がっていくはしごです。鉱物が、どこを訪ねていきたいのかといえば、自らの発生地です。「神様から出発したので、神様の所に訪ねていこう」となるのです。人もどこを訪ねていくのでしょうか?、「愛から出発したので、神様の愛の場所を訪ねていこう」というのです。それゆえ、神様の愛を訪ねていこうとすれば、自分を犠牲にしなければなりません。もっと大きな目的と大きな人格を築くためには、その環境の難しさを克服し、犠牲の道を行かなければならないのです。自分を投入しない所には、そのようなものが現れません。

 今日の南米の人たちを見れば、みんな遊んで食べようというのです。遊んで食べていれば、だんだんと後退します。自分を中心とした個人主義を主張する者は、だんだんとすべてを失ってしまいます。今日のアメリカのような国や先進国家を見れば、個人主義を主張するので、世界と天地に関心がありません。アメリカ国民にしても、アメリカに関心がありません。アメリカ社会に対しても関心がありません。会社で稼いで食べて暮らしながらも、会社に対して関心がないのです。家庭に入っても、おじいさん、おばあさんに対して関心がありません。父親、母親に対しても関心がありません。男性にしても、女性に関心がありません。女性にしても、男性に関心がありません。全部、必要ないと否定するのです。そのような混乱した結果をもたらして、最後には一人だけ残ります。相対理想を持って生きる人間が、その世界を否定するので、孤独を嘆いて、行く所がなくて死ぬしかないので、自殺してしまうのです。

 プラス・マイナスが一つになれば、より大きな存在に因縁づけられるのです。そのようになるためには、愛を中心として投入しなければなりません。神様がより大きな世界に物を残されるためには、投入してその物をつくられたので、これを再び見いだすためには投入しなければならないのです。

 魚も見れば、すけそうだらのようなものは全部、その子たちを食べます。大きくなる前に、ごくりと丸のみにして食べるのです。小さな魚たちは、子供たちの数がとても多いので鮫のようなものは四匹、五匹しか子供を生みません。虎は、子供を何匹生みますか? 一匹です。そのようなものが多ければほかの種が絶滅するので、多くありません。ライオンも多くありません。虎のようなものも、子供を三匹以上は生みません。子供を生んでからは母親に任せて、雄は逃げだすのです。二年ほどして、子供たちがすっかり大きくなって、独立するようになった後、妻を訪ねてきて、また子供を生むのです。ですから、子供をたくさん生まないのです。

 私たち統一教会の人たちは、子供をたくさん生まなければならないでしょうか? 生んではならないでしょうか?、(「たくさん生まなければなりません」)

 一つになる所に理想がある

 ところで、愛の道を求めて旅する男性、女性たちは苦しいでしょうか、幸福でしょうか?(「幸福です」)。失った自分の相対を捜す道が幸福でしょうか? それは、神様と同じです。神様は愛の相対を失われてしまいましたが、その暮らしが苦しいでしょうか、それを取り戻してくる道が簡単でしょうか、困難でしょうか? どうでしょうか? 困難なのです。安楽によく食べ、幸せに暮らしながら、この世にまたとない一つの愛を見いだそうというのは、狂った者です。一つの愛を見いだすためには、この世の万民のだれよりも困難な道を行かなければならないのです。そのようにして、一つの愛を占有するようになるとき、反対されずに許しを受けて、その愛とともにあることができるのです。それが道理にかなった話です。

 神様の復帰摂理から見るとき、旧約時代は何を意味するのでしょうか? 神様が結婚式をされたかったのに結婚式ができなかったのです。また、アダムとエバの結婚式をしてあげて、人類の真の父母にし、神様がその中に入って、見えない霊的な父と、実体の父が一つになるようにしようとしたのにできなかったという話です。アダムとエバという人類の先祖を、真の愛を中心として結婚させてあげられず、真の愛の主人たる神様が、アダムの心と体と一体となり、愛することができなかったのです。

 では、皆さん自身を見ると、心と体が闘いますか、闘いませんか?(「闘います」)。それを神様が、そのようにしておかれたのでしょうか、自分が自然とそのようになったのでしょうか? これが問題です。神様は原因的存在であられ、人間は結果的存在ですが、結果的存在である人間の心と体が闘い、怨讐になっています。心と体が一つになっていますか? 体がしようということを心はするなといい、心がしようということを体はするなという、この争いです。心と体は、相反しています。

 心と体が一つになれない人は、天国に行くことはできません。神様の前に行くことができません。心と体が分かれたのは、堕落のためなのです。堕落してそのようになったので、心と体が一つになるためには、蕩減の道を行かなければなりません。心と体が分かれたために、世界が分かれ、人類が全部、分かれてしまいました。

