週刊 読書案内 宗左近「長編詩 炎える母」(日本図書センター)
宗左近「長編詩 炎える母」(日本図書センター) 中村稔という詩人の「現代詩人論」という上下巻の大作評論を読みました。その中で、取り上げられた。いわゆる戦後史人たちの作品に、出会い直す、あるいは、新しく出会うという体験をしたのですが、それは、ボク自身が、1970年代、今から50年前にそれらの詩や詩人たちの発言に触れることで、今のボクの考え方や、感じ方を基礎づけたと思われる、まあ、種のようなものを、再発見する体験でもあったのですが、その中で、「ああ!」 と思わず声を上げたくなるような再会もあったわけで、その一つが、この詩集です。 宗左近「炎える母」です。 ボクが、どの出版社の詩集で読んだのか、実は何も覚えていません。年譜によれば1967年彌生書房から出版された長編詩集で、今回、読んだのは日本図書センターから、2006年に「愛蔵版詩集シリーズ」として再刊された本で、市民図書館で借りたものです。 戦後詩、という範疇があって、幾多の詩人が、数えきれない詩を残していますが、「ああ、これが、戦後詩だよな。」 と、1970年代に20代だったボクが、そう思った記憶だけがあって、70歳を迎えて、偶然読み直しました。で、今、20代の人たちに読んでほしいと素直に思いました。この詩集の、最大のクライマックス、東京大空襲の最中、燃え盛る火のなかを母の手を引いて逃げていた詩人自身が体験した悲劇の場面を描いた詩です。 詩集そのものが100篇近くの詩で構成されていて、全体で300ページを越える長大なものですが、この詩も8ページを越える長編詩ですが、読み始めれば、最後まで読み続けるほかには、どうにもなすすべがないことが読めば、わかります。題名は「走っている その夜14」です。 走っている その夜 14走っている火の海のなかに炎の一本道が突堤のようにのめりでて走っているその一本道の炎のうえを赤い釘みたいなわたしが走っている走っている一本道の炎が走っているから走っている走りやまないから走っているわたしが走っているから走りやまないでいる走っているとまっていられないから走っているわたしの走るしたをわたしの走るさきを焼きながら燃やしながら走っているものが走っている走っているものを追いぬいて走っているものを突きぬけて走っているものが走っている走っている走っていないものはいない走っていないものは走っていない走っているものは走って走って走っているものが走っていないいない走っていたものがいないいるものがいない母よいない母がいない走っている走っていた走っている母がいない母よ走っているわたし母よ走っているわたしは走っている走っていないでいることができないずるずるずるずるずるずるずるすりぬけてずるおちてすべりさっていったものはあれはあれはすりぬけることからすりぬけてずりおちることからずりおちてすべりさることからすべりさっていったあの熱いものはぬるぬるとぬるぬるとひたすらにぬるぬるとしていたあれはわたしの掌のなかの母の掌なのか母の掌のなかのわたしの掌なのか走っているあれはなにものなのかなにものの掌のなかのなにものなのか走っているふりむいている走っているふりむいている走っているたたらをふんでいる赤い鉄板の上で跳ねている跳ねながらうしろをふりかえっている 母よ あなたは 炎の一本道の上 つっぷして倒れている 夏蜜柑のような顔を もちあげてくる 枯れた夏蜜柑の枝のような右手を かざしてくる その右手をわたしにむかって 押しだしてくる 突きだしてくるわたしよわたしは赤い鉄板の上で跳ねている一本の赤い釘となって跳ねている跳ねながらすでに走っている跳ねている走っている走っている跳ねている一本道の炎の上母よあなたはつっぷして倒れている夏蜜柑のような顔を炎えている枯れた夏蜜柑の枝のような右手を炎えているもはや炎えている炎の一本道走っているとまっていられないから走っている跳ねている走っている跳ねているわたしの走るしたをわたしの走るさきを燃やしながら焼きながら走っているものが走っている走っている跳ねている走っているものが突きぬけて走っているものが追いぬいて走っているものが走っている走っている母よ走っている母よ炎えている一本道母よ いかがでしたか? 作品の文学性がどうのとか、技法がどうのとか、まあ、いろいろ言う人はいるのかもしれませんが、戦争が終わって、20年、戦後を生きて、この詩を書いた詩人がいたことをおろそかに考えてはいけないんじゃないかというのが、ボクの率直な感想です。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)