週刊読書案内「死のなかに」黒田三郎 「戦後代表詩選」(詩の森文庫・思潮社)より(2)
「死のなかに」 黒田三郎 「戦後代表詩選」(詩の森文庫・思潮社)より(2) 鮎川信夫、大岡信、北川透の三人が選んだ「戦後代表詩選」(詩の森文庫・思潮社)を拾い読みしています。二人目は黒田三郎、荒地派の詩人のひとりです。詩は「死のなかに」、上に貼った「荒地詩集1951」(国文社・1975年初版)に「市民の憂鬱」としてまとめられている数編の詩の一つです。 死のなかに 黒田三郎 死のなかにいると僕等は数でしかなかった臭いであり場所ふさぎであった死はどこにでもいた死があちこちにいるなかで僕等は水を飲みカードをめくりえりの汚れたシャツを着て笑い声を立てたりしていた死は異様なお客ではなく仲のよい友人のように無遠慮に食堂や寝室にやって来た床にはときに食べ散らした魚の骨の散っていることがあった月の夜にあしびの花の匂いのすることもあった戦争が終ったときパパイアの木の上には白い小さい雲が浮いていた戦いに負けた人間であるという点で僕等はお互いを軽蔑しきっていたそれでも戦いに負けた人間であるという点で僕等はちょっぴりお互いを哀れんでいた酔漢やペテン師百姓や錠前屋偽善者や銀行員大食いや楽天家いたわりあったりいがみあったりして僕等は故国へ送り返される運命をともにした引揚船が着いたところで僕等はめいめいに切り放された運命を帽子のようにかるがると振って別れたあいつはペテン師あいつは百姓あいつは銀行員一年はどのようにたったであろうかそして二年ひとりは昔の仲間を欺いて金を儲けたあげく酔っぱらって運河に落ちて死んだひとりは乏しいサラリーで妻子を養いながら五年前の他愛もない傷がもとで死にかかっているひとりはそのひとりである僕は東京の町に生きていて電車のつり皮にぶら下っているすべてのつり皮に僕の知らない男や女がぶら下っている僕のお袋である元大佐夫人は故郷で栄養失調で死にかかっていて死をなだめすかすためには僕の二九二〇円ではどうにも足りぬのである死 死 死死は金のかかる出来事である僕の知らない男や女がつり皮にぶら下っているなかで僕もつり皮にぶら下り魚の骨の散っている床やあしびの花の匂いのする夜を思い出すのであるそしてさらに不機嫌になってつり皮にぶら下っているのをだれも知りはしないのである 海軍大佐の息子として1912年、大正8年、広島の呉で生まれ、鹿児島で育ち、東京帝国大学を出たエリートが、赴任先のジャワで現地招集され入営、3年の従軍ののち敗戦。なんとか生き延びて帰国したものの、結核で倒れ、ようやくNHKで働き始めた30代半ばの男がいます。彼は「荒地」という名の詩人グループに参加し、詩を書きはじめています。昭和20年代の半ば、1950年ころの東京でのことです。まだ結婚もしていませんし、もちろん「ユリ」と名付けられることになる娘もいません。 男は、数年後、「小さなユリ」という詩集で、戦後詩なんていうものは読まない多くの人の称賛を得て、それから10年後、高度成長の始まりの年、1964年に書いた「紙風船」という詩が、やがて、小学校の教科書に載り、子どもも大人も愛唱する歌の詩人として愛されることになる黒田三郎です。その出発の詩の一つが、彼の詩や歌を愛する多くの人が、実は知らない「死のなかで」というこの詩です。いかがでしょうか。ぼくは、黒田三郎という詩人は生涯この立ち位置を変えなかった人だと思います。後年、酒乱を噂されたりしたこともありましたが、「そりゃあ、彼は、飲みだせば止まらないでしょう。」という気持ちになった記憶があります。 多くの人を励ました、紙風船はこんな詩でしたね。 紙風船 黒田三郎落ちてきたら今度はもっと高くもっともっと高く何度でも打ち上げよう美しい願いごとのように ボクは、この詩の「美しい願いごと」の向うに、「死のなかに」の詩人が、電車のつり革につかまりながら立っていることを思い浮かべるのですが、教科書で出逢って、詩を口ずさむことを覚えた子供たちにそのことを伝えるのは余計なことなのでしょうか。追記2023・10・01 ボクが黒田三郎の「死のなかに」という詩に出あったのは国文社の「荒地詩集1951」です。今回、詩の森文庫の「戦後代表詩選」をパラパラ読んでいて、なんか変だと感じて、出あった方の本を引っ張り出してきてわかりました。ちょっと写してみますね。 死のなかに 黒田三郎 死のなかにゐると僕等は数でしかなかった 臭ひであり場所ふさぎであった 死はどこにでもゐた 死があちこちにゐる中で 僕等は水を飲み カアドをめくり 襟の汚れたシャツを着て 笑ひ声を立てたりしてゐた 死は異様なお客ではなく 仲のよい友人のやうに 無遠慮に食堂や寝室にやって来た 床には 時に 喰べ散らした魚の骨の散れてゐることがあった 月の夜に 馬酔木の花の匂ひのすることもあった戦争が終ったとき パパイアの木の上には 白い小さい雲が浮いてゐた 戦ひに負けた人間であるという點で 僕等はお互ひを軽蔑し切ってゐた それでも 戦ひに負けた人間であるという點で 僕等はちよつぴりお互ひを哀れんでゐた 醉漢やペテン師 百姓や錠前屋 偽善者や銀行員 大喰ひや楽天家 いたわり合つたり いがみ合つたりして 僕等は故國へ送り返へされる運命をともにした 引揚船が着いた所で 僕等は めいめいに切り放された運命を 帽子のやうにかるがると振って別れた あいつはペテン師 あいつは百姓 あいつは銀行員一年はどのように經つたであろうか そして 二年 ひとりは 昔の仲間を欺いて金を儲けたあげく 醉つぱらつて運河に落ちて死んだ ひとりは 乏しいサラリイで妻子を養ひながら 五年前の他愛もない傷がもとで 死にかかってゐる ひとりは・・・・・その ひとりである僕は 東京の町に生きてゐて 電車の吊皮にぶら下つてゐる すべての吊皮に 僕の知らない男や女がぶら下つてゐる 僕のお袋である元大佐夫人は 故郷で 栄養失調で死にかかってゐて 死をなだめすかすためには 僕の二九二〇圓では どうにも足りぬのである死 死 死死は金のかかる出来事である 僕の知らない男や女が吊皮にぶら下つてゐる中で 僕も吊皮にぶら下り 魚の骨の散れてゐる床や 馬酔木の花の匂ひのする夜を思ひ出すのである そして 更に不機嫌になつて吊皮にぶら下つてゐるのを 誰も知りはしないのである 旧仮名遣いで、旧漢字が使われているのですが、そのことよりも、全体が散文詩風に書き連ねられていて、分かち書きされていません。多分、この表記の仕方で、印象が変わったのでしょうね。何がどうっだといわれてもわかりませんが、ボクはこの詩を、とても散文的な印象で記憶(してませんけど)していたんでしょうね。 このブログをお読みの皆さん(いらっしゃればですが)いかがでしょう?