 終末には、心と体が分かれ、男性と女性が分かれ、父と母が分かれ、祖父と祖母が分かれ、全部、分かれてしまうのです。そこには神様の理想がありません。争うところには理想がないのです。和合して、一つになるところに理想があるのです。理想は、一つになるところにあります。調和的で、小躍りして一つになるところに、理想があり、幸福があり、自由があり、夢があるのであって、争うところにはすべてがなくなるのです。自分が愛する夫と争ったときは、息子・娘が憎いですか、憎くないですか?、「あの人の子供を生んだ」と考えるのです。、姑、の難くせに腹を立てて、犬の腹を蹴るのです。

 では、皆さんの心の中に、神様が入ってこられて暮らせるでしょうか、暮らせないでしょうか? 現実的問題です。信仰生活や宗教を信じる目的は、神様に侍って暮らすためです。心と体が闘うような人が、神様を迎えて暮らせると考えること自体が、堕落しています。心と体が闘うところに、神様が入ってきて暮らせるなら、その神様も心と体が闘う神様であるということになります。

 神様はどうでしょうか? 神様は心と体が闘うでしょうか、一つになっているでしょうか?(「一つになっています」)。それでは、心と体が闘わない人が求める愛が、行ったり来たりするでしょうか、統一的な愛でしょうか?(「統一的な愛です」)。永遠に一つになっておられる主体の神様が願われる愛は、永遠に一つです。二つではありません。この地上に生きている男性、女性を見れば、愛はそのようになっていません。堕落して、うじ虫のように暮らしているのです。

 体がサタンの根拠地

 それゆえ、旧約時代には、神様がアダムとエバとともに結婚式をすることができなかった恨みがあるのです。ですから、メシヤを送られたのは、アダムとエバとともに結婚式をする日を復帰するためなのです。
 再創造の法度を通して見れば、神様が環境を創造された所には、主体と対象があります。イスラエル民族にも、どのような民族にも主体と対象があります。
 イスラエルの民を見れば、宗教と国家、これが怨讐です。主体と対象が争います。宗教者を迫害し、殺すのは国家がするのですか、個人がするのですか?、(「国家です」)。国家がします。このような国は、サタンの国家です。
 全部、闘いの連続的な歴史の因縁を通して、主権とその基盤を築いたすべての群れは、闘って基盤を搾取したのです。相続した所はないのです。
 ですから、よこしまな世の中であり、滅びた世の中です。滅びた世の中で暮らしているということを、はっきり知らなければならないのです。
 旧約時代には、神様が結婚式をしてあげたかったアダムとエバを、結婚させられませんでした。アダムとエバとともに心と体が一つになり得る一体的立場で、愛を中心として一身となって愛することができなかったのです。それで、神様とアダムとエバは分かれました。
 神様の愛の中心から離れて、彼らは分かれるようになったのです。分かれるようになった原因を見れば、それはエバがアダムを堕落させました。ですから、堕落したアダムはエバが恨めしいのです。「エバのやつが堕落させた」といって、怨讐になっているのです。
 エバがサタンとぐるになって、アダムまで堕落させたのです。そうして、サタンの血統を受け継ぐようになったことを知らなければなりません。
 私たちの血統が生まれたのは、神様の祝福の中で生まれたのではありません。怨讐、サタンの結婚式の下で生まれ、サタンの血統を受けた者の後孫が人類なのです。それにもかかわらず、このことを知らなかったのです。
 ですから、これを片づけなければならない宗教世界は、反対の道を行くのです。「穏やかで謙そんであれ」というのです。「無の境地にまで、自分自身を否定せよ」というのです。
 「犠牲、奉仕せよ」、それから「犠牲、奉仕だけでなく、断食せよ」。断食すれば、体が弱くなります。体がサタン、悪魔の運動場であり、根拠地です。体が一番悪なるサタンの根拠地になったのです。
 世界が怨讐ではありません。皆さん自身の体が、いちばんの悪魔の怨讐であるということを知りませんでした。体を弱めなければ、神様や理想世界は永遠に遠ざかっていくのです。
 今日、統一教会の原理を聞けば、人々は嘆くのです。「まったく、このようになったということを知らなかった」というのです。
 ですから、サタン世界がレバレンド・ムーンの教えを聞けば、全員、考え方が変わるので、「レバレンド・ムーンに会えば洗脳される。目を合わせるな」と言うのです。「レバレンド・ムーンは、洗脳のチャンピオンだ」という話をしているのです。
 サタンの世界が先生をいちばん嫌うのです。個人的に嫌い、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的に、共産世界、民主世界、宗教世界までが嫌う代表者が、レバレンド・ムーンです。ノーメンですか、アーメンですか?、(「アーメン」)
 なぜ、アーメンですか? サタン世界の多くの人たちがいちばん嫌うので、レバレンド・ムーンは神様にいちばん近いというのです。レバレンド・ムーンは、天に行く道を教えるので、悪口を言われるのです。しかし、悪口を言われながら成功した人が、歴史にまたとないレバレンド・ムーンなのです。(「アーメン」)
 そうでしょうか? 私は成功した人ですか、失敗した人ですか?、(「成功しました」)。(「勝利しました」)。どのような勝利ですか? 相撲を取る土俵の上で勝利したのですか? どのような勝利であり、どのような成功ですか?
 個人的な真の愛、家庭的な真の愛、氏族、民族、国家、世界、天地の真の愛、神様の真の愛を失ってしまったものを、収拾して取り戻すことのできる神様の代身者としての権勢を振るうのです。ですから、神様は、文総裁を愛さざるを得ないという結論が出てくるのです。
 皆さん、文総裁を愛しますか?、(「はい」)。愛すると言いながら、全部、奪っていこうとするのです。郭錠煥、私を愛しますか?、(「はい」)。私を利用しようとするではありませんか。
 自分が難しければ文総裁のところに来て、「先生、私を助けてください」と言うのです。全員、目をむいて、商売をしようという連中です。全員、真の愛を泥棒した堕落したアダムとエバの後孫なので、真の愛の主体者がいれば、愛を中心としてむしり取っていこうとするのです。
 皆、「先生を愛する」と言います。先生を本当に愛する人、手を挙げてみてください。もらうためですか、与えるためですか?、(「与えるためです」)。違います 今までもらうためだったのです。
 日本のメンバーは、先生を愛するというその誠意の上に、何かをもらいたいという根性があります。(笑い)それは泥棒の根性です。

 祭物を犠牲にした旧約時代

 旧約時代は、何が必要ですか? メシヤです。四千年間待って、神様はイエス様を送られたのです。メシヤを送るための道案内が、どれほど大変でしょうか? だれでも送れるわけではなく、いつでも送れるわけではありません。
 家庭で失ったので、神様の体面において、サタンに国家基準で勝たなければならないのです。それゆえ、家庭で失敗した神様が家庭で取り戻されれば、サタンの前に威信が立たないので、サタンが国をつくった所に来られて、家庭以上の国を捜されるのです。国を復帰し、その国を中心として、より大きなものを見いだすために投入しなければなりません。
 小さい国を、世界の前に投入すべきなのが創造の原則であり、再創造の原則です。イスラエルの国は、メシヤと一つになって投入しなければなりません。ユダヤ教はアベル、主体の立場であり、イスラエルの国はカイン、対象の立場です。
 ユダヤ教を訪ねてこられたイエス様を中心としてユダヤ教は一つとなり、愛で投入してイスラエルの国を復帰しなければならないのです。
 イスラエルの国が独立して、イエス様と一つになったならば、ローマに投入して、ローマを復帰しなければなりません。
 ローマが怨讐の立場にあるので、「怨讐を愛せよ」という話をしたのです。サタンは、怨讐を愛せば逃げていくのです。自分を愛する個人主義は、自分第一主義であり、「サタンの大王」主義です。
 それで、旧約時代は何を犠牲にしたのかというと、万物です。万物を犠牲にして息子が来ることのできる道を築いてきたのが、旧約時代です。息子がそのままでは行けないので、蕩減法によって吸収させ、犠牲にさせる業をしてきたのです。
 ですから、祭物は全部、二つに割くのです。一方はサタン側、一方は天の側です。これは、人間の心と体が分かれたのと同じことです。一つの心になって、天の前にささげなければなりません。そうしてこそ、祭物が自分の代わりに贖罪の条件になるのです。
 それゆえ、旧約時代には万物を通して祭物を犠牲にし、メシヤを再創造してくるみ業をしたという話です。メシヤが来ることのできる、その基盤を築いてきたのです。そのためには、犠牲にならなければなりません。血を流さなければなりません。投入しなければなりません。
 自分を中心として「もったいない」などと言えば、だめなのです。根こそぎ尊いものをささげなければなりません。血を流すようなことになっても、哀れに思ってはいけません。それを皆、祭司長がほふるのです。
 祭司官がそれを無慈悲にほふり、ささげなければならないのです。そのように血を流して投入することによって、その一つになった心を中心として、祭物をささげ、祭物の役事を通して、息子を捜し出す道を復帰してきたのです。旧約時代は、国家の王になる時まで、万物を犠牲にして息子を指導してきた時代です。
 それから、新約時代は何でしょうか? イエス様を中心として、ユダヤ教とイスラエルの国が一つになっていたならば、イエス様は死にませんでした。イエス様を中心としてユダヤ教とイスラエルの国が一つとなり、イエス様が王になったならば、イエス様は死ななかったのです。主体と対象の関係がないので、ローマの前にイエス様は犠牲になったのです。
 カイン的ローマの前に、王として来られたイエス様が亡くなられるようになったのです。ユダヤ教とイスラエルの国が反対することによって、イエス様はローマの前に亡くなられたのです。ですから、キリスト教は血を流してきたのです。
 万物が祭物となって、子女が生きることのできる国家編成をしていたすべてのものが、イエス様と一つになることができなかったのです。祭物と一つになり得るイエス様を中心として、ユダヤ教とイスラエル国家、アベルとカインが一つになれませんでした。
 主体と対象が一つになって、イエス様の前に吸収されなかったことによって、イエス様が亡くなられたのです。イエス様は、大きな存在です。大きなものの前に投入しなければなりません。投入することのできる環境がないので、イエス様は、ローマの前に犠牲になられたのです。
 本来、東洋から出発しなければならなかったのですが、イエス様が血を流されたので、血を流されたその道に従って、ローマに入っていって、反対に行ったのです。

 過ぎ去った出家と独身生活時代

 歴史以来、宗教の中で殉教の血を流してきたのは、キリスト教しかないと言ってよいのです。ほかの宗教にはありません。ほかの宗教は天使長圏の宗教です。キリスト教は、「息子の宗教」です。キリスト教だけは、来られるメシヤ、救世主のために血を流し、人間の祭物を通して進んできたのです。救世主は何かというと、父母として来られるのです。それを知らなければなりません。
 キリスト教徒が子女の立場で血を流したのは、父母が来ることのできる道を築くためです。キリスト教は、再臨主が来られて、「小羊の婚宴」をして父母となり、天下を分けて兄弟同士争うものを、統一するみ業をしなければなりません。
 ですから、キリスト教が子女の血を流し、父母が来ることのできる時代を準備してきたのです。それが新約時代です。
 では、再臨主はどのようにして来られるのでしょうか? 雲に乗っては来られません。教条的な連中が、「雲に乗ってくる」と言うのです。そのような話をしようとすると、きりがありません。
 地で失ったものは、地で取り戻さなければならないのです。皆さん、金銀財宝を地で失ってしまったとき、それを空中に行って見つけ出せるでしょうか? 失った所に行って、見つけなければならないのです。アダムとエバによって地で失ったものは、地で捜さなければならないのです。
 ですから、再臨主が来られる時まで、キリスト教は血を流します。そうしながら、旧教と新教が分かれたのです。これを統一しなければなりません。これを統一できなければ、世界が統一できません。
 アダム家庭で、エバを中心としてアベルとカインが分かれたのです。兄をサタンがつかんでいるので、復帰は反対に上がっていくために弟を立てて、兄が弟の立場、弟が兄の立場に立つようにしなければなりません。反対の道を行かなければならないのです。
 それゆえ、宗教は出家をしなければなりません。その国を否定し、その血族を否定し、その父母を否定し、自分のあらゆる兄弟を否定し、自分の妻を否定し、息子・娘を否定し、自分の体まで否定しなければならないのです。
 そうしなければ、元へ戻すことができません。否定を強要できる宗教でこそ、これが成されるのです。それゆえ、宗教は出家を命令しなければならないし、「必ず独身生活せよ」というのです。神様が一番嫌われることは、神様を中心とせずに男女が愛する行為です。
 人類の真の父母と神様が、結婚できなかったのだから結婚できないというのです。みんな、このようなことを知らずに暮らしています。
 統一教会はどうですか? 統一教会は何をせよと言いますか?、「還故郷せよ」と言うでしょう?、「出家をしたので、故郷を訪ねるように」と言ったのです。
 「家庭盟誓」第一条を朗読してください。(全員、「家庭盟誓」一節を朗読)どこの地ですか?、(「本郷の地」)。本郷の地。失った本郷を求めて進んでいかなければなりません。本郷を求めて、何をするのですか? 地上天国と天上天国を成さなければなりません。自分が創建しなければなりません。
 罪を犯したので、罪を犯した者が全部、つくらなければなりません。千年万年、億万年かかっても、しなければならないのです。
 ですから、統一教会は「還故郷」ということを言うのです。これは、宗教界にないことです。それから、「結婚せよ 祝福せよ」と言うのです。
 神様が一番嫌われたのが、そのことです。ですから、「出家だ 独身生活せよ」と言ったのです。しかし今は、そのような時代が過ぎ去りました。
 統一教会は「還故郷して、結婚せよ」というのです。故郷に帰らなければなりません。出家時代は過ぎ去りました。故郷を訪ねていかなければならないし、結婚しなければ皆、滅びます。仏教やカトリックが皆、滅びつつあるではありませんか。

 再臨主は雲に乗って来ない

 旧約時代は万物を犠牲にして、息子を復帰するためのものです。息子を犠牲にするみ業をしたキリスト教は、父母を迎えるためのものです。父母が第二次世界大戦後に、英・米・仏を中心として……(聞き取り不能)
 英国は島国、エバ国家です。母の国です。アメリカはアベル国家。フランスはカイン国家ですが、これらが一つにならなければなりません。
 アダム家庭において、母と長子と次子、この三人が怨讐になりました。この三人が怨讐になったのを統一するのです。アダム家庭で失ったものは、神様のみ旨の中で復帰という受難の過程、蕩減路程を経なければならないのです。
 そうして、神様を中心として失ってしまった家庭を代表した女性となる国家が、この地上に初めて現れたのが、エバ国家の英国です。そして、エバである英国が生んだのがアメリカです。フランスは英国と争い、アメリカと争った怨讐です。しかし、この怨讐が一つになりました。
 一つになったので、第二次世界大戦では、このキリスト教を中心として、枢軸国と連合国が争ったのです。八百万の神を信奉する日本は、雑教国家です。西洋文明圏は、唯一神を信奉しています。
 これは、原理で否定できない事実です。第二次世界大戦以後に、キリスト教文化圏を中心とした統一世界が、歴史以来初めて、出現しました。エバ国家、アベル国家、天使長国家が英・米・仏で一つになったのです。
 日本は枢軸国といわれました。中心の軸になる国です。枢軸国です。連合国というのは、合わさった国です。これは三天使長と同じです。サタン側は枢軸国です。
 東洋で失ったものを東洋で取り戻すのですが、日本はエバ国家として一番近くにある韓国を占領したのです。四十年歴史で、四千年を蕩減したのです。
 旧約時代に万物の血を流させたのは、だれを迎えるためですか? イエス・キリスト、神様の息子を迎えるためです。イエス様を完成した息子となるようにして、結婚式をするために送ったにもかかわらず、死んでしまいました。ですから、再び来なければならないのです。
 国家基準で失敗したので、神様の威信がつぶれ、その国家を訪ねていくことができません。ですから、世界的舞台に送り、世界時代を迎えて、世界の上で復帰しようというのです。
 家庭で失敗し、国で得られなかったので、世界を統一するために再臨主が来なければならないのです。そうしてこそ、神様の威信が立つのです。
 英・米・仏が一つになって、キリスト教文化圏が統一天下圏をつくるのは、来られる再臨主を迎え、万王の王圏を立て、天の国の皇族と天の国の民をつくるためです。
 しかし、来られる主が雲に乗って来ると思っているのです。来られる主が、文総裁だとは知らなかったのです。文総裁が、来られる再臨のイエス様になれる資格があると思いますか、思いませんか?、(「思います」)。狂った人たちですね。イエス様が雲に乗って来られるのに、文総裁がどうして再臨主になりますか?
 再臨主とは何かを、私は知りませんが、理論的な面で真の父母の説明ができれば、それで天下統一できるのです。
 ですから、文総裁が今、東側で話せば、西側までインターネットで伝わります。雲に乗って来られるというのですが、私は飛行機に乗って来るではないですか。
 二千年前に、イエス様は雲に乗って再び来る、と言いましたが、その当時の人たちが、飛行機を知っていたでしょうか?、「鉄の塊が五百人を乗せて、空中を飛んでいく」と、そのような話をするでしょうか? そのときの言葉では、雲に乗って来る、というようにしか言えません。
 先生は最近、飛行機に乗り、地の果てから果てまで飛びます。今、ここから飛べば、香港まで行くのに、以前より一時間半速くなっています。また現在、飛行機会社をつくっているのです。

 再臨主の特権

 旧約時代には万物を犠牲にして、メシヤが来て生きることのできる基盤を築きました。しかし、責任を果たせなかったために、息子が十字架を負い、血を流し、祭物になることによって、ご父母様の来られる道を築いたのです。
 英・米・仏国家が一つとなった統一天下を中心として、そこに王として来られたのです。しかし、雲に乗っては来ませんでした。
 それでは、雲に乗って来られたなら分かるでしょうか? イエス様が若者として来られたといえば、自分たちが霊的に見て、日の光のように輝いて見えるでしょうか? また、イエス様は黄金の塊のようにして来られるでしょうか? イエス様が来られても分からないことでしょう。だれが信じるでしょうか? 教条主義者たちが、文字どおりのことを言っているのです。夢のようなことは信じてはいけません。私は今まで、そのために反対されました。
 イエス様は、「人として来る」と言われればいいのに、なぜ「雲に乗って来る」というような話をされて、文総裁を苦労させるのでしょうか。(笑い)イエス様も私を見れば、私にあいさつをするようになっているのであって、レバレンド・ムーンがイエス様にあいさつをするようになっていません。
 イエス様が私を見ても、「お父様」と言うのです。イエス様がお父さんになりましたか? 結婚しましたか? 結婚できず、お父さんになれるでしょうか?
 この文総裁は結婚し、美人のお母様が後ろについて回るのです。それから、息子・娘がたくさんいます。カインの子女たちがたくさんいて、百八十五か国の人々が文総裁の後ろについて、「来るな」と言っても会おうと大騒ぎです。
 再臨主が来られて今まで苦労しましたが、再臨主が祭物になったでしょうか、ならなかったでしょうか? 先生の家庭、子女を皆、引き裂き、韓国を引き裂き、東西統一世界を引き裂きました。父母である私がこのように苦労しています。ご父母様が十字架を負うのです。
 ご父母様が苦労をして、何をしようというのでしょうか? 真の愛を中心とした家庭をこの地上に安定させようというのです。そのことを知らなければなりません。ご父母様が苦労し、本然の心情の地を求めなければならないのです。
 父母が問題となって堕落したので、父母も苦労をしなければならないのです。蕩減の道を行っても、越えなければなりません。既成教会が受け入れていたならば、その苦労はなかったのです。既成教会が先生を受け入れなかったので、共産党が現れたのです。
 民主世界と共産世界がアベルとカインです。争うものを統一させなければなりません。それゆえ、自分の手で共産主義をつぶさなければなりませんでした。自分の手で民主主義、アメリカの行くべき道を開いてあげなければなりません。
 アメリカがレバレンド・ムーンの怨讐であり、日本が怨讐であり、ドイツが怨讐です。今、怨讐国家を生かすために、このようにしているのです。
 韓国と日本が怨讐であり、日本とドイツが怨讐であり、日本とアメリカが怨讐であり、ドイツとアメリカが怨讐です。怨讐の人たちを中心として、アメリカを救うのです。アメリカを解放して、キリスト教を一つにするためです。
 白人たちを一つにして、南米作戦をするのです。キリスト教のアベルとカインを一つにして、南米作戦をするのです。これは歴史的なことなのです。
 それゆえ、旧教も文総裁が恐ろしくて反対したし、新教も恐ろしくて反対しました。反対しますが、家庭問題を旧教も、新教も消化できません。青少年問題、家庭淪落を解決できるのは、先生だけの特権です。ご父母様が苦労したのは、絶対愛を中心として理想的天国をつくるためです。
 先生が祭物になってきました。先生が祭物になって、家庭理想をすべて見いだした後には、何をするのでしょうか? これを皆、相続させるのです。これを皆、相続させるためのものが三万双までの祝福だったのです。
 三万双の祝福は蘇生、三十六万双は長成、三百六十万双は完成です。今年五月に三千六百万双をやろうと思ったのに、神様がどれほど忙しいのでしょうか、天が全部、督促したのです。
 三億六千万双が着地する日には、この地上に情緒的心情圏の地上・天上天国の統一の世界が来るのです。心情圏に生きては亡くなっていった家庭を中心としたアダム家庭完成と同じになるので、地上天国に生きてから天上天国に入るようになるのです。天国は家庭が入るようになり、国家が入るようになり、アダム一族が入るのです。
 それゆえに、第三アダムとして収拾し、第四アダム圏解放を中心として、万国全体が一つの兄弟圏大家族の編成をし、家庭で王になるのです。文総裁は、全世界家庭の愛の王の出発を始めるのです。
 自分が家庭的王となり、今、統一教会の王でしょう? 権力をもって羽振りを利かす大統領ではありません。学生を教える先生でもありません。何の王ですか? 愛の王です。真の愛を中心とした家庭の王です。それを認めますか?、(「はい」)
 ですから、男性も女性も先生を憎むことはできません。憎めば、自分の家庭が皆、分散してしまいます。統一教会に来て、祝福を受け、分かれてしまえば、永遠に皆、分かれてしまいます。落ち葉になって、腐ってしまうのです。
 出ていくときは、思いのままに出ていっても、入ってはこれません。そうしながら、泣いている人がたくさんいます。出ていって、先生に反対した後に先生に出会えば、「あなた、反対していたね」と言うと、涙をさっとこぼすのです。統一教会は恐ろしいのです。サタンは、真の愛圏内にいることはできないのです。
 ご父母様が苦労した目的は何ですか? 第二次世界大戦以後、真の愛の園を築こうとしていたものが、新教と旧教が一つとなって反対することで、全世界から反対を受けたのです。先生は二千年間、四百年間生きることはできません。四十年間でこれを再び引っ繰り返し、一代で完成しなければならないのです。
 アダム家庭一代で、完成すべき世界舞台を失ったので、先生が血の涙を流しながら、一代で引っ繰り返し、完成できるものが現れたのです。
 三万双から三十六万双、三百六十万双、三千六百万双を完成するのです。蘇生、長成、完成の峠を越えるのです。三百六十万双の目的を果たしましたが、神様がどれほど忙しいのか、三千六百万双を越え、七千万双をやってしまいました。
 どれほど忙しいのか、霊界で総動員して、激しく駆り立てているのです。皆さんがやったとは、夢にも思ってはなりません。

 万物祭物、子女祭物、父母祭物

 復帰歴史は、蕩減復帰であるということを知りました。蕩減復帰は、血を流す受難の道、蕩減の道であるということを知らなければなりません。
 そうして旧約時代、新約時代、成約時代という、この歴史時代全体と同じことを、皆さんが蕩減条件を立てて越えなければならないのです。そうしなければ、解放的愛の心情文化世界に同参できないというのが、蕩減復帰原理で見た歴史観の総結論です。
 その話はどういうことかといえば、エデンの園でアダムとエバが祝福を受ける前の宇宙の万物は、神様が主人であり、祝福を受けるや否や、一つになることによって、神様のものが自分のものになることができたというのです。
 私を超えて地球星、この宇宙全体までもが、神様を主人としたアダムとエバが、その根本主人だったのです。ところが、堕落することによって、神様は愛の相対を失われ、愛のためにつくられたこの宇宙はサタンのものになってしまったのです。
 そこから分立するために、しかたなく万物を割き、息子を割き、父母も割いて祭物にし、順応できる絶対的信仰圏を中心として進んできたのです。神様の祭壇を見れば、万物と息子と父母が祭物になってきたということを知らなければなりません。この事実が、歴史を経て行われただけなのです。
 アダム家庭で失ったものを蕩減復帰するためには、どうしたらよいのでしょうか? 万物を失い、息子・娘を失い、真のご父母様を失い、愛を失ったものを、総蕩減するために、長い歴史の祭壇を整えてきたのです。
 皆さん自身の祝福家庭を見るときに、皆さんは父母の立場であるとともに子女がいます。また、サタン世界には万物があります。そこに所属している万物と子女と体が、まだ総蕩減されていなかったのです。
 来られる真のご父母様が、このように万物を犠牲、子女を犠牲、父母を犠牲にし、解放的愛の世界に入っていかれるのと同様に、皆さんもその道を行かなければならないのです。
 ご父母様が、歴史時代にそのような三段階の祭物的過程を経て、真の父母の解放圏に入ったのと同様に、皆さんも解放圏に入らなければならないのです。
 今日、皆さんはサタン世界の様式に染まっています。皆さんも所有権を持っています。物の所有権です。また、自分たちの偽りの父母がおり、偽りの息子がおり、偽りの万物を持っています。
 これは、一家庭を平面的に見れば、万物は旧約時代、子女は新約時代、父母になり得る自分は成約時代です。真の愛を受け継ぐためには、旧約時代に万物が犠牲、新約時代に子女が犠牲、成約時代に父母が犠牲になったのと同様に、犠牲にすることのできる立場でささげなくては、真の父母の心情的解放圏に接ぎ木されないのです。(「アーメン」)。重要な問題です。
 もはや、三億六千万双が終わる日には、すべての人類の所有権が、返還されなければなりません。万物と子女と皆さんの体が、歴史時代に神様の実体を中心として求めてきた万物犠牲の旧約時代、子女犠牲の新約時代、父母犠牲の成約時代と同様に、血を流し得る条件を中心として、皆さん一代一家で犠牲になり、否定されることのできる過程を経なくては、真の父母の善の天地の勝利圏に接ぎ木され得ません。切らなければなりません。分かりましたか? どうしなければならないのですか?、(「切らなければなりません」)
 切るとはどういうことでしょうか? 否定しなければなりません。物を否定し、子供を否定し、自分自体を否定しなければなりません。
 きょう、第三十一回「真の神の日」を迎えましたが、今後、三年を中心として二〇〇〇年代まで、天地が転換し得る大転換式に皆さんが備えるべきものは、万物の祭物、実体の子女の祭物、自分自身を祭物にすることのできる、完全否定できる道を行くことです。避難民にならなければなりません。
 物と子供と自分の夫婦、父母自体を投入するのに、喜んで蕩減復帰しなければ、心情圏、王圏の国民、あるいは孝子、天の皇族にはなれません。それが原則になっています。
 完全に否定して凌駕していくのです。日本のメンバー、分かりましたか?、(「はい」)。母としての使命は恐ろしいものです。自分の骨肉すべてを子供に投入して、犠牲になっていかなければならないのが、母の国の使命です。
 韓国は、経済的に困難ですべてを失ってしまいます。韓国は、旧教も新教も仏教も、全宗教も、また北韓も南韓も、家庭もすべて「無」の状態です。
 日本が、母の国として責任を持たなければなりません。そして、天使長の立場にあるアメリカが責任を持たなければならないのです。
 韓国を解放し、すべてを解決する方法を、文先生以外に分かっている人はいません。先生は日夜、苦労しながら準備しているのです。分かりましたか?、(「はい」)。この解決法は、UN(国際連合)を動かすことです。
 物は自分のものではありません。子供も自分の子供ではありません。神様と真のご父母様の犠牲の祭壇の前に、それを越えていくのは、個人の所有権全部、すなわち物も子供も自分の夫婦も、勝利した真の父母に接ぎ木することによって、心情圏の世界圏に突入できるのです。それ以外の道はありません。
 今から、世界的なすべての祝福家庭を集めるようにするのです。万物祭物、子女祭物、父母祭物、このようにして心情圏世界へと移るためには、世界的な勝利をした真の父母の前に、切って接ぎ木しなければなりません。
 先生には所有権がありません。先生の息子・娘もすべて捨てました。今まで、息子・娘を捨てて歩んできたではないでしょうか。先生は自分まで捨てました。そうではありませんか?
 ここに、先生の子女たちが座っていますが、父母を自分の父母とは考えていません。統一教会の父母と考えるのです。物心がついたので、今からはそれが分かる時が来ました。「自分の父母が、このように素晴らしいとは知らなかった」と言うのです。
 神様の愛と心情圏を尋ね求めて、すべてを捨ててきました。それゆえ、神様が祝福して心情圏統治世界を私に伝授されるための瞬間が、今です。
 皆さんがこのような立場で、解放的家庭の民族圏を成すためには、皆さんも同じ立場で清算することのできる条件として、自分の物と自分の体とすべてをささげなければならないのです。小さな立場にいる家庭は、大きな家庭に吸収されなければならないのです。
 そのようにして、神様の愛の世界、天の生命の根源地に入っていくのです。万物は男性・女性の生殖器に行くために吸収されて入っていくのです。人間は、神様の愛の生殖器に入っていくために犠牲にならなければなりません。
 それは間違いないでしょう? 原理観でしょう? 先生が天理の大道の原則を話すのです。分かりましたか、分かりませんか?、(「分かりました」)
 一度、言ってみましょう。旧約時代、(「旧約時代」)。新約時代、(「新約時代」)。成約時代、(「成約時代」)。全部、祭壇にして、天の前に置いて、解放された体で、真のご父母様が勝利したものに接ぎ木するための道を行かなければならないということは、避けることのできないことであることを知らなければなりません。分かりましたか?、(「はい」)
 このような原理があるので、自動的に世界が統一されるのです。レバレンド・ムーンが世界を救えばよいというのです。韓国は放っておいてもよいというのです。国連が神様の願いにかなえば、すべて終わるのです。
 きょう、「真の神の日」には、今後の韓国の解決方法、世界の解決方法を教えてあげようと思います。このようにすることによって、天国に直行して解放圏に行くのです。アーメン。(「アーメン」)
 新年の祝福の日が明けてくるとともに、解放の日が明けてくることを願いながら、神様の怨恨が解怨成就されることを願いながら、万歳三唱をします。神様、万歳、(「万歳」)。ご父母様、万歳、(「万歳」)。三億六千万双、万歳、(「万歳」)。神様の祝福があるように。アーメン、(「アーメン」)。アーメン、(「アーメン」)。アーメン、(「アーメン」)




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.10.22 23:30:22
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